長尾景春(ながお・かげはる 1443 ~ 1514)とは、関東の戦国武将である。関東初期の下剋上の雄であり、生涯上杉氏と戦い続けた。
山内上杉家の家宰を代々務めた長尾氏(白井長尾家)の一族。自分が次代の家宰だと思い込んでいたら、叔父が家宰に選ばれた為に憤慨。次第に「これは白井長尾家を潰そうという陰謀に違いない」と疑心暗鬼になり始め、主・上杉顕定に対する謀反を決意した。名門・上杉氏の没落はここから始まる。
山内上杉の一大防衛拠点・五十子(いらこ)をあっさり破壊するなど怒涛の勢いで進軍するが、そこに立ちはだかったのが扇谷上杉家の家宰・太田道灌だった。道灌の巧みな戦の前に景春は一時雌伏の時を過ごす事になる。
その道灌が主から危険視されて暗殺されると、景春は道灌亡き扇谷家と組んで山内上杉家との闘争を再開。しかしこの戦いは扇谷家が終始劣勢だったこともあって、またも彼の野望は阻止されてしまった。
が、今度は顕定が越後で戦死したという予想外の出来事が起こり、景春は北条早雲と組んで三度立ち上がる。
最初の挙兵から30年にも渡って山内上杉家と戦い続けた名将。反乱が成就する事はなかったが、彼の起こした戦いの長期化によって関東の情勢はますます混乱を極めてゆき、やがて北条早雲の台頭を招く事になる。
白井長尾家当主・長尾景信の子。祖父・長尾景仲と父・景信は2代続けて山内上杉家の家宰を務めていた。ときは享徳の乱の真っ最中で、山内上杉家と古河公方足利家が関東を二分して1455年以降延々と戦い続けていた。
祖父・父の活躍もあり、自分が次の家宰に選ばれると信じていたようだが、1473年の父の死後に家宰となったのは叔父で総社長尾家の養子となっていた長尾忠景であった。
そもそも山内上杉家の家宰職というのは、はじめ足利(鎌倉)長尾家が務めていたものである。白井長尾と総社長尾はそこから分かれた分家筋。足利長尾家の長尾実景が享徳の乱の初めに暗殺されたため、緊急事態として分家が家宰になったという背景がある。ただそれが長期化していたこともあり、権力が白井家に偏らないように、かつ長尾一族の中でも最年長である忠景が家宰に選ばれたようだ。
が、期待の外れた景春の受けたショックと恨み辛みは周囲の想像以上に大きかった。
当時、山内上杉家当主の上杉顕定らは武蔵国五十子(いらこ)の陣を拠点として、18年にも及ぶ睨み合い・小競り合いを続けていた。
反乱を決意した景春は、扇谷上杉家の家宰である太田道灌を誘ったが道灌はこれを拒否。道灌は五十子の顕定たちに事態を報告し、なんとか景春を説得できないか、忠景の権力の一部を譲ることはできないものか、と提案するも退けられてしまう。かと言って先手を打って景春を討伐しようにも、古河足利軍と睨みあっている現状ではそれも出来なかった。
そして1476年に鉢形城で遂に景春は挙兵。この時の道灌はというと、駿河の今川家の家督争いに介入しており留守であった(この内紛で幼少の今川氏親とその叔父・伊勢盛時が出会っている)。翌年には長年拠点として機能していた五十子陣が景春方によりあっさりと落とされ、山内上杉家は大混乱に陥った。
敵の敵は味方、と古河足利家と手を結んだ景春の下には反上杉派の国人衆も集まり始め、武蔵・相模一帯にまで反乱は広がっていった。江戸城の太田道灌は孤立しそうになるが、石神井城の豊島氏を撃破して窮地を脱している。この時、豊島氏の娘・照姫が池に身を投げ自害したという説話が伝わる。
初めは上杉方の混乱もあってイケイケだった景春だが、道灌の八面六臂の大活躍によって勢いには陰りが見えてきた。すると、景春が期待外れとみた古河公方・足利成氏が上杉家との和睦を提案する。景春方は和平に反対し、なおも上杉方に反抗するが、道灌の活躍で豊島氏は滅亡した。越後上杉氏の上杉房定の仲介によって1483年に30年近くに渡った享徳の乱は終結し、景春は古河に身を隠す事となった。
その道灌の活躍を目の当たりにして最も警戒心を抱いたのは扇谷上杉家当主・上杉定正だった。1486年、乱の終結からわずか3年後、定正は道灌を暗殺する。
翌1487年、かつての道灌の活躍で勢力を伸張した扇谷上杉家と、宗家・山内上杉家の関係が決裂して長享の乱が勃発。この時古河足利家は扇谷家と組んでおり、景春も再び上杉顕定打倒の為に戦場へと舞い戻った。
扇谷上杉家は他に今川家の協力も取り付けており、伊勢宗瑞(北条早雲)らが援軍として駆けつけていたが、定正の事故死もあって劣勢となる。跡を上杉朝良が継ぐが、これを機に古河足利家が方針転換して山内上杉家と和睦してしまった。一応古河の配下という立場の景春であったが、山内家との戦いを放棄する事は出来ず、引き続き扇谷家との共闘を続けている。このため、足利成氏の和睦命令に従った息子・長尾景英とも対立関係となり、上杉顕定とも和睦した景英が白井長尾家の当主になってしまった。
長享の乱はズルズルと追い詰められていった扇谷上杉家が1505年に降伏して終結する。再び居場所のなくなってしまった景春は仕方なく山内上杉家に降伏する事になった。(なお忠景は1501年死去。家宰職は息子の長尾顕忠、顕忠の娘婿の長尾顕方と継がれていった)
1507年、越後で長尾為景が反乱を起こし、顕定の弟で越後守護の上杉房能が殺害された。1509年、報復の為に顕定が越後へと出兵するも返り討ちにあって討死。景春最大の敵はあっけなく死んでしまった。
三度立ち上がった景春は、長尾為景・伊勢宗瑞と結託(なんちゅーおそろしいトリオだ…)。山内上杉家の後継を巡って混乱する上野国へと攻め込み、白井城を奪回するなどまたも大暴れする。が、態勢を整え直した景英らに白井城は奪い返され、今川領への亡命を余儀なくされた。
そして1514年、反乱に次ぐ反乱の人生に幕を閉じた。72歳であった。
山内上杉家は顕定のはとこで養子だった上杉憲房と、古河足利家からの養子・上杉顕実とが後継を巡って対立しており、更にこの支援方針を巡って古河公方・足利政氏とその息子・足利高基が対立。
古河の内紛を見た高基の弟・足利義明は小弓公方を名乗って自立…と関東は更なる混乱の時代へと突入し、その中で伊勢宗瑞を始祖とする後北条氏が勢力を伸ばしていく。
景英は上杉憲房を支援して勝利に導いた。1527年死去するが、跡継ぎの息子・長尾景誠がその翌年に暗殺されてしまい、景春の男系子孫は途切れた。景英の娘は白井局と呼ばれる女性で、成田長泰に嫁ぐも離縁となり上洛、足利義輝に仕えたが永禄の変で討死するという数奇な運命を辿った。
景誠死後に白井長尾家の家督を継ぐのは、総社長尾家出身(※異説あり)の長尾憲景である。総社家説に則るのであれば、あの長尾忠景の孫である。皮肉。
ちなみに家宰となった総社家の長尾顕方は永正の乱で失脚し、家宰の座は足利長尾家に戻っている。景春の念願であった家宰職が白井長尾家の下に戻る日は来なかった。
蒼天録のみ登場。義理10野心91という堂々たる数値である。問題は後継ぎ。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 75 | 知略 | 74 | 政治 | 72 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
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最終更新:2025/03/28(金) 15:00
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