長尾景春単語

ナガオカゲハル

3.3千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

長尾景春(ながお・かげはる 1443 ~ 1514)とは、関東戦国武将である。関東初期の下上の雄であり、生涯上杉氏と戦い続けた。

概要

山内上杉宰を代々務めた長尾氏(白井長尾)の一族。自分が次代の宰だと思い込んでいたら、叔父宰に選ばれた為に憤慨。次第に「これは白井長尾を潰そうという陰謀に違いない」と疑心暗鬼になり始め、上杉顕定に対する謀反を決意した。名門・上杉氏の落はここから始まる。

山内上杉の一大防衛拠点・五十子(いらこ)をあっさり破壊するなど怒涛の勢いで進軍するが、そこに立ちはだかったのが扇上杉宰・太田道灌だった。の巧みな戦の前には一時雌の時を過ごす事になる。

そのから危険視されて暗殺されると、亡き扇と組んで山内上杉との闘争を再開。しかしこの戦いは扇が終始劣勢だったこともあって、またも彼の野望は阻止されてしまった。

が、今度は顕定が越後で戦死したという予想外の出来事が起こり、北条早雲と組んで三度立ち上がる。

最初の挙兵から30年にも渡って山内上杉と戦い続けた名将。反乱が成就する事はなかったが、彼の起こした戦いの長期化によって関東の情勢はますます混乱を極めてゆき、やがて北条早雲の台頭を招く事になる。

生涯

反乱前夜

白井長尾長尾景信の子。祖長尾景仲と信は2代続けて山内上杉宰を務めていた。ときは享徳の乱っ最中で、山内上杉古河足利関東を二分して1455年以降延々と戦い続けていた。

の活躍もあり、自分が次の宰に選ばれると信じていたようだが、1473年のの死後に宰となったのは叔父で総社長の養子となっていた長尾であった。

そもそも山内上杉宰職というのは、はじめ足利鎌倉長尾が務めていたものである。白井長尾と総社長尾はそこから分かれた分筋。足利長尾長尾享徳の乱の初めに暗殺されたため、緊急事態として分宰になったという背景がある。ただそれが長期化していたこともあり、権白井に偏らないように、かつ長尾一族の中でも最年長である忠宰に選ばれたようだ。

が、期待の外れたの受けたショックと恨み辛みは周囲の想像以上に大きかった。

享徳の乱における反乱

当時、山内上杉上杉顕定らは武蔵五十子(いらこ)のを拠点として、18年にも及ぶ睨み合い・小競り合いを続けていた。

反乱を決意したは、扇上杉宰である太田道灌を誘ったがはこれを拒否。五十子の顕定たちに事態を報告し、なんとかを説得できないか、忠の権の一部を譲ることはできないものか、と提案するも退けられてしまう。かと言って先手を打ってを討伐しようにも、古河足利軍と睨みあっている現状ではそれも出来なかった。

そして1476年に鉢形で遂には挙兵。この時のはというと、駿河の今川督争いに介入しており留守であった(この内紛で幼少の今川氏親とその叔父伊勢盛時が出会っている)。翌年には長年拠点として機していた五十方によりあっさりと落とされ、山内上杉は大混乱に陥った。

敵の敵は味方、と古河足利と手を結んだの下には反上杉人衆も集まり始め、武蔵相模一帯にまで反乱は広がっていった。江戸城太田道灌は孤立しそうになるが、石豊島氏を撃破して窮地を脱している。この時、豊島氏の・照が池に身を投げ自害したという説話が伝わる。

初めは上杉方の混乱もあってイケイケだっただが、の八面六臂の大活躍によって勢いには陰りが見えてきた。すると、が期待外れとみた古河方・足利成氏上杉との和を提案する。方は和に反対し、なおも上杉方に反抗するが、の活躍で豊島氏は滅亡した。越後上杉氏上杉房定の仲介によって1483年に30年近くに渡った享徳の乱は終結し、古河に身を隠す事となった。

長享の乱における反乱

そのの活躍をの当たりにして最も警心を抱いたのは扇上杉上杉定正だった。1486年、乱の終結からわずか3年後、定正はを暗殺する。

1487年、かつてのの活躍で勢を伸した扇上杉と、宗山内上杉の関係が決裂して長享の乱が勃発。この時古河足利は扇と組んでおり、も再び上杉顕定打倒の為に戦場へと舞い戻った。

上杉は他に今川の協も取り付けており、伊勢宗瑞北条早雲らが援軍として駆けつけていたが、定正の事故死もあって劣勢となる。跡を上杉朝良が継ぐが、これを機に古河足利が方針転換して山内上杉と和してしまった。一応古河の配下という立場のであったが、山内との戦いを放棄する事は出来ず、引き続き扇との共闘を続けている。このため、足利成氏の和に従った息子長尾景英とも対立関係となり、上杉顕定とも和した英が白井長尾の当になってしまった。

長享の乱はズルズルと追い詰められていった扇上杉1505年に降して終結する。再び居場所のなくなってしまったは仕方なく山内上杉に降する事になった。(なお忠1501年死去。宰職は息子長尾顕忠、顕忠の婿長尾顕方と継がれていった)

永正の乱における反乱

だが、を見放していなかった!!

1507年、越後で長尾為景が反乱を起こし、顕定ので越後守護の上杉が殺された。1509年、報復の為に顕定が越後へと出兵するも返り討ちにあって討死。最大の敵はあっけなく死んでしまった。

三度立ち上がったは、長尾為景伊勢宗瑞と結託(なんちゅーおそろしいトリオだ…)山内上杉の後継を巡って混乱する上野へと攻め込み、白井を奪回するなどまたも大暴れする。が、態勢を整え直した英らに白井は奪い返され、今川領への亡命を余儀なくされた。

そして1514年、反乱に次ぐ反乱の人生に幕を閉じた。72歳であった。

山内上杉は顕定のはとこで養子だった上杉憲房と、古河足利からの養子・上杉顕実とが後継を巡って対立しており、更にこの支援方針を巡って古河方・足利政氏とその息子足利高基が対立。
古河の内紛を見た高基の足利義明は小方を名乗って自立…と関東は更なる混乱の時代へと突入し、その中で伊勢宗瑞を始祖とする後北条氏が勢を伸ばしていく。

子孫など

英は上杉憲房支援して勝利に導いた。1527年死去するが、跡継ぎの息子長尾景誠がその翌年に暗殺されてしまい、の男系子孫は途切れた。英の白井と呼ばれる女性で、成田長泰にぐも離縁となり上足利義輝に仕えたが永禄の変で討死するという数奇な運命を辿った。

死後に白井長尾督を継ぐのは、総社長家出身(※異説あり)の長尾である。総社説に則るのであれば、あの長尾の孫である。皮

ちなみに宰となった総社長尾顕方は永正の乱で失脚し、宰の座は足利長尾に戻っている。の念願であった宰職が白井長尾の下に戻る日は来なかった。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける長尾景春の力一覧。

蒼天録のみ登場。義理10野心91という堂々たる数値である。問題は後継ぎ。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 智才 政才 野望
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 智謀 政治 野望
蒼天録 統率 75 知略 74 政治 72
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 武勇 知略 政治
創造 統率 武勇 知略 政治

関連動画

関連商品

関連コミュニティ

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

急上昇ワード改

最終更新:2024/03/29(金) 10:00

ほめられた記事

最終更新:2024/03/29(金) 10:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP