長崎の鐘とは
昭和二十年八月九日の太陽が、いつものとおり平凡に金比羅山から顔を出し、美しい浦上は、その最後の朝を迎えたのであった。(「長崎の鐘」の冒頭「その直前」より)
長崎医科大学(現長崎大学医学部)の教授(刊行当時)であった永井隆の随筆である。放射線医として戦時中の物資不足の状態でX線を扱っていたため1945年6月の時点で既に白血病と診断されていた。8月の被爆により危篤状態に陥るも回復。その後、本著など複数の著作を残した。なお、戦前からのカトリック信仰の持ち主であった。
GHQの意向もあり出版には時間がかかったものの、日本軍に対する批判的記録との合本という条件で許可が下り、1949年に出版されると大ヒットとなった。
永井氏は1951年に白血病で亡くなったため本著を含む同氏の著作はパブリックドメインとなっている。
章立てが存在するためそれに沿って紹介する。
八月十日の太陽は、いつものように平凡に金比羅山から顔を出したが、その光を迎えたのは美しい浦上ではなくて、灰の浦上だった。(「長崎の鐘」中の「原子爆弾の力」より)
放射線医学が専攻であったこともあり、原子力の平和利用には肯定的であった。数年後に記憶を辿って書かれたものとはいえ、この辺りの会話は8月10日になされたとは思えないほどの”研究者魂”とでもいうものを感じる部分かもしれない。
「僕はウラニウムと思うけれどね、また新しい人工原子かもしれんとも考えられる。この方面の第一人者、ローマのフェルミが米国へ渡っているという話だから」
「とにかく偉大な発明だねえ、この原子爆弾は――」
かねて原子物理学に興味をもち、その一部面の研究に従っていた私たち数名の教室員が、今ここにその原子物理学の学理の結晶たる原子爆弾の被害者となって防空壕の中に倒れておるということ、身をもってその実験台上に乗せられて親しくその状態を観測し得たということ、そして今後の変化を観察し続けるということは、まことに稀有のことでなければならぬ。私たちはやられたという悲嘆、憤慨、無念の胸の底から、新たなる真理探求の本能が胎動を始めたのを覚えた。勃然として新鮮なる興味が荒涼たる原子野に湧き上がる。(「長崎の鐘」中の「原子爆弾の力」より)
サトウハチローが作詞、古関裕而が作曲を担当し、藤山一郎の歌唱により1949年に日本コロムビアから発売された楽曲。
妻が亡くなったこと以外に歌詞に直接的な描写はあまりないものの、荘重な音楽に鎮魂の想いなどを感じられる同曲はヒットし、1951年の年始に行われた第1回NHK紅白歌合戦では、大トリで披露されている。
2020年の連続テレビ小説「エール」では古関裕而をモデルとした主人公が永井モデルの人物にかけられた言葉をもとに悩みながら長崎の鐘を作曲していくエピソードが存在する。(実際の古関は会っていないそうだが)
松竹が1950年に製作・配給した94分のモノクロ映画。監督は大庭秀雄。冒頭部などの主題歌に「長崎の鐘」を用いている。
占領下でもあったため被害描写より永井の生涯にスポットライトを当てた作品となっており、1945年の8月9日に入るのは映画が70分を過ぎた頃である。ラストシーンは、崩壊した状態の浦上天主堂で1949年に行われた聖ザビエル四百年祭[3]の再現シーンで締められる。
鐘が鳴る。暁のお告げの鐘が廃墟となった天主堂から原子野に鳴りわたる。市太郎さんが岩永君ら本尾の青年を指図して煉瓦の底から掘り出した鐘は、五十メートルの鐘塔から落ちたのにもかかわらず、ちっとも割れていなかった。(「長崎の鐘」の最終章「原子野の鐘」より)
浦上天主堂に戦前から存在したフランス製の「アンジェラスの鐘」の一つが奇跡的に損壊せず残っていたことからクリスマスに始めて鳴らされた。この鐘の音を聞きながら平和への祈りを捧げる部分が随筆「長崎の鐘」の最終部分となっている。
1977年には、それと別に慰霊の意を込めた「長崎の鐘」が平和公園内に設置されている。
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最終更新:2025/03/31(月) 06:00
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