長野主膳 単語

ナガノシュゼン

1.4千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

長野主膳とは幕末学者であり、井伊直弼心の一人である。諱は義言(よしとき)。別名

概要

文化12年(1815年)、伊勢に生まれる。前半生は不明な点が多いが、本居宣長系の学を学んだと言われる。学者として各地を転々としつつ塾を開いて生計を立てる。

保13年(1842年)、近江で塾を開いていた時期に世子・井伊直弼からがかかり、保14年(1843年)11月に初対面する。井長野に心酔し、

「今よりは義言うしはが師なり。おのれは義言うしが教え子なり。」

と師関係を結んだ。

長野学は朝廷の権威を認めつつ、政治については朝廷から武に対して大政委任されているという立場を取る佐幕的尊王論である。長野から学を学んだ井は、それまで学んできた儒学や仏教と異なる思想に感銘を受け、以後の活動にも深いを与えることになる。また、の世子となった井は、士を長野の塾に勧誘して多数門人にしている。このようにして長野は井とその配下に対して思想的を高めていく。

に就任すると、嘉永5年(1852年)4月に正式に士として召抱えられる。以後、長野は井心としてその政治活動に深く関与していく。

京都大老

来航後、井は急速に発言を増した朝廷での工作活動を長野に担当させた。上京した長野は、徳川慶喜を次期将軍にするための勅諚を引き出そうと工作活動を行う人々の存在を聞き付け、これを阻止するため関白九条尚忠に対して

「賢愚や年長で君を決めるのは夷荻であって皇ではない。それが許されるのであれば代々相続する意味はなくなり、恐れ多けれども皇室も危うくなる。」

と、血統を重視した大義名分論を展開した。長野の意見に同調した九条将軍継嗣に関する勅諚の中の「賢明・人望・年長」という文言を削除して抜きにしてしまった。

同じ頃、江戸では井が大老に就任。事実上最高の権を持つに至る。8月、再度上京した長野は条約調印を非難する勅諚が水戸に降下されたことを知り、これを水戸の陰謀として井に報告。9月、井から折り返し弾圧の示が下ると、所代や町奉行に命じて京都で活動していた尊攘志士の取り締まりを開始した。最大の標的は梅田、梁、頼三三郎池内大学の四人で、僧侶照や西郷隆盛にも追っ手が迫った。

また、朝廷における井シンパだった九条が、朝廷内部のゴタゴタが嫌になって辞表を提出するとこれを阻止。逆に一と見られる廷臣たちを落飾させて朝廷における自の勢維持に努めた。更に朝廷との融和の実を上げるため皇女和宮を徳川家茂と婚約させるための活動を行う。

の権背景に「京都大老」と呼ばれるほどの暗躍ぶりを見せ、が世の謳歌していた長野だったが、井暗殺によって命運が絶たれる。

最期

安政7年(1860年)3月3日井伊直弼水戸薩摩の脱浪士に暗殺される。

長野は幕府の命によって引き続き和宮降のための工作活動を京都で行っていたが、文久2年(1862年)7月20日長野京都での活動を補佐していた九条臣の島田左近が暗殺されると、身の危険を感じてに逃れる。だがにおいても既に長野厄介者扱いされており、内の勤王によって上層部へ厳罰が進言される。

8月24日長野は捕縛され、27日に罪に処された。享年48歳。

関連商品

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/25(木) 20:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/25(木) 20:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP