間宮純一(まみや じゅんいち 1908年~1981年)とは、ルンペン将棋棋士である。六段。静岡県田方郡出身。
溝呂木光治八段門下で、小野五平十二世名人の孫弟子にあたる。一時期「間宮久夢斎」と名乗っていた。
阪田三吉の初手端歩に勝るとも劣らない、珍戦法の使い手。
9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 | |||
後手 | 四 | 先手 | |||||||||
な | 五 | な | |||||||||
し | 六 | し | |||||||||
七 | |||||||||||
八 | |||||||||||
九 |
初手5六歩!
…なんだ、素人丸出しの中飛車かよ( ´,_ゝ`)プッ
違うよ。全然違うよ。
間宮純一の理想とする将棋は初手5六歩、隙あらば5五歩と伸ばして5筋の位を制することから始まる。
次に、取った位を守るためひたすら盤の中央を目指して金銀を盛り上げて行く。
悠長に囲いを作ったりなどということはしない。右か左の三段玉こそが本懐。
何故なら、全ての手は自玉を敵陣へねじ込む、ただそのために存在するからである。
初手から入玉含み。こんな珍妙な発想で将棋を研鑚していったのは間宮が古今唯一だろう。
ただし本人は至って大真面目(素行的な意味ではない、後述)で、「美濃囲いや矢倉は金銀三枚が玉にくっついて遊び駒になっている」とまで言っている。
現存する棋譜は少ないが、派手な空中殺法と特殊な大局観、攻防に効く妙手の連発、ひょろひょろと逃げ続ける玉など、いずれも持ち味を充分に発揮した指し回しを堪能できる。
間宮はこの戦法を自ら久夢流と名付け、「伊豆国大仁ノ住人 久夢流元祖 間宮久夢斎」と刷り込んだハガキ大の名刺を持ち歩いて物乞いの種としていた。
順位戦は通算11期、残念ながらC1C2ともに勝ち越し経験皆無であった。
棋風にたがわず、本人自身も相当奇天烈な人物であったようだ。
現代のように棋戦が多くなかった当時、プロ棋士は全国を巡って指導料を稼ぐことを主たる収入としていた。
しかし間宮は放浪癖が過ぎたのか年がら年中住所不定状態が当たり前で、箸とコップの入ったズタ袋を引っ提げ酒と浪曲を愛するルンペン生活を送るようになっていった。
地方で勝手に野試合を催し、将棋番付を作って金銭をせしめ、年に一度関係者の元へ現れたかと思えば数千円の無心と酒を乞い、その自由人ぶりは無頼派の多かった戦後棋界でも異端中の異端であった。
相手の格によってタカる額を変えるのが定跡らしく、時にはタバコ1本をクソ粘りで恵んでもらったこともある。
普段移動に使っていた汽車なんぞは運賃を払ったことすらなかった。
人当りのよさと口八丁で駅長を丸め込み、名刺交換や歓談を交えながら改札をすり抜ける、といった手口を常用していたという。お前はぬらりひょんか。
升田幸三実力制第四代名人の家へ無心に行き、日本刀を突き付けられて逃げ帰った逸話もある。
※当初升田本人は不在で、応対した夫人から頂戴した額が少なかったため、逆ギレしたのが原因。
なんと泥のついた下駄で升田家の表札を踏みつけたらしい。
夫人の急報を受けた升田は「名人の名誉が汚された!!」と激怒して抜刀に及んだ。当たり前だ。
同じころ大山康晴十五世名人は、家中に鍵をかけていた。「大山の受けつぶし」である。
そんな間宮と好意的に接した人物として、原田泰夫九段がいる。
原田は溝呂木へ弟子入りしようとして「自分は弟子運が悪い(もちろん間宮のこと)」と断られ、別の師匠を紹介されたという過去があった。
これをなんとなく奇縁に思い、無心に来られても「年に一度のことだから」と、5000円と1、2杯の酒をコップに注いで渡してやるのが恒例となっていた。
このことがよほど嬉しかったのか、間宮は原田が引っ越しても必ず住所を調べて訪ねて行ったそうである。
頭にはいつもエヂソンバンドなるものを巻いており、今で言う冷えピタ棋士の先駆けでもあった。
これはブリキをじゃばらに織り込んだバンドで、熱を放散させる効果を謳っていた(車で言うところのラジエーター)
「あのエジソンが開発!脳が三倍働く!」などという、うさん臭い宣伝文句も特色である。
間宮の使っていたものは水冷式で、中に酒を入れることができたので、指導対局中にこっそり取り外してはちゅーちゅーすすっていた。
50年以上も前に「頭寒足熱」を実践したあたり、先見性を持っていたとも言えなくもない。目的は酒だが。
これらの無軌道はだんだん棋界関係者の心象を悪くしていき、ついに将棋連盟は退会勧告を決議するに至る。
直接の処分理由は「免状発行は連盟の大事な収入源で、将棋番付を勝手に作られてはかなわん」というものである。
本人に告げる役目を負わされたのは原田九段だった。
情けをかけてくれた相手からの勧告に反発できるはずもなく、間宮は1957年を以って棋士人生に幕を下ろした。
現役通算15年の成績は 136戦43勝92敗1持将棋、勝率.319 であった。
晩年はすっかりアルコール中毒となり、弟の世話を受けながら断酒施設に入所するなどして過ごしたという。
もし現代に生きていればネットをにぎわす人気者になったことであろう。いい意味でも悪い意味でも。
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最終更新:2024/04/18(木) 20:00
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