関東伺候廷臣 / 関東祗候廷臣とは、鎌倉時代将軍家に仕えた公家である。
鎌倉幕府は大江広元や中原親能といった京下りの官人たちが政権中枢におり、また京には親鎌倉派の公家も存在した。そのため公武協調路線をとった源実朝の時代から、次第に鎌倉に居住し、将軍や御家人たちと関係を結ぶ公家も現れたのである。しかし、あくまでも個人的な関係にとどまり、源実朝暗殺後に帰京するものも多かった。
しかし次いで、京都から摂家将軍が迎えられると、徐々に京下りの公家が増え始め、親王将軍の段階に至り、後嵯峨天皇の命もあり京下りの廷臣たちが、近臣として多く鎌倉に移住したのであった。彼らは和歌や蹴鞠といった家芸で将軍に仕えていったのである。
しかしその出自は雑多なものであり、親王の廷臣から、阿野、一条、坊門といった先祖の縁故で居ついたものなどに分かれる。さらに、長く滞在したもの、一時的な滞在にとどまったものなどその後も様々で、記録が断片的なこともあり、特定の家に偏ってはいるものの、実際のところはっきりとしたことは言えない集団である。
しかし家の出自としては羽林家が多く、清華家出身者も見られるものの実際のところ羽林家と似通った傍流であった、ということが言える。
やがて室町時代になり京に室町幕府が築かれると、足利尊氏の時代は彼らの積極的な活動が見られるものの、足利義詮の時代にはもう将軍家の家司や家礼といった新たな廷臣が取って代わり、昵近衆や武家伝奏といった公家衆が新たに成立していくのである。
有名どころでは、蹴鞠の祖ともいえる飛鳥井雅経や阿野廉子の兄・阿野実廉らがいる。
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最終更新:2025/12/07(日) 19:00
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