関東八屋形 単語

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関東八屋形とは、鎌倉府において方の近習である奉公衆とははっきり区別された、いわば外様の人々である。

概要

近世の史料である『佐竹譜』に第3代鎌倉足利満兼が八人の大名に屋形号を許した、とあるのをソースに近年までさまざまに論じられてきた。
の、だが史料ごとに(それも同時代じゃない)メンバーが安定しておらず、実際のところは室町時代鎌倉府の下で有だった有族の「外様」領たちにその後の戦国時代江戸時代の各大名の立場が反映されて関東八屋形と呼ばれる概念が出来上がったんじゃないか、と近年では言われている。

難しい話はここまでにして、要するに鎌倉府からある程度距離を置いたうえでそれなりの地位を築いていた人々であり、名字を見ると以来おなじみの面々が並んでいる。

一覧

同時代史料から確実な人々

1.佐竹
常陸源氏武田とは同祖。の時に独自路線を行こうとして頼朝にやられ、その後は小田氏のもとで逼塞していた。ところが小田氏が南についたことで立場が逆転し、常陸守護として見事に返り咲いた。
2.千葉
房総平氏下総の有在庁官人千葉介の。同族の上総氏が粛清された後足利氏とその基盤を引き継いだ。元寇のどさくさで肥前割れ絶賛中争いに突入するが結局下総側に一本化された。
3.小山
下野の代表的な在庁官人で秀郷流藤原氏ドン鎌倉時代ずっと下野守護を保持していたが中先代の乱でほぼ壊滅、さらに小山義政の乱、その後の若犬丸抵抗の死による失敗で断絶し、傍流だった結城に乗っ取られた。
4.結城
小山氏の傍流。鎌倉時代も代表的な御家人として活躍していたが、傍流の白河結城氏が強大化する一方で足利シンパとして活躍。その後も佐竹氏と並び代表的な鎌倉府勢となる。
5.宇都宮
殿藤原道兼の子孫を称しているが、武者だったり官だったりと属性てんこ盛りよくわからない人。南北朝で南についていたと思ったら臣に息子足利方に連れていかれて以来北。でもどっちかっていうと京都側。
6.小田
宇都宮の同族。佐竹がしめられたあと残っていた常陸平氏をぶちのめし常陸守護へ。北条氏との距離から次第に守護が傍流の宍戸氏と交代に。南につき、さらには小山氏に誘爆されて小田の乱で勢を削減された。
7.那須
ゴルゴゲンジバンザイな人の子孫らしいが、藤原通が祖ということ以外鎌倉時代までのことはよくわかっていない。しかし南北朝の時足利シンパとして活躍、また州へのを抑えていたことから地位が高まったそうな。

その他候補

8.長沼
ふつう関東八屋形という場合はこの人が入る。小山結城の間兄弟鎌倉時代淡路守護なのだが南北朝であらかた権益を失った。実際に八屋形だったのか、子孫の皆川が遡及されているだけなのかは意見が分かれる。
9.大掾氏
常陸平氏の代表的な存在。嫡流が小田にやられた後を取りまとめ、有御家人に成長した。鎌倉府の近習として活躍したが、次第に煙たがれるようになり暗殺されるにまで至っている。戦国時代一時的に復活する。
10.里見氏
新田一門のうちくに分かれたもの。鎌倉時代から独立した御家人になっており、南北朝でも割合く一部が北に移った。長沼落以降その地位に代わったとされるが、こちらも戦国時代が遡及されてる可性が…?
11.三浦
相模の代表的な有在庁官人。祖先については平氏なのか地元族なのか絶賛殴り合い中。傍流の佐原氏が南北朝で大逆転復活するが、鎌倉に近すぎて勢が抑えられ「年中行事」などでも他の外様より一段下っぽい。

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