閻圃とは、三国志に登場する人物である。
益州巴西郡安漢県(四川省南充市)の出身。漢中に勢力を張っていた張魯に功曹(人事官)として仕えた。
ある人が張魯に地中から掘り当てた玉印を献上した時、周りが張魯を漢寧王に推戴しようとしたが閻圃はこれに反対して「斉桓公や晋文公のように勤王に励むのが最善の策で、王号を自称するのは禍根となる」と進言して取りやめさせた。
建安20年(215年)、曹操が漢中に攻め込み陽平関が陥落したとの報に接した張魯は曹操に降伏しようとしたが閻圃は「今降伏しては軽んじられる。巴中に立てこもり、その後礼物を贈ればその功績が評価される」と進言し張魯はその通りにした。漢中に入城した曹操は張魯が財宝を焼かず倉庫に封印したことを評価し、張魯に帰順のための使者を送った。
閻圃の勧めで張魯が曹操に基準すると、閻圃も列侯に封ぜられ漢中にいた馬超の妾の董氏を与えられた(馬超と董氏の子である馬秋は張魯に殺されている)。
閻圃は曹丕の代に建節将軍・平楽亭侯として他の群臣らと帝位に就くよう曹丕に勧めている。黄初年間(220~226年)に加増を受けた閻圃はそれから10年あまりして病没したという。
子に閻璞、孫に晋書に列伝のある閻纉がいる。閻纉は晋の2代皇帝司馬衷が即位すると外戚の楊俊に取り立てられ、皇后の賈南風との政争に敗れ誅殺された楊俊を埋葬したり、勅命により周処(周鮑の子)の忠節を称える詩を作成している。
また、ずっと時代は下り、初唐の宰相で画家でもある閻立本は閻圃の一族の末裔という。
漢寧王になろうとする張魯に対し、まず劉璋を倒してから名実とともに王となるように勧めている。
曹操が攻めてきた時は龐徳の起用を提言し、龐徳が楊松の讒言で斬られそうになったところを弁護して命を助けている。
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最終更新:2024/09/10(火) 14:00
最終更新:2024/09/10(火) 13:00
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