「陳到」(チン・トウ ? ~ ?)とは、後漢末期から蜀漢にかけて劉備に従って戦った武将であり、名声・官位は趙雲に次ぐ忠勇兼備の家臣として
選り抜きの兵を指揮して、勲功をあげた猛将
とも言われる隠れた名将である。多分
字(あざな)は「叔至」。
豫州汝南郡の出身で、劉備が豫州の刺史を務めた頃に家臣となり、劉備・劉禅の二代に仕えて趙雲と並ぶ忠義と武勇に優れた武将として称えられた。
劉備の死後は亭侯に封じられ、諸葛亮が北伐の軍を起こして前将軍の李厳が永安から江州に移動した際は、永安に駐留して守備を担当した。
241年に楊戯により著された蜀の家臣ヨイショ本「季漢輔臣賛」に登場している為、241年にはすでに亡くなっているのが分かる。 (「季漢輔臣賛」には当時存命の人物は収録されていない)
※その他「陳到」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照
陳到は、忠義と武勇が全身レバーで知られる趙雲と同じという高い評価を受けているものの、正史に独立した伝は無く、李厳伝にその存在が記載されている程度である。
楊戯の蜀臣ヨイショ本「季漢輔臣賛」では、趙雲クラスの武将である事を強調しているが、お好みの人物は多少捏造してでもヨイショするお国柄(特に孔子の弟子とか弟子とか)である為、誇張したとも言えなくもないところはある。
ただし、蜀漢では歴史を記録する官吏を置かなかった為、記録を集めるのに正史の原作者である陳寿も苦労しており、劉備自身も蜀漢を立てる前は流浪の人生だった為、その時から従っていた陳到には、詳しい戦績が記録に残されていなかったとも言える為、現在ある史料ではその力量を推し量ることは難しいと言える。
なお近年では、セガより「陳到は劉備軍のリビングアーマー」説や「陳到は劉備軍の鎧の名前」説が提示されている。
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志 | - | - | - | - | - | ||||
三國志II | - | - | - | ||||||
三國志III | - | - | - | - | - | - | |||
三國志IV | - | - | - | - | - | ||||
三國志V | - | - | - | - | |||||
三國志VI | 71 | 85 | 70 | 23 | 76 | ||||
三國志VII | 75 | 36 | 39 | 64 | |||||
三國志VIII | 73 | 52 | 48 | 66 | |||||
三國志IX | 75 | 72 | 62 | 66 | |||||
三國志X | 79 | 74 | 65 | 50 | 72 | ||||
三國志11 | 76 | 71 | 63 | 53 | 69 |
関連人物 |
掲示板
17 ななしのよっしん
2016/03/23(水) 09:51:31 ID: JWjEAWktfH
強いて言えば陳到が大きな功績を残さずに済んだのが蜀としては何よりだったんだろ。呉に攻められちゃ北伐どころじゃないしな。
槍働きで功を上げてたとするとしたら李厳の与力・バーターになる前の時代だろうし、そもそも北伐で功を上げた高翔や陳式ですら伝が立てられてないんだし。
18 ななしのよっしん
2016/03/23(水) 19:14:33 ID: HFli0We+R+
>15
「蜀が史官を置かなかった」という話には当時から既に突っ込みがはいっているけども、言葉通りの意味で「歴史的な記録をつかさどる部署が全くなかった」ということはまず考えられない。天文と歴史の相関記録はある意味で国家の最重要部署だからね。
この場合「著作郎(後漢の史書編纂の専門官)」が置かれていなかった(別の記録部門があった、あるいは天文部署あたりが兼任してた)、という意味ぐらいだと考えるべき。現に季漢輔臣賛のような(とは正確には違うが)のような明らかに何かを参考としている資料性の高いものも出ているし、「史官がなかったから資料が少なかった」というのは決定的な理由とは考えにくい。
まあ劉備の生前をメインに活動してた人は、国家成立後の時間的な短さで記録が少なかったのは間違いないけども。
19 ななしのよっしん
2023/09/11(月) 16:56:32 ID: pZ9lhT5Vpk
白眊なる衛士を率いて、諸葛亮に少数でも信頼に値すると評価されてた的な話もあるようだ
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最終更新:2024/04/25(木) 18:00
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