陳泰(チンタイ)、字を玄伯は、三国魏の人物。生年不明~260年没。魏後期の軍事・政治分野において活躍した。
父は魏の名臣である陳羣であり、その嫡子。母も同じく名高い荀彧の娘で、荀彧の外孫にあたる。
出身地は不詳だが、おそらくは父と同じ頴川郡許昌県と思われる。
曽祖父の陳寔、祖父の陳紀(袁術配下とは別人)も名声が高く、頴川陳氏は名門として知られていた。
ちなみに陳寔は、南朝陳の建国者である陳覇先や、玄奘三蔵(三蔵法師)の先祖といわれている。
陳泰の名が史料にあらわれるのは曹叡の代からで、青龍年間(233~237年)に散騎侍郎として曹叡に近侍している。236年に陳羣が逝去しており、陳家の当主となっている。
正始年間(240~249年)に遊撃将軍・并州刺史となって北方に転出。さらに振威将軍を加えられ、使持節・護匈奴中郎将となった。同地を威厳と恩愛をもって統治し、匈奴を手懐ける等の治績をあげた。
都の貴族達は匈奴の奴婢を買い求める為、陳泰に代金をことづけたが、陳泰は壁に引っ掛けて打ち捨てておいた。後に中央に戻る時に全て返却した。
中央では尚書となり、司馬懿と曹爽との争いに関わった。陳泰は司馬懿一党に与し、曹爽への使者を務めた。
249年から西方に配属され、刺史から都督に昇進した郭淮の後任として、雍州刺史となった。奮威将軍を加えられ、郭淮の補佐を行い、蜀の北伐に対して防衛を行った。
252年頃、并州と連携して蛮族(羌族?)を討とうとしたが、徴兵を嫌った民による二郡の叛乱を招いてしまった。
しかし、司馬師は承認した自分が悪いと責任を問わなかった。
蜀軍が麴城を築いて橋頭堡となし、魏に侵攻してきた時、陳泰は蜀軍の補給の脆弱さを見抜き、郭淮に戦わずにして退ける作戦を提案する。自身は徐質、鄧艾の二将を率いて補給線を断ち、援軍の姜維の帰路を郭淮に扼するよう献策した。結果、麴城の兵は降伏し、姜維も追撃を恐れて逃走した。
255年、郭淮が亡くなるとその後を継ぎ、西征将軍・仮設・都督雍涼諸軍事となり、対蜀戦線の第一人者となった。
後任の雍州刺史は王経となる。
姜維と夏侯覇が攻め上って来た時には、別動部隊の王経が先立って蜀軍に撃ち破られ、狄道城で包囲されてしまう。このまま蜀の攻勢が続けば隴西を失い、深刻な戦況となる。鄧艾ら諸将が慎重論を唱え、準備を万端にしてから反撃すべきとする中、陳泰は蜀軍の失策(狄道城に構うべきではなかった)と、王経部隊の兵站がもう限界と見切った。そこで急速に援軍を率いて現地に駆けつけたところ、予想外の動きと速さに蜀軍は混乱して逃走した。
救われた王経は、後10日遅ければ食料が尽き、城ごと壊滅して一州を失っていたと嘆息した。
再びに中央に召されて尚書右僕射となり、官吏の選抜を担当する。さらに侍中光祿大夫が加えられた。
呉の孫峻が淮水・泗水地方に進出すると、鎮軍将軍・仮設・都督淮北諸軍事に任命されて南方に赴き、徐州監軍を指揮下に収め、対呉の防備にあたった。孫峻が撤退すると中央に戻り、尚書左僕射となった。
諸葛誕が叛乱すると、司馬昭は全軍を上げて出陣した。大本営に臨時の尚書省が設けられ、陳泰により取り仕切られた。
これらの諸功績により、領邑2,600戸にまで加増され。子弟たちも爵位を下賜された。
260年に亡くなり、穆侯と諡され司空を追贈された。後を息子の陳恂が継ぎ、その後は次子の陳温が後継した。
咸熙年間に改めて陳泰の功績が評価され、陳温は慎子の爵位に封ぜられた。
沈着勇武で決断力がある、都督、大将はこうでなければならない。(司馬昭)
父の陳羣に比べて公正、道理、寛容さをもって天下を教化する任務では及ばないが、実務に練達し、簡にして要をおさえ、功績を打ち立てる点では父以上である。(武陔)
優れた将軍であり、兵法に通じ、敵の弱点を見破り、的確に突く事に長けていた。異民族政策にも優れ、州長官としての統治も問題なく行っていたが、民の叛乱を招いた事もあり、瑕瑾が無い事もなかった。有能な方面軍司令官として北~西~南と重用された。
将軍としての功績だけでなく、中央政府に登ってからは大臣として重きをなした。
あまり物事を大げさにせず、軽く簡単に処理する事を心がけていた。蜀との戦いで、中央に報告する時、駅伝を利用して早急に報告を行い、司馬昭を感心させた(普通に報告しようとすると3倍の時間がかかる)。適当に見えて状況を収拾できうる力量に裏付けされたものである。
司馬師、司馬昭と仲が良く親友であった。すぐれた見識を持ち、清廉な人格者であったが、宴会で、司馬師と一緒に鍾毓をからかうような一面もあった。また、司馬昭が鍾会の家に寄った時、鍾会に一緒に車に乗れと言っておきながら、すぐに発車して置き去りにした時に、陳泰も司馬昭の車に同乗していたという。
傅嘏、武陔、陳騫、荀顗、鍾毓といった人々と親交があったという。
荀顗は荀彧の子で叔父にあたる。同世代であり、世間の論者は二人を同列に比したという。
260年の司馬氏の簒奪前夜、魏の皇帝である曹髦が反司馬の挙兵を行い、司馬昭の腹心である賈充の指図により殺害される事件が起きる。董卓ですらやらなかった現役の皇帝殺しの暴挙に、朝野は騒然となった。流石にやばいと思った司馬昭は、太常となっていた陳泰を呼び出し、フォローの方法がないかと相談した。
陳泰は賈充を斬る事を勧めた。しかし、賈充を庇う司馬昭は却下して、それ以下の方法はないかと聞いた。
陳泰はそれ以上はあってもそれ以下はありません、賈充を斬る事しか天下に謝罪する方法はありません。と重ねて勧めた。結局、司馬昭は助言を受け入れず、実行犯とその関係者を処刑、賈充を無罪放免にしてしまった。
また一説では、曹髦が死んだ時、深く悲しみ、司馬昭と共に号泣し、上記のように賈充の処断を説いて、血を吐いて亡くなったという。
ただ、裴松之は、この時の陳泰の言動が記された史書の信憑性について疑問を呈している。そもそも陳泰は太常の地位にあった事は無い。また、陳泰の徳は、父祖達には及ばないという評を引用しており、暗に陳泰がそこまで殊勝に振る舞えたかどうかを匂わせている。
おおまかな出番は史実と同じ。陳羣(演義では陳群と表記)の息子である事には触れられていない。
鄧艾の才能に敬意を抱いて、「忘年の交わり」を結んだ事となっている。
三国時代の後期から活躍する人物なので、諸葛亮没後を省いた作品では、出番は少ない、というか無い。
コーエーの三國志シリーズにおける陳泰の能力一覧。 当初から知勇兼備となっているが、魅力があまり高くなかった。次第に評価が固まり、万能型の武将となっている。登場時期が遅めなので活躍の時期は限られる。
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志Ⅰ | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
三國志II | - | 79 | 79 | - | 44 | - | - | - | - |
三國志III | - | 79 | 78 | 69 | 69 | 72 | 70 | - | - |
三國志IV | 67 | 80 | 78 | 69 | 69 | - | - | - | - |
三國志V | - | 83 | 78 | 63 | 69 | - | - | - | - |
三國志VI | 79 | 76 | 70 | 72 | 64 | - | - | - | - |
三國志VII | - | 78 | 86 | 74 | 73 | - | - | - | - |
三國志VIII | - | 79 | 84 | 75 | 78 | - | - | - | - |
三國志IX | 87 | 78 | 87 | 77 | - | - | - | - | - |
三國志X | 85 | 73 | 85 | 75 | 75 | - | - | - | - |
三國志11 | 84 | 73 | 86 | 78 | 77 | - | - | - | - |
三國志12 | 84 | 77 | 86 | 78 | - | - | - | - | - |
掲示板
45 ななしのよっしん
2019/12/05(木) 19:40:26 ID: wYgMu2QRi9
そりゃ陳泰としても
「新王朝の柱石」
になれるとしたらやぶさかでもないところだろうが、、
「(子孫ですら絶望するほどの歴史的大逆を働いた不忠者が作った)新王朝の柱石」
になるのは願い下げだっただろう。賈充や荀勗みたいに後世にまで不朽の汚名が残ることになりかねない。
だがその後の行動を見る限り、彼の発言は決別というよりは、官僚らしいソフトな線引きではなかろうか。
あえて現場の賈充を指名することで「アンタに責任を取れといってるわけではないんだが」という予防線を引きつつ、はっきりと怒りを示すことで「俺はアンタらの外道行為とは一切関係ないからね?」と暗に主張する、実にスマートな手だと思う。
46 ななしのよっしん
2020/08/16(日) 01:52:07 ID: wr7L3sB6dk
そら在位中の皇帝弑逆なんて董卓もビックリの行為だからな
あの董卓ですら劉弁を殺害する時は廃帝にしてから殺したのに
陳泰じゃなくても「俺は関係ない」と言いたくなる
簡単に言えば本能寺の変後に細川藤孝が中立保ったのと理屈は同じでしょ
いくら明智光秀と親しいからと言っても怖すぎて同じ道は歩めない
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最終更新:2024/04/24(水) 12:00
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