隆子女王出奔事件とは、江戸時代後期に起きた皇族二人の駆け落ち事件である。
世襲宮家、伏見宮家第19代子沢山で有名な貞敬親王の第11王女。通称は「幾佐宮(きさのみや)」。
…だったのだが、なぜか生まれてすぐ、祖父の貞敬親王の子供ということにされた。
理由は不明だが、一説に、済範が生まれた時、父の邦家親王は元服前の数え15歳(満13歳)だったので、伏見宮家が世間の目を気にしたからだという。
1817年、勧修寺の門跡となる。光格上皇の猶子(形式上の養子)となり、1823年、親王宣下。1824年、出家。この時に済範入道親王と名乗る。
(家系図上では)
├済範
└隆子
従って、済範と隆子の関係は、系譜上では異母兄妹だが、血統上は年上の甥と年下の伯母。ややっこしい
1841年(天保12年)10月12日、隆子女王が乳母を連れて伏見宮邸から出奔。
同じ頃に、済範も出奔。
簡単にいえば、禁断の男女の駆け落ちである。伏見宮家は大騒ぎとなり、京都所司代に捜索届が出された。
逃避行の間、二人にどんなドラマがあったのかは想像するしかない。17日後の10月29日、済範と隆子は明石で発見され京都に連れ戻される。
時の天皇、仁孝天皇の怒りはすさまじく、二人には重い処分が下された。
・済範
光格上皇猶子の停止。二品親王及び勧修寺門跡の地位の停止。伏見宮家から追放の上、東寺での厳重籠居。
1856年(安政3年)、済範の罪が許される。天皇は孝明天皇に代わっていた。
隆子女王は処分を解かれることのないまま、1860年(万延元年)に瑞龍寺で死去。
彼女の罪が許されたのは、死後5年後の1865年(元治2年)だった。
済範はその後、還俗し「山階宮晃(あきら)親王」を名乗り、明治維新期の外交官として活躍する。
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最終更新:2023/04/02(日) 05:00
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