隆子女王出奔事件 単語

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隆子女王出奔事件とは、江戸時代後期に起きた皇族二人の駆け落ち事件である。

隆子女王(幾佐宮)

女王(1818~1860)

世襲伏見第19代子沢山で有名な貞敬王の第11王女。通称は「幾佐宮(きさのみや)」。

貞敬王()─女王

済範入道親王

済範(さいはん)入王(1816~1898)

伏見20代子沢山で有名な王の第1王子

貞敬王(祖)─邦王()─済範

…だったのだが、なぜか生まれてすぐ、祖の貞敬王の子供ということにされた。

理由は不明だが、一説に、済範が生まれた時、の邦王は元前の数え15歳(満13歳)だったので、伏見が世間のを気にしたからだという。

1817年、勧修寺の門跡となる。上皇の猶子(形式上の養子)となり、1823年、王宣下。1824年、出。この時に済範入王と名乗る。

系図

(系図上では)

貞敬()┬邦

    ├済範

    └

従って、済範と子の関係は、系譜上では異兄妹だが、血統上は年上の甥と年下の伯母やっこしい

出奔事件

1841年(保12年)10月12日女王を連れて伏見宮邸から出奔。

同じ頃に、済範も出奔。

簡単にいえば、禁断の男女の駆け落ちである。伏見は大騒ぎとなり、京都代に捜索届が出された。

逃避行の間、二人にどんなドラマがあったのかは想像するしかない。17日後の10月29日、済範と子は明石で発見され京都に連れ戻される。

(同行したの消息は不明。)

その後

時の天皇、仁孝天皇の怒りはすさまじく、二人には重い処分が下された。

・済範

上皇猶子の停止。二品王及び勧修寺門跡の地位の停止。伏見から追放の上、東寺での厳重籠居。

女王

の上、瑞寺に預かり。

この時、二人の(済範の実)邦王も処罰を受けている。

1856年(安政3年)、済範の罪が許される。天皇孝明天皇に代わっていた。

女王は処分を解かれることのないまま、1860年(万延元年)に瑞寺で死去。

彼女の罪が許されたのは、死後5年後の1865年(元治2年)だった。

余談

済範はその後、還俗し「山階宮(あきら)王」を名乗り明治維新期の外交官として活躍する。

「山階鳥類研究所」の創設者、山階芳麿は彼の孫である。

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