隼人 単語


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ハヤト

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隼人とは、九州地方南部に住んでいた人々である。

概要

現在でいうところの鹿児島県宮崎県を中心に住んでいた人々である。大和民族大和朝廷従しつつもそれに抗っていた。そのため東方地方夷と共に夷狄として扱われていた。

隼人の語は『ハヤブサのような人』『える人』『南を示すから』などと詳説が多い。なお、隼人が自称だったのか、それとも朝廷からの呼び名だったのかはよく分かっていない。

日本神話によればが隼人の多君の始祖とされ、火照命の末裔とされた。

隼人の名が文献上に確実な記録として登場するのは日本書紀よると西暦682年の天皇の時代であり、王権に貢のために訪れたことが記されている。この時に朝廷従したものと見做されている。

ただし従後も隼人は朝廷に対して反乱を起こしており、和6年(713年)に大隅が設置されたがそれでも収まらなかった。

養老4年(720年)には隼人の反乱という大規模な反乱が発生。朝廷側は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命して征伐を行い、約1年半もの戦いの末に養老5年(721年)に反乱を鎮圧した。これをもって朝廷は隼人を全に従させた。

19年(800年)になると隼人に対して班田収授法が適応されるようになった。翌年の延20年(801年)に6年に1度行われていた貢の隼人之調を止。延24年(805年)には節会での風俗歌舞の奏上も止となった。これらに伴い公民と同じ調庸に置き換えられて、隼人は他の人々と同じ扱いとなった。

ちなみに隼人の名が南九州の人々の呼び名として文献に出ていたのは9世紀初頭までであり、682年の登場から約120年ほどの短い期間でしかそう呼ばれてなかったと考えられる。

民族系統

隼人が話していた言語は朝廷側とって理解可なものではなく通訳を必要としていた。このため日語族であったとしても当時の日本語とは分化が進んでいたか、そもそも日本語とは全く別の言語を話していたという説もある。

古くは縄文人の子孫として考えられていたが、実際のところ南九州には渡来人系の人々も流入もあった。南九州古墳人の形質を調べたところ、山間部では縄文系宮崎平野では渡来系、大隅半島では両者の中間的であった。

隼人と名の付くもの

朝廷に抗ったその勇猛さから地元の鹿児島県を始めとしてそれに肖って地名や人名として付けられることが多い。

地名・歴史関連

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ニコニコ関連の人物

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