この記事では、大韓民国、及び過去に朝鮮半島に存在した国の歴史について取り上げています。
紀元前約70万年前から始まる。代表的な遺跡は咸鏡北道雄基郡屈浦里(ハムギョンプクドウンギグンクルポリ)、平安南道祥原郡黒隅里洞窟(ピョンアンナムドサンウォングンコムンモルトングル)、京畿道漣川郡全谷里(キョンギドヨンチョングンチョンゴンニ)、忠清南道公州市石壮里(チュンチョンナムドコンジュシソクチャンリ)などである。
狩猟のために握斧、石刀、尖頭器を作り、食べ物を作るために、石刃、削器、掻器を作った。木器や骨器を作ることもした。食べ物は獣と魚、植物の実や球根を採集して食べた。
住居は洞窟、竪穴住居があった。骨や石に獣の絵を描いているものが遺っている。
紀元前6000年頃より磨製石器と土器を使い始めた。代表的な遺跡は、平安北道義州郡美松里(ピョンアンブッドウィジュグンミソンニ)、黄海道凰山郡智塔里(ファンヘドポンサングンチクムニ)、ソウル特別市江東区岩寺洞(カンドングアムサドン)、江原道襄陽郡鰲山里(カンウォンドヤンヤングンオサンリ)、釜山広域市影島区東三洞(ヨンドクトンサンドン)。主に大きな川の流域や海岸で発見されている。
石斧、石槍、石鏃などの磨製石器と骨製釣り針が見つかっている。初期は無文土器と隆起文土器、後期は櫛目文土器を使用した。櫛目文土器は単純な模様から次第に複雑で華麗な模様に変わった。
生活は、川岸や海岸に住んで骨器の釣り針や網などで魚を捕まえたり、槍・弓矢などで狩猟をした。木の実や球根を掘って食べていたが、後には粟・ヒエを栽培し、石鎌・骨角器の鎌で刈り入れをし、農業を行った。穀物は石臼でひいた。紡錘車で糸を紡ぎ、布を織り、骨の針で衣服を作った。
住居は、竪穴住居で、血族中心に集住し村を作り、更に数個の種族が集まって部族を作った。
動植物や自然の絵が残っており、特定の動物を自分たち部族の守護神と見なして崇拝するなど、アニミズムを信仰していたとされる。
代表的な遺物として、青銅剣と青銅鏡があった。青銅剣は琵琶形銅剣から細形銅剣へ発展した。青銅鏡は粗文鏡から細文鏡へ発展した。鋳型も発見されている。
無文土器が代表的な土器である。支石墓から磨製石器とともに発見されている。
墳墓は支石墓と石棺墓がある。副葬品として青銅器と無文土器が出土している。
生活は主に農耕である。堅い木の農機具を利用し、石包丁で収穫、石臼で穀物を加工した。栽培作物は稲、麦、豆、粟である。
住居は長方形の竪穴住居で、新石器時代より浅くなり、規模が大きくなっている。川に沿う野山や丘陵地帯に住み、丘陵周辺を開墾した。
経済が発展し、人口増加に伴い部族を単位とする政治的社会が成立した。部族を統率する君長は、農業生産増大と青銅器を用いて他部族を征服するなどした。
君長は神の祭祀を行うなど、宗教的儀式も執り行った。祭政一致の社会だった。君長が亡くなると、支石墓や石棺墓を作り、青銅剣や青銅鏡を共に埋めた。
満州遼寧地方と韓半島西北地方に、君長が治める多くの部族が現れた。檀君はこうした部族を統合した古朝鮮を建国した(檀君朝鮮)。檀君王倹の古朝鮮建国(紀元前2333年)に関しては『三国遺事』にその内容が記されている。
殷周時代(紀元前1000年代?)の辺りに、殷の王族である箕子が朝鮮に国を建てたという伝説がある(箕子朝鮮)。これも逸話のため詳しくは不明で、韓国の歴史教科書には記述がない。
古朝鮮は、青銅器文化の発展につれて次第に政治的文化的中心の役割を果たしながら勢力を広げた。紀元前4世紀頃には遼寧地方を中心に満州と韓半島北部を結ぶ広い地域を統治する連盟王国として発展した。
しかしこの時、中国の燕と国境を接し、頻繁に衝突した。また燕も高祖の皇后・呂后の時代になると王国取り潰しが始まり、燕を領有していた盧綰は匈奴へ亡命。その時燕に使えていた満が朝鮮へ行く。韓国の教科書では衛満(実際は難しい漢字)が準王を追い出して古朝鮮の王となった(衛氏朝鮮)とされる。『史記』『漢書』には衛という姓は見られず、満は本来、姓がなかった=漢人・燕人ではなく朝鮮人であったという意見、出身地を離れて燕に使えていたものが、戻って国を開いたという意見もあり、実際韓国の歴史教科書では元は朝鮮人であった説に沿って書かれている。
衞満の時代、鉄器文化が広がり、衛氏朝鮮は勢力を広げた。他に韓半島南部辰国の諸小国は漢との間で中継貿易を進め、富強になった。
その後時代が下り、漢の武帝は古朝鮮の首都王倹城を包囲した。衛満の孫、右渠王は約1年闘ったが、王倹城は陥落し、古朝鮮は滅亡した(紀元前108年)。漢は古朝鮮の一部に楽浪郡を始め郡県を設置する。楽浪郡については韓国の教科書で詳しく説明されていないが、四郡各々の群名、位置、設置時期、設置理由は載っている。
古朝鮮の社会は、私有財産制が増えていくとともに貧富の差が生じ、政治と軍事的業務を受け持つ支配層と生産を担う被支配層に分かれた。
また、統治組織が確立されて王の下には相・大臣・将軍のような官職が作られた。8か条の法律がこの当時作られてそのうち「人を殺したものは死刑に処し、他人を傷つけたものは穀物で償い、盗んだものは捕まえて奴婢にするが、許してもらおうとするならばたくさんの金を出さなければならない」という3か条だけは残っている。
尚、今まで「朝鮮」と言っては来たが、実際は李氏朝鮮王朝(李朝)になってからの呼称(国号)であり、それまでは「箕」や「衛」が国名だったと推測される。
ちなみに半島は「韓」と呼ばれていたらしい(後述)。
前漢の衰退に従い、楽浪郡以外が放棄されるのと時をほぼ同じくして、高句麗が建国される(紀元前37年頃?)。
前漢崩壊→新→後漢成立~衰退の辺りでは高句麗は漢に攻めたり攻められたりを繰り返している。
咸興平野を中心にした咸鏡道海岸地方に沃沮があり、その南には東ワイ(氵に歳)があった。この二国は王はいなく、君長により統率されていた。
古朝鮮が発展していた時、漢江以南では辰と呼ばれた国家があった。その後、古朝鮮地域から移住してきた人々によって鉄器が普及して辰国社会も変化した。鉄器を使用し始めた部族が各々小国を作り、その小国が地域的にまとまった。これが紀元前の終わり~4世紀ごろに、馬韓・弁韓・辰韓と呼ばれる地域で、それぞれ小国家群のようなものを形成していた。これらは三韓と呼ばれている。馬韓には54カ国があり、辰韓と弁韓には各々12カ国があった。
初期の国々の中で中央集権体制を進めて発展していったのは、高句麗・百済・新羅の三国であった。これにより従来の君長をはじめとする支配者は、次第に独立性を失い中央政府の貴族や官僚に吸収された。王位も父子相続の形で世襲されて国王の権力は強大になった。
また三国は仏教を積極的に受け入れ、王権の強化と護国思想として活用した。伽耶を巡り百済と新羅が争い、結果として新羅が伽耶を領有。三国時代が完成する。
高句麗は王族である桂婁部をはじめとした五部族の貴族が王と連合し、政治を主導した。この内王族である高氏は桂婁部出身で代々王位を世襲し、絶奴部下らは王妃を出した。太祖王の時より国の体制が整備された。しかし以後は苦難の時代で、北方では燕に敗れ、南方では百済に大敗して平壌で高句麗王が討ち取られるなどしていた。その後広開土大王の時代に遼東半島や満州、さらには朝鮮半島の南部にも進出し、一時期は百済・新羅も臣従させた。次代の長寿王は北朝鮮の平壌に首都を移し、国号を「高麗」に改め、政治体制も一新させ最盛期を迎えることになる。小獣林王の時には、国家体制改革のために仏教を受け入れ、律令を発布した。
3世紀の東川王の時、魏と楽浪郡を結ぶ西安平を攻撃するが、この時は反撃を受けて首都も陥落する苦難を経験する。4世紀始め、美川王の時、楽浪郡を攻撃し、古朝鮮の故地を取り戻す(313)。しかし故国原王のときには前燕、百済の侵略を受ける。4世紀後半、小獣林王の時、前秦と外交関係を結ぶ。これを土台にして広開土大王は領土を大きく広げ、全盛時代を開く。この時の高句麗は満州を占有し、百済とそれを後援する倭や任那加羅、安羅を征伐、漢江以北の土地を占有した。また5万の兵を新羅に送り、侵入した倭軍を洛東江流域で撃退した。特に396年の親征では王都の漢山城を遅い、阿華王に忠誠を誓わせ、五八城を奪取した。長寿王は、首都を平壌に移し(427)、南進政策を推し進め、百済を撃ち、漢江流域を奪って三国間の抗争で主導権を握った。
この敗戦をきっかけに倭国は騎馬技術を半島南部諸国を通じて学ぶことになる。
馬韓に当たる漢江流域の慰礼城で高句麗系統の流民である温祚によって建てられた(紀元前18年)。百済では王族である扶余氏と8つの貴族の家門が中心になって政治を主導した。初期には王族である扶余氏と王妃族である真氏・解氏が政治を主導したが、後期には沙氏・燕氏勢力が大きくなり、貴族中心の政治を行った。枕流王の代には東晋より仏教を取り入れ、同時期には倭国と国交を結んで、他国と対抗した。
聖王は、伽耶地域への進出に強い意欲を持っていた。541年に新羅と和睦を結んでおき、その一方で同年と5444年に伽耶諸国の首長や、倭が安羅に派遣していた吉備臣らを招集して会議を主催し、反新羅を訴えたが、有効な策は打ち出せず、伽耶地域で劣勢をしいられた。聖王は一転して551年には、新羅と連合して高句麗を攻撃し、漢山城の故地を回復した。しかしその翌年には新羅によってその地は奪取され、新羅討伐に出陣した聖王は、554年管山城の戦いで敗死した。伽耶地域は結局562年に新羅によって完全に滅ぼされ吸収されることになった。
新羅は慶州平野に林赫居世によって辰韓の一国である斯盧国を中心に建てられた(紀元前57年)。朴・昔・金氏の三姓が貴族として政治を主導した。初期にはこの三姓が交代で王位を継承したが、奈勿王囲碁は金氏が王位を世襲したことにより王権が安定した。法興王代には、律令を発布して中央集権体制を進め、仏教を公認した。また歴代中国王朝から冊封を受け、他国と対抗している。
真興王の時に、高句麗と伽耶を攻撃し、領土を広げた。そして百済と連合して、高句麗を撃ち、漢江上流地域を占領し、百済が取り戻した漢江下流地域までおさえ、漢江流域を新羅の領土とした。つづいて伽耶連盟の盟主であった大伽耶を征服し、洛東江流域をおさえ、元山湾まで進出し、東ワイの故地を占領した。
洛東江の下流地域似合った弁韓では、伽耶諸国が成立した。三国がそれぞれ中央集権国家化している頃、伽耶は連盟王国となっていた。初期には金海の金官伽耶が、後期には高霊の大伽耶が、伽耶連盟を主導した。5世紀後半に大伽耶の国王は、斉の南朝に使節を送った。
戦前の日本では弁韓の後身である伽耶諸国に日本が「任那日本府」を設置して支配していたという説が支配的で、この説は戦後も70年代まで通説の地位にあったが、80年代以降、研究が進展した今日では倭国による伽耶支配は否定されており、「任那日本府」の実態も倭国から伽耶諸国中の安羅国に居住していた倭人たち、あるいは倭国から派遣された使者という二説が有力となっている。
6世紀半ばに百済・新羅は南下して伽耶諸国に侵攻、次々とこれらを併呑していくことになる。この事態に対して倭国は百済を支持したり、時には伽耶諸国中の友好国、安羅国を支持して百済と争う姿勢をみせるなど政策に一貫性がなかった。倭国は百済・新羅と話し合うため使者の「近江毛野」を送ったりもしたが、両国とも応じず、新羅に至っては軍隊を送りこんで近江毛野を威圧し、身の危険を感じた近江毛野は役目を果たせないまま帰国した。
その後、高句麗は隋の侵略を受けるがことごとく打ち破り、これが隋の衰退の要因となって隋は滅亡し唐が成立する。特に煬帝による第二次遠征における隋軍は公称200万、実数113万の大軍で、前近代における中国、ひいては世界史上最大の侵略であった。しかし唐・新羅両国から圧迫を受けて衰退し、668年には滅亡してしまう。
百済は伽耶の領有をめぐって高句麗と結び新羅と対立するようになるが、高句麗と同じく衰退し660年には滅亡してしまう。663年、百済の残存勢力は日本に救援を求め唐・新羅連合軍に決戦を挑んだが(白村江の戦い)、完敗し百済復興の夢は断たれてしまう。
こうして新羅による朝鮮統一がなったわけだが、統一戦争の再末期に百済の再興をかけて激しく争ったこともあってか、日本との関係は必ずしも良好とはいえなかったようである。
もっともそれは政治面での話で、経済面では深い交流が行われているという現在と全く同じ構図が展開されていた。
ちなみに、百済滅亡直後百済の領土は唐の領土となっており、百済の滅亡後即新羅の朝鮮半島統一ではなかったりする。当初、唐と新羅は平壌を境に以南を新羅、以北を唐が領有する約束をしていたが、唐が一方的に反故にして半島全体を支配しようと試みたため、これに反発した新羅との間で戦争が勃発した。この戦争は670年から始まったこの戦いは676年に唐水軍が新羅水軍に大敗したのをきっかけに唐が半島支配を放棄して平壌に置いていた「都護府」という機関を遼東地方に後退させたことで終結した。
新羅は民衆を豊かにし、文化を広めたが、相次ぐ反乱により弱体化し、ついに分裂してしまう。900年に弓裔により泰封(後高句麗)が、901年に甄萱により後百済が成立することになって、泰封・後百済・新羅の三国が対立していたこの時期を後三国時代と呼ぶ。弓裔の暴政により民心が荒れた泰封は弓裔の部下である王建によって滅亡する。王建は国名を高麗に変え、朝鮮半島を統一する。
この時、中国の漢民族勢力は北方へ進出するだけの国力がなく、朝鮮半島と国境を接することになったのは女真族系の国家であり、不安定な関係が続いた。
12世紀半ば、武臣のクーデターが成功し、武臣政権時代が100年間続いた。
13世紀になると今度はモンゴル帝国(元)と対立することになり、武臣政権は首都を開城から江華島に移し、40年間抗戦した。この措置はモンゴルの水軍が弱いことを利用したものであった。しかし、本土で苦しむ民衆は島で楽な生活を楽しむ支配層に反感を持っていた。結局高麗はモンゴルの強大な力には抗えず服属し、武臣政権も崩壊した。
その後、元は高麗の水軍と共に2度にわたって日本を侵略する。これが有名な元寇である。
だが日本軍の奮戦や暴風雨により、元・高麗連合軍は壊滅することになる。
ちなみに日本侵攻をフビライに進言したのは高麗王『忠烈王』である。
元宗十三年 三月
『惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師』(惟だ彼の日本のみ、末だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵糧は方に須むる所在り。もしこのこの事を以て臣に委ぬれば、勉めて心力を尽くし、小しく王師を助くるに庶幾からん)
ちなみに、元朝への臣従後、高麗の王太子は幼少期に元の首都・大都(現・北京)に留学し、そこで元の皇族の女性と結婚するという慣例ができた。そのため、高麗末期の国王は血脈的にはほぼモンゴル人だった。
やがて中国大陸で大規模な反乱が発生し、元が衰退していくのに乗じて高麗は元と断交、ふたたび独立する。この時期に、倭寇との戦いなどで功績を上げ台頭していた李成桂はクーデターを起こして政権を掌握したのちに高麗王に代わって国王になり、李氏朝鮮が成立する。
なお、高麗~李氏朝鮮への過渡期に、それまで朝鮮半島に住んでいた百済人や新羅人の子孫である古い朝鮮族は絶滅し、北方からやってきた異民族と民族が入れ替わっており、李氏朝鮮以降の朝鮮族とそれまでの朝鮮族は民族的血縁的な繋がりはないので、李氏朝鮮以降だけが韓国史であるという意見も存在する。
李氏朝鮮はそれまでの高麗の仏教に代わり、儒教を国教と定めた。李氏朝鮮は儒教や朱子学を重視しており、これにより上下関係や序列を強く意識する風潮が生まれた。またこの時期に、独自文字である「訓民正音」(現在のハングル)が第4代国王・世宗によって定められたが、「漢字以外の独自文字は蛮族の風習」と見なす知識階級の風潮から、大きくは普及しなかった(ハングル(偉大な文字)として朝鮮人から見直されるようになるのは、19世紀になってからである)。文化面では李朝白磁などがあったが、これらは当の朝鮮人よりもむしろ、わびさび好きの日本人に好まれた。これら現在にも影響を与える文化・思想などは大抵が、李氏朝鮮の時代に誕生したものである。
李氏朝鮮はしばしば他民族の侵略を受けた。特に北方の女真族などには度々攻め込まれており、朝鮮政府の頭痛の種であった。
日本人にとってよく知られているものに、豊臣秀吉による2度の侵攻(文禄・慶長の役)がある。
文禄の役では戦争慣れしていた日本軍に対し、初め朝鮮軍は翻弄され続けた。だがしかし、李舜臣率いる朝鮮水軍によって日本軍の補給がつまずき、なんとか体勢を整え明の援軍が加わったこともあって膠着状態に陥ったため、講和が結ばれ休戦となった。
その後交渉が決裂し、再度侵攻(慶長の役)した日本軍であったが、今度は最初から体勢を整えていたため日本軍は最初から苦戦を強いられる。しかしそれでも蔚山城の戦いで加藤清正が連合軍側を打ち破るなど奮闘したため、またしても膠着状態となる。しかし、この時豊臣秀吉が死去、戦争を継続する意義を失った日本軍は撤退する。
余談だが、この時に唐辛子などの香辛料が朝鮮半島にもたらされ、キムチなどの韓国料理のきっかけを産み出した。また、この時多くの職人たちが日本に連れてこられた結果、薩摩の薩摩焼などの陶器が生まれることとなった。
なお、朝鮮側もちゃんと日本が侵攻するかどうか調べるため偵察などを行っていたが、侵攻するという報告を持った派閥と、侵攻しないという報告を持った派閥が対立し、なんと侵攻すると伝えた派閥が敗北して侵攻してこないと言う報告が選択されたのだった。
日本では秀吉の死後に徳川氏による江戸幕府が成立することになるが、その際に対馬の宗氏を通じて和平が果たされる。江戸時代を通じ、日本は鎖国政策をとっていたが、唯一李氏朝鮮とは国交を結び、定期的に朝鮮通信使を受け入れていた。この通信使は朝鮮側の警戒心もあって、日本の国内事情の視察、つまりスパイとしての役割もあったといわれる。
このとき、朝鮮から連れ去られた人々は帰国することになるが、陶工等の職人はほとんど帰国することがなかった。儒教などの影響で職人が軽視されていたなどと色々諸説あるが、結果的に日本に残る人が多かったのは事実である。
江戸時代を通じて、こうした表向き平穏な日朝関係が維持されており、朝鮮は国境を接する北方の異民族などを警戒しつつ、特権階級である王族や両班らはひたすら権力闘争に明け暮れていた。この頃、満洲で成立した後金(後の清)が明に代わって中国大陸を統一。李氏朝鮮は清に服属し、朝貢することになる。
明が衰退して清の時代になると、当然清の要請(事実上の命令)から明に対し出兵することになり、明軍を攻めることになったのは歴史の皮肉であろう。
2回の戦争により荒れた李氏朝鮮だったが、支配層は権力闘争を続けた。支配層の中で朱子学の解釈が異なったため西人・南人・老論・少論などの派閥が出来、自分らと異なる意見を持つ集団を異端とみなし、粛清し続けた。彼らは自分の利益だけ貪り、民のことは一切気にしない集団に変化した。この頃、激しい飢饉と災害が重なって李氏朝鮮は大きく衰えた。
18世紀に入っては、英祖(第21代国王)と正祖(第22代国王)が革新的な政治をすることとなり、権力闘争が大分収まった時期もあった。またこの頃、理論に偏って実質的な国家経営に役立たない朱子学に反し、「実学」が隆盛した。実学は科学技術と産業革新を重視する学問だったが、実学者の大部分が没落した権力層の後裔だったため、中央政治に反映されることはなかった。実学者の中には、後の共産主義にも似た農業革新を模索した丁若鏞が有名である。またこの時期には陽明学も導入されていた。
しかし19世紀に入ると今度は全ての派閥を粛清した家紋(安東金氏・豊壤趙氏)の独裁時代が始まり、益々衰えた。彼らは若い国王(純祖・憲宗・哲宗)を擁立しながら約60年間中央政治を荒らした。1863年、若い高宗(第26代国王)の変わりに彼の父、興宣大院君の改革が成功してこのような現象は大分収まった。興宣大院君は政治腐敗をなくすため努力した。一方、西洋勢力に対しては激しい鎖国政策を取った。朝鮮を開港するためフランスとアメリカが侵攻してきた(1866年・1871年)が、政策に変化はなかった。1873年、高宗が成年になり興宣大院君は引退した。
幕末になって西洋列強の進出への危機感から尊皇攘夷や討幕運動などが起こり、やがて明治新政府が成立すると日本は朝鮮に対し新たに国交を結ぼうと働きかけるが、この時日本側の国書に中国皇帝しか使ってはならない漢字(勅など)が入っている事などを理由に朝鮮は国交を拒絶。この頃より、表向き穏当に保たれていた日本と朝鮮の両者の関係に揺らぎが生じてくる。
また、日本はロシア帝国の南下への危機感から、朝鮮に対し近代化を呼びかけるとともに、地政学的な観点から朝鮮を中国やロシアから切り離し、日本の勢力圏に取り込もうとするが、これが当時の朝鮮や、その周辺国であった清やロシアとの対立を生むことになる。朝鮮もまた、日本に倣って近代化しようとする派閥(独立党)と、旧来の(中華)文明圏としての風習を守るべきとする派閥(事大党)同士の争いや、民衆の反乱などにより、政治に混乱をきたし始め、政権の弱体化が目立つようになる。日清露による朝鮮への勢力圏争いはやがて歪みを生み、これらの歪みは戦争となって火を噴き、1894年、日本と清の戦争(日清戦争)が起こる。
結果は日本の勝利に終わり、1895年に結ばれた下関条約(日清講和条約)によって、李氏朝鮮は清の元から独立する。1897年より朝鮮国王は皇帝を名乗り、独立国家として国号を大韓帝国と称する。
中華文明圏内では『王は皇帝より授かる物』として浸透していたため、独立国となるために帝国を称する必要があったのである。
1900年に起きた義和団事件が元となり、当時の列強が中心となった連合軍が北京を占領する。原因は義和団の乱に乗じて行った清による宣戦布告であり、戦闘そのものは(史実的には)実にあっけなく終了した。これについては『北京の55日』という映画が有名。
その際、ロシアは撤兵せず満洲領域を占領下に置いてしまう(何故か学校では教えてくれない日露戦争の遠因)。その際、当時の大韓帝国は当然ながらロシアに接近し、且つ日本にも近付くと言うどっちつかずな行動を取ってしまう。しかも韓国皇帝自らロシア大使館に入って政務を行うという問題まで起きた。
1904年2月、日露関係は緊張の限界に達し、日露戦争が勃発した。韓国政府は開戦に先立ち、日露のどちらにもつかない中立の立場を取ることを表明していたが、日本政府はこれを無視して首都漢城(現:ソウル)に進駐した。ここで日韓議定書が締結され、日本が韓国の独立維持と領土保全、及び韓国皇室の安全確保をする代わりに、韓国は日本の軍事行動に協力することが定められた。この一環として日本軍が軍事上必要な土地を収用することが認められたため、同議定書は日本の朝鮮植民地化の第一歩となった。
同年8月、朝鮮半島をほぼ勢力下においた日本政府は、韓国政府に迫って第一次日韓協約を締結させた。同協約では、韓国政府が日本政府推薦の人物を財政・軍事顧問に登用し、更に外国との条約締結に際しては日本政府と協議することが定められた。
韓国皇帝高宗はこれに不満を持ち、ロシア等列強に密書を送って、日本による韓国保護国化に反対するよう求めた。しかしこれらの密書は日本側に発覚し、日本政府は韓国が第一次日韓協約を守る意思が無いと判断、韓国の外交権奪取を目指すようになった。
1905年7月、日本はアメリカと桂・タフト協定を結び、アメリカのフィリピン支配と日本の韓国に対する指導権が相互承認され、韓国保護国化に対するアメリカの支持を取り付けた。
同年8月には同様にイギリスと第二次日英同盟協約を締結し、イギリスのインドでの特権と日本の韓国指導権が相互承認された。
さらに同年9月、米大統領セオドア・ローズベルトの斡旋によりポーツマス条約が結ばれ、日露戦争は痛み分けのような形で終結したが、同条約でロシアは、韓国での日本の政治・軍事・経済的利益を認め、日本による韓国の保護監督に一切口出ししないことを約束した。
日露戦争にギリギリ判定勝ちを収めた日本は、列強の一国として国際社会で認められ、韓国保護国化に対する各国の支持をとりつけたのだった。
日露終戦後、日韓の間で第二次日韓協約が締結され、日本は韓国の外交権を接収・統監府を設置し、事実上の保護国とした。この条約は1965年に結ばれた日韓基本条約で「もはや無効」とされ、今日までその合法性について日韓対立が続いている(詳しくは日韓基本条約を参照)。
1907年6月、韓国皇帝高宗はオランダのハーグで開かれていた第二回万国平和会議に密使を派遣し、第二次日韓協約で規定された日本による外交権接収の無効を列強に訴えようとした(ハーグ密使事件)。しかし米英露を中心とする列強は日本による韓国保護国化を既に承認していたため、外交権を持たない韓国代表の会議参加は拒絶された。高宗は日本側にこの事件の責任を取るよう迫られ、皇太子であった純宗へ譲位したが、純宗政権は事実上親日派の傀儡政権であった。
同年7月、第三次日韓協約が締結され、日本は韓国の内政権を接収し、さらに秘密協定によって韓国軍を解散した。解散させられた韓国軍部隊と朝鮮民衆は、全国的規模で反日武装闘争を行った(義兵運動)が、日本軍による徹底的な掃討で鎮圧され、1万7千名以上の死者を出した(人数については議論有)。
もはや国を維持できないのではという状況から、併合か連合か自立させるかという争論の中、1909年10月26日、カトリック教徒で義兵運動に参加した独立運動家の安重根は、満韓問題に関するロシアとの会談のため中国北東部のハルビンを訪れていた伊藤博文を暗殺した。現代の大韓民国において、安重根は国民的英雄とされている。
しかし、併合慎重派(場合によっては併合もやむなし)であった伊藤博文が暗殺されたことで、日本の国内世論は一気に韓国併合と傾いていった。
1910年、日本政府は1個連隊相当(3000人程)の軍事力を韓国内に置いた上で、「韓国併合に関する条約」を結んだ。これによって朝鮮は日本の植民地となり、1392年から約500年間続いた李王朝は終結した。
当時の日本国内は祝賀ムードに包まれる一方、「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」を詠んだ石川啄木のように、韓国併合を批判する一部知識人もいた。
なお、併合に当たり、韓国の皇族や貴族は王公族や朝鮮貴族として、日本の皇族・華族に準ずる地位を与えられた。併合に一番協力的だったとされる一進会は同君連合を求めていたらしく、完全併合には反対していた。
1910年、日本政府は首都漢城(現:ソウル)を京城と改称し、統監府と大韓帝国の政府機関を統合して朝鮮総督府をおいた。初代朝鮮総督には、第3代統監で陸軍長州閥の寺内正毅が任命された。これ以降、朝鮮総督には陸軍大将ないし海軍大将が任命された。
初期の総督府はいわゆる「武断政治」を行い、憲兵警察により言論・結社を厳しく制限、独立運動を徹底して弾圧した。
憲兵警察とは陸軍所属の軍事警察であり、独立運動の続く朝鮮では治安維持の観点から、一般の警察業務を兼任していた。憲兵警察は独立運動の弾圧のみならず、徴税等の行政事務も行い、朝鮮人の生活に関わった。憲兵警察の横暴な態度が朝鮮人庶民の反感を買ったとされる一方で、憲兵警察の半数以上は憲兵補助員として雇われた朝鮮人であり、日本人憲兵が朝鮮人を武力で支配したというような単純な構造では無かった。
また1910年~18年にかけ、総督府は朝鮮において近代的土地所有制度を確立し、確実に徴税して総督府の財源を安定させることを目的として土地調査事業を行った。この際土地所有者の不明瞭な土地(全耕地の3%程度)は国有地に編入され、朝鮮人有力者や日本人地主に払い下げられた。
その中でも最大の地主となったのは、満州の満鉄と並び二大国策会社と称された東洋拓殖会社(東拓)である。同社は土地調査事業で国有地となった土地を中心に全耕地面積の1.8%程度を買収し、朝鮮人小作人を雇って地主経営を行った。
近代的土地所有制度が確立したことで、朝鮮では土地の売買が容易になって農民層分解が進んだ。富裕な韓国人や日本人は地主となって富を築く一方、韓国人の大部分は小作人となり、日本国内の小作農と同様、高い小作料(収穫の50%以上)に苦しんだ。なおこの事業については、その実施方法・規模・結果共に議論が起きている。
総督府は、「武断政治」の一方で、朝鮮半島の「近代化」を進めた。1909年、総督府の前身であった統監府は朝鮮に戸籍制度を導入し、同時に身分制度を撤廃して奴隷・賤民を解放した。この家族を単位とする戸籍制度は、2008年に個人を単位とする家族関係登録制度が実施されるまで長らく維持された。
また日本政府は、庶民の教育機関がほとんど無かった朝鮮の近代的教育制度整備を進めた。5000校近くの小学校を建設するなど初等・中等教育を拡充し、また1924年に設置された京城帝国大学(現・ソウル大学)に代表される高等教育も整備した。従来あまり使われていなかったハングル文字を公教育に採用したことも手伝って、日本統治時代に朝鮮人の識字率は飛躍的に向上した。
その他各種インフラ整備も行われ、出生率や平均寿命が向上するといった成果をあげた。これは現在の韓国でも一部認められている行為だが、表立って言われることは少ない。日本の統治について肯定的な発言を行えば、『親日派』として断じられ、社会的に抹殺されてしまうからである(なお、日本統治時代の歴史的経緯から、韓国では「親日派」とは所謂「売国奴」と同等の意味である)。
1910年に日本に併合されて以来、総督府による弾圧によって朝鮮の民族運動は鎮静化していたが、第一次世界大戦(1914~1918)期になると、過酷な武断政治と経済的困窮により、朝鮮民衆の間には再び独立運動の機運が高まり始めていた。
1917年11月、ロシア十月革命で権力を握ったレーニンは第2回全ロシア・ソビエト大会において「平和に関する布告」を発し、「無併合」「無賠償」「民族自決」の三原則による即時講和を第一次世界大戦の交戦国に提唱した。
これに対抗してアメリカ大統領ウィルソンも、1918年1月、「十四カ条の平和原則」を連邦議会の演説で発表、大戦後「民族自決」の原則に基づき国際秩序を形成することを提唱した。
これらの「民族自決」の原則は、実際にはドイツに侵略された東欧諸国の民族、言ってしまえば「白い肌の民族」だけを念頭に置いたものであったが、それでも米露(ソ)という帝国主義政策をとってきた列強二国が民族自決の方針を表明したことは、アジア諸国の民族運動を大いに刺激した。
こうした背景の中、1919年3月1日、キリスト教や仏教の指導者が首都京城で集会を開き、「独立宣言」を読み上げたところから始まった民族独立運動は、瞬く間に全国に広まり、延べ200万の朝鮮民衆が参加する全国的運動となった(三・一独立運動)。時の原敬内閣は憲兵警察に加えて軍隊も出動させて武力弾圧を行い、7000人の死者と4万人近い逮捕者を出したが、それでも運動は中々収まらず、日本政府は朝鮮統治方針の転換を余儀なくされた。
三・一独立運動の全国化と武力支配に対する国内外からの批判を受け、当時首相であった「平民宰相」原敬は、武力で民衆を抑圧する従来の「武断政治」に限界を感じ、融和政策をとって親日派を育成、民族運動を分断する方針、いわゆる「文化政治」に転換した(文化政治)。
まず朝鮮総督に穏健派海軍大将の斎藤実を任命し、朝鮮総督の任官資格を文官にまで拡大した(ただし陸海軍大将以外が実際に任じられたことは無い)。また憲兵警察制度を廃止して普通警察に改め(ただし、警察官自体の人数は倍増している)、独立運動を除く言論・結社の自由をおおむね容認した。これにより朝鮮語での新聞・雑誌の発行が認められ、現在韓国で発行部数1、2位を争う「朝鮮日報」や「東亜日報」が生まれた。
こうした総督府の懐柔策と同時期に日本で起きていた大正デモクラシーの風潮を受け、雑誌『創造』に始まる朝鮮語での文芸活動や社会主義思想団体の結成等、民族運動の形は多様化していった。
しかし総督府は「文化政治」の一方で、学校での日本語の授業を増やす等、朝鮮の民族的伝統・思想を抑え込み、朝鮮人を日本人と「同化」させる政策(同化政策)を進めた。
1937年、盧溝橋事件を契機に日中戦争が勃発すると、総督府は、朝鮮人を戦争に協力させるため、従来の同化政策をいっそう強化し、朝鮮人を天皇に忠誠を誓う「皇国臣民」に仕立て上げる皇民化政策をとった。
まず、朝鮮語の雑誌・新聞の発行や政治集会を禁じ、言論・結社の自由を厳しく制限した。
教育現場では朝鮮語教育を中止して日本語の使用を強制するほか、教育勅語の朗読や日章旗の掲揚、君が代の斉唱などが行われた。
また、1919年には既に朝鮮神宮が建立されていたが、総督府は日中戦争勃発以後、各地に置かれた神社への参拝を強制した。なお大日本帝国では神社は全て、天皇の祖先神である天照大神を祭る伊勢神宮を頂点としたピラミット型組織に集約されていた(国家神道)。そのため、神社参拝は天皇の崇拝に繋がった。
更に総督府は、朝鮮人の姓(名)と家族制度を日本式に改める「創氏改名」を行った。従来は、朝鮮人と内地人(日本人)の差異を明確化するため、朝鮮人は日本風の名前を付けることを固く禁じられていたが、これにより日本風の姓名に変更する事が「許可」された。しかし、朝鮮人にとっての「姓」とは、日本人の「名字」とは異なり、「血統」を表すものであり、父系の祖先の姓を継承していた(そのため朝鮮では夫婦別姓)ため、家族単位の日本の「名字」の導入には強い抵抗があった。
なお創氏改名の強制性を巡っては、総督府は表向き強制はしなかったものの事実上強制的に行われたという説が多数派な一方、強制は無く、朝鮮人は自発的に創氏改名を行ったという説も存在する。
1941年に日米間で太平洋戦争が始まり、日本国内の物資・人員が不足したため、日本政府は朝鮮の食糧・資源を日本本土に移送し、軍人・軍属として20万人余りの朝鮮人を志願兵制度・徴兵制によって動員した。他にも女子挺身隊(工場などで働くもので、慰安婦ではない)やその他の労働者として70万人以上が動員されている。
なお、これらの動員が「強制連行」であったか、強制連行で日本に連れてこられた朝鮮人が現在の在日韓国人のどの程度を占めるかなどについて、様々な議論がある(在日朝鮮人の経緯については、在日を参照)。
また戦争動員の一環として「従軍慰安婦」があったが、その規模・強制性を巡り日韓の間で対立がある(詳しくは慰安婦を参照)。
なお現代財閥などはこの時期、日本軍に米を売るなどして戦後財閥の力を付けている。
1945年8月15日、日本のポツダム宣言受諾によりアジア・太平洋戦争は終結した。それと同時に朝鮮は36年に及ぶ日本の統治から解放されるが、ようやく独立を手にした朝鮮民衆はこの時、祖国が分断される日が来ることなど知る由も無かった。なお今の韓国では、8月15日は「光復節」と呼ばれ、植民地支配からの解放を祝う国民の休日になっており、毎年反日デモが行われている。
1945年、第二次世界大戦で日本がアメリカ合衆国を中心とした連合軍に敗北した後、朝鮮半島は北緯38度線を境に南北に分割され、北はソビエト連邦、南はアメリカ合衆国を中心とした連合国の統治下に置かれることとなった。
余談であるが、この当時大日本帝国側は朝鮮側に自治権を与えようとしていたが、アメリカ側が拒否した経緯がある。また、9月初頭に朝鮮人民共和国として独立しようともしたが、アメリカ以下連合軍によって制止された(マーク・ゲイン著「ニッポン日記」)。
正式な連合軍統治が始まるまでは、朝鮮総督府が朝鮮半島の統治を継承した。なお、各役所などの役人や警察官、消防士は、日本統治時代から継続して仕事に就いた。なお、併合当時日本警察などによる拷問があった…という話がよく出るが、朝鮮半島の警官は独立後も引き続き職務に就いた…事を考えると、誰が誰を拷問をしたのか大体見えてくる。独立闘士と言っていた人が、実は満州で憲兵をやっていた…などという騒ぎも韓国で実際に起きた。
やがて連合国の朝鮮統治は終わり、朝鮮は単独で独立するはずであったが、朝鮮人の右派左派のいざござや冷戦の影響もあって、1948年に南半分側単独で選挙を行い、アメリカの後押しを受けた大韓民国(韓国)が正式に建国される。その後を追うように、ソ連の後押しを受けて北半分側で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国される。
この時期、当時の韓国大統領・李承晩が一方的に「李承晩ライン」を宣言し、島根県の竹島付近で操業していた日本人漁師を虐殺、武力占領してしまうという事態も発生している。この領土問題は60年以上経った現在でも解決に至っておらず、日本政府はハーグの国際司法裁判所での解決を呼びかけているものの、韓国政府は未だ応じていない。
その2年後の1950年6月25日に、ソ連が支持していた北朝鮮が韓国側に侵攻、朝鮮戦争が勃発する。
北朝鮮側に多数の資源があった為か序盤は北朝鮮有利に事は進み、韓国側はその領土の殆どを占領され、一時は釜山にまで追い詰められたが、アメリカ軍を中心とした国連軍(と言うよりは多国籍軍)が介入し、仁川上陸作戦を中心として今度は逆に北朝鮮の領土の大半を占領する。
が、のちに北朝鮮から参戦要請が来ていた中華人民共和国が「38度線を越えた」という理由により参戦、人民解放軍を「志願兵」という形で北朝鮮側への援軍として送り込み、これによって韓国側は占領地域を押し戻され、戦況は膠着状態となった(もとい、当時の米大統領ハリー・S・トルーマンがグダグダなだけであったが)。
ちなみに、この当時MiG-17とF-86Aセイバーとで初のジェット戦闘機による空中戦が展開された事でも有名である(F-86の勝利)。
やがて1953年になり、ソ連のスターリンの死去や、アメリカ大統領がアイゼンハワーに代わるなどの国際情勢の変化に伴って停戦への動きが本格化し、同年7月27日に板門店で停戦協定が成立、これによって北緯38度線を走る軍事境界線を境に、朝鮮半島は完全に南北に分断される事になった。
朝鮮戦争で活躍した有名な将軍として、白善燁がいる。元日本軍人だが、朝鮮戦争で釜山攻防戦を戦い平壌一番乗りを果たし、38度線で戦線を支えた韓国最初の大将である…が、今は親日派リストに名を連ねている。だが、今の政権で名誉回復が行われるとか(名誉元帥授与の予定)。
朝鮮戦争中には保導連盟事件や国民防衛軍事件等も発生している。
朝鮮戦争後の韓国は日本とも国交を回復し、賠償放棄の代わりに韓国への無償援助等を行った事により、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展をし、急成長した。
その後、ベトナム戦争による特需が発生した事も手伝って(余談であるが、韓国も参戦している。詳しくは後述)発展が進んだ。ヨーロッパや中東にも出稼ぎに行っていた時代もあり、苦難の歴史もあるのだが、表立って言われることが少ない。
戦争直後、李承晩大統領は激しい反共体制を整い、自由党独裁を始めた。憲法を2度も改正して自分の当選(1952年、1956年)を誘導したほか、野党(進歩党)を弾圧してその党首を「赤」と罵倒し殺すこともあった(進歩党事件、1959年)。現在韓国政府はこの事件を独裁権力による司法殺人と認め、公式的に謝罪した状態。1960年の選挙では自分の側近、李起鵬を副大統領に当選させるため不正選挙を行った。これに対抗して慶尚南道の馬山で抗議デモが起こり、ここで高校生が催涙弾によって死んだ事がきっかけとなって李承晩政権が倒れる革命が起きた(4・19革命、1960年)。革命は成功し、李承晩大統領はハワイへ亡命、腐敗の温床であった副大統領候補・李起鵬は息子に射殺された。
革命後の改憲では張勉を総理とする内閣制を採択、現代日本のような政治体制をとった(張勉内閣)。この時期、社会は混乱し、北朝鮮との統一運動が活発に行われていた。不安定な政治に危機を感じた朴正煕を中心とする軍部は1961年クーデターを敢行した。彼はまた改憲を行って再び大統領制を採択し、2年間の社会安定化という大義名分をもとに執権を務め、1963年の大統領選挙で当選した。
韓国軍はベトナム戦争にアメリカ軍の要請を受けて参戦。結構『アレ』な行動に出たため非常に嫌われる結果を生み出してしまう。その後、大統領が謝罪しようとするも、退役軍人の反発を受けて撤回してしまうことも起きた。
1960年代~1980年代までは軍部独裁による支配が続いていた。1948年の独立以降『いちおうの』民主主義的政策が一番悪い方向へ向かってしまっていたのも大きな原因である。
クーデターの中心人物である朴正煕は、当時壊滅状態だった韓国(最貧国扱い)を立て直すために日本との国交回復、アメリカからの援助受け入れなどを行い、国民ではなく産業にその資金を投入して基礎国力を高めた。同時に、不安定な国内を安定させるために強硬的な思想及び文民の統制を行った。
「自由が無い」という不満や「弾圧」といった否定的評価も多いが、結果的には韓国経済を発展に導く事に成功(比較対象は当然、北朝鮮)。日本から得られた資金は殆ど産業促進に廻しているが、『日本から被害を受けた人』には申し出るよう新聞広告は出されている。
近年、韓国政府は日本国内にいる強制連行された人に対して保障要求などの申し出を求めたが、申し出る人は殆どいなかった。「殆どの在日朝鮮・韓国人が強制連行で連れて来られた」と主張しているのに、おかしな話である。
1974年、朴正煕大統領の夫人が暗殺されるという暗殺未遂事件が発生。
犯人は『自称日本人』で、暗殺に使われた武器は日本の警察から盗まれたニューナンブであったため、日韓関係は一触即発寸前の事態にまで悪化しかけたが、犯人が『在日韓国人』であることが指紋押捺で証明される。なお、指紋押捺はもともと韓国政府の要請であり、廃止も韓国政府の要請によるものである。
その後、KCIAの金載圭が当時の大統領朴正煕を暗殺する事件(10・26事件、暗殺の理由は未だに不明である)を皮切りに、全斗煥を中心とした粛軍クーデターが発生する。1980年5月18日から27日まで続いた光州事件がピークとなり、170人が死亡するという流血の惨事となるなど、独裁体制は民主化宣言が行なわれる1988年まで続いた(余談であるが、全斗煥は当時の韓国の大統領には珍しく親日的であり、自分の国にも責任があると認めた程である。だがこれが祟ったのか1996年には死刑(後に特赦)が言い渡される等、目の敵にされた。もちろん、不正が原因であり、親日であることが死刑判決の原因ではない)。
1988年にソウルオリンピックが開催された後、韓国内の民主化が急速に拡大し、一時期日本に迫る勢いで主要都市が発展を続けた。
だが1997年に発生したアジア通貨危機における影響をモロに受けてしまい、経済面では金融機関が多数の焦げ付きを起こし、IMF(国際通貨基金)の介入を招く事態にまで発展。ソウルの証券取引も最大7.2%下落しデフォルト(債務不履行状態=借金国行き)寸前にまで追い込まれ、結局財閥解体が行われるハメとなった。
その後、インターネットインフラを世界に先駆けて整備し、辛うじて経済的に立ち直ったものの、今度はクレジットカードの乱発による破産が急増(アメリカの数倍とも)し、消費が冷え込んだりなどしていたが、2008年になって政情が悪化した事とアメリカドルが上昇した事が引き金となり、ウォンが急下落する事態になってしまっている。もっとも、話がそれだけであれば競争率の件でメリットはある。問題はドルの流出であり、ここまで陥ってしまえば経済崩壊の恐れがある為、韓国政府は封じ込めを図っている状況である…が、サブプライムローン及びリーマンブラザーズの破綻による世界恐慌の煽りをモロに食らってしまい、経済崩壊と首の皮一枚で繋がっている状態である。
現在は貿易黒字もあるため小康状態に見えるが、実際は市場が非常に小さくなっている結果の黒字である。
また韓国には冷戦期より長らくアメリカ軍が駐留しているが、近い将来完全に撤退する見通しとなっている。
掲示板
308 ななしのよっしん
2025/08/23(土) 09:09:34 ID: 4PvcERNXMc
慰安婦(ただの仕事)を無限に蒸し返してくるじゃん
そもそも別に何の問題も無いものだったのに
309 ななしのよっしん
2025/08/23(土) 09:30:47 ID: Q8vopbnljr
綺麗だろうが汚かろうがどんな史実でも愛せ、それが愛国じゃあねぇのか...。まあ、知らなきゃ意味ねぇか・・・
310 ななしのよっしん
2025/08/24(日) 11:46:03 ID: ByuFPwJ93m
>>287
統一新羅からじゃないの
朝鮮語の祖先は新羅語らしいし
新羅の半島統一以降に民族の形成に影響するほどの人の流入はなかったと思う
急上昇ワード改
最終更新:2026/01/17(土) 16:00
最終更新:2026/01/17(土) 16:00
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