高根(海防艦)とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した鵜来型海防艦18番艦である。1945年4月26日竣工。対空戦闘によりヘルキャット1機を撃墜する戦果を挙げ、終戦時は大破状態で残存していた。1947年11月27日に解体。
帝國海軍は対潜・対空性能を重視しつつ前級の択捉型より量産性を高めた御蔵型海防艦を設計するが、戦時急造するには更に簡略化を突き詰める必要があり、そこで新たに日振型と鵜来型を設計。日振型は日立造船が、鵜来型は主に日本鋼管と浦賀船渠が建造を担当(後に三井玉野造船所や佐世保海軍工廠も参加)。用兵側の要望で日振型には掃海具が装備されていたが、鵜来型はそれをバッサリ取り除き、代わりに最新の三式爆雷投射機や対空機銃を搭載して海防艦史上最強の対潜・対空能力を獲得。13号対空電探や22号水上電探も竣工時から装備していた。
一方で生産性を高めるため日本初のブロック工法や電気溶接を駆使して工数を削減。艦尾の形状を従来のクルーザースターンから直線状のトサンサムスターンに改め、煙突まで直線で構成。とにかく曲線部分を直線へと置き換えた。戦訓に基づく難燃対策の一環でリノリウムを完全廃止し、また木製の調度品(腰掛けや食卓など)やハンモックまで取り除いた結果、乗組員は常時ゴザの上で寝なければならなくなったため、用兵側からかなり文句を言われたとか。これら涙ぐましい努力を重ねて占守型の1/3である約1万にまで工数を減らし、建造期間も平均4.4ヶ月に短縮された。このように鵜来型は生産性・対空・対潜全ての面において最もバランスが取れた海防艦であり、実際に就役した海防艦の中で最も喪失率が低かった(同型艦20隻中喪失は4隻のみ)。
ちなみに高根は鵜来型20隻中、最後から2番目に竣工した艦である(最後は1945年4月30日竣工の伊唐)。
要目は排水量940トン、全長78.8m、全幅9.1m、最大速力19.5ノット、出力4200馬力、乗員120名。兵装は45口径12cm連装高角砲1基、同単装高角砲1基、25mm三連装機銃5基、同単装機銃5~8基、三式爆雷投射機16基、爆雷投下軌条1基、爆雷120個。電測装備は13号対空電探、22号電波探信儀、電波探知機、九三式水中聴音機、三式探信儀。
1944年に策定されたマル戦計画において、海防艦第4707号艦の仮称で建造が決定。1944年12月15日に三井造船玉野事業所(岡山県玉野市)で起工。当初は御蔵型として建造する予定だったが、1945年1月8日に鵜来型へ設計変更され、高根と命名される。1945年2月13日に進水し、3月3日に艤装員事務所を玉野造船所の海軍兵舎内に開設、艤装員長には中村福寿郎少佐が任命された。そして4月26日に無事竣工を果たし、艦長には艤装員長の中村少佐が着任。同日発令の大海幕機密第608号ノ238により呉鎮守府所属となり、呉防備戦隊対潜訓練隊へと編入。
1945年4月28日、玉野事業所を出発して午後遅くに呉へ入港、燃料と弾薬の補給を受ける。5月5日に舞鶴鎮守府内で新設された第51戦隊へ転属。しかし、B-29が敷設した機雷で呉軍港内や瀬戸内海西部は最早訓練に適さない危険な場所と化しており、比較的機雷投下が進んでいない七尾湾を訓練地に定める。プレス機が迫る鳥かごからの脱出が高根に立ちはだかった最初の難関であった。5月12日に呉を出港、同日午後に門司へと到着するがアメリカ軍は関門海峡へ1800個に及ぶ感応機雷を敷設し、海峡を完全に封鎖。先月には関門海峡の突破を図った海防艦目斗が触雷沈没していた。5月17日、僚船3隻とともに門司を出発して関門海峡の強行突破を図る。このうち3番船が触雷して航行不能になる被害を受けたが、高根と他2隻は日本海へ脱出する事に成功し、僚船と別れて山口県長門市仙崎沖で仮泊。5月18日は島根県大社沖で仮泊し、5月20日、目的地の七尾湾に到着。血の滲むような対潜・対空訓練をほぼ毎日、集中的に行って練度を急激に高めていく。余談だが、6月4日からは第1潜水戦隊の伊13、伊14、伊400、伊401が七尾湾で訓練を始めている。6月21日、B-29が七尾湾に機雷を投下。七尾湾も瀬戸内海同様危険な場所と化してしまう。
7月3日、月月火水木金金の猛訓練を終えた高根は第1護衛艦隊第12海防隊に編入。第14号海防艦の指揮を受けながら七尾湾を出発して翌日舞鶴へ入港。湾内や軍港にもB-29が機雷を敷設していて移動するだけでも常に大きな危険が付きまとう。7月15日に軽巡酒匂を舞鶴から七尾湾まで護衛し、続いて7月17日に七尾湾を発ち同日夜に舞鶴へ回航。7月22日、海防艦竹生、鵜来、高根の3隻は練習巡洋艦鹿島を護衛して舞鶴を出発、翌23日に七尾湾へ到着して停泊地に投錨した。
7月28日18時35分、羅津港に向かう帝立丸(元フランス船ルコント・ド・リール)を護衛して西舞鶴港を出発。ところが19時7分、舞鶴湾外の博突岬南西約2km沖で帝立丸が触雷し、左舷中央機関室に生じた破孔から浸水。沈没を避けるため19時30分に博突岬の陸軍桟橋南方へ擱座するも、22時30分には船尾部分の一部が水没してしまった。この触雷で羅津行きは一旦中止となり高根は舞鶴湾へ引き返す。翌29日黎明、貨物船2隻を護衛して舞鶴湾を出港、13時に護衛を完了して19時30分に福井県小浜湾へ寄港した。
7月30日午前8時、小浜湾を出発して舞鶴へと向かう。それから間もなくして能登半島沖に出現した敵潜を掃討するため第14号や第158号海防艦との合流を命じられ、午前9時に日本海で2隻と合流。
午前9時59分、本州沖の第38任務部隊から発進したF6FヘルキャットとF4Uコルセアの混成部隊が3隻を襲撃。高根の見張り員が左舷30度方向より6~7機の敵機が接近しているのを発見し、中村艦長が対空戦闘配置を下令、信号手には戦闘旗を掲げるよう命令を下す。戦闘は午前11時頃まで続き、高根、第14号、第158号は激しい対空砲火によって4、5機を撃墜した。だが高根が受けた被害も大きく、航海長の中園中尉は艦橋へ駆け上がっている時に胸を撃たれて即死、中村艦長は左足首に砲弾の破片が当たって粉砕される重傷を負い、乗組員も40名以上が重軽傷を負った。機銃掃射を受け続けた高根の艦体と上部構造には無数の銃痕が残り、左舷上甲板に置かれていたガソリン入りドラム缶が引火して火災が発生、喫水線付近に穿たれた破孔から重油が漏れ出て海を黒く染めていく。とても戦闘を続行出来るような状態ではなかったため、13時30分、福井県越前岬西方で第12海防隊からの帰投命令を受領し、第14号や第158号と別れて単身舞鶴へ向かった。
17時30分頃、高根の前方に敵の大型飛行艇であるPBY OA-10カタリナが浮いているのを発見。その飛行艇は、舞鶴空襲の際に高射砲で撃墜されたコルセアのパイロット、ドナルド・R・ペン中尉を救助しているところだった。中村艦長は直ちに戦闘配置を命令。全速力で飛行艇に攻撃を仕掛けるが、周囲のヘルキャット4機が機銃掃射を浴びせて高根の行動を妨害。執拗な銃撃で20分間足止めをされ、その間にカタリナは水上から飛び立った。だが満身創痍ながら高根も果敢に反撃し、対空射撃で1機のヘルキャットを撃墜、ヘンリー・H・メーラ中尉がパラシュートで海に降下したのを見てカタリナが再度着水する。既にズタボロだった高根に最早カタリナを止められる力は無く、攻撃を諦めて離脱。20時15分にカタリナは離水した。その後、米駆逐艦ノーマンスコットと合流して救出したパイロット2名を引き渡したが、高根からの銃撃が致命傷を与えていたようで使用に耐えられないと判断され、23時頃に砲撃処分されている。
一方、高根は19時に舞鶴湾口へ到達し、機雷封鎖された湾内を1時間かけて慎重に通り抜け、20時に何とか舞鶴へ入港した。負傷者は海軍病院へ搬送され、高根は修理のため舞鶴工廠に入渠。12cm高角砲と25mm機銃は全て使用不能、水中探信儀、電話機、送信機1台、電波探知儀が故障している状態であった。そして8月15日の終戦を舞鶴工廠内で迎える。
8月20日、修理未了のまま舞鶴を出港し、8月22日に呉へ入港。10月5日の海軍省解体に伴って除籍された。修理が完了していなかった事から特別輸送艦にはなれず、他の海防艦を修理するための部品取りとして使用され、1947年11月27日に解体。高根の艦名は海上自衛隊の掃海艇たかねに受け継がれた。
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最終更新:2025/12/09(火) 22:00
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