兗州泰山郡平陽県(山東省済寧市)の出身。先祖に前漢末期に司隷校尉となった鮑宣がいる。父は鮑丹。
その人となりは寛大で節義をわきまえ、沈着剛毅で知謀をもっていた。
黄巾の乱の後、後漢の大将軍何進に招聘され騎都尉となり、同郷の王匡と共に十常侍と対決するための故郷で募兵したが(その中に于禁もいた)、都に帰ってきた頃は何進は殺され董卓が朝廷を牛耳っていた。鮑信は袁紹に董卓を襲撃するよう進言したが聞き入れられず、故郷に戻り董卓を倒すための兵をあらためて募る。関東の諸侯らで反董卓連合軍が結成されると鮑信もそれに加わった。鮑信は諸侯たちの中で特に曹操の才覚を見抜き親しく接し、曹操も鮑信を評価した。
しかし酸棗の地に駐屯した諸侯軍は酒宴を開くばかりで動こうとせず、鮑信は曹操の訴えに応じ董卓軍と戦うも徐栄に大敗し弟の鮑韜を失い自身も重傷を負い、諸侯軍が解散すると故郷に帰った。
袁紹が冀州を韓馥から奪うと、鮑信はこれを警戒し曹操に黄河の南を抑えて力を蓄え時を待つよう進言する。曹操は東郡太守となると鮑信を済北の相に推挙した。
兗州に青州黄巾賊の残党が侵入すると鮑信は、兗州刺史劉岱に籠城を薦めたが劉岱は聞かず黄巾賊との戦いで戦死する。鮑信は陳宮らと共に曹操を後任の兗州刺史に迎え黄巾賊と戦うが、初平3年(192年)、曹操と共に下見に出ていた所を黄巾賊の襲撃に遭ってしまう。鮑信は必死に戦い曹操を救出、曹操は難を逃れたが鮑信は戦死する。享年41歳。
鮑信は倹約に努め将兵らを手厚く養っていたため家に余財が残らなかった。曹操は鮑信の遺体を探させたが見つからず、木を彫って鮑信の像を作らせこれを弔った。鮑信の子鮑邵は曹操に仕え亭侯となった。鮑信のもう一人の子鮑勛は魏書に列伝がある。
字は允誠。どういうわけか無能な描写で、反董卓連合軍の時は先鋒の孫堅を出し抜くため弟の鮑忠(鮑韜ではない)と抜け駆けするが華雄に破れ鮑忠を華雄に討ち取られる。青州黄巾賊との戦いでは、曹操を助けるのではなく功績を焦って突出したため戦死する。
コーエー三國志は基本演義準拠の能力値のため、初期の能力値は曹豹に匹敵するほど悲惨である(最近のシリーズで改善されつつあるが)。
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最終更新:2024/11/30(土) 11:00
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