鳥居元忠 単語

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鳥居元忠(とりい・もとただ 1539-1600)は、戦国時代の武将。徳川家康臣。下総矢作初代

三河武士の鑑」と称される、ほとばしる忠義の臣である。

概要

1539年、平家臣・鳥居忠吉のもとに生まれる。
忠吉は家康竹千代)が人質であった時代に、苦しい政をやりくりして家康の帰還を待っていた忠臣である。

桶狭間の戦いの後、家康岡崎への帰還にも同行し、以後は徳のために戦った。

本能寺の変の時は京都にいたがなんとか家康に合流。天正壬午の乱では約5倍多数の敵を相手に奮戦し、見事勝利を飾っている。その他小田原攻めでも武功を挙るなど、家康の信頼厚い臣だった。

1600年、家康会津征伐のために挙兵すると、伏見の守りを下命される。
家康石田三成の挙兵を見越して会津立ったのだが、伏見は三成らにっ先に攻め落とされるであろうだった。それを知りながらも元忠はこの命を受け、案の定挙兵した西軍4万(島津義弘宇喜多秀家小早川秀秋ら)相手にわずか2千の手勢で半月近くも篭した。

しかし8月1日雑賀孫市に討たれ討死。享年62。同日、伏見は落した。

子孫には、忠臣蔵の中心人物・大石内蔵助がいる。

人物

伏見における壮絶な最期は「三河武士の鑑」として賞賛された。伏見の守りを心配する家康
「一人でも多くの兵を会津に連れて行ってくだされ、伏見には多くの兵は不要」と言い切り、
討死する際は

「一人でも多くの敵を倒して討死するべし」

と全軍に下知したという。
彼と彼の臣の血がついた「血天井」は供養の為に京都各地の寺に飾られている。

家康に対して絶対的な忠節を誓っていた元忠だが、一度だけ家康をついたことがある。
武田が滅亡した後、家康馬場信春(信房)のを側室にしようとして元忠に捜索させたことがあった。
しかし元忠はそのに惚れてしまったらしく、自分のもとに彼女を置いて家康には「見つかりませんでした」と回答。
あとから事はバレたが、家康には許してもらい、晴れて鳥居元忠の正室になった。よかったね。

戦国大戦

殿ォー!」

Ver1.0では家康と共に今川として参加している。武そこそこの制圧であったがは薄かった。
計略も「精鋭戦術」で今川汎用計略である。 

徳川家康バンザーイ!」

Ver2.1では新設された徳で登場した。見たがなんかモンスター化してる。
計略「耐の術」は移動速度が下がる溜め時間の後、武と射程が上がるというもの。溜め時間がある分士気対効果も高めだが、点するのがなのでデッキは選ぶ。
 

三河武士の心意気、とくと見せてやるとしようか!」

Ver3.0では晩年の姿で登場している。今までは足軽だったが今回は隊である。
計略は「伏見の血染」で、徳の味方の隊の武と射程が上がる采配。煌になると更に武と射程が伸びる。 

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