鹿島忠(かしま ただし)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
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鹿島忠 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 鹿児島県薩摩川内市 |
生年月日 | 1961年10月7日 |
身長 体重 |
183cm 76kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1982年 ドラフト1位 |
引退 | 1996年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
鹿児島実業高等学校に進学。エースとして活躍し、2年・3年生時に夏の甲子園大会に連続出場を果たすも、2大会連続で初戦敗退に終わっている。
卒業後、鹿児島鉄道管理局に就職。西村徳文らとともにチームの中心選手として活躍。
1982年ドラフト会議にて、野口裕美の抽選を外した中日ドラゴンズよりドラフト1位指名を受け入団。
入団3年目の1985年、主に中継ぎ投手41試合に登板し2勝3敗2セーブ、防御率4.93の成績を残す。
ただ、その後なかなか芽が出ない日々が続き、不甲斐ない投球をした鹿島に当時監督であった星野仙一が雷を落とすようなシーンも見られた。
1988年、中継ぎに専念し安定した投球を続け、首脳陣の信頼を得ることに成功。この年は44試合に登板し、3勝2敗、防護率3.67の成績を残し、チームのセ・リーグ制覇に貢献した。
1989年、前年の活躍から中継ぎエースとして起用され、リリーフながら9勝を挙げ、防御率も2.56と安定感を発揮。イニング跨ぎでの起用も多く、54試合の登板で105回2/3とかなりの投球回をこなしていた。
翌1990年も45試合、77回2/3を投げ、7勝4敗、防御率2.90と投げまくった。
勤続疲労がでたのか1991年は不調に陥ったが、1992年は38試合に登板し3勝1敗6セーブ、防御率2.81と復活。翌1993年はキャリアハイの57試合に登板し、3勝5敗2セーブ、防御率3.47の成績を残す。
1994年以降は打ち込まれる場面も目立ち、1996年限りで現役を引退。
引退後は東海圏の放送を中心に野球解説者として活動。2001年から2003年には中日の、2005年から2006年には東北楽天ゴールデンイーグルスの投手コーチを務めた。
強気な姿勢で打者の内角をグイグイ攻める投球で活躍したドラゴンズのリリーフ右腕。通算405試合登板は中日球団歴代10位の記録である。
武闘派として知られた当時のドラゴンズを象徴するような投手でもあり、相手打者に内角攻めや死球を怒られると怒り返し、ウォーレン・クロマティの頭部付近に投球し乱闘騒ぎになった際には、退場しながらクロマティを睨みながら頭を指すポーズをする、大洋の選手から「ヒットマン」と呼ばれるなど、他チームは鹿島の投球や言動を恐れていたという。ただ、鹿島自身は地でこういったキャラではなく、相手チームに警戒されたほうが得だとあえて「ヤバいやつ」を演じていたという。
通算:13年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 405 | 1 | 1 | 36 | 28 | 14 | --- | .563 | 688.0 | 343 | 496 | 322 | 302 | 3.95 |
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最終更新:2024/09/13(金) 22:00
最終更新:2024/09/13(金) 23:00
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