黄琬単語

コウエン

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「黄琬(黄エン)」コウ・エン 141 ~ 192)とは、祖が三の地位にあったと言われる後漢末期の名門の出であり、王允らによる董卓暗殺計画に加担した政治家である。

字(あざな)は「子琰」または「琰」。 


この記事の本来の表記は「黄琬」ですが、「琬」の字が表記できないブラウザを考慮して、
「黄エン」と記述する場合や「黄琬(黄エン)」と併記する場合があります。

正史では

江夏安陸の出身で、を若くして亡くした事から祖瓊に育てられた。

聡明な子供であった黄琬(黄エン)は、太守となった瓊が正月日蝕撃した際に、太后からどれ程のものであったかを問われて答えに窮していると、

三日月程でしたとお答えしないのですか

と言い、瓊はその言葉通りに太后に言上して孫をさらに可がった。

瓊が三のひとつにあたる徒になると、司空の盛允が病気を患った為、祖の代理として見舞いに行く事になったが、盛允が江夏での蛮族の反乱の手紙を読んだ後に、見舞いに来た黄琬(黄エン)をからかおうと江夏蛮族が多くて人がいないと言うと、黄琬(黄エン)は両手を合わせて、

蛮族が悪さを働くのは司空殿責任ではありませんか

と返して退出し、盛允は一本とられてしまった。

中郎将に昇進した黄琬(黄エン)は、才いくせに柄だけで推挙される無能者を排除し、貧乏ながらも大志を抱く者達を登用しようと、陳蕃らと共に行動し、諄・朱山・殷参らを才を買って推挙した事から権者層の反感を買い、讒言されて政治の中枢から遠ざけられる事になり、盟友の陳蕃は免官されてしまった。所謂「党錮の禁」である。

二十年程たった後、太尉賜が混乱に対処できる才だと上奏した事から復帰し、州刺史を経て中そして予州牧に昇進した。

予州牧となった黄琬(黄エン)は、州を荒らしまわっていた盗賊を尽く殲滅して名をあげ、下の模範となるような善政を敷いて関内侯に封じられ、董卓が政権を握ると、中央に戻されて徒になった後に太尉に昇進した。

※予州牧だった頃に反董卓連合軍の曹操を攻撃して、曹真の曹を討ち取ったという話があるが、董卓の配下となった際は予州牧ではなくなっており、且つ、曹真伯南とする説もある為、曹を討ったとする説は懐疑的に見られている。

董卓連合軍に虎関を破られる等した事から、董卓陽から長安への遷都を計画すると

光武帝漢王朝させ、東都の大事業を完成させたというのに、軽挙妄動で失望させる事があろうか

と言って反対し、董卓激怒したらたまらないと諫言されるも、

崔杼が斉で君を殺した時、晏嬰はその誓約を恐れなかった
私は不徳者であるが、古人の節義を摯に慕うものである

と言い、黄琬(黄エン)は免官されたものの、後漢に恩徳のある名族である事か董卓は危を加えなかった。

長安への遷都が実行されると隷校尉となり、徒の王允や士孫瑞らと共に董卓の暗殺計画を立案・実行し、董卓軍残党の李傕李カク)らが長安へと攻め込んでくると、捕らえられた黄琬(黄エン)はにつながれて52歳で獄死した。 

演義では

馬騰が許へ赴いた際に参謀に命じられ、曹操殺計画を画策したものの、に話してしまった頃から露見して処刑された奎のとして登場する。 

その他「黄琬(黄エン)」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照exit

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関連データ

コーエー三國志シリーズにおける黄琬(黄エン)の力一覧。

統率 政治 身体 運勢
三國志
三國志II 55 58 49
三國志III 59 54 50 43 57 21
三國志IV
三國志V
三國志VI
三國志VII
三國志VIII
三國志IX
三國志X
三國志11

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最終更新:2024/03/29(金) 23:00

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