黒田官兵衛 単語


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黒田官兵衛(くろだ かんべえ 1546年12月22日 ~ 1604年3月20日とは、日本戦国時代の人物である。

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概要

兵衛は通称であり、諱は孝高(よしたか)。
隠居の号は(如軒)、キリスト教の洗礼名はシメオン。「小官」「官」と略称され、これを踏まえて歴史好きにはクロカンと呼ばれる事もある。

小寺臣・黒田職隆、子に福岡初代黒田長政。 

小寺家老に始まり、羽柴秀吉豊臣秀吉)の軍師、そして豊前中津一二万石の大名となった傑物。
竹中半兵衛(重治)と双璧をなす秀吉の参謀として、「両兵衛」「二兵衛と並び称された。

その人柄は清廉潔なれど腹黒と評され、良くも悪くもそちら方面での認知度が高い武将。
また大坂城福岡等の縄張りをした築の名手であり、軍事も謀略も政治も出来るチートである。

2014年度のNHK大河ドラマ軍師官兵衛』の主人公V6岡田准一が演じた。

生涯

小寺家家老

文15年11月29日(1546年12月22日)、姫路生まれ。1562年に小寺政職の近習となった。
この時は姓を小寺と名乗っていたが、君・小寺政職より名乗りを許されていたことによる。
1567年に督を受け継ぎ、小寺家老および姫路城代となり、正室として櫛(てる)を迎えた。ちなみにこの時代にはしく、官兵衛は生涯を通じて側室を置かず、彼女一人を妻として遇している。

1564年、(養女説もあり)が浦上清宗ぐが、結婚の当日、敵対していた赤松政秀に襲撃されて命を落としてしまう。1569年には赤松政秀姫路城3000の兵で襲撃、これをたった300の兵で奇襲を繰り返すことで撃退した。のちに政秀は浦上清宗叔父浦上宗景に攻められて降した。

その後播磨は西に毛利、東に織田に挟まれることとなったが、官兵衛は才のある織田信長につくことを提案。1575年に信長に謁見し、臣従することとなった。
この謁見時に信長から名「へし切長谷部」を下賜されており、定を受け、黒田の名宝のひとつとして福岡市博物館に所蔵されている。
1577年には嫡男の寿丸(後の黒田長政)を人質として織田に出した。その後羽柴秀吉中国攻めの為に播磨へ進駐させられると、官兵衛姫路城を差しだし、秀吉の軍師として従うようになる。

三木合戦において順調に兵糧攻め(三木の干し殺し)が進んでいたが、1578年に織田臣・荒木村重が離反して毛利についてしまう。更には、君の小寺政職も呼応しようとした。
これを回避する為に、官兵衛はまず重を説得しようと有岡城に入るが、逆に捕らえられてしまう。土閉され、外部に連絡を取る事も出来ないまま、1年という日を過酷な環境を耐えぶこととなる。
これに対して信長は、重とともに裏切ったとして寿丸を処刑しようとする。しかし竹中半兵衛がひそかに寿丸を匿い、表向きは処刑したと虚偽の報告を行った。
翌年に織田軍は荒木軍を破って有岡城を攻め落とす事に成功。重は逃亡、官兵衛臣・栗山利安に救出された。
この時すでに小寺織田によって討伐されていた事から、姓を「黒田」に改める。その後信長から1万石を与えられ、正式に織田臣となった。

織田家家臣、軍師

1581年より、本格的な中国攻めにおいて秀吉の軍師として帯同する。「鳥取の飢え殺し」として知られる鳥取への兵糧攻めにより、3ヶで降させることに成功。
翌年には備中高松攻略する際に防を築き、「高松城の水攻め」を行った。最初はうまくいかなかったものの、舟に土嚢を積んで沈めさせることで防を作るアイデアを出した。

しかしその最中、信長京都・本寺で明智光秀に討たれた(本能寺の変)ことが伝わった。
君の死を知った秀吉orzと打ちひしがれていたが、官兵衛秀吉に対して早急毛利と和を結び、急ぎ光秀を討つべきと進言する。
これにより秀吉はたった10日で山城国に到達(中国大返し)、続く山崎の戦い光秀を破った。

豊臣家家臣、軍師

1583年には、落した安土城に代わる拠点として大坂城の築に携わった。同年、信長の実質的後継者争いであった「賤ヶ岳の戦い」にも参戦する。
1584年には毛利を臣従させることに成功し、さらには紀州の根来衆・雑賀衆と結託した長宗我部元親を退けた。この頃にキリスト教に入信、洗礼を受けたとされる。
1585年には宇喜多秀家による四国攻めに軍師として参戦、おとり作戦を見抜くなどして貢献し、長宗我部の降に至った。翌年には大友宗麟の要請による九州征伐の軍師として参戦、毛利らの大軍勢とともに、九州の大半をらげていた島津を打倒、降させた。
これらの功により、官兵衛は豊前の大半を所領とし12万石を与えられる。その後、自らの居として中津を築した。 
この際、元々豊前を治めていた宇都宮氏が伊予への移封を拒否した為、彼らを臣団もろとも謀殺した。江戸時代黒田にはその「祟り」がふりかかる事になるが、それはまた別の話である……詳細は城井鎮房の項を参照。

1589年、官兵衛督を長政に譲ってと号し、隠居した。しかしその後も発言力は残っており、秀吉の軍師としての務めを行っている。
翌年の小田原征伐においては、着状態の中で北条に対して開の説得にあたり、無血開城を実現した。このように秀吉天下統一において、如は多くの戦いで貢献している。

1592年、秀吉は明の制覇をし、朝鮮へと出兵(文の役)。如・長政子も参戦した。
ところが石田三成と確執が生じ、これが秀吉の怒りをかったことから出して「軒円清」と号し、死を覚悟して遺書を残したものの、最終的には許されている。
その後慶長の役(1597年)においては多くの被害が出たことで戦線の縮小を提案したが、好が秀吉に進言して叱責を買ってしまう。しか主君・秀吉が死去した事で出兵は中止、撤退する事となった。

関ヶ原の戦い

1600年の関ヶ原の戦いにおいては、黒田徳川家康(東軍)方につき、長政は前線で活躍した。
一方で中津にいた如だったが、の再めて大友義統石田三成(西軍)方について挙兵、如はこれに対抗して石垣原の戦いで破った。
その後東軍の勝利が伝わると、西軍方についていた九州の大名・武将を次々と征伐。遂には島津へと攻め入ろうとするが、島津と徳の和議が成立した事で撤退した。

その後、長政は勝利に貢献した第一功として筑前福岡37万石へと大幅な加増を受け、福岡を任せられた。この時如にも加増の申し入れがあったが辞退し、以後は本格的な隠居生活に入る。
たびたび上方と元を行き来しては、有馬温泉で湯治をしたり、細川幽斎らと文を取り交わしたり、連歌会に参加したりと、々自適だった事が伺える。

1604年、京都伏見邸において死去。享年59歳。
辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く はまよはじ なるにまかせて」。

その葬儀仏教形式で行われた後、改めてキリスト教形式で行われた。
同時にキリスト教施設への寄進を命じた遺言からも、実は棄教していなかった事がい知れる。

逸話

有岡城における長い生活と劣悪な環境のせいで、救出された時には足が立たず、顔に醜い瘡が残った。更に足に深刻な障害が残った為にをつくようになり、移動には輿を用いたという。
この時、土から見えたに心を慰められて生きる希望を見出し、黒田家紋としてが用いられるきっかけとなった「の瑞祥」という話がある。

また、彼の人となりを伺い知る事ができる逸話がある。

関ヶ原の合戦で活躍した嫡子・長政に対して)

長政「家康殿関ヶ原での勝利は私のおかげだと手を握って感謝をしてくれました(`・ω・´)
「その時お前のもう片方の手はどうしておった?」
長政「???(´・ω・`)」
いた手で家康を殺していれば黒田下になっていたのに.....」
長政「」

かしこれらの逸話は大正5年に書かれた「黒田如水伝」が出所であり、それ以前の史料には一切登場していない。
また同書は「夢幻物語」という江戸中期に創作された書物を参考にしており、既に故人である利休と会をともにしているなど事実と乖離した内容もある。更に同書内でも「古老から聞いた話で拠もないしほんとかどうかしらんよ(意訳)」とあるため、決してみに出来る資料ではないことを明記しておく。

このようによく「下取りの野望を抱いていた」とされるが、あくまでも俗説である。史実として確認できる業績からは、下克上や野心を示した事は一度もない
君・秀吉に才知を認められながらも警されていたという話も伝わるが、現存する秀吉からの直筆書状には「其方の儀はの小一郎豊臣秀長)め同然に心安く存じ」と記されていることから、必ずしも不仲だった訳ではない事が見てとれる。

息子寿丸の命を救った竹中半兵衛はその後中国攻めの中で病に倒れ、官兵衛有岡城から救出された頃には世を去っていた。後に官兵衛が裏切っていなかった事を知った信長は、改めて半兵衛の先見の明と機知に感したという。
この恩を忘れないようにと、黒田では竹中家紋・石を用い、半兵衛の子が元する時には官兵衛帽子を務めた。

倹約だった事でも知られており、つづら着物はたとえ破れても繕って使い続けるよう命じた。また中においては茄子などの野菜の皮を厚く切って漬物を作らせたり、を吸い物に作らせたり、本来捨てる部分も余さず使うよう下知したという。

ゲームにおける黒田官兵衛

信長の野望

信長の野望シリーズ(PC版)における力値一覧

軍事、謀略、内政のどの場面でも役に立つ。特に第12作「革新」では武勇以外全力が90をえる汎用振りだったが、近年の作品ではそこから統率と政治を削って武勇に上乗せした様な定となっている。とは言え汎用振りは変わらないままであり、両兵衛の片割れに相応しい傑物と言えよう。尚、先輩竹中半兵衛較すると戦国群雄伝を除き政治面では駕しているが、(僅差とは言え)知略面の数値で半兵衛に勝った事は一度もい。

作品名 軍事 内政
戦国群雄伝(S2) 戦闘 97 政治 80 魅力 63 野望 54
武将風雲録(S1) 戦闘 84 政治 96 魅力 77 野望 81 教養 81
覇王 采配 89 戦闘 84 智謀 95 政治 92 野望 90
天翔記 戦才 156(B) 智才 190(A) 政才 178(A) 魅力 85 野望 87
将星 戦闘 78 智謀 95 政治 91
烈風 采配 80 戦闘 58 智謀 90 政治 86
世記 采配 81 智謀 88 政治 81 野望 90
蒼天録 統率 81 知略 88 政治 81 野心 98
下創世 統率 81 知略 88 政治 81 教養 73
革新 統率 91 武勇 60 知略 99 政治 91
統率 81 武勇 60 知略 99 政治 91
創造 統率 89 武勇 70 知略 97 政治 81
大志 統率 88 武勇 70 知略 97 内政 82 外政 83
新生 統率 87 武勇 78 知略 98 政務 84

太閤立志伝

  • 1 戦略34 戦術10 外交98 内政90 魅力83 統率88 武力53 野心76
  • 2 統率83 武力51 内政90 外交97 魅力76 野心50
  • 3 内政力9 外交力10 軍事力9 魅力7
  • 4 統率88 武力58 内政86 外交90 魅力86
  • 5 統率88 武力55 政務86 智謀92 魅力86 野心98

戦国無双

戦国無双3において参戦(CV:高塚正也)。

陰気なおっちゃん。水晶玉を使い、の手を召喚する異を持つ。
不気味貌も相まって「銀河英雄伝説」のオーベルシュタインとの類似を摘するもある。でもショタ軍師こと竹中半兵衛より二歳下らしい。
めんどくさがりの半兵衛にたびたび苦言を呈しており、一部ではおかんのような扱いを受けている。

戦国BASARA

戦国BASARA3において参戦(CV:小山力也)。
「機略重鈍」。快なあんちゃん。才知も野望もあるが、奇跡のような不幸体質。
元は秀吉配下だったが、下取りの野望を抱いていた事から石田三成(戦国BASARA)に疎まれて九州に左遷、鉱山に押し込められていた。下を掴む為、自分を拘束していた鎖(鉄球付き)を武器に大暴れ。諦めの悪さだけは下一である。
土木工事に定評があり、4では仲間と共に日ノ本全土を貫くトンネルを掘ってしまった。掘削機構を備えた絡繰兵角土竜」を所持しているが、たまに暴走して味方に突っ込む事も。
あまりにユカイな為、愉悦部大谷吉継(戦国BASARA)オモチャと化している。

戦国大戦

下に今こそ知らしめん、が智、が策を!」

Ver2.00豊臣で参戦。レアリティスーパーレアCV:立花慎之介

スペック兵と豊持ちで6/10の2コス足軽、とまあまあ。
計略「破凰の謀」は日輪の妨形で、ゲージを3つ使用した大爛では士気6とは思えない低下になる。効果時間もかなり長い…がVer2.00Aでは他にもっとやばい豊臣武将が多数いたのと足軽自体の性が低かったため使用率は低かった。Ver2.00Bでは足軽の性も上方され、時間も長くなったため活躍が期待される。 
大河で取り上げられたこともあり専用群雄伝と計略も上方された。が相変わらず後方の範囲はい。 

とは言え時間は長いものの範囲がかなり物足りないため、裏回りに弱過ぎるのが最大の問題。

らが進むは、新しき戦、新しき支配!」

センゴクの姿としても登場している。SRとは違い兵がなくなった代わりに防柵、足軽になっている。
計略は竹中半兵衛の「今孔明の軍法」をもじった「今張良の軍法」。豊臣特徴の日輪計略である。

日輪の消費量と効果を受けた部隊の数によって効果が変動するというややこしい仕様だが、日輪を消費すれば効果は士気相応になる。特に3消費だと大名采配以上の武力が上がって更に移動速度まで上がる。自分は範囲に入らないがそれは二連打可ということでもあり爆発力は秀吉の「日輪の下人」に匹敵する。士気全部使うけど。

ver2.1にて戦国数奇で1枚追加。計略「飛」は逆計の采配である。
効果そのものは破格だが逆計であるが故に自発的には撃てないのであまり見かけない。 

が知謀、全てをこの刹那に…!」

Ver3.0では黒田如水と名を変えた後の姿で登場。ちなみに種別は武断だが特技:忠は持っていない。
スペック織田竹中半兵衛と武力・統率・コストが同じ。兵種はだが。特技も3つあるのは同じだが、こちらも兵は持っていない。攻・魅力を持っているのも同じである。

計略「の軍法」も何となく半兵衛の「今孔明の軍法」と似たような仕様になっている。あちらより今孔明元ネタである諸葛亮の「八卦の法」に似ている。 計略台詞も半兵衛にそっくり。

が1部隊なら武力が上がり兵力が上限をえて回復、2部隊なら武力と移動速度が上がり敵を倒すとその武将の忠度が上がる。3部隊以上なら武力と攻速度が上がる。自分は範囲外なので2度がけ可

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