659部隊(満洲第六五九部隊)とは、大日本帝国陸軍の一部隊である。正式名称は「関東軍防疫給水部」(關東軍防疫給水部)であり、「満洲第六五九部隊」とは通称号。
「満第六五九部隊」や「徳第二五二〇一部隊」とも(※「徳」は関東軍自体の通称号が「徳兵団」であったことから)。
大日本帝国陸軍の中の、満洲(満州)で活動していた関東軍の一部隊である。有名な「731部隊」(満洲第七三一部隊)、すなわち「関東軍防疫給水部本部」との関係で語られることが多い。
この2つの部隊の関係は、「659部隊」(関東軍防疫給水部)には「本部」や「支部」などの様々な組織が属していて、その中の「本部」が「731部隊」(関東軍防疫給水部本部)であった、という位置づけとなる。
「731部隊」すなわち「本部」の他にも、終戦時点では「林口支部」(162部隊)、「牡丹江支部」(643部隊)、「孫呉支部」(673部隊)、「海拉爾支部」(543部隊)、「大連支部(衛生研究所)」、「臨時防疫班(ペスト防疫班)」などが659部隊に所属していた。
本部の「731部隊」はその長であった「石井四郎」の名から「石井部隊」「石井機関」などと呼称されることがある。だが全体である「659部隊」(関東軍防疫給水部)の方も石井四郎が統括していたため、この659部隊の方も「石井部隊」「石井機関」と呼ばれる場合がある。
公文書に記載されている[1]、開戦前における部隊構成は以下の通り。
大連 技師 安東洪次 以下約二五〇名
(※海拉爾支部と牡丹江支部では長の氏名と人員数との間に「以下」が無いのに、孫呉支部以後は「以下」が入っている。この理由は、牡丹江支部の行がページ末であるために孫呉支部の行からは次ページに移っており、そして孫呉支部の行からは前ページまでの体裁を引き継ぎ漏らしたためかと思われる)
「概要」に記したうち「臨時防疫班(ペスト防疫班)」は上記の中に入っていないが、この班については
との記載があるため、開戦後に設けられたものであるようだ。
ちなみに、「731部隊」と「659部隊」が上記のような関係にあることは近年インターネット上で閲覧可能となっている様々な公開資料で確認できるわけだが、逆に言うとこれらの資料で確認できるようになるまではやや混乱もあったようだ。
というのも、731部隊に所属していて戦後に証言した人々の中にも、この2つの違いをはっきり認識していない人々が居たため。当時最も若年な者では14歳だった人物もいた(「少年隊」という区分であり、「軍人」ではなく「軍属」扱いであった)が、そういった人々の中に「私たちの身分証明書では満州第659部隊となっていた。中国人労働者用の身分証明書でも659部隊となっている。だから659部隊というのが防疫給水部本部の正式名称であり、731部隊というのは本当の名前ではなくウソだ」と主張している人物も居た。末端の少年であったからかもしれないが、自分が所属している部隊の名称や通称号に関して詳細を知らなかったことになる。
他にも、石井部隊について研究した人物の文献などには「659部隊と731部隊の間で名称が変遷したようだ」と記述しているものや、「659部隊とは731部隊の秘匿名称」と記載していたものもあったようだ。おそらく公文書などにおいて、石井部隊を指して「659部隊」の名が掲載された公文書と「731部隊」の名前が掲載された公文書が入り混じることから、「名前が変遷した」あるいは「659部隊は731部隊の秘匿名称」と解釈したのだろう。
しかし実際には、上記のように「大きな組織だった659部隊の中にある、「本部」が731部隊」という関係であったようである。
659部隊に関する歴史資料。表紙に記載されている正式名称は『關東軍防疫給水部 満洲第六五九部隊 留守名簿』。「關東軍防疫給水部」と「満洲第六五九部隊」は横に併記されていて、その下に「留守名簿」と続く。さらに表紙には「昭和二十年一月一日 關東軍防疫給水部」とも付記されている。すなわち、659部隊(関東軍防疫給水部)が作成した部隊員の名簿である。つまり731部隊の隊員も含む、659部隊の所属員の名前や身分が掲載されている。
この資料は国立公文書館に非公開のまま収蔵されていたようだが、それを知った滋賀医科大学名誉教授の西山勝夫が国立公文書館に2015年に請求して2016年にカラースキャンを入手。
その後、時期は定かではないが西山勝夫は自らが所長を務める団体「戦争と医学研究所」のウェブサイトにてカラースキャン画像を、そしてその中から所属員の名前を抜粋したファイルなども公開した。このことによって、インターネットを利用できる人ならば誰でも参照できる資料となっている。
この名簿の中には、731部隊に関する資料において名称が出てくる人々の名前が登場する。長であった「石井四郎」、それに次ぐ立場だったとされる「北野政次」、凍傷の人体実験に関する講演記録『凍傷ニ就テ』で演者としてクレジットされている「吉村壽人」、731部隊の非人道的行為について告白する著書がある「秋元壽惠夫」、戦後に起きた殺人事件「帝銀事件」の警察捜査資料において「石井部隊で発病後3日目4日目の病状を研究するためにその日付で殺された捕虜の解剖をした」と証言をしたとされる「岡本耕三」、細菌戦に関する証言がある「溝渕俊美」、「トラックでマルタを轢き殺した」等の証言がある「越定男」、731部隊の人体実験についてや終戦時の捕虜の処分に関する証言がある少年隊員「森下清人」「清水英男」「須永鬼久太」などなど。
ただし731部隊関連の別史料では登場するにもかかわらず、この名簿に掲載されていない人物も居る。この資料が昭和20年1月1日付けのものであるのでその時期には既に所属していなかったものか。あるいはこの名簿は付箋で修正/付記された箇所やそもそも判読不能な箇所もあるので、そういった不備のために掲載されていないという可能性もある。
なお、この名簿の内容から上述の「659部隊が関東軍防疫給水部で、731部隊はその一部である関東軍防疫給水部本部」という関係が明確に判明したのだという。なぜなら、この名簿内に林口支部(162部隊)の長とされる「榊原秀夫」、牡丹江支部(643部隊)の長とされる「尾上正男」、孫呉支部(673部隊)の長とされる「西俊英」、海拉爾支部(543部隊)の長とされる「加藤恒則」、大連支部(衛生研究所)の長とされる「安東洪次」の名前も掲載されていたためである。
上記の『関東軍防疫給水部留守名簿』。前述のようにインターネット上で公開されてもいるが、書籍にまとめられて2018年に不二出版から出版されている。
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最終更新:2024/04/25(木) 06:00
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