EH10形電気機関車(以下EH10)とは、日本国有鉄道(国鉄)が製造した電気機関車である。
EH10に与えられた使命はただ一つ。東海道・山陽本線の貨物列車牽引である。
1950年代前半、戦後に再開された東海道本線の電化工事は急ピッチで進められ、1953年に名古屋、さらに稲沢に到達。米原、京都へと繋がるのも時間の問題と見られていた。
しかしこの区間に難関があった。関ヶ原越えである。
大垣~関ヶ原間は箱根と並ぶ東海道本線の難所として知られた。戦時中に勾配を抑えた迂回線が設置されたが、それでもなお10‰の勾配が延々と続く面倒な区間であり、特に重量級の貨物列車にとっては鬼門であった。蒸気機関車が牽引していた当時は、大垣で補助機関車を連結してどうにか関ヶ原を越えていたのである。
この区間を電化したとして、当時最新鋭だったEF15を以てしても、最大1200tの重量級貨物を牽いて単機で関ヶ原を越えることは難しいと考えられた。かといって大垣で補助の電気機関車を繋げたのでは結局タイムロスが生じ、何のための電化かわからない。
そこで国鉄は、EF15を超える超強力な電気機関車を開発して関ヶ原を突破しようと考えた。その時考え出されたのが「8動軸機」、すなわち台車8軸に主電動機8個という、前代未聞の超大型機EH10であった。次に製造された8動軸機はJR貨物に移行した1997年のEH500であるので、EH10は国鉄唯一の8動軸機である。
8軸もある巨大機関車をそのまま作るわけにもいかないので、車体を2分割した2車体構造を採用。また、出来るだけ車体を短くするために従来の電気機関車についていた先端部のデッキを廃した。
また、それまでの電気機関車で標準だった台車枠を基礎とする構造を脱し、電車のようなボギー台車を採用。その後新造される電気機関車はボギー車が一般的となった。
このように多くの新機軸を搭載した一方、主電動機や制御装置などはこれまで同様のものを使用しているので、EH10は分類上「旧型電気機関車」となっている。ちなみにこの次に国鉄が製造したED60からは「新性能電気機関車」と分類されており、EH10は最後の旧型ということになる。
車体デザインは、当時の国鉄としては珍しく民間デザイナーの萩原政男が担当。デッキの排除に合わせて非貫通となっていた車体は、「湘南型」電車に近い前面2枚窓を採用。塗装もそれまでの「ぶどう色」と言われた茶色から一変し、全面黒に黄色の帯を入れるという力強いカラーリングとされた。
なお、15号機は高速試験車の位置づけで製造され、主電動機などが他車と異なった。実際に高速度試験で好成績を残したため、EH10をベースとした旅客用電気機関車「EH50」も計画されたが、旅客列車の主流は既に電車に移り始めていたこともあり計画倒れに終わっている。
1954年から1957年にかけて計64両が製造され、東海道本線の各機関区に配属。東海道本線の高速貨物牽引に従事した。関ヶ原を越えるために高出力を備えていたので、結果的に平坦区間でも性能に余裕が生じ貨物列車がスピードアップするという効果もあった。1959年には、汐留~梅田間に設定された初のコンテナ特急貨物「たから号」の牽引役にも抜擢されている。
しかし、元々勾配を上るための機関車であり、最高時速は85㎞と出力の割に遅かった。そのため、1960年代以降のコンテナ貨物の高速化に対応できず、早々と一般貨物に転用。補助機関車と出力が均衡しないので「セノハチ」を越えられず、山陽本線の運用も岡山までとなった。補機がいらないように作られた機関車の限界が補機で決まるとは何とも皮肉なものである。
その後は東海道・山陽本線と宇野線で淡々と貨物を牽き続けた。1975年以降に順次廃車され、1981年に運用を離脱。翌年までに全車が除籍された。大阪市東淀川区の東淡路南公園に61号機が保存されている。状態が悪いわけではないが、普段は金網で厳重に囲われており近くで見ることはできない。
EH10には大きく2つの愛称が存在した
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最終更新:2024/04/19(金) 23:00
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