U-1105 単語

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U-1105とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したVIIC/41Uボートの1隻である。1944年6月3日工。英駆逐艦レッドミル(1300トン)を撃沈する戦果を挙げた。1945年5月10日イギリスへ投降。その特異性からイギリスアメリカで性調を受け、1949年9月19日に爆破処分。

概要

VIIC/41とは、イギリスの対潜水艦戦を受けて1941年に計画されたVIICタイプである。水中波性を向上させて標の捕捉率を強化、安全潜航深度の底上げにより敵の爆雷攻撃から逃れやすくしている。艦内装備を一新して軽量化。軽くなった分を耐圧殻の強化に回し、艦首130mm延伸。

諸元は排水量769トン、全長66.5トン、全幅6.2m、乗組員44名、急速潜航時30、安全潜航深度120m、最大速17ノット(水上)/7.6ノット(水中)、燃料搭載量113.5トン。兵装は533mm魚雷発射管5門、88mm単装1門、折りみ式シールド付き20mm単装機関2基。これらの標準装備に加えてU-1105はIXで使用されている37mm Flakzwilling M43Uを装備して対を強化。シュノーケルも装備していた。

またU-1105には10隻にしか装備されていないパッシブソナーGHG(グループ聴音機)のバルコン装置を搭載していて長距離からでも敵艦の捕捉が可だった。連合軍のソナーに対抗するため実験合成ゴムを搭載した13隻のうちの1隻で、この対策はニーベルンゲンの歌に登場し魔法マントを使うドワーフ名前から取って「アルベリヒ」のコードネームが付けられていた。合成ゴムによる対策は効果てきめんだったようで生存率の向上に貢献。「ブラックパンサー」の称でしまれた。ただU-1105は例外だったようだが航行中にゴムが剥がれる事が多々あった模様。

艦歴

連合国の興味を誘った特異なUボート

1941年10月14日ノルドゼーヴェルケ社に発注される。1943年7月6日にヤード番号227の仮称を与えられてエムデン造所で起工、1944年4月20日に進し、同年6月3日工を果たした。初代艦長にハンスヨアヒム・シュヴァルツ中尉が着任するとともに訓練部隊の第8潜隊群へ編入。

慣熟訓練中にダンツィヒへ寄港した時、何人かの乗組員は「シュヴァルツァー・パンサー」と呼ばれる歌が収録されたレコードを購入。その明るい曲調は乗組員の間で強い人気を呼んだが、リズムがシュヴァルツ艦長の好みではなかったためレコード再生を禁じられた。しかしこの曲を惜しんだ乗組員の考えと艦長のシュヴァルの名を合わせ、ヒョウを描いた。

1945年2月16日、第5潜隊群に転属。この頃のドイツは敗色濃厚であり、各要港は連日しい爆撃を受け、出撃のための燃料さえも不足するほど窮乏していた。

最初で最後の戦闘航海

1945年4月2日、シュヴァルツ艦長揮のもとキールを出港し、近郊のシルクゼーに仮泊して伴走者のU-2528の到着を待つ。4月5日U-2528とともにドイツ占領下ノルウェーへと向けて出港、翌日ホルテン軍港に入港した。オスロフィヨルドでシュノーケルを使った潜航試験を実施。4月9日にホルテンを出港、4月11日クリスチャンサンにて燃料補給を行い、4月12日に出撃。ダブリン近郊の町ブラックロック付近で連合軍の輸送団に対して作戦を開始する。

4月22日、U-825、U-1055、U-1105の3隻はイギリスでの通商破壊を命じられ、翌23日午前2時15分に現在位置を部に報告。4月24日中の英駆逐艦を先に発見して回避成功。ゆっくりイギリスへ近づいていく。

4月27日アイルランドメイヨー西方46kmで英第21護衛群に所属する3隻のフリケード艦3隻を捕捉、距離2000mからG7魚雷2本を発射。敵の爆雷攻撃を備えるためすぐさま100mまで潜航する。発射から50後、2本とも英駆逐艦レッドミル(1300トン)に命中、艦尾18mを吹き飛ばされて大破航行不能となり、被時の爆発で乗組員32名が死亡。攻撃を受けた連合軍は直ちにレッドミル生存者とU-1105の捜索を開始。水上艦と航空機から同時に索敵を受ける中、U-1105では何かしらのトラブルが発生して100mを維持出来ず173mの海底にまで沈降、そこから身動きが取れなくなった。VIIC/41の安全潜航深度は120mであり、いつ艦体が圧壊してもおかしくない。だが安全潜航深度以上に潜ったからか、31時間に及ぶ連合軍の捜索を受けても発見には至らず、第21護衛群は引き揚げていった。

その後は巧みに連合軍の捜索網から逃れ続けたU-1105だったが、5月4日にデーニッツ提督戦闘中止命を出したため戦う事が出来なくなり、前回攻撃した第21護衛群に投降。第21護衛群から浮上を命じられ、上を旋回していた英第201飛行隊所属のサンダーランド飛行艇がU-1105を監視、5月10日スコットランドのエリボーにある基地へ向けて連行される。

一方、大破させられたレッドミル沈没だけは免れ、フリケード艦ルパートによってリシャリーまで航。しかし経済的な問題から修理不能と判断されて全損判定。戦後1947年1月30日に建造元のアメリカへ返却されるも、そのアメリカ海軍でも全損判定を受け、2月7日海軍艦艇登録簿から抹消スクラップとしてギリシャの電会社へ売却となった。

戦後

1945年5月11日、引き続きシュヴァルツ艦長の揮でエリボーを出発。投降した他のUボートとともにフリケード艦や航空機の警下でアルシュを経由し、5月14日リサリーへ入港。そこで艦体をイギリス軍に鹵獲され「N-16」に名、乗組員は全員捕虜となる。6月29日から8月4日まで性調を受けた結果、その特異性からイギリス興味を抱くが、政治的な動機により接収したUボートを全てデッドライト作戦で沈めてしまう方針だったため、そうなる前にアメリカへ引き渡す事に。8月5日リサリーを出港して北大西洋を横断。

1946年1月2日ニューハンプシャー州ポーツマスへ回航。2月11日、U-1105は退役となり、ワシントンD.C.海軍研究所とマサチューセッツ工科大学音響研究所がゴムの集中的なテスト及び研究調を実施。了後、爆薬実験台となるためメリーランドソロモンへ回航され、2隻の引き揚げ航されたのち8月10日から25日にかけて制御された方法で数回沈没させられる。9月29日、艦の側面にポンツーンを設置して引き揚げ実験にも利用された。U-1105を使った実験11月18日に終わり、メリーランドポイントライトでようやく処分、沈没地点には印のブイが残されている。これで艦歴を閉じるかに見えたが…。

1949年に再びU-1105が引き揚げられ、ポトマック航。9月19日、今度こそ全に処分するべく110kgのMK.6爆雷を9.1mの至近距離で爆破。爆発衝撃で一艦体が浮き上がり、が折れるほどの大損を受けながら沈没深28mの底へ横たわった。爆破地点にブイ等の印が用意されなかったため以降36年間は歴史の闇に紛れる事となる。

1985年6月29日メリーランドパイニーポイントでウーヴェ・ロバス率いるスポーツダイバーチームが残骸ほ発見した事でU-1105は再び歴史の表舞台に現れる。1994年11月にはメリーランド州で初めて難破保護区に定され、一般開に向けて州の保護下に置かれた。2001年アメリカ国家歴史登録財に定。沈没している箇所には印のブイが置かれ、位が低い時はりの甲水上に露出するという。こうしてU-1105はメリーランド州の重な観光となった。爆破と沈没を繰り返したにも関わらず保存状況は良好であり海洋生物に住み処を提供している。

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