U-123 単語

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ユーイチニーサン

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U-123とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXB型Uボートの1隻である。1940年5月30日工。通商破壊44隻撃沈、6隻撃破という稀代の大戦果を挙げたUボートエース1944年8月19日ロリアンで自沈したが、戦後フランスに引き揚げられてブレゾンの名で再就役している。

概要

IXB型は、体を巨大化して航洋を向上させたIXA型タイプである。IXA型より全幅を0.25m拡大し、大燃料タンクを搭載した事で燃料搭載量が11トン増加、IXA型より1500里延びて1万2000里という長大な航続距離を獲得している。これはフランス沿からアメリカ東海まで補給で行って帰って来られるものだったが、その代償に水中水中での航続距離は低下した。IXB型は全部で14隻生産。赫々たる戦果を挙げたが同時に損耗率も高く、12隻が沈没、2隻が自沈という全滅の末路を辿った。ロリアンで自沈したU-123は終戦後に引き揚げられてフランス海軍で再就役するしい艦歴を持っている。

排水量1051トン、全長76.5m、全幅6.76m、最大速18.2ノット(水上)/7.3ノット(水中)、燃料搭載量165トン、安全潜航深度100m、急速潜航時35、乗員48名。兵装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷22本、105mm単装1門、37mm単装機関1門、20mm単装機関1門。

U-123は北大西洋、フリータウンメキシコ湾、アメリカ東海など長大な範囲で通商破壊を行い、連合船舶42隻(21万8813トン)、潜水艦1隻(683トン)、補助艦艇1隻(3209トン)撃沈、商5隻撃破(3万9584トン)と補助艦艇1隻(1万3984トン)撃破の大戦果を得た武勲艦である。パウケンシュラーク作戦では参加した5隻の中で最も戦果を挙げてデーニッツ提督から直接祝電が送られている。工から4年以上も最前線で戦い続けたが、艦の老朽化やバッテリー劣化が深刻化してこれ以上は戦えないとして戦争半ばで退役。ある意味寿を全うしたと言える。

連合軍を嘲笑う深海の怪魚

戦前1937年12月15日、デシマーグAG社のブレーメン所に発注

1939年4月15日にヤード番号955の仮称で起工、1940年3月2日に進し、同年5月30日工。初代艦長にU-20の元艦長で経験豊富なカールハインツ・メーレ中尉が着任した。工日から訓練部隊の第2潜隊群へ編入されて慣熟訓練と諸訓練に従事。

1940年

1回目の戦闘航海

1940年9月21日、最初の戦闘に向けてキール(資料によってはヴィルヘルムスハーフェン)を出撃。ノルウェー西北上したのち、シェトランド諸北方を西進して狩り場の北大西洋へ進出。北海峡とロッコール通商破壊を行う。10月6日午後12時5分、U-123が挙げる大戦果の一歩となる最初の獲物が姿を現した。敵の正体はOB-221団からはぐれて単独航行中の英商ベンラウワーズ(5943トン)であり、護衛も付いていないというにとっては格好の獲物だった。13時4分、U-123はセントジョーンズ北東で撃し、ベンラウワーズは為す術なく沈没。最初の戦果を挙げた。10月9日、U-38、U-48、U-103とともに線を形成してロッコール西方に到着。そこから北上して獲物を探しめたが、上が非常に荒れていて視界も悪く、U-103が発した団発見の報はにも受信されなかった。

10月10日19時57分、ロッコール北北西37マイルで2番の獲物である英商グレイグウェン(3697トン)を発見。グレイグウェンはSC-6団に属していたのだが、前日に僚艦U-103の襲撃を受けて既に放棄されており、U-123が発見した時にはと化していた。21時33分、さまよう幽霊船魚雷介錯して仕留めた。

10月17日午前3時、U-48が護衛艦艇3隻に守られた25隻の団を発見。部はU-46、U-99、U-100、U-101、U-123に攻撃命を下した。しかしU-48は対潜攻撃を受けて潜航退避しなければならなくなり、位置情報の送信が止まって団を見失う。18時頃になってU-48が午前9時30分に送信した位置情報が傍受されたが、古い情報だった故にUボート混乱をもたらした。

10月18日20時21分、SC-7団を発見して狩りを開始。ロッコール東南東約90マイルで英商シェカティカの体中央部に魚雷を命中させるが、有効打とは成り得なかった。20時30分にU-123が浮上した際、300m先に僚艦のU-99も浮上。どうやらクレッチマー艦長率いるU-99も同じを狙っているらしい。U-123はU-99とともにシェカティカを追い回し、20時46分に放ったU-123の魚雷が命中。ゆっくりと沈み始めた。翌19日午前0時21分、セントキルダ西南約80マイルでU-123は団から落して洋上停止中のオランダ蒸気ボケ(2118トン)を発見。ボケロは前日U-100の撃を受けて損傷していたが、勇敢にも撃沈された他の船舶から乗組員を救助しようと危険を覚悟で洋上停止していたのである。メーレ艦長はとりあえずボケロを後回しにし、午前1時31分に英商セッジプール(5556トン)を撃沈。午前1時55分にボケロへ魚雷を発射して5分以内に沈没させた。午前2時44分、未だに浮いているシェカティ(5458トン)を発見。U-123からの撃を受けても沈まず、更にU-100から撃されても沈まず、不屈の精で浮き続けていたのである。午前3時17分、体中央部に魚雷の牙を突き立てて機関室で火災が発生。今度こそシェカティカは尽きて大傾斜。甲から貨物がボトボトと柱を立てて落下し、とうとう沈没した。午前5時4分、U-99から撃を受けての息な英商クリントン(3106トン)に撃を浴びせてトドメを刺す。SC-7団から4隻撃沈の戦果をもぎ取ったU-123であった。全ての魚雷を消費したU-123は帰路に就く。

10月23日ドイツ占領下フランスロリアンへ入港。6隻(2万5878トン)撃沈の十分な戦果を得た。

2回目の戦闘航海

11月14日ロリアンを出撃。アイルランド西方狩り場に定めて遊する。11月21日23時57分、U-29の報告にあった敵の蒸気を発見。翌22日午前0時21分、ブラッディフォアラン西方365マイルSL-53団からはぐれた英商クリ(4791トン)を撃して食らいつき、これを撃沈。乗組員45名全員死亡した。同日18時31分、スコールの中でを発見するが、敵に位置がバレるのを防ぐため潜航退避。19時30分に浮上したU-123は見失ったの捜索を開始し、11月23日午前4時に捕捉。16分後、ロッコール西南西170マイルで英商オーククレス(5407トン)はU-123の魚雷の餌食となって6分以内に沈没

11月23日午前5時30分、OB-244団を発見。先ほど撃沈したオーククレストは操装置の故障でこの団から脱落してきたのだった。午前7時12分、撃により英商タイリック(5228トン)を火だるまにして17分後に撃沈。午前8時15分、ロッコール西方撃し、英商キングイドワル(5115トン)を撃沈。午前9時14分にスウェーデンアンテナ(5135トン)に致命傷を与えるが、敵船舶から一斉に撃を受けたため潜航退避しなければならず、アンテナ沈没を確認出来なかった。午前10時32分、深14mから潜望を上げようとした際にしく揺さぶられた。被弾した訳ではないが、前方の潜望が全く動かせなくなるトラブルが発生し、同時にアンテナシャフトへの浸も確認され、戦闘を断念しなければならなかった。ちなみにアンテナ11月24日沈没している。各Uボートからの情報を統合した結果、部はU-123、U-100、U-103、U-104が顕著な戦果を挙げていると判断した。

11月28日ロリアンへ帰投。

1941年

3回目の戦闘航海

1941年1月14日ロリアンを出撃。北大西洋やアイルランド西方に向かう。1月24日18時5分、ロッコール西南西で獲物と巡り会う幸運に恵まれた。相手はOB-276団から行方不明になったノルウェースパシアン(1570トン)であった。21時48分、U-123から発射された魚雷がヘスパシアン尾に命中。首から沈没していった。行方不明だった事が災いして僚艦に救助されず、乗組員18名全員の藻となった。1月28日から北大西洋の気を報告する観測の役割を担う。

2月4日午後12時38分に汽を発見し、15時39分に急速潜航。16時44分に護衛しで航行中の英商エンパイエンジニア(5358トン)を撃して4分以内に撃沈せしめる。U-123はから救命艇で脱出する乗組員たちを撃していたが、救助されなかったようで40名全員行方不明となっている。

2月14日13時47分に英商ホーリーストーン(5462トン)を捕捉。急速潜航して獲物の追跡へと移る。しかし15時36分に放った魚雷は外れ、16時37分に浮上して水上航行での追跡に切り替える。5時間の追走劇の末、21時56分に突如ホーリーストーンが停止したため好機到来。22時15分から撃5本を逐次発射するが命中弾に恵まれない。翌15日午前0時12分、6本がようやく左舷後方に直撃。弾薬誘爆して大爆発が発生し、乗組員40名全員を吹き飛ばしながらホーリーストーンの体は「消滅」した。2月18日、U-123とU-94が発した気報告をイギリス軍に傍受される。

2月22日、U-73から団発見の報が入り、U-69、U-96、U-95とともに攻撃エリアへと向かう。2月23日午前10時55分、OB-288団攻撃に向かっていたU-123はオランダの大グルートケルク(8685トン)を発見。グルートケルクは潜水艦を警して14ノットでジグザグ運動しており、U-123の方が僅かに優速ではあったが、追い抜かすのは困難だった。15時頃、OB-288団を捕捉したU-73とU-69から続々と位置情報が寄せられたが、U-123は眼前の獲物を仕留める事を優先。20時頃、グルートケルクは南へ針路を変更する際に減速したため、翌24日午前0時53分に魚雷を発射。グルートケルクの中央部に命中させて爆発・洋上停止させる。乗組員や乗客は救命艇を降ろしてからの脱出を図るも、午前1時5分に右舷側へ撃ち込まれた魚雷により12分で転覆。オランダ人乗組員18名、中国人乗組員35名、イギリス人乗客13名全員死亡した。2月25日魚雷と燃料が不足したU-123は帰路に就く。

2月28日ロリアンへ帰投。

4回目の戦闘航海

4月10日18時満月が浮かぶ夜空のもとロリアンを出撃。今回も狩り場をアイルランド西方に定めてイギリスの生命線を断たんと牙を振るう。

4月17日午前4時30分、ロッコール南西でスウェーデンベネズエラ(6991トン)がU-123の視界に入った。スウェーデンは参戦していない中立ではあったが、中立ルートを通っていなかったのでメーレ艦長は連合船舶と誤認して攻撃を決意。15時50分の撃でベネズエラの中央部に魚雷が命中、乗組員は救命艇を降ろして脱出を始めたが、体の方は沈む気配がかった。16時3分に倉へ魚雷を撃ち込んでみるもあまり効果はく、16時26分に3回撃を行って機関室を破砕するが、しぶとく浮き続ける。17時27分の撃は失敗。やなむく水上撃でトドメを刺そうと19時28分に浮上してみたところ、既にベネズエラ体は中へしていた。乗員49名全員死亡

4月28日13時47分、アメリカ駆逐艦2隻を撃。当時アメリカは参戦していない中立だったが、その実態はUボートを発見しては追い回したり、イギリスに位置を通報するなど名ばかりの中立であった。U-123も17時まで駆逐艦に追われ、団攻撃のチャンスを奪われている。翌29日午前8時、正面の線から火災の煙と思われる煙がモクモクと立ち昇っていた。おそらくU-96の攻撃で炎上しているのだろう。間もなく煙が上がっている方角から8000トン級タンカーが姿を現すが、護衛に駆逐艦を伴っていたため午前10時20分に急速潜航。しかしU-123の姿を見られたらしく、ソナー探知を受けた挙句、午前11時に投下された12発の爆雷の直上で炸裂。15時までに100発以上の爆雷投射を受ける。幸い駆逐艦はU-123を見失った。19時55分に浮上するも今度は敵飛行艇が襲来して急速潜航。結局、乗組員が新鮮な空気にありつけたのは21時15分の事だった。

5月11日午前8時24分、ロリアンに帰投。5月12日から造所のドックに入渠して整備を受ける。5月19日に艦長が交代し、二代艦長にラインハルト・ハーデゲン中尉が着任。彼は元ドイツ海軍パイロットという異色の経歴の持ちで、訓練中の墜落事故によりパイロット生命を断たれた事によりUボート乗組員に転向。U-124で実戦経験を積み、U-147で艦長を経験し、今回U-123に配属されたのだった。6月3日、造所内でスクリューを損傷したため翌日交換している。6月5日より魚雷弾薬、燃料を搭載し、消磁作業を開始。6月7日に全ての戦闘準備を了した。

5回目の戦闘航海

6月8日18時41分、U-201とともにハーデゲン艦長に率いられてロリアンを出撃。ところが勇んで出撃した翌日に油圧ポンプの故障と250リットルの漏が発覚。6月11日になっても漏の問題は解決せず、更に2本の潜望まで使えなくなってしまったため修理に戻り、6月12日20時45分に帰投。U-66の隣に係留された。修理を行った後、6月15日に再度出撃。今度の狩り場はカーボベルデジブラルタルフリータウン、アゾレスであった。10日後、中立スペインカナリアラスパルマスで独補給コリエンテスから燃料、潤滑、食糧の補給を受ける。

6月20日18時カサブランカポルトガルガンダ(4333トン)を発見して急速潜航。20時10分に2本の魚雷を発射して1本を命中させ、乗組員にを放棄させる。9分後にトドメの魚雷を放つも撃沈には至らず、水上撃によって撃沈した。しかしポルトガルスウェーデン同様中立であり撃沈後に誤りだと気付いた。

6月27日午前11時59分、SL-78団の列を発見。しかし上には対潜哨戒機らせながら旋回していたためU-123は潜航せざるを得ず、一度見失う。21時28分に再度団を捕捉し、23時57分に扇状に魚雷を放つ。線を引く魚雷がまず捉えたのは英蒸気P.L.M.22(5646トン)だった。爆薬誘爆したP.L.M.22の体は時に粉砕されて巨大な火のを闇の中で咲かせた。間入れずにオランダオベロン(1996トン)も機関室中央に被し、大きく傾斜して撃沈。2隻の敵を手際よく沈めた後、敵の護衛艦艇から爆雷攻撃を受けてU-123は潜航退避。だが狩りはまだ終わっていなかった。6月29日午前11時42分に再度団を捕捉。追跡の末に19時36分に1本の魚雷を発射して英商リオズール(4088トン)を撃沈。命尽きるまで闇を炎で煌々と照らし続けた。

7月3日16時58分、カーボベルデ北西600マイル線から昇る煙を発見した事で狩りの幕が上がった。翌4日午前3時55分、U-123から放たれた魚雷は英商オーディター(5444トン)を食い千切って撃沈。5300トンの一般貨物と10機の航空機ともどもへと沈んだ。

8月23日ロリアンへ帰投する。翌日造所に入渠して魚雷弾薬を降ろして整備を受ける。8月27日シリンダーライナーに強い孔食が見受けられたため交換が必要になり、乗組員の休暇が14日間延長された。10月10日魚雷を装填した状態で潜航試験を行い、続いて消磁作業に着手。翌11日に弾薬と備品を積み込む。10月13日には新鮮な食糧品が積載された。

6回目の戦闘航海

10月14日13時30分、ロリアンを出撃。機啓開の先導を受けながら路を進む。15時20分にと別れ、日を迎えるまで潜航した後、ビスケー湾に出る。今回の狩り場は北大西洋、グリーンランド南東部、ベルアイル峡、ニューファンドランドであった。

10月21日午前3時46分、U-123は4つの大きなを発見して追跡開始。この船舶SL-89団の後方グループであり、13.5ノットの速ジグザグ運動しながら航行していた。午前4時28分、4つのに向けて3本の魚雷を発射。英補助巡洋艦アウラニア首と船橋下にそれぞれ1本が命中して損傷を与える。しかし1万3000トン級の巨体相手では魚雷2本でも致命傷とはならず、左舷へ25度傾かせた程度だった。間もなく護衛の敵駆逐艦から対潜攻撃を受けて潜航退避。午前10時9分、敵手から逃れたU-123は沈みかけている救命艇を発見。U-123の撃で沈むととちりしたアウラニアの一部乗員が乗っていたが、今はたった一人しか残っていなかった。ハーデゲン艦長は大西洋方面の獲物の少なさを訝しみ、その一人を救助して情報を聞き出そうとしたという。

夕刻17時7分、音とともに山のような巨体がに現れた。ドイツ海軍が「ヤマアラシ」と呼んで恐れ、Uボート天敵中の天敵とされるイギリス軍のショートサンダーランド飛行艇がU-123を発見し、上3000mから2発の爆弾が投下される。U-123はすかさず急速潜航するが、深25mまで潜ったところで爆弾が炸裂。艦内を震が襲って乗組員に軽度の震盪を引き起こさせる。深80mまで潜って死神が通過するのを待った後、20時47分に浮上。僅かな損傷を受けるだけで済んだ。22時10分、正面の域にサーチライト撃、照明弾が上がっているのが確認された。どうやら前方で僚艦のU-82がSL-89団を襲撃しているらしい。U-123を攻撃していたサンダーランドや護衛の駆逐艦はそちらへと向かったようだ。10月22日15時50分、前方にいるU-82と識別信号を交換。19時15分にU-82は艦尾方向の線へと姿を消した。

11月22日午前10時ロリアンへ入港。

パウケンシュラーク作戦

1941年12月8日地球の裏側で同盟大日本帝國が対宣戦布告して参戦。これに伴ってアメリカ第二次世界大戦へ参戦する事となり、12月11日ドイツアメリカ宣戦布告船舶に対する制約が全て取り払われた。ドイツ海軍カール・デーニッツ提督アメリカ東海での通商破壊パウケンシュラーク作戦」を立案。12月12日ヒトラー総統から認可が下りた事で本格的に準備が始まった。この時、航続距離に優れたIXは20隻存在していたが、即座に投入出来る状態にあったのはU-66、U-109、U-123、U-125U-130、U-502の6隻に過ぎなかった。ひとまず6隻を第一波として送り込む事に決め、フランスの軍港で戦備を整える。U-123はその旗艦を命じられた。可な限りの食糧、弾薬、燃料が搭載されてゆくが、ハーデゲン艦長を含め乗組員には作戦的地は一切明かされず、「西経20度線を通過したら開封するように」と封印された命書だけ艦長に手渡された。

7回目の戦闘航海

12月23日、U-66とともにロリアンを出港。ビスケー湾を出る前にU-502が漏で引き返したため東海には5隻のUボートが向かった。パウケンシュラーク作戦に従事するUボートは隠密性を重視し、魅的な獲物(巡洋艦戦艦空母)と遭遇しない限りは攻撃を禁じられていた。西経20度線をえた時、ハーデゲン艦長は極秘の命書を開封。そこにはニューヨークでの通商破壊と2冊の観光ガイブックが封入されていた。ドイツ海軍事前ニューヨークの詳細な図を入手出来ず、苦の策としてガイブック付録の折り地図提供したのである。荒れる北大西洋のをU-123は波濤を浴びながら突き進む。

1942年

1942年1月11日16時35分、ノヴァスコシア州ケープセイブル南東約125マイル線から煙が昇っているのを視認。相手は英商サイクロプス(9076トン)だった。ハーデゲン艦長は攻撃か無視かで悩んだ。9000トン級の敵は決して小物ではない。だが下手に攻撃すれば敵に位置を知られるかもしれないし、作戦開始日に間に合わなくなる可性もある。逡巡の末、攻撃を決意。翌12日午前1時49分に撃を仕掛け、尾に命中させる。しかしサイクロプスは沈まず、一度を放棄した乗組員が乗し始めたため、午前2時18分に艦尾魚雷発射管から撃。体をっ二つに折って5分以内に沈没していった。これがパウケンシュラーク作戦最初の戦果となった。遅れを取り戻すため、U-123は水上航行を多用して波をかき分けながら進んでゆく。

1月13日東海に潜んだ5隻のUボートが一斉に牙を剥いた。ロングアイランドの先端付近にいたU-123は獲物を探し始める。戦争に参加したにも関わらずアメリカの沿警備は非常に緩かった。都市部は軍部からの灯火管制要請に反対して煌々とを放ち、港湾は堂々と照明を点け、商は600メートル波長の線を出し続け、電信員は絶えずの位置や護衛艦艇の行動予定を発信し続けている。加えてアメリカ海軍欧州戦線や太平洋戦線に艦艇を集中した弊で沿警備に割ける戦を払底しており、哨戒機103機のみしかないガバガバどころかスカスカな警備体制。まさにUボートにとってはこれ以上い最高の環境だった。それでもU-123の担当区域に近いニューヨーク港には駆逐艦13隻が停泊していたが、新駆逐艦への刷新期間だったため不活性化工事を受けていて置き物同然という不運も重なっている。よって合いで暴れるUボートに何ら有効な手立てを打てなかった。またUボートは用心深く、哨戒機から逃れるため日中は潜航して待機し、間にのみ狩りを行った。

1月14日午前8時34分、モントークポイント60マイル防備に航行しているパナマノーネス(9577トン)がU-123に襲われて沈没尾が海底に突き刺さり、首が水上に掲げられるという墓標と化した。1月15日午前9時41分、ロングアイランド海岸で同じく防備な英商コインブラ(6768トン)を撃し、右舷に命中させる。積み荷の石油8038トンに引火して巨大な炎を咲かせたコインブラの最期はハントン市民にも見られ、自分たちが牙に曝されている事を底的に教え込んだ。U-123は時折非常に浅い域を進んでいて潜航が出来ない脆弱な場面もあったが、慢心していたアメリカ海軍は地元住民からの通報を受けても軍艦派遣する事はかった。

1月19日午前5時16分、ハッテラス北方50マイルノヴァーナ(2677トン)を撃して爆炎の渦に沈める。それから4時間後の午前9時9分、ティオブアトランタ(5269トン)の左舷に魚雷をぶち込む。敵はたちまち大爆発を起こして10分で転覆。浮上したU-123は敵名前を知ろうとサーチライトを照らしながら転覆したシティオブアトランタの周囲をぐるりと一周して去った。午前10時34分マレーを発見。小と認識したハーデゲン艦長は魚雷を節約するため甲での攻撃を命じ、10発の弾を撃ち込んで炎上したのを見届けて離脱した。午後12時1分、ハッテラスラトビアチルトバイ(3779トン)を魚雷1本で撃沈。しかしチルトバイラを攻撃中に先ほど攻撃したマレーが救援要請を送信しているのを傍受。実は小と思われたマレーは8209トンの大であり、甲程度では撃沈出来なかったのである。位置を知られては獲物が減るばかりか、自艦や他のUボートにも危が及ぶ。ハーデゲン艦長はマレートドメを刺すべく急いで域へ舞い戻ったが、既にマレーは英商ティオブ・デリーの救援を受けてダメージコントロールが進んでいた。U-123に残された魚雷は1本だけ。午後12時44分に最後の魚雷マレーの右舷に叩き込んだが、結局息の根を止めるには至らず、自ハントンローズにまで逃げ込まれた。

一連の通商破壊で合計23隻(15万505トン)を撃沈する大戦果を挙げ、このうちU-123は7隻(4万6744トン)撃沈という最も戦果を挙げたUボートとなった。この大戦果にはデーニッツ提督満足し、ハーデゲン艦長に騎士十字章を授与するとともに「素晴らしい官のいたドラムは見事だった」と祝電を打った。

1月25日17時57分、バミューダ北東でON-53団から分散した英商クレブラ(3044トン)を発見。既に魚雷を使い果たしていたので水上撃を仕掛け、彼距離600mでクレブラ撃戦を演じる。U-123は5発被弾したが体を貫通せず、逆にクレブラを破壊されて戦う術を失った。乗組員がを放棄する中、U-123は20mm対機関修理して1発の試射を行ったが、身内で爆発して従軍写真2名が負傷してしまっている。救命艇に乗る生存者に尋問した後、の開いたバケツしかないという彼らのために数日間の食糧、ナイフ缶詰め、バミューダへの方角を教えた。続いてになったクレブラの喫線に撃でを開けて撃沈。

1月27日午前2時3分、距離2500mからノルウェーパンノルウェー(9231トン)を撃するがパンノルウェーで反撃し、しく火を交わす。被弾により尾が炎上してパンノルウェーからの撃が停止するも、今度は船橋機関銃がU-123を狙い撃ち、と甲に被弾を示す火が数回散る。甲はうるさく抵抗する船橋に撃ち込まれ、火災を起こして機関銃を黙らせる。抗戦を諦めた乗組員はパンノルウェーを放棄して脱出。甲の弾も使い切ったため、午前3時45分に37mm対機関で喫線にを開けて撃沈。パンノルウェーを葬った後、U-123は交戦前に見り員が発見したの正体を確認するべく移動。その先には中立スイスにチャーターされたギリシャ船舶マウントエトナが操業していた。ハーデゲン艦長はマウントエトナに同行を願い、パンノルウェーの救命艇のもとまで誘導して29名を救出してもらう。その間にU-123も水中を捜索して負傷男性を救助した。紳士的な対応を受けたパンノルウェーヨハン・A・バッハ船長感謝の言葉を述べるとともにU-123の帰路に幸多からん事を願った。

2月9日船長が願った通りU-123はロリアンへ帰投する。参加した5隻全てが事にフランスまで戻り、ハーデゲン艦長らは「全て活かせないほど攻撃の機会が非常に多く、輸送時の航路を通って防備に照明を点けている」と報告した。

8回目の戦闘航海

3月2日19時30分にロリアンを出撃し、再びパウケンシュラーク作戦に参加するべく東海して北大西洋を西進する。3月22日17時56分、バミューダ北北東335マイルでトリニダードからハリファックスに向けて独航中のマスコギー(7034トン)を撃で撃沈。積み荷の6万7265バレルの重と混ざり合った。10名の生存者が2隻の救命艇に乗って脱出したのを見てハーデゲン艦長が尋問を行い、解放。しかし彼らは救出されず全員行方不明となる。

3月24日午前3時1分、1万1000トン石油ガソリンを抱えた英商エンパイアスティー(8138トン)に2本の魚雷を発射。積み荷に誘爆したのか体は巨大な火の玉に転じた。40分後に甲9発を撃ち込んで転覆させる。

3月27日17時ノーフォーク東方300マイル中のアティック(3209トン)を発見して追跡。19時37分に距離640mから1本の魚雷を発射し、左舷船橋下に命中して火災を発生させる。U-123は浸被害を拡大させようとアティックの右舷側へと回るが、そこでアティックは隠していたと副を見せ、U-123に発してきた。アティックの正体はに見せかけて台を沢山積んだ商、すなわちUボートに対する…Qシップだったのである。U-123はアティックの仕掛けたに乗せられた格好となった。幸い弾はU-123の手前に落ち、ハーデゲン艦長は増速を命じてからの脱出を図るが、20mm機弾8発が艦に命中。不幸にも艦に立っていた士官補生ホルツァーの右太ももに1発が当たり、や膝を粉砕して重傷を負う。仲間は急いでホルツァーを艦内に入れるがUボートでは十分な治療を施せず、せいぜい包帯を巻く程度の事しか出来なかった。ハーデゲン艦長はせめて苦しみだけでも取り除いてあげようと大量のモルヒネ注射するよう軍医に示。意識があった最初の1時間、ホルツァーは文句一つ言わずに模範的な行動を示した。U-123はディーゼルエンジンを始動し、生じた煙を煙幕代わりにして中へと飛び込む。21時29分、アティックの機関室に魚雷を撃ち込んで乗組員にを放棄させた。もはやアティックには戦闘いとハーデゲン艦長は浮上を命22時27分に面へ顔を出したU-123は死亡したホルツァーを水葬し、22時50分に域を去っていった。その直後、アティックが爆発を起こし、乗組員141名全員が戦死した。Qシップが敗れた事はアメリカ海軍衝撃を与え、駆逐艦ノアタグボートサガモア陸軍爆撃機カタリナ飛行艇アティックの残骸を捜索。3日後に変わり果てたアティックとも乗せていない5隻の救命艇を発見する。

4月2日午前7時18分、リーブレに撃を仕掛けるが回避されたため、浮上。35分間に渡って撃を加えた。少なくとも10発の弾がリーブレに命中し、発電機を破壊して艦内電を喪失させる。しかし遭難信号を聞きつけたイギリス魚雷艇MTB-332が出現。U-123は攻撃を中止して域からの離脱を図った。リーブレはタグボートによってモアヘッドティまで航されて一命を取り留めている。

4月8日午前4時50分、U-123はタンカー2隻と汽1隻が固まっているのを発見。午前7時52分、ジョージアセントサイモン10マイルオクラホマ魚雷を発射して機関室を破砕。しかしオクラホマ尾が僅かに沈下した程度で沈む気配がかった。だがハーデゲン艦長は既にオクラホマから興味を離し、次なる獲物をその瞳の中に捉えていた。午前8時44分、オクラホマの近くにいたエッソバトンルージュの右舷へ魚雷を撃ち込み、機関室の爆発によって内部が破壊される。エッソバトンルージュを着底させた後、U-123はオクラホマトドメを刺すべく12発の甲を発射、このうち5発が船橋首に命中するが、オクラホマも備で反撃。手負いながらしく抵抗するオクラホマに手を焼いたU-123はやむなく離脱した。いずれも撃沈に失敗し、オクラホマとエッソバトンルージュ航されて近くの港へ逃げ込んだ。

4月9日午前5時35分、ブランズウィック南方14マイルエスパルタ(3365トン)を捕捉して追跡を始める。午前7時16分にU-123から必殺の魚雷が放たれ、エスパルダの右舷後方を穿つ。アンニアガス弾薬誘爆してく火柱が築かれた直後、エスパルダは右舷へ15度傾斜しながらゆっくり尾側から沈み始め、2時間後にその身を中へとした。

4月11午前2時9分、狩人の双が洋上のタンカーを捉える。辺りはまだの暗闇に支配されていたが、灯火管制が行われていないジャクソンビルビーチリゾートの照明で位置が丸わかりであり、攻撃の20分前には敵油断してジグザグ運動を止めてしまっていた。午前4時22分、処女中だった蒸気貨物ガルファアメリカ(8081トン)の右舷に冥界への片切符である魚雷を撃ち込み、凄まじい爆発と火焔に見舞われる。ガルファアメリカは猛火に包まれながらも遭難信号を発したため、U-123は口を封じようと12発の甲を撃ち込んでアンテナを倒そうとした。体は右舷へ40度傾斜した状態で耐え抜くも、5日後に尽きて沈没した。

4月13日午前3時26分、フロリ半島ヘッツェルショールズガスブイ南東約3マイルで堂々と独航しているレスリー(2609トン)を撃。右舷体中央部に突き立てられた魚雷は隔タンクを破砕し、線機を壊して体を右舷側へと傾かせる。撃された位置が浅瀬だったため全に沈没しなかったが、乗組員と乗客は2隻の救命艇に分乗してを放棄。この撃で魚雷を使い果たした。同日午前7時45分、ケープナベラルスウェーデンコルスホルム(2647トン)を撃で撃沈。

4月17日午前0時24分、アルコアガイ(4834トン)を発見して浮上。既に魚雷く、甲も29発しか残っていないため、近距離から37mmと20mm対機関銃で仕留めるべくアルコアガイドの右側に並走。距離400mから対で撃ちかけた。右舷側の体が穿たれる中、アルコアガイドのサミュエル・リロイコブ船長はU-123に体当たりを命じたが船橋に直撃弾を受けて致命傷を負い、が破壊されて制御不能に陥る。U-123は喫線にを開けてアルコアガイドにも致命傷を与え、午前5時23分に右側へ倒れて沈没5月2日ロリアンへ帰投。かれこれ1年半以上フランスを拠点に戦い続けてきたU-123は、本格的な整備のためドイツへ回航される事に。

9回目の戦闘航海

5月16日ロリアンを出港。今回は通商破壊を行わずっすぐに本す。5月24日ドイツ占領下ノルウェーのベルゲンに寄港して護衛艦艇と合流し、翌日クリスチャンサンへ寄港して病人を退艦させ、オーフスを経由して5月29日キールへ入港。6月5日にシュテッティンの造所へ回航されて半年に渡って入渠整備を受ける。8月1日三代目艦長ホルスト・フォン・シュローター中尉が着任。彼はU-123の元先任士官であり、艦長交代に伴う士気の低下はかった。

10回目の戦闘航海

12月5日、整備を終えたU-123はキールを出港。2日後にクリスチャンサンに寄港して燃料とを補給するが、悪に阻まれて出港を1日見合わせる。12月9日クリスチャンサンを発ち、アイスランドフェロー諸島間を通って北大西洋を南下。

12月22日より11隻からなるウルフパック「スピリッツ」に参加してニューファンドランド南東で通商破壊を開始。12月29午前0時、アゾレス北西で漂流中の英商バロンクラン(3385トン)の残骸を発見。前日の夕方にU-406から撃を受け、ONS-154団から脱落して放棄されたようだ。が抜けて彷徨う残骸を介錯するため午前0時53分に魚雷を撃ち込んで撃沈。それから間もない午前1時31分、U-225に撃されて手傷を負った英商エンパイアシクルトンを発見。3本の魚雷を発射して船橋付近に命中させるが撃沈する事が出来ず、1時間後にU-435が撃で仕留めた。1943年1月11日U-117と合流して燃料補給を受ける。2月6日ロリアンに入港。

1943年

11回目の戦闘航海

3月13日ロリアンを出撃。ビスケー湾を南西方向に進んで中部大西洋、カナリアフリータウンで通所破壊を行う。4月8日14時12分、ギニアコナクリ西方スペインカスティージョ・モンテアレグレ(3972トン)に向けて3本の魚雷を発射し、2本を命中させて撃沈。しかし生存者を尋問したところ、相手は中立の、しかもスペインだと分かり、部(BdU)は戦時日記からこの記録抹消するよう命。誤って撃沈した事を隠蔽した。またスペインフランコ政権も生存者に口止めを要したという。

4月17日午前3時44分、U-123はフリータウンから出てきた英潜水艦P-615(683トン)と掃海艇MMS-107を発見。午前5時34分と午前6時47分に魚雷を放ったが命中せず。午前11時1分に英商エンパイアブルー(7459トン)を発見。どうやらP-615とMMS-107はエンパイアブルースを警護しているようだった。午前11時53分、MMS-107とP-615の右舷側から3本の魚雷を発射。MMS-107を狙った魚雷は外れたが、P-615には1本が直撃して爆沈。乗員44名全員死亡。警備対のエンパイアブルースも午後12時39分にU-123の撃を受けて1分以内に撃沈されている。護衛任務を全に失敗させられたMMS-107に出来る事は、生存者を助けてフリータウンまで連れ帰る事だけだった。

4月29日19時44分、モンロビア南南東約70マイル線から顔を出すマストの頂上を発見。23時44分、スウェーデンナンキング(5931トン)の左舷に2本の魚雷を発射し、左舷後部に1本が命中。翌30日午前0時1分の撃は外れたが、12分後、魚雷装填作業中に首をに掲げて沈没5月5日午前8時19分、モンロビア南方で英商ホルムベリー(4566トン)を捕捉。午前11時20分に魚雷を命中させるが、ホルムベリーに沈む気配がかったため、午前11時46分より水上撃を開始。10.5cm弾26発を叩き込んで午後12時48分に撃沈した。脱出した救命艇からヨークシャー出身のジョンブライスローソン船長を捕虜にして艦内へ収容。

5月8日21時52分、TS-38団から分離した英蒸気カン(6244トン)を発見。が沈むのを待ってから狩りを行う。翌9日午前0時55分、モンロビア南南西約60マイルで2本の魚雷を発射し、2本ともカンベの前部に直撃して首から沈没していった。ちなみにカンベは僚艦U-105にも追跡されており沈む様子を観測している。5月18日、U-460と合流して燃料、潤滑、20日分の食糧の補給を受ける。

6月8日ロリアンに帰投。

12回目の戦闘航海

8月1日、U-123はロリアンを出発するが、ビスケー湾で潜航試験を行った際にスタッフィングボックスからの漏を確認してロリアンに引き返し、8月5日帰港。8月16日に再度出撃する。8月25日、フィニステレ連合軍機の爆撃を受けるが被害かった。ビスケー湾を出た後の9月7日、カリブ方面のジョージタウンとトリニダーを攻撃エリア定され、直前までいたUボートからの情報を全て与えられる。9月11日、21ノットで高速航行するイギリスの対潜掃討部隊を発見して報告。

9月21日、タンカーリバティ船からなる敵団を発見して撃を仕掛け、2回の命中音と3回の爆発音を聴音した。間は哨戒機が飛来したため潜航退避したが護衛艦艇の姿は見受けられなかった。

11月7日午前9時44分、ロリアンの眼前で機首に57mm戦車を備えたモスキート戦闘機に襲撃され、命中弾を受けて18×6.5cm穿たれて潜航不能となり、乗組員1名が死亡、2名が負傷した。1時間後、U-123は航空支援を緊急要請したが空軍機は現れず、味方の護衛艦艇と合流して同日中に何とかロリアンへ帰投。

57mm戦車を搭載した敵機の出現を受けてU-123は造所で37mm対機関を20mm四連装機に換装。対を強化する。

1944年

13回目の戦闘航海

1944年1月9日、最後の出撃のためロリアンを出撃。ギニア湾やフリータウン通商破壊を行う。

3月1日、帰投や撃沈などで中部大西洋で作戦活動中のUボートはU-66とU-123のみとなる。翌2日、U-123にも帰投命が下り、中でU-488と合流するよう命じられる。3月14日に合流地点に到着するが、U-488がU-801とU-843への補給のため遅れており、特別燃料が不足している場合を除いて域に留まるよう示を受ける。3月29日、U-488から14日分の食糧と燃料の補給を受ける。4月5日、U-505と合流。

戦果を全く挙げられないまま4月24日ロリアンへ帰投した。

その後

工から既に4年が経過しているU-123は体の老朽化がしく、特にバッテリー劣化と艦体の耐久性の低下が問題視される。更に6月6日連合軍のノルマンディー上陸作戦によりフランス方面にも戦火が及ぶようになり、フランス方面のUボートノルウェーに脱出する事になるのだが、もはや長期の航に耐えられないとして6月17日に退役。艦歴を終えた。U-123の乗組員は陸路でドイツに帰還。8月初旬、アメリカ軍Uボートの出撃基地を潰そうとブルターニュ半島を進撃。もはやロリアンの維持は困難と判断され、連合軍の足音がロリアンに迫った8月19日に爆破処分。

1945年5月、U-123の体はアメリカ軍鹵獲され、フランスに引き渡された。フランスはU-123を再利用しようと考えてケロマンブンカー体を修理し、フランス海軍で再就役させる。しばらくの間はU-123の名で運用していたが、1947年6月23日にブレゾンの名を与える。ブレゾンは1942年2月に衝突事故で喪失した潜水艦シュルクーフの艦長フレガーテ・ルイ・ブレゾン大尉から取っている。1957年8月1日に退役して予備役に編入。そして1959年8月15日にQ165名して棄処分となった。

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