U-1230とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40型Uボートの1隻である。1944年1月26日竣工。通商破壊で1隻撃沈(5458トン)の戦果を挙げた。またエルスター作戦でアメリカ本土に2名の破壊工作員を潜入させている。ドイツの降伏まで生き延びた後、1945年12月17日にデッドライト作戦で海没処分。
1941年10月14日、ホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船のハンブルク造船所に発注され、ヤード番号393の仮称を与えられる。1943年3月15日に起工。7月12日、士官養成コースを修了したハンス・ヒルビッヒ大尉がハンブルクの第8軍艦建造訓練部に就任してU-1230の建造指導を行う。11月8日に進水し、そして1944年1月26日に竣工を果たす。初代艦長には建造指導していたヒルビッヒ大尉が着任。第31潜水隊群へ編入されて慣熟訓練を行う。司令塔にはオリンピックの五輪が描かれていた。
まず1月27日から翌28日までハンブルクで試験航海を実施。1月31日から2月14日までキールで試験を行う。それが終わると実戦的な訓練へ移り、2月17日から20日にかけてシュヴィーネミュンデの対空学校で訓練し、2月25日から27日までピラウで自主訓練、2月28日から第20潜水隊群の協力のもと訓練を行う。3月4日から8日までゴーテンハーフェンで試験を行った後、3月9日から4月6日までヘラ半島で戦闘訓練。4月8日から10日間、再びピラウで第20潜水隊群と訓練。4月19日から5月3日にかけて第26潜水隊群と魚雷発射訓練を行う。5月4日からは場所をゴーテンハーフェンへと移し、5月15日まで第27潜水隊群と戦闘訓練。5月9日から7月23日にかけてゼーベック造船所に入渠してシュノーケルの搭載工事を実施、7月25日から2日間キールで37mm対空機関砲の試射を行う。工事が終わると訓練の日々に舞い戻り、8月1日、第10潜水隊群に転属。8月7日までゴーテンハーフェンで第27潜水隊群と戦闘訓練。8月8日と9日はダンツィヒでシュノーケル潜航の試験を実施する。8月11日から21日にかけてシュヴィーネミュンデで対空訓練を行い、8月22日よりシュテッティンで残工事を片付け、9月19日から25日までキールで工事を行う。
外務大臣ヨアヒム・フォン・リッペントロップの提案によりドイツ海軍は敵国アメリカにスパイを上陸させようと試みた事があった。一度目は1942年6月のパストリアス作戦で、8名の破壊工作員を潜入させたが、全員逮捕の憂き目を見た。二度目はU-1229によって行われたが、1944年8月20日に道中で撃沈されて失敗。今回三度目のエルスター作戦が実行される運びとなり、造船所、航空機工場、ロケット試験施設等から機密情報を盗み出す事を目的とする。U-1230には米本土に工作員2名を運ぶ重要な任務が言い渡された。
キールで工事をしていた9月22日、アメリカ本土に潜入させる破壊工作員ウィリアム・キールポーとエーリッヒ・ギンペルが乗艦。キールポーは親独派でアメリカからドイツへ亡命してきたコネティカット州ナイアンティック出身の25歳のアメリカ人で、ギンペルはかつてペルーに潜伏して有益な情報をドイツ本国に送信し続けてきたベテラン工作員である。彼らは2年間アメリカに潜伏して機密情報を盗み出す予定であり活動資金として6万ドルと99個の小さなダイヤモンドが与えられ、32口径コルト自動拳銃2丁、文書コピー用の特別なレンズを備えたライカカメラ等を装備していた。
1944年9月26日、U-246やU-1056とともにキールを出港してドイツ占領下ノルウェーに向かい、9月30日にオスロフィヨルドのホルテン軍港へ到着。同日に第33潜水隊群へ転属となった。オスロフィヨルドでシュノーケル潜航の訓練を実施。10月8日にホルテンを出港。翌日クリスチャンサンに寄港して燃料補給を行った後、同日中に出撃して戦闘航海に赴く。ノルウェー西岸を北上し、アイスランド・フェロー諸島間の海域を突破して北大西洋へ進出。
連合軍の厳重な哨戒網を掻い潜るためシュノーケル潜航を多用して航行。当時の航空レーダーではシュノーケルを捉える事が出来ず、U-1230を空の脅威から守ってくれた。しかしシュノーケルの先端が長時間に渡って何度も水没したため艦内に負圧が生じ、パントリーのブリキ缶が破裂したり、乗組員数名が意識を失う事態が発生している。11月20日にU-1229が撃沈された付近のニューファンドランド南方に到達。11月26日にバッテリーハッチが損傷して潜航能力が低下してしまう。
そして11月29日夜、アメリカ北東部メイン湾ハンコックポイントに到着。その間に付近で同様の任務で来ていたUボートが撃沈され、スパイが捕らえられたとの報告が入ったため、上陸地点を再検討。ニューイングランドの海岸に沿い、ロードアイランド州ニューポートまで上陸地点を検討した結果、最初に選定したハンコックに落ち着いた。潜水艦でも比較的容易に海岸まで接近出来る事、敵に見つかりにくい場所だったのが理由だった。頃合いを見てフレンチマン湾へ侵入し、2隻のゴムボートを海上に降ろしてギンペル、キールポー、オールを漕ぐ役の乗組員2名を分乗させる。23時頃、ボートは無事に海岸まで辿り着いた。しばらく海岸線に立ち続けた後、2人は岩だらけの浜辺を後にして近くの道路へと向かっていった。
工作員の上陸という困難な任務を完遂したU-1230は通商破壊任務へ移行。11月30日15時55分、D-8船団の敵哨戒機がU-1230らしき艦を発見してノヴァスコシア基地に報告している。12月3日午前10時、メイン湾マウントデザートロック南西10マイルで単独航行中のカナダ蒸気船コーンウォリス(5458トン)に向けて音響魚雷を発射し、前部に魚雷1本が直撃。コーンウォリスはSOS信号を放ったが僅か10分足らずで右舷側へ傾いて沈没。船長を含む36名と砲手7名が死亡した。船が沈められた事で北米沿岸冲にUボートが潜んでいるとアメリカ海軍に知られ、護衛空母ボーグを基幹としたハンターキラーグループが当該海域を捜索。連合軍は暗号解析から12月15日にU-1230がスパイを上陸させたとし、まだハリファックス沖にいると考えていた。すぐさまU-1230は南東方向へ離脱してメイン州の沖合いで8日間潜航退避した後、メイン湾やマサチューセッツ湾で遊弋。12月17日にボストン東方沖まで移動したが獲物を発見出来ず、ノヴァスコシア南方沖を通って予定より早く退却を始める。12月22日の時点で連合軍はハリファックス沖にU-806、U-1230、U-1231が潜んでいると思い、執拗な潜水艦狩りを続ける。
その後、U-1230は北大西洋で気象観測船として運用。しばらくアイスランド南西沖で留まった。任務を完遂した後、帰国の途に就くが、U-1230の潜航能力は未だ問題があったため司令部に問い合わせたところ、グリーンランド・アイスランド間のデンマーク海峡の通過を許可される。ここを飛ぶ敵哨戒機は数が少ないので水上航行でも比較的安全に通る事が出来た。
1945年1月3日、スパイの上陸成功と1隻撃沈の戦果を報告。これを受けてドイツ政府はスパイがボストンに上陸したと報道する。またこの頃にはバッテリーハッチの溶接修理が完了し、潜航能力を取り戻す。1月4日時点でU-1230は少なくとも14日間気象報告の任に従事できる物資を持っており、翌5日よりアイリッシュ海での通商破壊を命じられたU-1009に代わって1日3回の気象報告を行った。その後の1月8日、「1月26日に基地へ帰投する」と司令部に報告。
2月13日にクリスチャンサンへ帰投。2月20日に出港し、2月23日にフレンスブルクに回航。約2ヶ月ほど留まった後、4月上旬にフレンスブルクを出港し、4月5日にヴェーザーミュンデへ寄港して造船所に入渠。5月1日にキールへと移動するが、5月4日にヘルゴラントへ回航。そこで5月8日のドイツ降伏を迎えたためイギリス軍に投降。5月28日にヴィルヘルムスハーフェンに移動してU-1230の戦いは終わった。
1945年6月24日、ドイツ人乗組員の手でヴィルヘルムスハーフェンを出港し、6月28日にライアン湖へ到着。現地でU-1230はイギリス軍に引き渡され、乗組員は全員捕虜となった。12月15日、英フリケード艦キュビットに曳航されてライアン湖を出発。デッドライト作戦により12月17日午前10時40分にアイルランド北方で英駆逐艦からの砲撃を受けて沈没した。
送り込んだ工作員2名は1ヶ月後にあえなくFBIに逮捕された。
1944年11月29日夜、ゴムボートで岩だらけの浜辺に到着したキールポーとギンペルは徒歩で近くの道路に向かい、8kmを歩いて国道1号線に出る。しかしその途上で17歳の高校生ハーバード・ホジキンスと主婦メアリー・フォルニに目撃される。二人は足跡が浜辺の方から来ている事に気付き、不審に思い、ハーバードの父親で地元の副保安官であるダナ・ホジキンスに通報。彼を通じてFBIに連絡した。
2人はタクシーを使ってバンゴーを経由し、ボストンへ移動。そこから列車でニューヨークに向かった。彼らはニューヨークを生活の拠点にする事に決め、偽名を使って無線信号妨害の恐れが無い鉄骨構造の部屋を選び、ビークマンプレイス39番地にある建物の最上階に部屋を借りた。ギンペルはラジオ受信機を購入。これを改造して80ワットの短波ラジオに改造しようとした。一方、キールポーは大金に目がくらんだのかスパイ活動よりも女遊びに入れ込むようになり、ギンペルはそんな彼を引きずってニューヨーク港の積み荷記録をメモしたり、ラジオ部品の買い物を手伝わせたが、より浪費をするようになった。やる気の無いキールポーとは対照的にギンペルは真面目に任務を全うしていたが、彼もまたニューヨークの誘惑にたびたび負け、キールポーと一緒に劇場、ナイトクラブ、高級ステーキハウス等を回っていた。キールポーの女遊びは更に過激となり、新聞やニュース映画から情報を集めるギンペルをよそに贅沢にチップを払ったり、女性と会うためにホテルを借りてギンペルのもとから数時間いなくなったりと好き放題に暴れる。
12月21日、キールポーはギンペルを裏切る決意をし、ホテル・サン・モリッツに勝手に部屋を借りて女遊びに耽る。数日後、彼は生まれ故郷に向かい、旧友のエドマンド・マルケイと会って自身がドイツのスパイ活動をしていた事を打ち明けた。そしてFBIに自首する方法について助言を求めた。この時、ギンペルを差し出して減刑して貰おうと考えていたようだ。人間の屑がこの野郎…。12月26日、連絡を受けたFBIがマルケイ宅に現れ、キールポーを拘留した。
FBIはダナ・ホジキンスの通報や、エニグマ暗号の解析、付近でカナダ商船が撃沈された事から近くにUボートがいると判断。既にスパイ探しの捜査を始めていた。取り調べでキールポーが吐いた情報によりギンペルの所在がバレ、12月30日にタイムズスクエアのニューススタンドで逮捕された。
2人の身柄はフォーリー・スクエアの裁判所に移送され約3週間の尋問を受ける。保身から洗いざらいペラペラと喋るキールポーと違って正規の訓練を受けているギンペルは全く口を割らず、時には嘘をついて尋問官を悩ませたという。尋問の結果、アメリカ側はドイツ軍のミサイル技術が進歩していると判断。やがて出現するであろうミサイルを積んだUボートに対抗するため人手と予算を割いたが、実際のドイツ軍にそんな技術は無かった。歴史家のクレイ・ブレアはアメリカ軍の資源を無駄に消費させた事がエルスター作戦唯一の成功と評している。
1945年1月18日、ガバナーズ島に移送。そこでアメリカの歴史上三度目となる反逆罪を裁く裁判が開かれた。2月に2人は死刑判決を受けたが、戦況が連合軍有利となって久しい事から世論もパストリアス作戦の頃と比べて寛大になっており、トルーマン大統領によって減刑されて終身刑となる。ギンペルは1955年に、キールポーは1960年に仮釈放となった。
自由の身になったギンペルは「エージェント146」という自伝を書き、イギリスで出版。1956年に西ドイツで(脚色した上で)映画化された。しかしギンペルは自身を大変美化して書いていたため、公式記録と比べて多くの矛盾点や不正確な点、捏造があると指摘されている。
2003年、工作員の上陸地点はメイン州の国家歴史登録財に指定された。
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