U-156とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC型Uボートの1隻である。1941年9月4日竣工。通商破壊で連合軍商船19隻(9万7489トン)を撃沈し、4隻(2万1トン)を撃破する戦果を挙げた。またラコニア号事件の被害者として有名。1943年3月8日、カリブ海方面で航空攻撃を受けて沈没。
U-156が属するIXC型Uボートは航続距離に優れた航洋タイプの大型潜水艦である。合計54隻が建造された。前級IXB型の船体をベースに船体を0.26m延伸し、船殻の間に燃料タンクを増設した事で航続距離が1450海里増加して1万3450海里に達した。また指揮所の潜望鏡を外して2本になっている。長大な距離を無補給で往来出来る驚異的な航続距離は狩り場の広域化に寄与。更なる戦果をもたらした。
諸元は排水量1120トン、全長76.76m、全幅6.76m、燃料搭載量208トン、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、急速潜航秒時35秒、安全潜航深度100m、乗組員44名。武装は533mm魚雷発射管6門、魚雷22本、105mm甲板砲1門、37mm単装機関砲1門、20mm単装機関砲1門。
U-156は長大な航続距離を活かし、カリブ海やフリータウン沖で通商破壊を実施して19隻撃沈の戦果を挙げた。赫々たる戦果を持つIXC型だが損耗率も高く、終戦時に残っていたのは僅か3隻のみだった。
1939年9月25日、デシマーグAG社のブレーメン造船所に発注。1940年10月11日にヤード番号998の仮称を与えられて起工、1941年5月21日に進水し、8月12日より艦長養成コースを修了したばかりのヴェルナー・ハルテンシュタイン少佐が建設指導を行う。そして同年9月4日に竣工。初代艦長にはそのままハルテンシュタイン少佐が着任する。水雷艇の乗組員からUボート乗りに転向した人物であった。竣工日より第4潜水隊群へ編入されて慣熟訓練を行う。
9月4日午前10時よりブレーメンの沖合いで試験航海し、続いて9月5日から9日まで各種兵装の訓練を行う。それらが終わるとブレーメンを出港、エルベを経由して9月11日にキールへ回航され、9月26日まで試験に従事する。9月28日と翌29日はロンネでGHG水中集音機の調整と試験を受け、10月1日にゴーテンハーフェンへ移動して試験を行った後、10月9日から12日にかけてダンツィヒで、10月13日から22日にかけてヘラ半島で急速潜航訓練に従事。
10月23日からはダンツィヒ湾で第27潜水隊群と砲術及び魚雷発射訓練を開始。海上目標に対する砲撃や対空射撃訓練を行った。11月12日から21日まではメーメルとボーンホルムの中間海域で戦闘訓練を行う。11月24日と翌25日、ゴーテンハーフェンの沖合いで設置する予定の気象用ブイのテストを行い、シュテッティンへ回航。11月15日から12月22日までオーデル造船所に入渠して残工事を実施する。出渠した後はバルト海を進んで12月23日にキールへと入港。戦闘に必要な機器を取り付け、艦の消磁を行い、配線を行って一人前の狩人となる。最後に第5潜水隊群の司令がハルテンシュタイン艦長に訓示を送って戦備完了。
1941年12月24日22時58分、フランスへの回航のため、ハルテンシュタイン艦長指揮のもとキールを出港。U-87やU-753とともにカイザーヴィルヘルム運河を通過し、U-135と合流。翌25日午前8時30分、にわか雨が降る中、ブルンスビュッテルを通過してヘルゴラント南方へと向かう。14時15分から18時30分にかけてドイツ空軍のメッサーシュミットMe109数機が上空援護をしてくれた。17時に全ての護衛艦艇や戦闘機が引き揚げ、ここからはU-156単独での航海が始まる。いつしか強くなった雨と波濤を浴びながら。12月28日午前0時、左舷距離3000mに味方のVIIC型Uボートを目撃。
ドイツ占領下ノルウェーの西岸に寄りながら北上し、シェトランド諸島近海に差し掛かると魚雷整備も兼ねて日中は潜航して進む。12月29日18時、シェトランド諸島西方150マイルを通過して北大西洋に進出する。12月30日午前1時45分、明るい月光に照らされながら水上航行するU-156は左舷50mにイギリス軍が敷設した浮遊機雷を発見。この後も何度か浮遊機雷を発見したが、いずれも敷設から時間が経過していて酷く錆びていた。18時45分、波濤によって負った損傷を修理するため洋上停止し、23時40分にオークニー諸島の西方に差し掛かる。この日、第5潜水隊群からの命令で2ヵ所に気象用ブイを設置する事になった。
1942年1月1日、ロリアンを本拠とする第2潜水隊群へ転属。冬の北大西洋は波が荒く、嵐のような天候も手伝ってU-156の船体は押し寄せる波濤に呑まれたり、揺さぶられ続けた。恐るべき自然の猛威は輸送船団にもUボートにも制約を課す。それはU-156も例外ではなかった。22時10分、ロッコール東北東80マイルで舵位置指示器が故障する事態に見舞われて応急修理。1月2日午前0時5分、U-701から南東方向に向かう護送船団発見の報が入り、ちょうどU-156の北方90マイルを航行していたが、この荒天下ではとても攻撃に向かえず見逃すしかなかった。凄まじいほどの嵐は気象用ブイの敷設をも妨げ、1月4日に「悪天候のためブイの設置を行えず」と悲鳴を上げるように司令部へ報告。翌5日午前0時45分、司令部から「2~3日後に天候が回復するためその時に敷設せよ。それまでは自由に行動して通商破壊に従事すべし」との返答があった。20時28分には「ハルテンシュタインへ。ゆっくりとだが天候回復の兆しが見える」との通信が入った事で一縷の希望が見え始める。
1月7日午前0時、荒れ狂っていた天候が落ち着き始めた。ある意味イギリス軍より強敵である天候はようやく怒りの矛を収めてくれたようだ。午前5時55分、ポーキュパインバンクに気象用ブイを敷設。翌8日午前2時44分にロッコール沖へ気象用ブイを敷設して任務完了。午前3時43分の潜航試験も無事クリアし、敷設作業完了の報告を行うと、22時3分に司令部から「全速力でロリアンに向かえ」との命令が下り、フランス方面に向かう。1月10日午後12時10分、ドイツ占領下フランスのロリアン軍港へ到着。
本拠地フランスから遠大な大西洋を隔てた先にあるカリブ海にはキュラソー島のロイヤルダッチシェル製油所、イギリスが所有するトリニダード島の製油所、ベネズエラの油田、オランダ所有のアルバ島製油所等が散在する一大産油地帯であった。連合軍はベネズエラで産出した燃料をキュラソーを経由してイギリス本国へと輸送しており、またアメリカ本土へ繋がるアルミニウムの輸送路もあるため、カリブ海一帯は敵軍のアキレス腱と言えた。パウケンシュラーク作戦の結果、アメリカ東海岸沖の対潜警戒がガバガバどころかスカスカ、慢心の末路である事が判明したため、レーダー提督は敵の産油地帯に打撃を与えるべくノイランド作戦を立案。1月15日にロリアンでU-156、U-67、U-129、U-161、U-502の艦長が集められて作戦会議。カリブ海の航路に詳しい商船の船長から状況を教えて貰う。作戦開始日は最も闇夜に覆われた新月の時期である2月16日に定められた。今回の作戦にはイタリア海軍からも5隻の大型潜水艦が参加。
1942年1月19日17時45分、ノイランド作戦に従事するためU-67やU-502とともにロリアンを出撃。ノイランドの先陣を切る。2月1日、大西洋を西進するU-156、U-67、U-502は通過報告をすると同時に残りの燃料搭載量も報告した。2月8日18時40分、敵の巡洋艦を発見して急速潜航。国旗を掲げておらず艦の特定は出来なかったが、作戦指示に従って攻撃せず無視する。2月10日21時30分、北方より接近する敵機を確認して潜航退避。集音機で海上の様子を探ってみると西へと移動する推進音を複数探知。潜望鏡にはブラジル国旗を掲げた6000トン級のタンカーと左右を警護する駆逐艦が映る。どうやら先ほどの敵機は敵船団の哨戒機らしい。敵船団はクアドループ海峡を通ってカリブ海へと入っていった。翌11日午前0時31分、U-156もクアドループ海峡を水上通過してカリブ海に侵入。そこは数々の輸送船が右往左往する獲物の宝庫であったが、攻撃予定日までは手出しせずに見逃す。
2月14日午前1時16分、アルバの南東に到着。闇夜を切り裂くセロエコロラド灯台の光が見える。午前5時30分にニコラス港の沖合い1海里を走り、900m先の入り口まで接近して港内を偵察。夜にも関わらず照明によって明るく照らされており大型タンカー4隻と小型タンカー3隻の停泊を確認する。午前6時40分にはオランジャスタド港を偵察するが、こちらは獲物となりえる船舶はあまりいなかった。17分後、警備船が近づいてきたため潜航退避。2月15日午後12時20分、ニコラス港の入り口で潜航して活発に出入りする船舶を監視していると司令部から通信が入り、「主な任務は輸送船攻撃」「好機あらば朝に陸上砲撃」「輸送船と遭遇しなかった場合は夕方に陸上砲撃」という具体的な命令を受領。
2月16日、5隻のUボートが一斉に牙を剥いた。午前7時32分、ハルテンシュタイン艦長はセントニコラス港に停泊している2隻のタンカーを獲物に定める。午前8時1分にU-156から2本の魚雷が発射され、英商船ペデルナレスとオラニエスタッド(2396トン)に命中。2隻とも朱色の炎に包まれた。ペデルナレスは一晩中燃え上がったが一命を取り留めた。だがオラニエスタッドはペデルナレスほど幸運ではなく、1時間後に沈没している。
ハルテンシュタイン艦長はレーダー提督から「アルバとキュラソー両島の海岸にある燃料タンクを砲撃せよ」との特別命令を受けており、港が混乱している間に砲撃任務の敢行を決意。午前8時11分、ラゴ精油所に向けて砲撃を開始するが、砲員が甲板砲の砲身から水栓を外すのを忘れたせいで砲身内で爆発が発生。ハインリッヒ・ブッシンガー水兵伍長が死亡し、ディートリッヒ・フォン・デムボルネ砲術士官は右足を失ってしまった。すぐさま37mm単装機関砲による攻撃に切り替えて16発を発射。そこへ沿岸警備隊からの反撃が飛んできたためU-156は急ぎ退却する。連合軍の調査によると石油貯蔵タンクに1発、家屋の壁に1発当たったのみだった。その後、U-156はオラニエスタッド港に移動。その間に無線通信で「アルバ沖で2隻のタンカー5800トンを撃沈。敵の沿岸防御はサーチライト、航空機、巡視船1隻」と司令部に報告する。
午前9時16分、距離600mからイーグル精油所の桟橋に停泊している米蒸気船アーカンソーに魚雷を発射するが、何故か起爆せずに失敗。午前9時30分に再度雷撃を試みるが不発に終わってしまう。午前9時43分に3本の魚雷を発射し、ようやく1本を命中させて大損害を与えた。16分後、哨戒中の敵機が急降下してきたため水上航行で退避。港を襲撃した事で今日は大型船舶の出港は無いだろうと判断し、アルバの北方へと移動する。午後12時47分から16時にかけてアルバとキュラソー沖を遊弋したが獲物となりえる船と遭遇せず。レーダー提督は連合軍の燃料補給に可能な限り損害を与えたいと考え、U-156に次の夜にも砲撃を加えるよう指示を出し、U-62とU-502に対しても可能であれば砲撃するよう命じた。ところがU-156の砲撃は連合軍に必要以上の恐怖を煽ったようで防備が厳重になり、海岸の全灯火は消され、沿岸一帯は完全に闇の中へと閉ざされていた。目標の発見が困難になってしまったためハルテンシュタイン艦長は砲撃を断念。Uボートの本領である通商破壊戦に移行した。
2月17日午前1時、死亡したブッシンガーの葬儀を執り行って遺体を海葬する。
2月18日午前0時、U-156はトリニダードから出港してくる船が多い事、出港する船は北西のコースを取っている事、トリニダード港内には大型タンカー2~4隻が停泊している事を司令部に報告。右足を失ったデムボルネ砲術士官を司令部の許可を得た上でヴィシーフランス領マルティニーク島へ上陸させる事が決まる。その後、モナ航路とウィンドワード航路を中心に攻撃を行う。
2月19日22時10分、司令部からノイランド作戦に参加中のUボート群へ通信が入り、「アメリカの船は次のような命令を受けている。一、日中以外はカリブ海の港へ入らない事。二、既にカリブ海にいる船舶は暗くなってからは航行しない事」と情報提供を受ける。Uボートの猛攻は敵国に着実にダメージと恐怖を与えているようだった。
2月20日午前11時31分、マルティニーク島西方約60マイルで米商船デルプラタ(5127トン)に魚雷1本を発射し、右舷後方に命中。雷撃を受けたデルプラタは操舵室と海図室を破壊されて航行不能となり、右舷側へと傾く。その際に汽笛装置が破壊されたのか汽笛が常時鳴り響いていた。デルプラタは船尾砲を旋回してU-156を砲撃してきたため、トドメを刺すべく午前11時54分に急速潜航し、午後12時20分に発射した魚雷は左舷側に命中。すかさずデルプラタから12発の砲弾が飛んできたが、左舷への傾斜が増大して乗組員は船を放棄。無防備になった敵船を葬るチャンスを、15時54分、上空より飛来した敵の飛行艇が台無しにする。やむなくハルテンシュタイン艦長は潜航退避を命じて海域からの離脱を図った。18時に浮上するも、まだ監視を続けていた飛行艇に見つかって16分後に潜航退避させられている。21時48分に浮上してようやく空の脅威から解放。翌日、救助されたデルプラタの乗組員は船を復旧させようと乗船するも不可能だと判断し、各々持ち物だけを回収して下船。米水上機母艦によって撃沈処分された。
2月21日午前0時、負傷したデムボルネ砲術士官に治療を受けさせるべくマルティニーク島に接近。詳しい海図が無いため海図書を使ってフォード・ド・フランス港近辺の海図を自作した。マルティニークは親独中立のヴィシー政権の領土ではあるものの、現地人の態度が分からない事から、いつでも撃てるよう20mm単装機関砲が準備されていた。午前3時、機密保持の目的で司令塔の記章を消し、潜望鏡にドイツの国旗を掲げた上でフォード・ド・フランス港に対して「負傷者移送のためボートを送って欲しい」と依頼。午前4時35分、ヴィシーフランス軍の将校と軍医を乗せた軍艦ディンギーが横付けし、デムボルネ砲術士官を移乗させる。彼は無事治療を受けて終戦まで生き残ったが、この一件はアメリカとヴィシーフランスの外交関係を悪化させたという。午前4時50分、U-156は港を出発。出入口のグアドループ海峡南方で魚雷を装填する。
2月23日午前0時、プエルトリコの南方へ移動。正午に曇天の海上へと浮上するが、14時17分と56分に敵機の接近を受けて急速潜航。翌24日午前0時10分に再び敵機の急降下を受け、太陽が昇った午後12時10分と17時34分にも敵機に襲われるなど航空哨戒の厳重化を思い知らされる。
2月24日18時19分、プエルトリコ西方でU-156は2隻のタンカーを発見して狩りを始める。追跡の末、翌25日午前1時38分に急速潜航。午前2時19分に2本のG7a魚雷が放たれ、英商船ラ・カリエール(5685トン)の右舷中央部と船尾に命中。一時は洋上停止させたもの、応急修理したのか10分後に9ノットで動き始め、潜水艦を警戒してジグザグ運動も始めた。身をよじって逃げようとする獲物を狩るべくU-156は一度浮上し、有利な攻撃位置に就いた午前5時19分に再度潜航。距離1000mから2本の魚雷を発射した。しかし明るい月明かりによって魚雷が引く白線を右舷の砲手に発見され、回避される。そして魚雷が伸びてきた方向に4インチ船尾砲弾を1発撃ち込んだ。以降、何の攻撃も無かったため船長は逃げ切れたと安堵する。だが海の狼は簡単には獲物を諦めたりはしない。魚雷発見の原因となった月が沈むのを待ってから狩りを再開。午前8時39分、U-156から伸びてきた魚雷はラ・カリエールの右舷前方に直撃して船首を吹き飛ばす。もはや助かる術は無いと判断したのか乗組員は船を放棄、バランスを失ったラ・カリエールは右舷側へと傾いて沈没した。海岸が近いため、U-156は生存者の尋問を行わずに離脱する。
2月25日14時21分、2000トンの敵貨物船と遭遇するが対潜哨戒機を伴っていたため潜航退避。航空機の目撃が相次いだ事、また陸地に近い事からハルテンシュタイン艦長はその日の狩りを断念して海中で過ごす。2月26日午前7時、全ての魚雷を使い果たしたため、艦長の指示で破損した部分を切り落として甲板砲を復旧させる。13時に修復作業完了。その17分後に北東で敵機が目撃されたが、U-156を発見していなかったようなので潜航退避せずにやり過ごす。この判断は見事に功を奏した。修理が終わってすぐ獲物がU-156の前に姿を現したのである。
2月27日午前10時35分、ドミニカ共和国カボフランシスビエホ北東約15マイルで英商船マクレガー(2498トン)を襲撃。右舷1600mから甲板砲を撃ち込む。初弾がマクレガーの船尾に命中して砲手1名が死亡、2名が軽傷を負う。U-156の37mm機関砲が火を噴いて更なる損傷を与えるが、マクレガーも遭難信号を打ちながら反撃に転じ、4インチ船尾砲弾が飛んできた。これを受けてU-156は素早く左舷側へと移動して攻撃を続行。敵船の乗組員にUボートが2隻いるという誤った認識を植え付ける事に成功した。手傷を負っていくマクレガーは海岸へ逃げようとするも、2発の命中弾を受け、35分後に機関室を破壊された事で炎上。遭難信号も送信出来なくなった。午後12時10分、船体中央部に撃ち込まれた105mm砲弾がマクレガーを真っ二つに裂いて撃沈。92発の甲板砲と112発の37mm機銃弾を消費した。
2月28日早朝、U-156はモナ海峡に差し掛かった。そこで往来する大量の輸送船と集中的に行われる航空哨戒を目撃して司令部に報告する。同日午前11時17分、モナ海峡北方130マイルでジグザグ運動中の米商船オレゴン(7017トン)を900mの距離から砲撃。放たれた105mm砲弾は右舷船体と船橋に命中し、船長とブリッジ要員を殺害。無線装置も破壊して敵船の口を塞ぐ。制御不能に陥ったオレゴンは突如6ノットの速力で左に転舵し、U-156目掛けて迫ってきたが体当たりを意図した訳ではなく、U-156の艦首に接触して止まった。U-156は左舷側に移動して75分間に渡って砲撃。遂に甲板砲弾も使い果たした。37mm機銃弾を喫水線に撃ち込むと、流入した海水に呑まれてボイラーが水蒸気爆発。これがトドメとなってオレゴンは沈没した。この狩りを以ってU-156は北東方向への離脱を図り、ロリアンへの帰路に就いた。
3月1日午前0時58分、リンツとウィーンの海上交通が多い事を報告。3月3日18時32分、バミューダ南東で敵の汽船を発見して潜航するが、襲撃するには不利な明るい視界と敵船の攻撃準備が既に整っていた事から狩りを断念。3月7日にはイギリス軍の航空機がU-156を発見・攻撃してきたが、損傷は無かった。3月12日午前1時から4時間、アゾレス諸島近海に留まって気象報告を送信。帰り道は比較的平穏で済み、3月15日にビスケー湾へ到達、潜航と浮上を繰り返しながらイギリス軍の哨戒網をやり過ごした。
3月17日午前10時5分にロリアンへ帰投。5隻撃沈、2隻撃破という上々の滑り出しを見せた。ノイランド作戦全体で見ると貨物船45隻と灯船1隻撃沈、貨物船10隻撃破の大戦果に対し、喪失艦はゼロという完勝。行方不明になる船舶が続出した事で中国人乗組員が「護衛無しでは出港しない」と反乱を起こし、輸送を再開出来るまで製油所の生産量が減少するという副次効果も生み出した。
2回の戦闘航海を無事終了した事でハルテンシュタイン艦長にはUボート戦闘章が授与。また重傷を負ったデムボルネ砲術士官に代わって新たにツア・ゼー予備中尉が着任する。
4月22日20時8分、U-502とともにロリアンを出港。小雨が降るビスケー湾を出口に向けて突き進む。翌23日にパナマ運河近海を攻撃エリアに定められ、U-155とともに狩り場へと向かう。ところがパナマ運河付近は月明かりが強くて襲撃に適さない事が判明し、5月5日14時40分にトリニダード300マイル圏内とU-502が既に潜んでいるキュラソー島近海に変更。
道中の5月6日にディーゼルコンプレッサーが故障したとの報告が入る。洋上では自力で修理する事が出来ない。そこで艦長は近くにいる僚艦U-66と無線連絡を取り、修理用部品を分けて貰えるよう頼んだ。5月10日15時16分に両艦はランデブー。燃料と必要な予備部品を補給して貰ってディーゼルコンプレッサーを修理した。
5月12日20時5分、ハリファックスからケープタウンに向けて8629トンの軍需物資、弾薬、戦車、ビール、タグボート等を輸送しているオランダ商船コエンジット(4551トン)を捕捉。翌13日午前1時20分に2本の魚雷を発射したが外れてしまう。気を取り直して午前3時58分に3本目の魚雷を発射し、今度こそ右舷後方機関室に命中させて撃沈する。乗組員たちは救命艇で脱出。そのうちの1隻を捕まえ、艦長が船の名前、国籍、目的地等を尋問するが、連合軍の教育が行き届いていたのか生存者は漠然として曖昧なものであり、有益な情報は得られなかった。にも関わらずハルテンシュタイン艦長は彼らに最も近い陸地と針路を教えた。ちなみに積み荷のタグボートであるレティシア・ポーターは沈没せずに漂流し、およそ3週間後にU-69の雷撃で撃沈されている。最初の狩りを成功させた後、バルバドス島の南東へ移動。
コエンジットを沈めてから12時間後の15時31分、貨物船から立ち昇る煙を発見して追跡を開始。22時5分、バルバドス西方で航行中の英商船シティ・オブ・メルボルン(6630トン)を雷撃し、船橋下に命中。23時4分からは浮上して甲板砲で砲撃を加える。24発撃ち込んだところで船尾が少し持ち上がり、船体が真っ二つに裂かれて前部と後部に割れる。損傷の激しい前部は間もなく沈没したが後部は沈む気配が無かったため更に5発発射。5月14日午前0時26分にシティ・オブ・メルボルンは撃沈された。
5月14日17時20分に新たな獲物を発見したU-156は、19時46分に急速潜航。20時45分に魚雷を発射するが回避されてしまい、適切な攻撃位置に就くため一度浮上を強いられる。粘り強く追跡を続け、翌15日午前2時54分にバルバトス北東約420マイルでノルウェー商船シリエスタッド(4301トン)の左舷に魚雷1本を命中させる。乗組員たちは左舷側の救命艇2隻に乗って脱出を図るが、2人の男性が海へ転落して溺死している。そして午前3時31分に軍需物資を抱えてシリエスタッドは沈没。いつものようにハルテンシュタイン艦長が生き残った生存者を尋問し、それが終わると陸地への針路を教えて立ち去った。30名の生存者はユーゴスラビアの蒸気船クパに救助されたが…。
シリエスタッド沈没から11時間後の14時26分、クパ(4382トン)がU-156に発見される。こうなってしまっては哀れなる獲物に助かる道は無かった。18時45分にU-156は潜航。そして20時59分、ジグザグ運動むなしく魚雷が船橋下に命中し、数分以内に船首より沈没。21時13分に浮上したU-156は生存者に尋問を実施した。ちなみにU-156側はクパにシリエスタッドの生存者が救助されていた事を正しく認識していた様子。
5月17日17時22分、9824トンの一般貨物を積んでバスラからアバダンに向かっていた英商船バーデール(5072トン)を発見。21時4分、マルティニーク島東方500マイルでU-156の艦尾発射管から放たれた魚雷が直撃し、40mもの火柱が築かれて21時14分に撃沈。尋問のため泳いでいる生存者1名を艦内へ収容。尋問が終わると近くの救命艇へと移してあげた。
5月18日、U-156はマルティニーク島に在泊するフランス商船を自由フランスの手に渡らないよう破壊、パトロール中の米艦艇を攻撃、島の港や停泊地を偵察するよう命令される。午前9時39分、4500トンのマンガン鉱石を積載してノーフォークに向かう途上の米商船クエーカーシティ(4961トン)を捕捉。午前10時18分、U-156はクエーカーシティの船尾に魚雷を命中させ、船体後部を粉砕。瞬時に沈没が秒読み段階となる。死亡した11名を除いて10人の士官と20名の乗組員が4隻の救命艇で脱出し、雷撃から僅か13分でクエーカーシティは海の底へと引きずり込まれていった。海域から立ち去る前にハルテンシュタイン艦長が尋問を行い、それが終わるとバルバドスへの針路を教えて解放した。
同日14時7分、英商船サンエリシオを発見して追跡を開始する。18時52分にサンエリシオの右舷中央へ魚雷2本を命中させるが沈没には至らず、それどころかサンエリシオの備砲が旋回してU-156を砲撃してきたため浮上して攻撃位置を変更。5月19日午前4時39分と午前7時39分に右舷後部へそれぞれ魚雷1本を命中させたがこれでもまだ沈まず、午前9時17分の雷撃は敵船のジグザグ運動によって不成功に終わった。やがて司令部からマルティニーク島方面に向かうよう命令されたため追跡を断念しなければならなくなった。
5月19日15時25分、敵哨戒機が急接近してきたため潜航退避するが、水深8mまで潜ったところで敵が投下した爆雷が炸裂。そこへ更に2発の投弾を受けて軽微な損傷が発生。18時30分に浮上するもすぐに北東から敵飛行艇が飛んできて再度潜航。ゆっくりと損傷の修理を行うべくしばらく潜航し続けた。
5月21日夜、U-156は暗闇に隠れてマルティニークを偵察。西の湾は暗くて何も見えず、フォート・ド・フランス港内にはタンカー5隻と貨客船3隻が確認された。18時6分、フォート・ド・フランス港から出てきたドミニカ共和国商船トルヒーヨ・プレジデンツ(1668トン)を発見して狩りを開始。護衛を伴っていない敵船などUボートの前では格好の獲物に過ぎなかった。18時29分にU-156は魚雷を発射し、トルヒーヨ・プレジデンツの船尾に命中。4分以内に沈没へと追いやった。爆発により乗組員24名が死亡、14名が港まで辿り着く事が出来た。
快進撃を続けるU-156の前にいよいよ強敵が姿を現した。カリブ海方面の産油地帯が弱点なのはアメリカ軍も承知しており、イギリスが領有する島に駆逐艦部隊を常駐させていたのである。5月25日午前8時30分、西インド諸島マルティニーク島沖で哨戒していた米駆逐艦ブレイクリー(DD-150)はソナー探知により近海にUボートが潜んでいる事を掴む。早速ブレイクリーは反応があった地点を中心に走査して潜水艦狩りを行うが、たまたま艦の周囲にはブラックフィッシュの群れが回遊していて魚群を探知したのだと判断された。午後12時50分、再びソナーによる音響接触を得たブレイクリーは爆雷投射のコースに入るが、これも魚群だと分かって攻撃中止。午後12時57分の反応も約1300匹からなるブラックフィッシュの群れであり、反応がある方角と魚群の方角が一致していたので攻撃せず。13時45分、ソナー室に行った整備士が音響設備の注油を10分間に渡って行う。しかしこの行動は無許可で行われたもので、この10分間は完全に隙だらけだった。10分後にソナーは動作を再開するも、U-156はその隙を逃さなかった。
14時頃、左舷側へと伸びて来る魚雷の航跡を2~3名の乗組員が発見。しかし時既に遅し。放たれた魚雷1本が艦首に命中し、右舷へ15度傾かせるとともに艦首を喪失させる。乗組員6名が戦死、負傷者21名を出す損害を負った。U-156はGHG水中集音機によって先にブレイクリーの存在を掴んでいたのだ。だが相手は軍艦だけあって立ち直りは早かった。全ての部署が潜望鏡を血眼になって探し、主砲と魚雷はすぐに撃てるよう準備され、機関室で発生した火災は消火班によって鎮火された。先読みにより先制攻撃に成功したU-156だったが、ハルテンシュタイン艦長は冷静だった。艦首を吹き飛ばされる重傷を負いながらもブレイクリーの機関は健在であり、またマルティニーク島近海は水深が浅くて逃げられない事から追撃を中止(異説では艦長はトドメを刺す事を望んだが司令部に拒否されたとも)。命からがら助かったブレイクリーは駆逐艦ブレッキンリッジ、グリア、ターベル、2機のカタリナ飛行艇に護衛されながら港へ後退した。
5月26日午前0時55分、ソロモン岬南方100mで水深13mに潜航してフォート・ド・フランス沖で潜望鏡偵察。上空を警戒中の敵飛行艇が何度も通り抜けていく。午前4時16分、ついに潜望鏡を発見されたらしく敵飛行艇が向かってきたため深く潜航。午前5時57分に遠方から爆雷の炸裂音が響いた。
難敵を退けたU-156は5月28日17時2分に蒸気船の煙を発見して急速潜航。しかし獲物との距離が近づきすぎて魚雷が撃てない事に気付き、18時26分に一度浮上して距離を取る。翌29日午前0時7分に再度潜航。午前1時3分、U-156から発射された魚雷が英商船ノーマンプリンス(1913トン)の命を刈り取った。右舷中央部に突き立てられた魚雷は主蒸気管を粉砕し、機関室を浸水させて行動の自由を奪う。砲手の一人が急速に沈むと予感。放棄命令も出ていないのに残っていた左舷側の救命艇を海へ降ろし、そこへ我先にと三等航海士と10名の乗員が乗り込む。船内に残っている乗組員は何とか船を生かそうと決死に努力を重ねるも、被雷の影響で無線装置が破壊されて遭難信号を打てず、午前1時37分に浮上したU-156から砲弾を撃ち込まれた事で復旧が絶望的となる。穿たれた穴から海水が入り込み、機関室に達して水蒸気爆発が発生。内部を破壊し尽くされたノーマンプリンスは船尾を空に掲げて逆立ち状態に陥り、海へ吸い込まれるように沈没していく。甲板にはまだ乗組員が残っていたが何とか沈没する前に脱出。それでも船長、乗組員13名、砲手2名が死亡した。
5月29日15時39分、ハルテンシュタイン艦長は「マルティニーク外港沖では昼夜を問わず2機の飛行艇と駆逐艦が哨戒を行っている。夜でも爆撃を受ける。メインバラストタンクに1ヵ所、バッテリーセルに3ヵ所の損傷あり」と司令部に打電。カリブ海の厳しい警戒状況と航空攻撃を報告する。5月31日15時53分に浮上。ジャマイカ・バルバドスを結ぶ線の南方25マイルへ移動する。22時14分に航行する船舶を発見して急速潜航するが、23時48分に中立国であるスペインの船だと確認されたため攻撃中止。カリブ海は確かに獲物が多い海域ではあるが、時折このように中立国の船が混じっているので闇雲に攻撃する訳にはいかなかった。
6月1日21時43分、セントルシアとセントヴィンセントの中間でブラジル商船アレグリーテ(5970トン)を発見。21時51分に最初の雷撃を行い、アレグリーテの船尾に命中させる。しかし効果は船体を少し沈下させた程度に留まった。このためU-156は海中で旋回して次なる攻撃のチャンスを窺っていたが、翌2日午前1時36分に船は放棄されたと判断。午前2時12分より浮上して水上砲撃を仕掛け、20発の105mm砲弾を撃ち込んで火災を発生させる。午前3時、アレグリーテはゆっくりと船体を持ち上げて海中へと沈んでいった。ブラジルは当時中立国であったが国旗の掲揚に問題があり、距離300m以内でなければ視認する事が出来なかった。攻撃後、セントヴィンセント海峡へ移動。
6月2日午前3時59分、勝利の余韻をかき消すかのように北方より2機の陸上攻撃機が急速接近、上空を旋回し始めたため潜航退避する。
6月3日午前8時40分、バルバドス南方約40マイルで英スクーナー船リリアン(80トン)を発見して威嚇射撃を以って停船を命じる。リリアンは少し減速した後、救命艇を降ろして乗組員は脱出。ハルテンシュタイン艦長は脱出した乗組員に尋問を行うも彼らは西インドの訛りが強くて理解が難しかった。とりあえず彼らからリリアンにまだ船長と3名の乗組員が残っている事を聞き出し、午前9時26分に再度威嚇射撃を行ったが、今度はそれを無視して逃走を図る。停船命令を無視した代償としてリリアンには37mm機銃弾52発、20mm機銃弾270発が発射され、あえなく沈没。U-156の指示に従わなかった船長らは行方不明となった。
6月4日午前11時56分、艦尾魚雷発射管より引き抜かれた損傷魚雷から酸水素ガスが発生。やむなく浮上して10分間の換気を強いられたが、幸い敵機や敵艦に見つかれずに済んだ。6月11日、トリニダードに向かうU-126とU-128のために最新の情報を伝達する。6月14日13時30分、カリブ海から引き揚げて帰路に就く事を司令部に報告。6月22日16時57分、トリニダード方面に向かっているU-502と遭遇。17時45分にU-156は送油ホースを使って燃料供給を開始し、20時17分に完了。互いの無事を祈って別れた。ところがU-502は後の7月6日に撃沈されて二度と戻ってくる事は無かった。
6月23日16時10分、U-502によって発見されていた英商船ウィリマンティック(4857トン)を捕捉。およそ14時間に及ぶ執念の追跡により、翌24日午前8時10分に最後の魚雷を発射するが、外れてしまったため午前9時4分より水上砲撃戦を挑む。発射された105mm砲弾は右舷側の救命艇と無線室を破壊し、在室していた通信士と乗組員2名を殺害。乗組員は残った救命艇で船外へと脱出した。U-156は一旦砲撃を止め、生存者に対して死傷者を出した事を謝罪して海図を提供。そして船長を捕虜にして艦内へ移乗させる。午前10時52分、無人船となったウィリマンティックへの砲撃を再開、午前11時45分に撃沈する。
7月7日午前8時6分、ロリアンに帰投。11隻(4万4385トン)撃沈、2隻撃破(9232トン)というノイランド作戦時よりも大戦果を挙げる事が出来た。しかし今回は喪失艦ゼロとは行かずカリブ海方面でU-157とU-158が失われている。この航海の後、一等航海士のポール・ジャストが異動となってU-156から離れ、新たにレオポルド・シューマッハ一等航海士が配属される。ちなみにジャストは後にU-546の艦長となっている。驚嘆すべき戦果を引っさげた功績によりハルテンシュタイン艦長は中佐へ昇進。
7月20日、ハルテンシュタイン艦長と乗組員はザクセン州の都市プラウエンの住民から英雄的歓迎を受ける。乗組員全員が鉄道駅から市庁舎までの凱旋パレードを行い、住民たちの歓呼の声に包まれた。
8月20日19時16分、U-68とともにロリアンを出港。今回はイギリス軍の重要拠点であるフリータウンやケープタウンの海上輸送路を攻撃すべく、8月25日よりU-68、U-172、U-459、U-504とウルフパック「アイスベア」を編制。ケープタウン方面への出撃は「アイスベア」が初めてであり、1万1100kmも離れているため補給潜水艦のU-459まで加えた珍しい編制となった。しかし長駆するだけの価値は確かにあった。アゾレス諸島近海はジブラルタル及びイギリス本国から飛来する哨戒機の航空哨戒圏外なので海の狼たちは空からの脅威に悩まされる事なく悠々と狩りを行えたのである。一方でデーニッツ元帥は「この海域で最も価値のある獲物だけを選んで攻撃せよ」と命令を下す。あまりに攻撃に熱中しすぎるとイギリス軍に余計な警戒心を与え、ケープタウンから出てくる船団の護衛兵力が強化されてしまうからだった。
ところがイギリスの潜水艦追跡室は暗号解析によりUボートが南下してくるのを察知。大慌てでケープタウンから出る船舶の航路を変更したため、「アイスベア」は閑散とした大海原から獲物を探し当てなければならなくなってしまった。
8月22日午後12時36分、水上航行中に北方からロッキードハドソン型の敵機が急降下してきたため潜航退避。敵のレーダー波が検知されなかった事から偶然の遭遇と思われた。14時43分には対潜トロール船を発見して再度潜航退避している。8月23日にビスケー湾を脱してスペイン北東部へ到達し、8月25日にリスボン西方400マイルを南下。
8月26日21時34分、カサブランカ西方で貨物船の煙を発見したU-156は静かに追跡を開始し、23時45分に急速潜航。狙われたのは英商船クラン・マクワーター(5941トン)。SL-119船団に所属して郵便物や鉱石類を運搬していたが、6日前のエンジントラブルで船団から脱落していて何の護衛も伴っていなかった。翌27日午前1時、マデイラの北北西190マイルでクラン・マクワーターの左舷に魚雷2本が直撃。隔壁やハッチカバーが吹き飛ばされ、あっと言う間に左舷へ傾いて10分で沈没。乗組員は3隻の救命艇で船外に脱出した後、ハルテンシュタイン艦長から尋問を受け、解放されると同時に一番近い陸地の方角と距離を教えられた。
8月31日、ブランコ岬北西300マイルを航行。「アイスベア」は9月1日に解散となったが、戦果を挙げられたのはU-156のみだった。9月2日16時、10ノットで航行する船舶を確認して急速潜航。ところが相手はビルバオから出発してきたスペインの貨物船モンテヌリアだと判明して攻撃中止。
1942年9月12日午前11時37分、U-156は獲物を発見して追跡を開始。そして今回の狩りは世界に大きな影響を与えるものとなった。敵船の正体は英大型客船ラコニア(1万9695トン)。開戦と同時にイギリス海軍に武装商船として徴用され、1941年10月1日からは戦争運輸局に移管して軍隊輸送船となる。ルドルフ・シャープ大佐の指揮のもとラコニアは士官及び乗員463名、民間人87名、イギリス軍人286名、ポーランド軍人103名、イタリア人捕虜1793名を乗せてケープタウンからフリータウンに向かっていた。22時7分、アセンション島北東360マイルでU-156はラコニアを雷撃し、2本とも船体中央部に命中。致命傷を与えたのか、船上では救命艇を降ろそうと右往左往する人影が確認出来た。22時22分、ラコニアは潜水艦攻撃を受けた事を示す「SSS」信号を繰り返し送信するが、不運にも連合軍に受信されなかった。
U-156は生き残った上級将校に尋問するべく浮上。そこで耳にしたのは闇夜の海から聞こえてくる助けを求める声だった。その数や大きさが尋常ではないとハルテンシュタイン艦長は気付き、およそ1200~1800名が乗船していたのではと直感。そして彼らの大半が捕虜や民間人だと分かると直ちに赤十字旗を掲げて救助活動を開始。23時23分、ラコニアはその巨体を海中へと没した。
9月13日午前1時25分、艦長は暗号電文で「ハルテンシュタインは英船舶ラコニアを撃沈。イタリア人捕虜1500名を確認。既に90名を救助。指示を乞う」と司令部宛てに送信。ドイツ海軍のカール・デーニッツ元帥はベルリンに仔細を報告するも、ヒトラー総統が激怒して救助中止を命令。しかしデーニッツ元帥は元潜水艦乗りだけあって救助活動の中止を何のためらいもなく下す事が出来ず、板挟みに遭う。そこへ水上艦隊を率いるエーリッヒ・レーダー提督が「ケープタウン攻撃に向かうUボートからU-506とU-507のみを抽出し、イタリア海軍とヴィシーフランスにも救助を求めては?」と助言して根回しをしてくれた。
U-156の上下甲板には女性5名を含む生存者200名がズラリと並び、更に200名が乗った救命艇4隻を牽引。午前6時、平文で「ラコニアの船員と乗客を救助しに来る船舶に対しては危害を加えない限り攻撃しない」という電報を英語にして1時間おきに発信。周辺の連合軍船舶に呼びかけた。ところがどの船舶も現れず、フリータウンのイギリス軍には傍受されたが、罠を疑ってわざと救援を出さなかった。司令部はU-156に現場海域に留まるよう命じ、U-506とU-507を全速力で向かわせる。
9月15日午前11時30分にまずU-506が救援に現れ、数時間後にU-507と伊潜水艦コマンダンテ・カッペリーニが到着。それぞれ救命艇を1隻ずつ牽引してアフリカ西岸を目指す。やがてゼネガルとダホメーから出港してきたヴィシーフランスの艦艇とも合流し、あふれんばかりの生存者を移乗させる。同日夜、漂流中の生存者を探すべく潜水艦4隻は別行動を取る事になり、U-156は単艦で夜の海を進む。
9月16日午前11時25分、アセンション島の秘密基地から飛来したアメリカ軍のB-24リベレーターに発見される。ハルテンシュタイン艦長はモールス信号と英語でパイロットに援助を求める合図を出す。救助されたイギリス軍の士官も連合軍の暗号を使って「今ドイツの潜水艦から話している。艦内にはイギリス軍将校の他に、ラコニアの生存者――兵士、民間人、女性、子供が乗っている」と送信した。B-24の機長ジェームズ・D・ハーデン中尉はメッセージに答えず、黙って海域から飛び去って行った。その後、ハーデン機長は基地にいる上級士官ロバート・C・リチャードソンⅢ世に報告し、「潜水艦を撃沈せよ」と非情の命令を受ける。
午後12時32分、現場に戻って来たB-24は返答代わりに爆弾を投下。U-156が牽引していた救命艇に直撃して数十人のイタリア人とイギリス人の命が失われてしまう。もはや攻撃されては救助どころではない。ハルテンシュタイン艦長はまだ残っている救命艇を切り離し、「ヴィシーフランスの艦艇が助けに来るから現場に留まれ」と指示。甲板にいる生存者には海へ飛び込むよう指示を出して潜航退避。B-24は救命艇2隻を撃沈しただけだったが、何故かU-156を撃沈した事になってメダルが授与されている。U-156は攻撃を受けた事を司令部に報告し、潜望鏡の故障と船体を修理するため西方へと脱した。浮上後、掲げていた赤十字旗は己の無力を物語るかのように手すりに引っかかっていたという。B-24もU-156も去り、洋上に残された
2隻の救命艇。彼らは艦長の言いつけを破ってアフリカに向かおうとしたが逆に漂流。1隻は27日後にアフリカへ漂着するも生存者は16名にまで激減、もう1隻は40日後にイギリスのトロール船によって救助されたが52名中4名しか助からなかった。
別行動中のU-506、U-507、カッペリーニは攻撃を受けなかったものの、U-156が救助したはずの生存者が再度漂流している事に気付いて異常を察知する。午前11時30分、カッペリーニはボルドーのBETASOM基地に「他の潜水艦が攻撃を受けた。敵襲に対応するため潜航を許可されたい。女性、子供、イタリア人以外の生存者は救命艇に残し、ヴィシーフランス船に救助させる。敵機と敵潜の動きを厳重に監視して欲しい」と連絡する。U-506とU-507は司令部からU-156に対する攻撃の確認と生存者の数を尋ねられた。U-506は9名の女性を含む151名、U-507は15名の女性と16名の子供を含む491名と返答。続いて司令部はU-156攻撃への報復措置として「イギリス人とポーランド人を全員漂流させた上でその場に留まるよう命じよ」と指示したが、艦長の独断で実行されなかった。
ラコニア号事件はアメリカ軍の戦争犯罪であった。戦時国際法で「海上で救助活動中の船舶(勿論潜水艦も含む)に攻撃を加えてはならない」と明記されているからだ。にも関わらずアセンション基地は潜水艦を攻撃するべく5機のB-25とハーデン機長のB-24で索敵を続け、9月17日には151名の生存者を乗せたU-506が攻撃に遭った。不幸中の幸いだったのは、ダカールからヴィシーフランス艦艇3隻が(救助のため)出港していくのを見て、イギリス軍がアセンション基地に侵攻すると勘違いして潜水艦狩りが取り止められた事だった。独伊潜水艦による献身的な救助により2741名中1083名が助かった。しかし死者1658人のうち1420人がイタリア人捕虜であり、イタリア人は殆ど助からなかったと言える。騎士道を貫いたU-156が攻撃を受けた事から、デーニッツ元帥は撃沈した船舶から生存者を救助するのを禁じるラコニア命令を発布。表立って救助活動が行われる事は無くなったが、それでも時折Uボートは隠れるように生存者を助けていたという。
U-506が航空攻撃を受けた9月17日、U-156はベルリンからの無線を受信。ハルテンシュタイン艦長に海軍125番目となる騎士鉄十字章の授与が発表された。これを祝して艦長は乗組員一人ひとりにビール瓶を1本ずつ配り、乗組員全員の功績を称えるスピーチをし、彼らの名前を軍服に付けて授与式に出ると伝えた。
9月19日午前4時30分、ケープタウン南東920マイルの洋上。B-24から受けた小さな損傷を修理している時に見張り員が船舶を発見し、直ちに追跡を開始する。充分距離を詰めた14時42分に急速潜航。15時46分、アセンション北北西にてケープタウンからフリータウンに向かっていた英商船ケベックシティ(4745トン)に魚雷1本を発射し、左舷に命中させる。ケベックシティは左側に傾いたが沈没には至らず、16時54分に浮上した時も未だに浮かんでいたため、17時5分から19時13分にかけて砲撃。37mm機銃弾58発、105mm砲弾7発を発射した後、船尾の弾薬庫に誘爆してケベックシティは爆沈。尋問のため波間を漂う救命艇のもとへ向かった。生存者たちに十分な水と食糧がある事、ウィリアム・トーマス船長が自分たちの位置を正しく把握しているのを確かめると、艦長は今回の攻撃の理由を説明。艦長自身は彼らをアフリカ西岸まで牽引したかったが、ラコニア号事件で生存者を助けようとして攻撃を受けたため、残念ながら出来ないと詫びた。最後まで毅然とした騎士道を貫くハルテンシュタイン艦長であった。
9月21日にU-506と合流して燃料補給を受ける。U-156は精力的に敵船を探し求めたが全く遭遇出来ず、10月6日に敵船との遭遇が無かったと報告している。またアメリカ軍の飛行場があるアセンション島に近い事もあり、頻繁に飛来する哨戒機によって何度も海中へ押し込められていた。10月26日、U-443が発見したON船団と、U-156がラコニアの航海士官から得た情報が一致している事が判明。この情報をもとにUボートは狩り場の位置を移動させる。帰路に就いた10月30日、バッテリー室内の圧力船体に小さな漏れを確認。修理しようにも手が届かない嫌な場所にあるため浅い潜航しか出来なくなる。11月3日にU-462から燃料補給を受ける。
1943年1月16日17時、ロリアンを出港。まずはカーボベルデ諸島方面に向かう。1月26日、分散した敵船団を迎え撃つべくU-108やU-510とともに待ち伏せを行うが、2日後にウルフパック参加の目的でU-108が離脱してしまったため2隻で待ち伏せを続行する。2月3日にU-510と海域を移動。2週間Uボートが出現しなかった海域なので敵船舶の往来も多いだろうと予想されたが会敵に失敗。2月12日、南米北東のジョージタウン沖まで長駆したU-156は次の新月の時期にトリニダード沖で通商破壊を行うよう命じられる。トリニダード近海にはU-156を含む6隻のUボートが集められ、かつてのノイランド作戦のような大規模作戦が準備されていた。
3月5日、U-156はメトックスレーダー受信機が作動しない新たな位置特定方法をイギリス軍が使用していると報告。トリニダード近海に来てから、サーチライトの照射を受けていないにも関わらず敵機は驚くべきほど正確な爆撃を、一度どころか何度も加えてきたのだという。ビスケー湾でもU-333が同様の報告を寄せていた。危険を冒して観察した結果、敵は新たなレーダーを開発したと予想している。ハルテンシュタイン艦長は知る由も無かったが、実際イギリス軍は1942年の夏の終わり頃に10センチ極超短波レーダーを開発しており、小さな目標を更に長距離から測定出来るようになっていたのである。
3月6日、トリニダード島北部のポートオブスペインからグレナダにかけて行われる敵機の強力な航空哨戒、メトックスでは探知出来ないタイプの新型レーダーの出現、サーチライト無しの正確な爆撃など不利な状況が重なり、テスティゴスに出入りする敵船団への攻撃は不可能だと報告。それでも海上交通路を攻撃しようと移動するU-156だったが…。
1943年3月8日、11~15隻からなる敵船団の存在をU-510が発見・報告。状況に応じてU-156が攻撃に向かう手はずとなっていた。バルバドス島東方280海里にて高度4500フィートを飛行していたPBYカタリナ飛行艇は浮上中のU-156をレーダーで捕捉。視界が良好だったためレーダーを切り、雲に隠れてながら接近して矢のように急降下してきた。この襲撃はU-156にとって全くの奇襲だった。
白色に塗装されたカタリナがU-156の直上を航過した後、機体を翻して再び迫ってくる。U-156の針路に対して直角に交わるように突っ込んで来たカタリナは爆弾倉を開き、13時15分、高度30mと23mからそれぞれ2発のトーペックス高性能爆薬を満載したマーク44爆雷を投下。U-156側も迎撃しようとしたのか甲板に2名の乗組員がいたようだが間に合わず、2発が右舷後方3mと4.6mに着弾。水中破壊力に優れたトーペックスの爆発により艦体が持ち上げられて真っ二つにへし折れ、艦首と艦尾が空に掲げられる。U-156はトーペックス爆薬を使用した爆雷の最初の犠牲者となってしまった。早い沈没だったにも関わらず11名の乗組員が海上への脱出に成功。レーダー探知したところ潜水艦は探知されなかったため、血液のように流れ出た油や残骸とともに波間を無力に漂う彼らに向けてカタリナ飛行艇から救命艇2隻と非常食キットが投下された。
攻撃から99分後、別の敵機が現場海域に飛来すると5名の生存者が救命艇に乗っており、残りの6名は行方不明となった。米駆逐艦バーニーがトリニダードから派遣されたが、バーニーが到着した時には既に6名の生存者も姿を消しており、捜索は3月12日に打ち切られた。乗組員53名全員死亡。
同じく3月12日、U-156が最後に送信した報告を読んだ司令部は再度報告を求めるが、当然ながらU-156からの返信は無かった。3月16日、17日、18日、19日に渡って繰り返し要請を送り、3月24日の要請を以って打ち切られる。4月23日、第2潜水隊群のエルンスト・カルス司令はハルテンシュタイン艦長の両親に「3月12日の時点で息子が行方不明になっている」旨を記した手紙を送付。5月10日にはアメリカ政府がU-156の撃沈を発表している。
1944年1月15日、プラウエンでハルテンシュタイン艦長の追悼式が行われ、両親、姉妹、親族、市長、評議員、政府高官等が参列した。
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最終更新:2024/04/19(金) 13:00
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