U-156 単語

ユーイチゴーロク

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U-156とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXCUボートの1隻である。1941年9月4日工。通商破壊連合軍商19隻(9万7489トン)を撃沈し、4隻(2万1トン)を撃破する戦果を挙げた。またラコニア号事件被害者として有名。1943年3月8日、カリブ方面で航空攻撃を受けて沈没

概要

U-156が属するIXCUボートは航続距離に優れた航洋タイプの大潜水艦である。合計54隻が建造された。前級IXB型体をベース体を0.26m延伸し、殻の間に燃料タンクを増設した事で航続距離1450里増加して1万3450里に達した。また揮所の潜望を外して2本になっている。長大な距離補給で往来出来る驚異的な航続距離狩り場の広域化に寄与。更なる戦果をもたらした。

諸元は排水量1120トン、全長76.76m、全幅6.76m、燃料搭載量208トン、最大速18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、急速潜航時35、安全潜航深度100m、乗組員44名。武装は533mm魚雷発射管6門、魚雷22本、105mm甲1門、37mm単装機関1門、20mm単装機関1門。

U-156は長大な航続距離を活かし、カリブフリータウン通商破壊を実施して19隻撃沈の戦果を挙げた。赫々たる戦果を持つIXCだが損耗率も高く、終戦時に残っていたのは僅か3隻のみだった。

海の騎士ハルテンシュタイン艦長

1939年9月25日、デシマーグAG社のブレーメン所に発注1940年10月11日にヤード番号998の仮称を与えられて起工、1941年5月21日に進し、8月12日より艦長養成コースを修了したばかりのヴェルナー・ハルテンシュタイ少佐が建設導を行う。そして同年9月4日工。初代艦長にはそのままハルテンシュタイ少佐が着任する。艇の乗組員からUボート乗りに転向した人物であった。工日より第4潜隊群へ編入されて慣熟訓練を行う。

9月4日午前10時よりブレーメン合いで試験航し、続いて9月5日から9日まで各種兵装の訓練を行う。それらが終わるとブレーメンを出港、エルベを経由して9月11日キールへ回航され、9月26日まで試験に従事する。9月28日と翌29日はロンネでGHG水中集音機の調整と試験を受け、10月1日にゴーテンハーフェンへ移動して試験を行った後、10月9日から12日にかけてダンツィヒで、10月13日から22日にかけてヘラ半島で急速潜航訓練に従事。

10月23日からはダンツィヒ湾で第27潜隊群と砲術及び魚雷発射訓練を開始。標に対する撃や対射撃訓練を行った。11月12日から21日まではメーメルとボーンホルムの中間域で戦闘訓練を行う。11月24日と翌25日、ゴーテンハーフェンの合いで設置する予定の気ブイテストを行い、シュテッティンへ回航。11月15日から12月22日までオーデル造所に入渠して残工事を実施する。出渠した後はバルトを進んで12月23日キールへと入港。戦闘に必要な機器を取り付け、艦の消磁を行い、配線を行って一人前の狩人となる。最後に第5潜隊群のハルテンシュタイン艦長に訓示を送って戦備了。

1回目の戦闘航海

1941年12月24日22時58分、フランスへの回航のため、ハルテンシュタイン艦長揮のもとキールを出港。U-87やU-753とともにカイザーヴィルヘルム運河を通過し、U-135と合流。翌25日午前8時30分、にわかが降る中、ブルンスビュッテルを通過してヘルゴラン南方へと向かう。14時15分から18時30分にかけてドイツ空軍メッサーシュミットMe109数機が上援護をしてくれた。17時に全ての護衛艦艇や戦闘機が引き揚げ、ここからはU-156単独での航が始まる。いつしか強くなったと波濤を浴びながら。12月28日午前0時、左舷距離3000mに味方のVIICUボート撃。

ドイツ占領下ノルウェーの西に寄りながら北上し、シェトランド諸に差し掛かると魚雷整備も兼ねて日中は潜航して進む。12月29日18時、シェトランド諸西方150マイルを通過して北大西洋に進出する。12月30日午前1時45分、明るい月光に照らされながら水上航行するU-156は左舷50mにイギリス軍が敷設した浮遊機を発見。この後も何度か浮遊機を発見したが、いずれも敷設から時間が経過していて酷く錆びていた。18時45分、波濤によって負った損傷を修理するため洋上停止し、23時40分にオークニー諸西方に差し掛かる。この日、第5潜隊群からの命で2ヵ所に気ブイを設置する事になった。

1942年1月1日ロリアンを本拠とする第2潜隊群へ転属。北大西洋は波が荒く、のようなも手伝ってU-156の体は押し寄せる波濤にまれたり、揺さぶられ続けた。恐るべき自然の猛威は輸送団にもUボートにも制約を課す。それはU-156も例外ではなかった。22時10分、ロッコール東北東80マイル位置示器が故障する事態に見舞われて応急修理1月2日午前0時5分、U-701から南東方向に向かう護送団発見の報が入り、ちょうどU-156の北方90マイルを航行していたが、この荒下ではとても攻撃に向かえず見逃すしかなかった。凄まじいほどのは気ブイの敷設をも妨げ、1月4日に「悪のためブイの設置を行えず」と悲鳴を上げるように部へ報告。翌5日午前0時45分、部から「2~3日後に回復するためその時に敷設せよ。それまでは自由行動して通商破壊に従事すべし」との返答があった。20時28分には「ハルテンシュタインへ。ゆっくりとだが回復の兆しが見える」との通信が入った事で一縷の希望が見え始める。

1月7日午前0時、荒れ狂っていたが落ち着き始めた。ある意味イギリス軍より強敵であるはようやく怒りの矛を収めてくれたようだ。午前5時55分、ポーキュパインバンクに気ブイを敷設。翌8日午前2時44分にロッコールへ気ブイを敷設して任務了。午前3時43分の潜航試験もクリアし、敷設作業了の報告を行うと、22時3分に部から「全速ロリアンに向かえ」との命が下り、フランス方面に向かう。1月10日午後12時10分、ドイツ占領下フランスロリアン軍港へ到着。

本拠地フランスから遠大な大西洋を隔てた先にあるカリブにはキュラソーロイヤルダッチシェル所、イギリスが所有するトリニダーの製所、ベネズエラ田、オランダ所有のアルバ所等が散在する一大産地帯であった。連合軍はベネズエラで産出した燃料をキュラソーを経由してイギリスへと輸送しており、またアメリカ本土へ繋がるアルミニウムの輸送路もあるため、カリブ一帯は敵軍のアキレス腱と言えた。パウケンシュラーク作戦の結果、アメリカ東海の対潜警ガバガバどころかスカスカ慢心の末路である事が判明したため、レーダー提督は敵の産地帯に打撃を与えるべくノイラン作戦を立案。1月15日ロリアンでU-156、U-67、U-129、U-161、U-502の艦長が集められて作戦会議。カリブの航路に詳しい商船長から状況を教えて貰う。作戦開始日は最も闇に覆われた新の時期である2月16日に定められた。今回の作戦にはイタリア海軍からも5隻の大潜水艦が参加。

2回目の戦闘航海

1942年1月19日17時45分、ノイラン作戦に従事するためU-67やU-502とともにロリアンを出撃。ノイランドの先を切る。2月1日大西洋を西進するU-156、U-67、U-502は通過報告をすると同時に残りの燃料搭載量も報告した。2月8日18時40分、敵の巡洋艦を発見して急速潜航。国旗を掲げておらず艦の特定は出来なかったが、作戦示に従って攻撃せず無視する。2月10日21時30分、北方より接近する敵機を確認して潜航退避。集音機で上の様子を探ってみると西へと移動する推進音を複数探知。潜望にはブラジル国旗を掲げた6000トン級のタンカーと左右を警護する駆逐艦が映る。どうやら先ほどの敵機は敵団の哨戒機らしい。敵団はクアドループ峡を通ってカリブへと入っていった。翌11日午前0時31分、U-156もクアドループ峡を水上通過してカリブに侵入。そこは数々の輸送が右往左往する獲物の宝庫であったが、攻撃予定日までは手出しせずに見逃す。

2月14日午前1時16分、アルバの南東に到着。闇を切り裂くセロエコロラド灯台が見える。午前5時30分にニコラス港の合い1里を走り、900m先の入り口まで接近して港内を偵察。にも関わらず照明によって明るく照らされており大タンカー4隻と小タンカー3隻の停泊を確認する。午前6時40分にはオランジャスタド港を偵察するが、こちらは獲物となりえる船舶はあまりいなかった。17分後、警備が近づいてきたため潜航退避。2月15日午後12時20分、ニコラス港の入り口で潜航して活発に出入りする船舶を監視していると部から通信が入り、「な任務は輸送攻撃」「好機あらば陸上撃」「輸送と遭遇しなかった場合は夕方に陸上撃」という具体的な命を受領。

2月16日、5隻のUボートが一斉に牙を剥いた。午前7時32分、ハルテンシュタイン艦長はセントニコラス港に停泊している2隻のタンカーを獲物に定める。午前8時1分にU-156から2本の魚雷が発射され、英商ペデルナレスオラニエスタッド(2396トン)に命中。2隻とも朱色の炎に包まれた。ペデルナレスは一晩中燃え上がったが一命を取り留めた。だがオラニエスタッドはペデルナレスほど幸運ではなく、1時間後に沈没している。

ハルテンシュタイン艦長はレーダー提督から「アルバキュラソー海岸にある燃料タンク撃せよ」との特別命を受けており、港が混乱している間に撃任務の敢行を決意。午前8時11分、ラゴ精所に向けて撃を開始するが、員が甲身から栓を外すのを忘れたせいで身内で爆発が発生。ハインリッヒ・ブッシンガー伍長死亡し、ディートリッヒ・フォン・デムボルネ砲術士官は右足を失ってしまった。すぐさま37mm単装機関による攻撃に切り替えて16発を発射。そこへ沿警備隊からの反撃が飛んできたためU-156は急ぎ退却する。連合軍の調によると石油貯蔵タンクに1発、の壁に1発当たったのみだった。その後、U-156はオラニエスタッド港に移動。その間に線通信で「アルバで2隻のタンカー5800トンを撃沈。敵の沿防御はサーチライト航空機巡視船1隻」と部に報告する。

午前9時16分、距離600mからイーグル所の桟に停泊している蒸気アーカンソーに魚雷を発射するが、何故か起爆せずに失敗。午前9時30分に再度撃を試みるが不発に終わってしまう。午前9時43分に3本の魚雷を発射し、ようやく1本を命中させて大損を与えた。16分後、中の敵機が急降下してきたため水上航行で退避。港を襲撃した事で今日は大船舶の出港はいだろうと判断し、アルバ北方へと移動する。午後12時47分から16時にかけてアルバキュラソーを遊したが獲物となりえると遭遇せず。レーダー提督連合軍の燃料補給に可な限り損を与えたいと考え、U-156に次のにも撃を加えるよう示を出し、U-62とU-502に対しても可であれば撃するよう命じた。ところがU-156の撃は連合軍に必要以上の恐怖を煽ったようで防備が厳重になり、海岸の全火は消され、沿一帯は全に闇の中へと閉ざされていた。標の発見が困難になってしまったためハルテンシュタイン艦長は撃を断念。Uボートの本領である通商破壊戦に移行した。

2月17日午前1時死亡したブッシンガー葬儀を執り行って遺体葬する。

2月18日午前0時、U-156はトリニダードから出港してくるが多い事、出港するは北西のコースを取っている事、トリニダード港内には大タンカー2~4隻が停泊している事を部に報告。右足を失ったデムボルネ砲術士官を部の許可を得た上でヴィシーフランスマルティニークへ上陸させる事が決まる。その後、モナ航路とウィンワード航路を中心に攻撃を行う。

2月19日22時10分、部からノイラン作戦に参加中のUボート群へ通信が入り、「アメリカは次のような命を受けている。一、日中以外はカリブの港へ入らない事。二、既にカリブにいる船舶は暗くなってからは航行しない事」と情報提供を受ける。Uボートの猛攻は敵国に着実にダメージ恐怖を与えているようだった。

2月20日午前11時31分、マルティニーク西方約60マイルデルプラタ(5127トン)に魚雷1本を発射し、右舷後方に命中。撃を受けたデルプラタは操室と図室を破壊されて航行不能となり、右舷側へと傾く。その際に汽装置が破壊されたのか汽が常時鳴りいていた。デルプラタはを旋回してU-156を撃してきたため、トドメを刺すべく午前11時54分に急速潜航し、午後12時20分に発射した魚雷は左舷側に命中。すかさずデルプラタから12発の弾が飛んできたが、左舷への傾斜が増大して乗組員はを放棄。防備になった敵を葬るチャンスを、15時54分、上より飛来した敵の飛行艇が台しにする。やむなくハルテンシュタイン艦長は潜航退避を命じて域からの離脱を図った。18時に浮上するも、まだ監視を続けていた飛行艇に見つかって16分後に潜航退避させられている。21時48分に浮上してようやくの脅威から解放。翌日、救助されたデルプラタの乗組員はを復旧させようと乗するも不可能だと判断し、各々持ち物だけを回収して下水上機母艦によって撃沈処分された。

2月21日午前0時、負傷したデムボルネ砲術士官に治療を受けさせるべくマルティニークに接近。詳しい図がいため図書を使ってフォード・ド・フランス港近辺の図を自作した。マルティニークは中立ヴィシー政権の領土ではあるものの、現地人の態度が分からない事から、いつでも撃てるよう20mm単装機関が準備されていた。午前3時、機密保持の的での記章を消し、潜望ドイツ国旗を掲げた上でフォード・ド・フランス港に対して「負傷者移送のためボートを送って欲しい」と依頼午前4時35分、ヴィシーフランス軍の将校と軍医を乗せた軍艦ディンギーが横付けし、デムボルネ砲術士官を移乗させる。彼は事治療を受けて終戦まで生き残ったが、この一件はアメリカヴィシーフランス外交関係を悪化させたという。午前4時50分、U-156は港を出発。出入口のグアドループ南方魚雷を装填する。

2月23日午前0時プエルトリコ南方へ移動。正午曇天上へと浮上するが、14時17分と56分に敵機の接近を受けて急速潜航。翌24日午前0時10分に再び敵機の急降下を受け、太陽が昇った午後12時10分と17時34分にも敵機に襲われるなど航空の厳重化を思い知らされる。

2月24日18時19分、プエルトリコ西方でU-156は2隻のタンカーを発見して狩りを始める。追跡の末、翌25日午前1時38分に急速潜航。午前2時19分に2本のG7a魚雷が放たれ、英商ラ・カリエール(5685トン)の右舷中央部と尾に命中。一時は洋上停止させたもの、応急修理したのか10分後に9ノットで動き始め、潜水艦を警してジグザグ運動も始めた。身をよじって逃げようとする獲物を狩るべくU-156は一度浮上し、有利な攻撃位置に就いた午前5時19分に再度潜航。距離1000mから2本の魚雷を発射した。しかし明るい明かりによって魚雷が引く線を右舷の手に発見され、回避される。そして魚雷が伸びてきた方向に4インチ弾を1発撃ち込んだ。以降、何の攻撃もかったため船長逃げ切れたと安堵する。だがは簡単には獲物を諦めたりはしない。魚雷発見の原因となったが沈むのを待ってから狩りを再開。午前8時39分、U-156から伸びてきた魚雷はラ・カリエールの右舷前方に直撃して首を吹き飛ばす。もはや助かる術はいと判断したのか乗組員はを放棄、バランスを失ったラ・カリエールは右舷側へと傾いて沈没した。海岸が近いため、U-156は生存者の尋問を行わずに離脱する。

2月25日14時21分、2000トンの敵貨物と遭遇するが対潜哨戒機を伴っていたため潜航退避。航空機撃が相次いだ事、また陸地に近い事からハルテンシュタイン艦長はその日の狩りを断念して中で過ごす。2月26日午前7時、全ての魚雷を使い果たしたため、艦長の示で破損した部分を切り落として甲を復旧させる。13時に修復作業了。その17分後に北東で敵機が撃されたが、U-156を発見していなかったようなので潜航退避せずにやり過ごす。この判断は見事に功を奏した。修理が終わってすぐ獲物がU-156の前に姿を現したのである。

2月27日午前10時35分、ドミニカ共和国カボフランシスビエホ北東約15マイルで英商マクレガー(2498トン)を襲撃。右舷1600mから甲を撃ち込む。初弾がマクレガーの尾に命中して手1名が死亡、2名が軽傷を負う。U-156の37mm機関が火を噴いて更なる損傷を与えるが、マクレガーも遭難信号を打ちながら反撃に転じ、4インチ弾が飛んできた。これを受けてU-156は素く左舷側へと移動して攻撃を続行。敵の乗組員にUボートが2隻いるという誤った認識を植え付ける事に成功した。手傷を負っていくマクレガーは海岸逃げようとするも、2発の命中弾を受け、35分後に機関室を破壊された事で炎上遭難信号も送信出来なくなった。午後12時10分、体中央部に撃ち込まれた105mm弾がマクレガーをっ二つに裂いて撃沈。92発の甲112発の37mm機弾を消費した。

2月28日、U-156はモナ峡に差し掛かった。そこで往来する大量の輸送と集中的に行われる航空撃して部に報告する。同日午前11時17分、モナ北方130マイルジグザグ運動中のオレゴン(7017トン)を900mの距離から撃。放たれた105mm弾は右舷体と船橋に命中し、船長ブリッジ要員を殺線装置も破壊して敵の口を塞ぐ。制御不能に陥ったオレゴンは突如6ノットの速で左に転し、U-156掛けて迫ってきたが体当たりを意図した訳ではなく、U-156の艦首に接触して止まった。U-156は左舷側に移動して75分間に渡って撃。遂に甲弾も使い果たした。37mm機弾を喫線に撃ち込むと、流入したまれてボイラー水蒸気爆発。これがトドメとなってオレゴン沈没した。この狩りを以ってU-156は北東方向への離脱を図り、ロリアンへの帰路に就いた。

3月1日午前0時58分、リンツとウィーン交通が多い事を報告。3月3日18時32分、バミューダ南東で敵の汽を発見して潜航するが、襲撃するには不利な明るい視界と敵の攻撃準備が既に整っていた事から狩りを断念。3月7日にはイギリス軍の航空機がU-156を発見・攻撃してきたが、損傷はかった。3月12日午前1時から4時間、アゾレスに留まって気報告を送信。帰り道較的穏で済み、3月15日ビスケー湾へ到達、潜航と浮上を繰り返しながらイギリス軍の網をやり過ごした。

3月17日午前10時5分にロリアンへ帰投。5隻撃沈、2隻撃破という上々の滑り出しを見せた。ノイラン作戦全体で見ると貨物45隻と1隻撃沈、貨物10隻撃破の大戦果に対し、喪失艦はゼロという勝。行方不明になる船舶が続出した事で中国人乗組員が「護衛しでは出港しない」と反乱を起こし、輸送を再開出来るまで製所の生産量が減少するという副次効果も生み出した。

2回の戦闘事終了した事でハルテンシュタイン艦長にはUボート戦闘章が授与。また重傷を負ったデムボルネ砲術士官に代わって新たにツア・ゼー予備中尉が着任する。

3回目の戦闘航海

4月22日20時8分、U-502とともにロリアンを出港。小雨が降るビスケー湾を出口に向けて突き進む。翌23日にパナマ運河を攻撃エリアに定められ、U-155とともに狩り場へと向かう。ところがパナマ運河付近は明かりが強くて襲撃に適さない事が判明し、5月5日14時40分にトリニダー300マイル圏内とU-502が既に潜んでいるキュラソーに変更。

中の5月6日ディーゼルコンプレッサーが故障したとの報告が入る。洋上では自修理する事が出来ない。そこで艦長は近くにいる僚艦U-66と線連絡を取り、修理用部品を分けて貰えるよう頼んだ。5月10日15時16分に両艦はランデブー。燃料と必要な予備部品を補給して貰ってディーゼルコンプレッサー修理した。

5月12日20時5分、ハリファックスからケープタウンに向けて8629トンの軍需物資、弾薬戦車ビールタグボート等を輸送しているオランダコエンジット(4551トン)を捕捉。翌13日午前1時20分に2本の魚雷を発射したが外れてしまう。気を取り直して午前3時58分に3本魚雷を発射し、今度こそ右舷後方機関室に命中させて撃沈する。乗組員たちは救命艇で脱出。そのうちの1隻を捕まえ、艦長が名前籍、的地等を尋問するが、連合軍の教育が行き届いていたのか生存者は漠然として曖昧なものであり、有益な情報は得られなかった。にも関わらずハルテンシュタイン艦長は彼らに最も近い陸地と針路を教えた。ちなみに積み荷のタグボートであるレティシア・ポーターは沈没せずに漂流し、およそ3週間後にU-69の撃で撃沈されている。最初の狩りを成功させた後、バルバドスの南東へ移動。

コエンジットを沈めてから12時間後の15時31分、貨物から立ち昇る煙を発見して追跡を開始。22時5分、バルバドス西方で航行中の英商ティオブメルボルン(6630トン)を撃し、船橋下に命中。23時4分からは浮上して甲撃を加える。24発撃ち込んだところで尾が少し持ち上がり、体がっ二つに裂かれて前部と後部に割れる。損傷のしい前部は間もなく沈没したが後部は沈む気配がかったため更に5発発射。5月14日午前0時26分にシティオブメルボルンは撃沈された。

5月14日17時20分に新たな獲物を発見したU-156は、19時46分に急速潜航。20時45分に魚雷を発射するが回避されてしまい、適切な攻撃位置に就くため一度浮上を強いられる。り強く追跡を続け、翌15日午前2時54分にバルバトス北東約420マイルノルウェーシリエスタッド(4301トン)の左舷に魚雷1本を命中させる。乗組員たちは左舷側の救命艇2隻に乗って脱出を図るが、2人の男性へ転落して溺死している。そして午前3時31分に軍需物資を抱えてシリエスタッドは沈没いつものようにハルテンシュタイン艦長が生き残った生存者を尋問し、それが終わると陸地への針路を教えて立ち去った。30名の生存者はユーゴスラビアの蒸気クパに救助されたが…。

シリエスタッド沈没から11時間後の14時26分、クパ(4382トン)がU-156に発見される。こうなってしまっては哀れなる獲物に助かるかった。18時45分にU-156は潜航。そして20時59分、ジグザグ運動むなしく魚雷船橋下に命中し、数分以内に首より沈没21時13分に浮上したU-156は生存者に尋問を実施した。ちなみにU-156側はクパにシリエスタッドの生存者が救助されていた事を正しく認識していた様子。

5月17日17時22分、9824トンの一般貨物を積んでバスラからアバダンに向かっていた英商バーデール(5072トン)を発見。21時4分、マルティニーク東方500マイルでU-156の艦尾発射管から放たれた魚雷が直撃し、40mもの火柱が築かれて21時14分に撃沈。尋問のため泳いでいる生存者1名を艦内へ収容。尋問が終わると近くの救命艇へと移してあげた。

5月18日、U-156はマルティニークに在泊するフランス自由フランスの手に渡らないよう破壊、パトロール中の艦艇を攻撃、の港や停泊地を偵察するよう命される。午前9時39分、4500トンマンガン鉱石を積載してノーフォークに向かう途上のクエカーティ(4961トン)を捕捉。午前10時18分、U-156はクエカーティ尾に魚雷を命中させ、体後部を粉砕。時に沈没読み段階となる。死亡した11名を除いて10人の士官と20名の乗組員が4隻の救命艇で脱出し、撃から僅か13分でクエカーティの底へと引きずり込まれていった。域から立ち去る前にハルテンシュタイン艦長が尋問を行い、それが終わるとバルバドスへの針路を教えて解放した。

同日14時7分、英商サンエリシオを発見して追跡を開始する。18時52分にサンエリシオの右舷中央へ魚雷2本を命中させるが沈没には至らず、それどころかサンエリシオの備が旋回してU-156を撃してきたため浮上して攻撃位置を変更。5月19日午前4時39分と午前7時39分に右舷後部へそれぞれ魚雷1本を命中させたがこれでもまだ沈まず、午前9時17分の撃は敵ジグザグ運動によって不成功に終わった。やがて部からマルティニーク方面に向かうよう命されたため追跡を断念しなければならなくなった。

5月19日15時25分、敵哨戒機が急接近してきたため潜航退避するが、深8mまで潜ったところで敵が投下した爆雷が炸裂。そこへ更に2発の投弾を受けて軽微な損傷が発生。18時30分に浮上するもすぐに北東から敵飛行艇が飛んできて再度潜航。ゆっくりと損傷の修理を行うべくしばらく潜航し続けた。

5月21日、U-156は暗闇に隠れてマルティニークを偵察。西の湾は暗くて何も見えず、フォート・ド・フランス港内にはタンカー5隻と貨客3隻が確認された。18時6分、フォート・ド・フランス港から出てきたドミニカ共和国トルヒーヨ・プレジデンツ(1668トン)を発見して狩りを開始。護衛を伴っていない敵などUボートの前では格好の獲物に過ぎなかった。18時29分にU-156は魚雷を発射し、トルヒーヨ・プレジデンツの尾に命中。4分以内に沈没へと追いやった。爆発により乗組員24名が死亡、14名が港まで辿り着く事が出来た。

快進撃を続けるU-156の前にいよいよ強敵が姿を現した。カリブ方面の産地帯が弱点なのはアメリカ軍も承知しており、イギリスが領有する駆逐艦部隊を常駐させていたのである。5月25日午前8時30分、西インドマルティニークしていた駆逐艦ブレイクリー(DD-150)はソナー探知により近Uボートが潜んでいる事を掴む。ブレイクリーは反応があった地点を中心に走査して潜水艦狩りを行うが、たまたま艦の周囲にはブラックフィッシュの群れが回遊していて群を探知したのだと判断された。午後12時50分、再びソナーによる音響接触を得たブレイクリーは爆雷投射のコースに入るが、これも群だと分かって攻撃中止。午後12時57分の反応も約1300匹からなるブラックフィッシュの群れであり、反応がある方角群の方角が一致していたので攻撃せず。13時45分、ソナー室に行った整備士が音響設備の注を10分間に渡って行う。しかしこ行動許可で行われたもので、この10分間は全に隙だらけだった。10分後にソナーは動作を再開するも、U-156はその隙を逃さなかった。

14時頃、左舷側へと伸びて来る魚雷の航跡を2~3名の乗組員が発見。しかし時既に遅し。放たれた魚雷1本が艦首に命中し、右舷へ15度傾かせるとともに艦首を喪失させる。乗組員6名が戦死、負傷者21名を出す損を負った。U-156はGHG水中集音機によって先にブレイクリーの存在を掴んでいたのだ。だが相手は軍艦だけあって立ち直りはかった。全ての部署が潜望を血眼になって探し、魚雷はすぐに撃てるよう準備され、機関室で発生した火災消火班によって鎮火された。先読みにより先制攻撃に成功したU-156だったが、ハルテンシュタイン艦長は冷静だった。艦首を吹き飛ばされる重傷を負いながらもブレイクリーの機関は健在であり、またマルティニーク深が浅くて逃げられない事から追撃を中止(異説では艦長はトドメを刺す事を望んだが部に拒否されたとも)。命からがら助かったブレイクリーは駆逐艦ブレッキンリッジ、グリア、ターベル、2機のカタリナ飛行艇に護衛されながら港へ後退した。

5月26日午前0時55分、ソロモン南方100mで深13mに潜航してフォート・ド・フランスで潜望偵察。上を警中の敵飛行艇が何度も通り抜けていく。午前4時16分、ついに潜望を発見されたらしく敵飛行艇が向かってきたため深く潜航。午前5時57分に遠方から爆雷の炸裂音がいた。

難敵を退けたU-156は5月28日17時2分に蒸気の煙を発見して急速潜航。しかし獲物との距離が近づきすぎて魚雷が撃てない事に気付き、18時26分に一度浮上して距離を取る。翌29日午前0時7分に再度潜航。午前1時3分、U-156から発射された魚雷が英商ノーマンプリンス(1913トン)の命を刈り取った。右舷中央部に突き立てられた魚雷蒸気管を粉砕し、機関室を浸させて行動自由を奪う。手の一人が急速に沈むと予感。放棄命も出ていないのに残っていた左舷側の救命艇をへ降ろし、そこへ先にと三等航士と10名の乗員が乗り込む。内に残っている乗組員は何とかを生かそうと決死に努を重ねるも、被線装置が破壊されて遭難信号を打てず、午前1時37分に浮上したU-156から弾を撃ち込まれた事で復旧が絶望的となる。穿たれたからが入り込み、機関室に達して水蒸気爆発が発生。内部を破壊し尽くされたノーマンプリンス尾をに掲げて逆立ち状態に陥り、へ吸い込まれるように沈没していく。甲にはまだ乗組員が残っていたが何とか沈没する前に脱出。それでも船長、乗組員13名、手2名が死亡した。

5月29日15時39分、ハルテンシュタイン艦長は「マルティニーク外港ではを問わず2機の飛行艇駆逐艦を行っている。でも爆撃を受ける。メインバラストタンクに1ヵ所、バッテリーセルに3ヵ所の損傷あり」と部に打電。カリブの厳しい警状況と航空攻撃を報告する。5月31日15時53分に浮上。ジャマイカバルバドスを結ぶ線の南方25マイルへ移動する。22時14分に航行する船舶を発見して急速潜航するが、23時48分に中立であるスペインだと確認されたため攻撃中止。カリブは確かに獲物が多い域ではあるが、時折このように中立が混じっているので闇に攻撃する訳にはいかなかった。

6月1日21時43分、セントルシアとセントヴィンセントの中間でブラジルアレグリー(5970トン)を発見。21時51分に最初の撃を行い、アレグリーテの尾に命中させる。しかし効果は体を少し沈下させた程度に留まった。このためU-156は中で旋回して次なる攻撃のチャンスっていたが、翌2日午前1時36分には放棄されたと判断。午前2時12分より浮上して水上撃を仕掛け、20発の105mm弾を撃ち込んで火災を発生させる。午前3時アレグリーテはゆっくり体を持ち上げて中へと沈んでいった。ブラジルは当時中立であったが国旗の掲揚に問題があり、距離300m以内でなければ視認する事が出来なかった。攻撃後、セントヴィンセント峡へ移動。

6月2日午前3時59分、勝利の余韻をかき消すかのように北方より2機の陸上攻撃機が急速接近、上を旋回し始めたため潜航退避する。

6月3日午前8時40分、バルバドス南方約40マイルで英スクーナリリアン(80トン)を発見して威嚇射撃を以って停を命じる。リリアンは少し減速した後、救命艇を降ろして乗組員は脱出。ハルテンシュタイン艦長は脱出した乗組員に尋問を行うも彼らは西インドの訛りが強くて理解が難しかった。とりあえず彼らからリリアンにまだ船長と3名の乗組員が残っている事を聞き出し、午前9時26分に再度威嚇射撃を行ったが、今度はそれを無視して逃走を図る。停無視した代償としてリリアンには37mm機弾52発、20mm機270発が発射され、あえなく沈没。U-156の示に従わなかった船長らは行方不明となった。

6月4日午前11時56分、艦尾魚雷発射管より引き抜かれた損傷魚雷から水素ガスが発生。やむなく浮上して10分間の換気を強いられたが、幸い敵機や敵艦に見つかれずに済んだ。6月11日、トリニダードに向かうU-126とU-128のために最新の情報を伝達する。6月14日13時30分、カリブから引き揚げて帰路に就く事を部に報告。6月22日16時57分、トリニダード方面に向かっているU-502と遭遇。17時45分にU-156は送ホースを使って燃料供給を開始し、20時17分に了。互いの事を祈って別れた。ところがU-502は後の7月6日に撃沈されて二度と戻ってくる事はかった。

6月23日16時10分、U-502によって発見されていた英商ウィリマンティック(4857トン)を捕捉。およそ14時間に及ぶ執念の追跡により、翌24日午前8時10分に最後の魚雷を発射するが、外れてしまったため午前9時4分より水上撃戦を挑む。発射された105mm弾は右舷側の救命艇と線室を破壊し、在室していた通信士と乗組員2名を殺。乗組員は残った救命艇で外へと脱出した。U-156は一旦撃を止め、生存者に対して死傷者を出した事を謝罪して図を提供。そして船長を捕虜にして艦内へ移乗させる。午前10時52分、となったウィリマンティックへの撃を再開、午前11時45分に撃沈する。

7月7日午前8時6分、ロリアンに帰投。11隻(4万4385トン)撃沈、2隻撃破(9232トン)というノイラン作戦時よりも大戦果を挙げる事が出来た。しかし今回は喪失艦ゼロとは行かずカリブ方面でU-157とU-158が失われている。この航の後、一等航士のポール・ジャストが異動となってU-156から離れ、新たにレオポルド・シューマッハ一等航士が配属される。ちなみにジャストは後にU-546の艦長となっている。驚嘆すべき戦果を引っさげた功績によりハルテンシュタイン艦長は中佐へ昇進。

7月20日ハルテンシュタイン艦長と乗組員はザクセン州都市プラウエンの住民から英雄的歓迎を受ける。乗組員全員鉄道から庁舎までの凱旋パレードを行い、住民たちの歓呼のに包まれた。

4回目の戦闘航海

8月20日19時16分、U-68とともにロリアンを出港。今回はイギリス軍の重要拠点であるフリータウンやケープタウン上輸送路を攻撃すべく、8月25日よりU-68、U-172U-459、U-504とウルフパック「アイスベア」を編制。ケープタウン方面への出撃は「アイスベア」が初めてであり、1万1100kmも離れているため補給潜水艦U-459まで加えたしい編制となった。しかし長駆するだけの価値は確かにあった。アゾレスジブラルタル及びイギリスから飛来する哨戒機航空圏外なのでたちはからの脅威に悩まされる事なく々と狩りを行えたのである。一方でデーニッツ元帥は「この域で最も価値のある獲物だけを選んで攻撃せよ」と命を下す。あまりに攻撃に熱中しすぎるとイギリス軍に余計な警心を与え、ケープタウンから出てくる団の護衛兵が強化されてしまうからだった。

ところがイギリス潜水艦追跡室は暗号解析によりUボートが南下してくるのを察知。大慌てでケープタウンから出る船舶の航路を変更したため、「アイスベア」は閑散とした大海原から獲物を探し当てなければならなくなってしまった。

8月22日午後12時36分、水上航行中に北方からロッキーハドソンの敵機が急降下してきたため潜航退避。敵のレーダー波が検知されなかった事から偶然の遭遇と思われた。14時43分には対潜トロールを発見して再度潜航退避している。8月23日ビスケー湾を脱してスペイン北東部へ到達し、8月25日リスボン西方400マイルを南下。

8月26日21時34分、カサブランカ西方で貨物の煙を発見したU-156は静かに追跡を開始し、23時45分に急速潜航。狙われたのは英商クランマクワーター(5941トン)。SL-119団に所属して郵便物や鉱石類を運搬していたが、6日前のエンジントラブル団から脱落していて何の護衛も伴っていなかった。翌27日午前1時、マデイラの北北西190マイルクランマクワーターの左舷に魚雷2本が直撃。隔やハッチカバーが吹き飛ばされ、あっと言う間に左舷へ傾いて10分で沈没。乗組員は3隻の救命艇で外に脱出した後、ハルテンシュタイン艦長から尋問を受け、解放されると同時に一番近い陸地の方角距離を教えられた。

8月31日ブランコ北西300マイルを航行。「アイスベア」は9月1日に解散となったが、戦果を挙げられたのはU-156のみだった。9月2日16時、10ノットで航行する船舶を確認して急速潜航。ところが相手はビルバオから出発してきたスペインの貨物モンテヌリアだと判明して攻撃中止。

みにじられた騎士道~ラコニア号事件

1942年9月12日午前11時37分、U-156は獲物を発見して追跡を開始。そして今回の狩り世界に大きなを与えるものとなった。敵の正体は英大ラコニア(1万9695トン)。開戦と同時にイギリス海軍に武装商として徴用され、1941年10月1日からは戦争運輸局に移管して軍隊輸送となる。ルドルフシャープ大佐揮のもとラコニアは士官及び乗員463名、民間人87名、イギリス軍人286名、ポーランド軍人103名、イタリア人捕虜1793名を乗せてケープタウンからフリータウンに向かっていた。22時7分、アセンション北東360マイルでU-156はラコニア撃し、2本とも体中央部に命中。致命傷を与えたのか、上では救命艇を降ろそうと右往左往する人が確認出来た。22時22分、ラコニア潜水艦攻撃を受けた事を示す「SSS」信号を繰り返し送信するが、不運にも連合軍に受信されなかった。

U-156は生き残った上級将校に尋問するべく浮上。そこでにしたのは闇から聞こえてくる助けをめるだった。その数や大きさが尋常ではないとハルテンシュタイン艦長は気付き、およそ1200~1800名が乗していたのではと直感。そして彼らの大半が捕虜や民間人だと分かると直ちに赤十字旗を掲げて救助活動を開始。23時23分、ラコニアはその巨体を中へとした。

9月13日午前1時25分、艦長は暗号電文で「ハルテンシュタインは英船舶ラコニアを撃沈。イタリア人捕虜1500名を確認。既に90名を救助。示を乞う」と部宛てに送信。ドイツ海軍カール・デーニッツ元帥ベルリン細を報告するも、ヒトラー総統激怒して救助中止を命。しかしデーニッツ元帥は元潜水艦乗りだけあって救助活動の中止を何のためらいもなく下す事が出来ず、挟みに遭う。そこへ水上艦隊を率いるエーリッヒレーダー提督が「ケープタウン攻撃に向かうUボートからU-506とU-507のみを抽出し、イタリア海軍ヴィシーフランスにも救助をめては?」と助言して根回しをしてくれた。

U-156の上下甲には女性5名を含む生存者200名がズラリと並び、更に200名が乗った救命艇4隻を牽引。午前6時文で「ラコニア員と乗客を救助しに来る船舶に対しては危を加えない限り攻撃しない」という電報英語にして1時間おきに発信。周辺の連合船舶に呼びかけた。ところがどの船舶も現れず、フリータウンイギリス軍には傍受されたが、を疑ってわざと救援を出さなかった。部はU-156に現場域に留まるよう命じ、U-506とU-507を全速で向かわせる。

9月15日午前11時30分にまずU-506が救援に現れ、数時間後にU-507と潜水艦コマンダンテ・カッペリーニが到着。それぞれ救命艇を1隻ずつ牽引してアフリカ西す。やがてゼネガルとダホメーから出港してきたヴィシーフランスの艦艇とも合流し、あふれんばかりの生存者を移乗させる。同日、漂流中の生存者を探すべく潜水艦4隻は別行動を取る事になり、U-156は単艦でを進む。

9月16日午前11時25分、アセンション秘密基地から飛来したアメリカ軍B-24リベレーターに発見される。ハルテンシュタイン艦長はモールス信号英語パイロットに援助をめる合図を出す。救助されたイギリス軍の士官も連合軍の暗号を使って「今ドイツ潜水艦から話している。艦内にはイギリス軍将校の他に、ラコニア生存者――兵士民間人、女性子供が乗っている」と送信した。B-24の機長ジェームズ・D・ハーデン中尉メッセージに答えず、黙って域から飛び去って行った。その後、ハーデン機長は基地にいる上級士官ロバート・C・リチャードソン世に報告し、「潜水艦を撃沈せよ」と非情の命を受ける。

午後12時32分、現場に戻って来たB-24は返答代わりに爆弾を投下。U-156が牽引していた救命艇に直撃して数十人のイタリア人とイギリス人の命が失われてしまう。もはや攻撃されては救助どころではない。ハルテンシュタイン艦長はまだ残っている救命艇を切り離し、「ヴィシーフランスの艦艇が助けに来るから現場に留まれ」と示。甲にいる生存者にはへ飛び込むよう示を出して潜航退避。B-24は救命艇2隻を撃沈しただけだったが、何故かU-156を撃沈した事になってメダルが授与されている。U-156は攻撃を受けた事を部に報告し、潜望の故障と体を修理するため西方へと脱した。浮上後、掲げていた赤十字旗は己の物語るかのように手すりに引っかかっていたという。B-24もU-156も去り、洋上に残された
2隻の救命艇。彼らは艦長の言いつけを破ってアフリカに向かおうとしたが逆に漂流。1隻は27日後にアフリカへ漂着するも生存者は16名にまで減、もう1隻は40日後にイギリストロールによって救助されたが52名中4名しか助からなかった。

行動中のU-506、U-507、カッペリーニは攻撃を受けなかったものの、U-156が救助したはずの生存者が再度漂流している事に気付いて異常を察知する。午前11時30分、カッペリーニはボルドーのBETASOM基地に「他の潜水艦が攻撃を受けた。敵襲に対応するため潜航を許可されたい。女性子供イタリア人以外の生存者は救命艇に残し、ヴィシーフランスに救助させる。敵機と敵潜の動きを厳重に監視して欲しい」と連絡する。U-506とU-507は部からU-156に対する攻撃の確認と生存者の数を尋ねられた。U-506は9名の女性を含む151名、U-507は15名の女性と16名の子供を含む491名と返答。続いて部はU-156攻撃への報復措置として「イギリス人とポーランド人を全員漂流させた上でその場に留まるよう命じよ」と示したが、艦長の独断で実行されなかった。

ラコニア号事件アメリカ軍戦争犯罪であった。戦時国際法で「上で救助活動中の船舶(潜水艦も含む)に攻撃を加えてはならない」と明記されているからだ。にも関わらずセンション基地は潜水艦を攻撃するべく5機のB-25とハーデン機長のB-24で索敵を続け、9月17日には151名の生存者を乗せたU-506が攻撃に遭った。不幸中の幸いだったのは、ダカールからヴィシーフランス艦艇3隻が(救助のため)出港していくのを見て、イギリス軍がアセンション基地に侵攻すると勘違いして潜水艦狩りが取り止められた事だった。独潜水艦による献身的な救助により2741名中1083名が助かった。しかし死者1658人のうち1420人がイタリア人捕虜であり、イタリア人はど助からなかったと言える。騎士を貫いたU-156が攻撃を受けた事から、デーニッツ元帥は撃沈した船舶から生存者を救助するのを禁じるラコニアを発布。表立って救助活動が行われる事はくなったが、それでも時折Uボートは隠れるように生存者を助けていたという。

U-506が航空攻撃を受けた9月17日、U-156はベルリンからの線を受信。ハルテンシュタイン艦長に海軍125となる騎士十字章の授与が発表された。これを祝して艦長は乗組員一人ひとりビール瓶を1本ずつ配り、乗組員全員の功績を称えるスピーチをし、彼らの名前軍服に付けて授与式に出ると伝えた。

9月19日午前4時30分、ケープタウン南東920マイルの洋上。B-24から受けた小さな損傷を修理している時に見り員が船舶を発見し、直ちに追跡を開始する。充分距離を詰めた14時42分に急速潜航。15時46分、アセンション北北西にてケープタウンからフリータウンに向かっていた英商ベックティ(4745トン)に魚雷1本を発射し、左舷に命中させる。ケベックティは左側に傾いたが沈没には至らず、16時54分に浮上した時も未だに浮かんでいたため、17時5分から19時13分にかけて撃。37mm機弾58発、105mm弾7発を発射した後、尾の弾薬庫に誘爆してケベックティは爆沈。尋問のため波間を漂う救命艇のもとへ向かった。生存者たちに十分なと食糧がある事、ウィリアムトーマス船長が自分たちの位置を正しく把握しているのを確かめると、艦長は今回の攻撃の理由を説明。艦長自身は彼らをアフリカ西まで牽引したかったが、ラコニア号事件生存者を助けようとして攻撃を受けたため、残念ながら出来ないと詫びた。最後まで毅然とした騎士を貫くハルテンシュタイン艦長であった。

9月21日にU-506と合流して燃料補給を受ける。U-156は精的に敵を探しめたが全く遭遇出来ず、10月6日に敵との遭遇がかったと報告している。またアメリカ軍の飛行場があるアセンションに近い事もあり、頻繁に飛来する哨戒機によって何度も中へ押し込められていた。10月26日、U-443が発見したON団と、U-156がラコニアの航士官から得た情報が一致している事が判明。この情報をもとにUボート狩り場の位置を移動させる。帰路に就いた10月30日バッテリー室内の圧体に小さな漏れを確認。修理しようにも手が届かない嫌な場所にあるため浅い潜航しか出来なくなる。11月3日にU-462から燃料補給を受ける。

11月16日ロリアンに帰投。

5回目の戦闘航海

1943年1月16日17時ロリアンを出港。まずはカーボベルデ方面に向かう。1月26日、分散した敵団を迎え撃つべU-108やU-510とともに待ちせを行うが、2日後にウルフパック参加の的でU-108が離脱してしまったため2隻で待ちせを続行する。2月3日にU-510域を移動。2週間Uボートが出現しなかった域なので敵船舶の往来も多いだろうと予想されたが会敵に失敗。2月12日南米北東のジョージタウンまで長駆したU-156は次の新の時期にトリニダー通商破壊を行うよう命じられる。トリニダード近にはU-156を含む6隻のUボートが集められ、かつてのノイラン作戦のような大規模作戦が準備されていた。

3月5日、U-156はメトックスレーダー受信機が作動しない新たな位置特定方法をイギリス軍が使用していると報告。トリニダード近に来てから、サーチライトの照射を受けていないにも関わらず敵機は驚くべきほど正確な爆撃を、一度どころか何度も加えてきたのだという。ビスケー湾でもU-333が同様の報告を寄せていた。危険を冒して観察した結果、敵は新たなレーダー開発したと予想している。ハルテンシュタイン艦長は知る由もかったが、実際イギリス軍は1942年の終わり頃に10センチ短波レーダー開発しており、小さな標を更に長距離から測定出来るようになっていたのである。

3月6日、トリニダー北部のポートオブスペインからグレナダにかけて行われる敵機の強航空メトックスでは探知出来ないタイプの新レーダーの出現、サーチライトしの正確な爆撃など不利な状況が重なり、テスティゴスに出入りする敵団への攻撃は不可能だと報告。それでも海上交通路を攻撃しようと移動するU-156だったが…。

最期

1943年3月8日、11~15隻からなる敵団の存在をU-510が発見・報告。状況に応じてU-156が攻撃に向かう手はずとなっていた。バルバドス東方280里にて高度4500フィートを飛行していたPBYカタリナ飛行艇は浮上中のU-156をレーダーで捕捉。視界が良好だったためレーダーを切り、に隠れてながら接近して矢のように急降下してきた。この襲撃はU-156にとって全くの奇襲だった。

白色塗装されたカタリナがU-156の直上を航過した後、機体を翻して再び迫ってくる。U-156の針路に対して直に交わるように突っ込んで来たカタリナ爆弾倉を開き、13時15分、高度30mと23mからそれぞれ2発のトーペックス高性爆薬を満載したマーク44爆雷を投下。U-156側も迎撃しようとしたのか甲に2名の乗組員がいたようだが間に合わず、2発が右舷後方3mと4.6mに着弾。水中破壊に優れたトーペックスの爆発により艦体が持ち上げられてっ二つにへし折れ、艦首と艦尾がに掲げられる。U-156はトーペックス爆薬を使用した爆雷の最初の犠牲者となってしまった。沈没だったにも関わらず11名の乗組員が上への脱出に成功。レーダー探知したところ潜水艦は探知されなかったため、血液のように流れ出たや残骸とともに波間をに漂う彼らに向けてカタリナ飛行艇から救命艇2隻と非常食キットが投下された。

攻撃から99分後、別の敵機が現場域に飛来すると5名の生存者が救命艇に乗っており、残りの6名は行方不明となった。駆逐艦バーニーがトリニダードから派遣されたが、バーニーが到着した時には既に6名の生存者も姿を消しており、捜索は3月12日に打ち切られた。乗組員53名全員死亡

同じく3月12日、U-156が最後に送信した報告を読んだ部は再度報告をめるが、当然ながらU-156からの返信はかった。3月16日、17日、18日、19日に渡って繰り返し要請を送り、3月24日の要請を以って打ち切られる。4月23日、第2潜隊群のエルンスト・カルスハルテンシュタイン艦長の両に「3月12日の時点で息子行方不明になっている」旨を記した手紙を送付。5月10日にはアメリカ政府がU-156の撃沈を発表している。

1944年1月15日、プラウエンでハルテンシュタイン艦長の追悼式が行われ、両姉妹族、市長、評議員、政府高官等が参列した。

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