U-195 単語

ユーイチキュウゴ

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U-195とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD1潜水艦の1隻である。1942年9月5日工。輸送潜水艦であったが、通商破壊で2隻(1万4391トン)のアメリカを撃沈し、1隻(6797トン)を撃破した。ドイツの降後は日本海軍に接収され、伊506名。しかし戦闘行動を行う前に終戦を迎え、1946年2月15日マラッカ峡で処分された。

概要

IXDは、遠距離用の航洋潜水艦IXシリーズの最終タイプである。本級は1と2に大別され、1は生産コストを下げるため魚雷艇用のメルセデス1500エンジン6基を積載している。

インド洋に進出して同盟大日本帝國海軍と協同で通商破壊を行う的で設計されており、前級IXCから更に大化して居住区と格納スペースを確保、回転を持つ艦載偵察機フォッケ・アハゲリスFa330を上構内に搭載した。まず最初にU-180とU-195の2隻が建造されるも、最初の試験航魚雷艇エンジンの不調が多発。加えてエンジンは高温を発するため、熱帯で使用すると艦内が蒸し風呂になってしまう欠陥もあった。したがって前線任務に使用出来ないと判断されてしまう。これ以降、機関IXCと同じM9V40/46 ターボチャージドディーゼルに換装したIXD2が生産され、1は僅か2隻のみの建造で終わった。

だが、長大な航続距離を持っていた事から日本との連絡任務に使用される事となり、ゲルマニア社製GWF-46ディーゼルに換装、魚雷発射管と甲を撤去して起倒式シュノーケルバッテリーを増設し、新たに252トンの補給用燃料タンクを装備。補給用潜水艦へと改造される。この水上が20.8ノットから15.8ノットに低下したものの航続距離は増大した。

諸元は排水量1610トン、全長87.58m、全幅7.5m、最大速15.8ノット(水上)/6.9ノット(水中)、乗員55名、安全潜航深度100m、急速潜航時35。兵装は10.5cm単装1門、53cm魚雷発射管6門、魚雷22本、37mm単装機関1門、20mm連装機関1基。補給用潜水艦装された後は機関以外全て撤去している。

艦歴

総生産数僅か2隻の激レアUボート

1940年11月4日にデジマーグ社のブレーメン所へ発注1941年5月15日にヤード番号1041の仮称を与えられて起工、1942年4月8日進水式を迎え、同年9月5日工を果たした。初代艦長にU-15の元艦長で士官学校教官も務めたハインツ・ブッフホルツ少佐が着任し、第4潜隊群に編入されて慣熟訓練に従事する。ブッフホルツ艦長は厳格な軍国主義者であり規には大変厳しかった。

まず1942年9月6日と翌7日にブレーメンで諸試を行い、北海で2日間の試験航を行った後、9月11日から29日までキールテストを実施。10月2日から12日にかけてシュテッティンの造所で工事を受け、10月13日から10日間ダンツィヒで試験航。それが終わると実戦的な訓練が始まり、10月29日から11月12日にかけてヘラ半島戦闘訓練、11月13日から16日までダンツィヒで第25潜隊群と魚雷発射訓練、11月17日から30日までゴーテンハーフェンで第27潜隊群と戦闘演習12月1日から8日まで再びダンツィヒで第25潜隊群と魚雷発射及び射撃訓練に従事する。12月13日に生まれ故郷のブレーメンに戻り、過積載状態での試験航を実施した後、12月18日より造所に入渠して残工事を片付ける。

1943年2月17日に出渠したU-195は北海を通ってハンブルクへ回航し、2月20日にFu.M.G.レーダーテストを行う。終了後はハンブルクを出港してゴーテンハーフェンに移動。2月24日から28日まで魚雷艇エンジンの性調のため試験潜航を含む試に従事した。3月3日バルトを離れてキールへ移動し、3月5日から3月19日まで入渠、整備と必要な機器の取り付け工事を行った。こうしてU-195は一人前の狩人となる。

1943年

1943年3月20日午前8時キールを出港。スカゲラク峡を通過し、3月22日午前1時ドイツ占領下ノルウェー南部クリスチャンサンに寄港、潤滑と燃料を補給して同日午前6時57分に出撃した。

ノルウェー西北上した後にアイスランドフェロー諸島間を突破して北大西洋へと進出。長大な航続距離活用してアフリカ南端のケープタウンす。この時、U-195以外にも7隻のIXDUボートがケープタウンへ向かっていた。4月1日ボルドーを本拠地とする第12潜隊群に転属。翌2日、U-195は2機の哨戒機と1機の飛行艇が飛行しているのを発見して報告。3月末頃から敵団の護衛に空母が確認されるようになり、飛行距離の関係で基地航空隊カバー出来ないエリアを、空母から発進した艦上機が代わりにして「のすきま」を埋めつつあった。したがってUボート狩り場は急速に狭められていったのである。

4月11日19時27分、護衛しで単独航行するリバティ船ジェームズ・W・テンバー(7200トン)を発見。ジェームズ・W・テンバーは元々UGS-7団に所属していたが、エンジンベアリングの過熱で落して迷子になっていたのだ。発見から2分後にU-195が急速潜航。中から獲物を追いかける。そして20時41分、カナリアラスパルマ西方約475里にてリバティ船の右舷側から3本の魚雷を発射、線を引いて迫る跡を員に発見されるも、回避運動を取られる前に第2倉と第3倉の間へ命中。機関室を破壊して航行不能に追いやった。22時7分、浮上したU-195は漂流中のリバティ船トドメを刺すべく水上撃を仕掛けたが、リバティ船は沈まないどころか漂流し始めたため、やむなく攻撃位置を変更。翌4日午前1時40分に再度撃を行い、中央部に命中弾を与えて体をV字にへし折る。こうなってしまってはリバティ船助かるかった。首と尾を持ち上げながら午前1時47分にジェームズ・W・テンバー沈没。積み荷のP-38戦闘機12機や航空機部品、ブルドーザー車両砂糖小麦粉等の軍需品もろともの底へと沈んでいった。生き残った員は救命ボートで脱出した。

4月17日、味方のU-506が正体不明の潜水艦撃したと報告するが、その正体はU-195であった。5月4日に18ノットで航行中の敵貨物を発見するも、攻撃の機会を得られず取り逃がした。

5月6日午前2時43分、12ノットでジグザグ運動をしているリバティ船サミュエルジョーダンカーウッド(7191トン)を発見。午前5時13分に魚雷2本を発射するも回避されたため追跡に移行する。それから約23時間に及ぶ執念の追跡を経て、翌7日午前1時37分、アセンション南東約125里にて1本の魚雷を発射。左舷側を見っていた船橋員が跡を発見したが時既に遅し。く間に左舷尾の第5ハッチ付近へ命中、推進軸と備え付けられていた機が吹き飛ばされ、6フィートもの大穿たれた。機関こそ事だったものの沈没は免れないと判断、士官6名、員36名、武装警備員25名、乗客4名の計71名は救命ボートと筏に分乗して上に脱出。幸い死者は出なかった。午前3時52分、となったサミュエルジョーダンカーウッドトドメを刺すため10発の甲弾を撃ち込み、これを撃沈する。

5月11日線の向こうから立ち上る蒸気の煙を発見して追跡を開始。翌12日午前3時13分、ジグザグ運動中のケープネディックに向けて2本の魚雷を発射、このうち1本は不発で終わったが、2本が第2ハッチに命中して炸裂。爆発により柱と炎が船橋より高く築かれ、側面に大穴が開いて浸被害を与える。だが、このケープネディックは3インチ1門、4インチ1門、20mm8門の重武装が施されており、U-195の方へ向き直ると一斉に火を浴びせてきた。午前4時42分には員の応急修理で復旧し、ジグザグ運動を以って域からの離脱を図る。逃げるケープネディックを撃するU-195、しかしその魚雷首前方をむなしく通過して外れた。逆にケープネディックから3発の発を受けて退却を強いられる。

5月18日、U-195はマダガスカル南方での通商破壊のためアフリカ西を南下し始める。しかし5月24日カール・デーニッツ提督Uボート各艦に敵団航路からの退却を命じた。これは、連合軍のレーダー技術の向上や護衛兵の強大化等が重なり、Uボート被害が増大した事が原因である。そんな中でIXDの僚艦はインド洋方面に狩り場を広げつつあったが、U-195はと言うと度重なるエンジン不調に見舞われたため戦闘を断念し、6月1日魚雷と燃料を多く残した状態で帰投を報告。々に帰路に就く。6月10日より喜望峰南西でU-177と合流、病気を患っていた火夫のシュレーダーを引き取り、またU-177の左舷発電機のコイルが焼き切れていたので修理用の予備部品を譲渡、インド洋で使用するための航図と船舶データを手渡した。6月15日深夜インド洋に向けて出発するU-177と別れる。

7月10日ボルドーから出撃してきたU-487に燃料、メトックス電波探知機、修理用部品を補給。病気のメス機関士官を引き取った。しかしU-487は武運拙く別れてから3日後に撃沈されてしまった。その後、BdUより「U-193と合流して一緒にビスケー湾を突破せよ」との命が下る。この頃になるとビスケー湾の制権はイギリス空軍握され、出撃する時も帰投する時も、Uボート数隻がまとまって行動しなければならなかった。7月15日U-193と合流して行動を共にする。間もなくしい襲を受けているU-505の救援を命じれるも、両艦もまた断続的な航空攻撃を受けて潜航を強いられ、助けに行く事が出来なかった。またU-193はロリアンに帰投するはずだったが、サンダーランド飛行艇B-24爆撃機2機から攻撃を受けて損傷。やむなくU-195とともにボルドーをす事となる。ボルドーまで眼前に迫った7月20日ビスケー湾にてイギリス空軍機の襲撃に遭う。デーニッツ提督からの命に従って潜航ではなく対射撃で応戦、何とか敵機を撃退する事には成功したが、戦闘の余波で乗組員1名が戦死した。そして7月23日ボルドーへ到着して最初の戦闘を終える。

航行中にエンジン不調が多発したため、9月2日に就役艦から外されて10月より大規模な修工事に着手かる。問題の魚雷艇エンジンゲルマニア社製GWF-46ディーゼル2基に換装し、魚雷発射管と甲を撤去してバッテリー、補給用燃料タンクシュノーケルを積載して補給用潜水艦に転身する。自衛用に83口径37mm単装機関と20mm連装機関は残されたが、実質対艦は失われた。10月10日、ブッフホルツ艦長と一部の士官がU-177に転属。

1944年

1944年4月16日、二代艦長のフリードリヒ・シュタイフェルト少佐が着任。先になると作戦Uボートシュノーケルが支給されるようになり、U-195も装備した。5月1日に第12潜隊群へ復帰して再就役。順調に工事が進んでいるように見えたが…。

6月6日連合軍がノルマンディーへ上陸した事で戦況が一変。今まで後方地域だったフランスにも戦火が及ぶようになり、U-195が入渠しているボルドーも幾度となく爆撃を受けるようになるなど、決して安全な場所とは呼べなくなる。そんな中、日本の勢圏であるペナン基地への輸送任務が命じられた。ペナンは熱帯気故に魚雷や燃料の長期保存が出来ないので現地のモンスーン戦隊が不活発になっていたのである。U-195は日本向けの物資として部品に解体された12発のV2ロケット水銀ガラスアルミニウムに加え、モンスーン戦隊向けの予備推進軸と魚雷を積載。1943年7月日本側が原爆開発のために要請したウランも積載していたとされる。しかし残された時間はもう少なかった。8月中旬に入るとUボートの出撃基地を潰そうとアメリカ軍ブルターニュ半島を南下してきたのである。このためデーニッツ提督からノルウェーへの脱出命が出され、在フランスUボートは次々に出港していった。

8月24日連合軍の包囲が狭まるボルドーから脱出。その翌日に第12潜隊群はブンカー内に残っていたU-178U-188、UIT-21を自沈処分させ、8月28日連合軍がボルドーへ到達した。まさに間一である。搭載されていたシュノーケル価を発揮して厳重に封鎖された域を突破。9月2日ビスケー湾を抜け、ポルトガル西方を南下しながら喜望峰方面に向かう。ちなみに姉妹U-180もボルドーからの脱出を図ったがビスケー湾で行方不明になっている。油断すると、すぐにレーダーを持った敵哨戒機がすっ飛んで来るため、潜航しながらの航行を強いられて歩みは大変遅かった。

11月6日、1年中暴が吹き荒れる危険なローリングフォーティーズと戦いながら喜望峰南方を通過、11月16日マダガスカル南方を通過してインド洋へ到達する。かつては良好な狩り場だったインド洋も英東洋艦隊が息を吹き返し始めた今では危険な域だった。順調にインドネシア方面へ向かっていたU-195のもとに、BdUからヨーロッパに帰するU-843への燃料補給命が下り、12月20日にU-843と合流して洋上補給を施した。そのおかげでU-843は事帰に成功している。12月27日ジャワ島へ到着すると、日の丸塗装されたアラドAr-196Aが飛来して数時間に渡って対潜警をしてくれた。

そして12月28日15時モンスーン戦隊の根拠地バタビアへ入港。127日に及ぶ逃避行が終わった。綺麗な半袖シャツに身を包んだ乗組員が甲上に整列し、それをに立つ日独の将校が出迎える。しかし港湾施設は災害現場と見まごうような惨状と化していた。というのもU-195が入港する前日、日本の輸送爆発事故を起こして多数の死傷者を出し、余波で施設が軒並み破壊されていたのである。そんな中でU-195はU-510U-532、U-861と並んで係留された。

1945年

1945年1月19日ノルウェーへ帰還するためバタビアを出港。ところが機関不調によりマダガスカル南方で帰を断念させられる。2月9日、同じく帰の途に就いていたU-532と合流して燃料を譲渡するとともに、郵便物の託送を依頼した。3月4日にバタビアへ帰投。翌5日にバタビアを出港し、3月7日15時にスラバヤへと入港して第102工作部で軽巡五十鈴ともども修理を受ける。

5月5日東京ドイツ海軍武官パウル・ヴェネッガー大将東南アジアモンスーン戦隊に向けて暗号コード「リューベック」を送信。これはドイツ軍戦闘行為を停止した事を意味していた。スラバヤ基地のコンラート・ホッペテニスコートUボート乗組員を集め、ヒトラー総統自殺した事、ドイツ軍連合との戦闘を中止し、ベルリンではソ連軍と交戦している事を説明。これに伴って乗組員はU-195から戦闘旗を降下、間もなく日本海軍が横付けして代わりに日本戦闘旗を掲げ、ドイツ人乗組員は抑留された。

7月15日大日本帝國海軍はU-195を伊506名して接収。所属を呉鎮守府とし、第2南遣艦隊に編入して再就役させた。しかし人手不足から、伊501伊502と違って乗組員が配置されず、スラバヤの第102工作部に係留されたままだった。8月5日20時5分、第10方面艦隊参謀長は伊506を魚雷発射管装備の的で速やかに日本本土へ回航し、修後は香港インドシナ、離等への輸送任務に充てる予定を立てる。

だが作戦投入をする前に8月15日終戦を迎える事となった。

戦後

終戦直後の1945年8月17日インドネシア独立戦争が勃発。独立インドネシア人によって伊506が押収される。ところが10月27日シンガポールからスラバヤへ上陸してきたイギリス第49団と独立との間で戦闘が生起し、独立を敗走させて今度はイギリス軍が伊506を接収。ユニオンジャックが掲げられた。インドネシア人の攻撃で内の発電所が破壊されたため、イギリス軍は捕虜となっていた元ドイツ人乗組員を集めてディーゼル発電させ、伊506に内の電供給を担わせた。11月30日海軍省の解体により帝國海軍籍から除籍。同日中に元艦長のシュタイフェルト少佐痢で亡くなっている。

1946年1月24日14時11分、イギリス海軍本部は東インドを管轄するクレメント・ムーディ中将に「遅くとも2月15日までにスラバヤとシンガポールUボート4隻を破壊するように」と命じた。そして2月15日マラッカ峡にて処分。最後の意地かイギリス軍艦から弾を受けても沈没せず、キングトン弁を開いて自沈した。

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