ZG3とは、第二次世界大戦中にドイツ軍が鹵獲した元ギリシャ海軍駆逐艦ヴァシレフス・ゲオルギオス級駆逐艦1番艦ヴァシレフス・ゲオルギオスである。1939年2月15日竣工。ドイツ軍の空襲を受けて自沈した本艦を鹵獲してZG3に改名。地中海方面で活動し、英潜水艦スプレンディドを撃沈する戦果を挙げた。1943年5月7日にチュニジアのラ・グレットで閉塞船として自沈。
1939年2月15日に竣工した王立ギリシャ海軍の駆逐艦ヴァシレフス・ゲオルギオスを、1941年5月にドイツ海軍が鹵獲してZG3に改名し、1942年3月21日に再就役させたもの。1942年8月22日にヘルメスという名前に変更している。艦の設計はイギリス海軍のグレイハウンド級駆逐艦、主兵装はドイツ製、火器管制装置はオランダ製と各国の技術が集められた艦と言える。
ZG3は地中海方面唯一のドイツ駆逐艦であり、最大級の艦であった。本艦以外にドイツ駆逐艦がいないため艦隊を組む相手はもっぱらイタリア艦艇に限定される。護衛任務や機雷敷設といった駆逐艦らしい地道な任務に従事した他、ギリシャ潜水艦トリトンを協同撃沈し、英潜水艦スプレンティドを撃沈。ドイツ駆逐艦で敵潜水艦の撃沈記録を持つのはZG3だけである。活動期間は1年ちょっと程度と短いながらも、2人の艦長に騎士鉄十字章が授与されるほどの武功を残した。
1943年4月30日、チュニスへの緊急輸送中に敵機の爆撃を受けて大破航行不能に陥るも、タグボートに曳航されて目的地へ到着。5月7日、連合軍の魔手が迫るチュニジア北東部ラ・グレットで閉塞船になるべく自沈した。
時は第二次世界大戦開戦前夜、蒼い宝石で満たされた嵐の前の地中海――。
前時代的な艦艇しか持っていなかった王立ギリシャ海軍は、駆逐艦から近代化しようと海軍大国イギリスに新型駆逐艦4隻を発注。G級駆逐艦の設計を参考にし、1937年1月29日に1702番船の仮称を与えられてグラスゴーのヤーロー社スティーブン造船所で起工、1938年3月3日に進水し、12月には船体が完成。火器管制装置はオランダ製、主要兵装はドイツ製のものを使用し、1939年2月15日に竣工を果たした(異説では使用する予定だったドイツ製主砲の出荷をドイツ政府が拒否したため、非武装のままで工事が進められたとも)。
ヴァシレフス・ゲオルギオス級駆逐艦1番艦として就役した本艦は無事ギリシャ海軍に引き渡された。最も強力かつ新しい駆逐艦となり、新型軽巡洋艦が竣工するまで駆逐艦戦隊の旗艦に就任。2番艦ヴァシリッサ・オルガとともに海軍の中核を担う。排水量1350トン、全長101.2m、全幅3.23m、出力3万4000馬力、最大速力36ノット、ドイツ製128mm主砲4門、イギリス製四連装533mm魚雷発射管2基、37mm単装対空機銃4基を装備する。艦名は1863年から1913年にかけてギリシャ国王の座に就いていた同名の人物に由来。
竣工から約7ヶ月後に第二次世界大戦が勃発。これに伴って3番艦と4番艦は接収されてギリシャには届かなかった。ギリシャは中立を表明して大戦には不干渉の立場を取ったが…。
1940年8月15日、ギリシャ侵攻を企図するイタリア軍は事前の工作として潜水艦デルフィーノにティノス島を襲撃させ、軽巡洋艦エリを撃沈。ゲオルギオスはオルガと共同でティノス在泊の船舶を本土へ移送した。
10月28日、親英国ギリシャが傀儡国アルバニアやイタリア南部へ干渉してくる事を危惧したイタリア軍はアルバニア側から越境してギリシャ国内へ進攻。ヴァシレフス・ゲオルギオスは船団護衛に従事した他、同年11月14日に行われたオトラント海峡におけるイタリア艦艇の夜襲に参加(ただし敵影を見ず戦果は無かった)。1941年1月5日、駆逐艦4隻を率いてヴァロナ近辺のイタリア軍を艦砲射撃。イタリア軍の練度が低かった事もありギリシャ軍は善戦して押し返し、逆にアルバニア南部を占領するに至った。
1941年3月1日、本土から臨時政府が移転したクレタ島へ金塊の輸送を行う。同時期に再度イタリア軍が攻めて来たがこれも撃退に成功。しかし、4月6日よりドイツ軍とブルガリア軍が参戦してからは一気に劣勢へと追いやられる。刻々と戦況が悪化していく中、ギリシャ・クレタ・エジプト間で護衛任務に従事する。4月14日、サロニコス湾で停泊している時に2機のユンカースJu87の爆撃で大破させられ、浸水で大傾斜。今にも二度目の爆撃が行われそうな中、勇敢なるピロス・ラパス艦長の指揮で何とかギリシャ南部サラミス島まで避難に成功。この時点で生き残っていたギリシャ艦隊はイギリス領エジプトへの脱出を図り始めるが、その時間稼ぎをするためにゲオルギオスは島内の駆逐艦を率いて砲撃任務に従事し、隙を見て浮きドックへ入渠した。ところが独伊軍の迅速な進出によって修理もままならぬ状態だったため、鹵獲を防ぐべくピロス艦長は急速な自沈を命令。4月20日にドック内で自沈処分された。そして4月25日に首都アテネが陥落し、4月28日にギリシャ国内のイギリス軍が降伏、4月30日にギリシャそのものが降伏して戦闘は終結。
5月6日、ドイツ軍はサラミス島の基地施設を接収。独伊間で結んだ協定では捕獲したギリシャ海軍の艦艇は全てイタリアに引き渡す事になっていたが、ヴァシレフス・ゲオルギオスはイタリア海軍司令部の判断でドイツに譲渡。船体は自沈処分されていたものの浅瀬だったため不完全であり、ドイツ軍の手で浮揚され、ゲルマニア造船所から人員を集めて大規模な改修工事に取り掛かった。魚雷発射管をドイツ製のものに、旧式の37mm単装機銃を降ろして優れた旋回能力を持つ20mm対空砲5門に換装。新たに水中聴音機グループリスニングデバイス(GHG)、機雷敷設用のレールを装備した。だが急降下爆撃の際に負った推進器の損傷が最後まで解決せず最大速力は32ノット(59km/h)に低下している。また装備の換装で排水量が1414トンに増加。2番艦ヴァシリッサ・オルガを接収したイギリス海軍は兵装の規格の違いから四苦八苦したが、ゲオルギオスの主砲はドイツ製だったため砲員の配置がスムーズに進んだ。
「Zerstorer(駆逐艦)」と「Griechenland(ギリシャ)」の頭文字を取り、ドイツ海軍が接収した3番目の外国駆逐艦という事でZG3の名が与えられた。この珍しい名称は、ZG3と行動を共にしたイタリア軍の将校や通信士を混乱させたという。出渠後は数週間の試験と港湾内作業を実施。乗組員は実戦経験が乏しいドイツ海軍補給廠の人員で構成されていた。内訳は士官10名、乗組員215名。
1942年2月8日、Z15から異動してきたロルフ・ヨハネソン大尉が艦長に着任する。そして3月21日にドイツ海軍に編入されて再就役。ブルガリアのソフィアに司令部を置く海兵隊南方司令部に部署する。ただ戦闘準備が整ったと見なされたのは5月30日だった。本艦は地中海方面で活動する唯一のドイツ駆逐艦であり、またドイツが保有する同方面最大級の艦である。補助駆潜艇とZG3を除くと地中海にいるドイツ海軍の戦力はUボートしかなく、もっぱら地中海の主役はイタリア艦隊だったが、敵は隅々まで影響力を持つ強大なイギリス海軍のため、ドイツ艦艇も頑張らなければならなかった。
それから向こう数ヶ月は味方の勢力圏内で活動。ドイツ本国は東部戦線へ優先的に燃料を回したためイタリア艦隊が慢性的な燃料不足に陥り、まともに動けるのは小型艦や潜水艦のみという厳しい制約が課せられた。大型艦の支援を受けられない中、他の伊駆逐艦や魚雷艇とともに細々と敵に立ち向かう事となる。ZG3は単独で行動する事は殆ど無く、常にイタリアの魚雷艇や駆逐艦、駆潜艇と一緒に作戦に従事。数少ない例外はイギリス軍のエジプトへの増援に備えてイタリア艦艇が出撃待機した時くらいだった。
最初の船団護衛任務は6月1日を予定していたものの中止。6月24日、イタリアの水雷艇カステルフィダルド、F・クリスピ、ソルフェリーノ、駆逐艦タービンとともにピレウスからクレタ島ソウダ湾に向かう7隻の輸送船の護衛を行い、帰路はピレウスに向かう船団を護送した。続いて7月2日から翌3日にかけてシロス島沖で防御機雷を敷設する部隊を水雷艇ルポ、カシオペアと一緒に支援する。
7月8日、イタリア軍艦3隻やドイツ駆潜艇2隻とともに7隻の輸送船を護衛してクレタを出発。いよいよZG3は北アフリカ戦線への護衛任務に漕ぎ出す事になった。圧倒的不利な状況ながらドイツアフリカ軍団は6月22日に補給港トブルクを連合軍から奪取し、最前線に最も近い補給拠点を得た事で急ぎ物資を輸送する必要があった。地中海を縦断して2日後に7隻の輸送船をトブルクまで護衛。7月15日、トブルクから出発する輸送船2隻をカシオペアと護衛し、無事ピレウスまで護送した後、7月22日にクレタ島ソウダ湾へ回航。現地には既にドイツアフリカ軍団向けの輸送船団が集結しており、翌23日に輸送船2隻を護衛して出港。トブルクにまで送り届けて今回の輸送も成功させてスダ湾へ帰投した。トブルクに集積された物資は1日に600トン程度しか最前線に輸送出来ず、要求量に満たない補給を前に酸素を求める魚のように口をパクパクさせるドイツアフリカ軍団だったが、これでも以前と比較して質・量ともに補給面が改善されていたという。
8月4日に損傷してサラミスへ戻るU-97を護衛して帰投を援護。8月11日から12日にかけてピレウスからスダ湾に向かう2隻の輸送船を水雷艇2隻と護衛。8月12日にトブルク行きの輸送船団を護衛する予定だったが、イギリス軍の有力な艦隊がジブラルタルからマルタに向かうのを確認したため中止(ペテスタル作戦)。伊巡洋艦のビュロス回航に伴って護衛任務に回される予定も実行には移されなかった。8月14日に輸送船2隻を護衛してスダ湾を出発、何事もなくトブルクへ到着した後、帰路にドイツ輸送船を護衛して8月17日にクレタへと戻った。8月18日から20日にかけて損傷してサラミスへ帰港するU-83を曳航。8月22日、艦名をヘルメスに変更。第二次世界大戦勃発後、ドイツ海軍は駆逐艦の命名を停止していたが、ここに至って艦名を変えるという非常に珍しい事をしている。ピレウス発スダ湾行きの輸送船を護衛した後、8月26日から28日までイタリアの駆逐艦1隻や魚雷艇2隻とともにセリゴット沖合いの敵潜水艦の索敵を実施するが失敗。
9月1日、鹵獲駆潜艇UJ-2104とともにピレウス発トブルク行きのタンカーを護衛。9月3日にトブルクへ到着したその日のうちにタンカーを護衛して出港、9月7日にピレウスへ戻った。休む間もなく今度はピレウスからクレタへの軍隊輸送に従事。9月14日、タンカーと5隻の小型船を護衛してスダ湾を出発、トブルク到着後は駆逐艦や水雷艇とともに輸送船をピレウスまで警護する。9月20日から翌21日にかけてイタリアの補助巡洋艦とともにクレタ島イラクリオンへ部隊を移送。9月22日にタンカーを護衛してクレタを出発。9月24日にトブルクへ到着してすぐさま踵を返して出港。トブルク発ピレウス行きの高速輸送に参加した。9月28日、ピレウスから出港する2隻の輸送船をダーダネルス諸島まで護衛し、9月30日から10月2日まで味方の水雷艇と補助巡洋艦の支援を受けて3隻の輸送船をイラクリオンへ護送し、帰路に2隻の輸送船を護送する。
10月10日、2隻の駆潜艇、機雷敷設船、伊補助巡洋艦とともに機雷敷設任務の支援に従事。機雷敷設船が任務を行っている間、ヘルメスはクレタ南方を遊弋してイギリス海軍の出現に備えた。10月23日にギリシャ本土テッサロニキへ回航され、10月26日と翌27日にかけてピレウスに向かう輸送機を護衛。その後、伊駆逐艦と協同でタンカーをテッサロニキまで護衛する。10月31日、ピレウスへ戻る際に2隻の輸送船を護衛した。
11月2日、駆逐艦や水雷艇計5隻とともにベンガジ方面に向かう小型船団を護衛してピレウスを出港し、2日後に目的地ベンガジへ入港。ドイツアフリカ軍団に貴重な物資を供給するが、11月5日、エル・アラメインの戦いに敗れたドイツアフリカ軍団がエジプトから追い出され、11月8日にアフリカ北西部のヴィシーフランス領にアメリカ軍が上陸。北アフリカ戦線のミリタリーバランスが一気に崩される。だがヘルメスらの活躍でベンガジに燃料が届けられた事は後退するアフリカ軍団にとって力強いニュースとなった。11月12日、駆潜艇UJ-2102と伊水雷艇とともにピレウスを出発し、11月14日にイラクリオンへ到着して兵員を揚陸。11月16日、ダーダネルス諸島に向かうタンカーと輸送船を護衛してUJ-2101、UJ-2102とピレウスを出港。道中のエーゲ海にてヘルメスはカフィレアス岬沖でギリシャ潜水艦トリトンを捕捉して通報、独駆潜艇UJ-2102がトリトンを撃沈するという協同戦果を挙げた。ちなみにトリトンもUJ-2102もヘルメスもかつてはギリシャ海軍所属だった。喜ぶべき戦果とは対照的に、北アフリカ戦線では立て続けにトブルクとベンガジを失い、戦線の崩壊を避けるべく後方のチュニスに続々と増援が送られる事となった。11月21日、伊水雷艇と一緒にテッサロニキへ回航。翌日、4隻からなる輸送船団を護衛して出港、イラクリオンまで護衛した。
12月7日、トリトン協同撃沈の戦果によりヨハネソン大尉に騎士鉄十字章が授与される。
1943年1月20日から2月19日までサラミスで推進機関のオーバーホールを受ける。その間ヘルメスの船団護衛は取り止められたが、幸運にも失われた船は1隻も無かった。しかし北アフリカ戦線の戦況は悪化を極め、2月13日の時点でドイツアフリカ軍団は最後の拠点であるチュニジアにまで追い詰められていた。3月25日、二代目艦長にカート・レシェル中佐が着任。
3月に入るとチュニジア北部を連合軍に封鎖されたため、ヘルメスはチュニジアへの補給線を死守するよう命じられて3月30日にイタリア南部へ回航。1943年4月までにヘルメスは50回以上の輸送任務と3回の機雷敷設に従事。74隻の輸送船と8隻の軍隊輸送船、工作船、急設網船など11種類の船舶がヘルメスの警護を受けた。献身的なヘルメスの活動を商船の乗組員は高く評価していたという。
4月20日、チュニジアに新設された新たな補給拠点への輸送任務に従事するべくシチリア島に回航され、マレッティモ沖に60発の機雷を敷設したのちサレルノに帰投。ヘルメスの燃料が不足していた事からポッツォーリへの移動を命じられ、4月21日朝に出港。港を出た直後の午前8時38分、カプリ島の南南西約3マイルで見張り員が1000m先の潜望鏡を発見。すぐさま21ノットに増速するとともにソナー探知で潜航中の英S級潜水艦スプレンティド(865トン)を捕捉した。午前8時43分より35~50mの深さに設定した3発の爆雷を5回に渡って投下するも手応えを得られず。今度は50~75mに設定して爆雷を投下するが今回も空振り。実はスプレンティドは爆雷攻撃を回避するべく水深150mにまで潜っていたのだ。ソナーには3ノットの水中速力で逃げようとする敵潜の姿が捉えられている。午前9時24分、深さ90~120mに設定して爆雷11発を投下。この一撃が遂にスプレンティドに致命傷を与えた。耐圧殻内に浸水が生じて潜航に耐えられなくなった敵潜はヘルメスの後方3000mに浮上、ヘルメスは即座に左旋回して午前9時35分から127mm主砲と小型機銃で一斉射撃を加える。もはや勝ち目が無くなったスプレンディドは最期の意地で魚雷を発射するも外れて失敗。午前9時47分、乗組員18名を戦死させて自沈へと追いやった。生き残った乗組員30名はヘルメスに救助され、イタリア海軍の駆潜艇に引き渡されて捕虜収容所に移送。スプレンティドは伊駆逐艦アヴィエーレを含む9隻のイタリア船舶を撃沈しており、地中海の暴れん坊はヘルメスによって倒された。4月27日、勇敢な戦いぶりが評価されてイタリア国王ヴィクトルエマヌエル3世から銀メダルが授与。
4月下旬、豊富な輸送経験を持つヘルメスはイタリア海軍の駆逐艦レオーネ・パンカルドとともにチュニジアへの緊急輸送に参加。崩壊寸前の北アフリカ戦線へ急ぎ輸送する必要がある事から、鈍足な輸送船ではなく快足駆逐艦による輸送と相成った。ポッツォーリでヘルメスは兵員215名、パンカルドは247名を積載し、4月29日19時30分に出発する。今やチュニジアへの航路は機雷原と敵潜水艦に満たされ、制空権も完全に連合軍が握っている「死のルート」としてイタリア人乗組員に恐れられていた。夕刻と早朝は何事も無かったが…。
4月30日午前9時頃、道中のパンテラリア西方で敵雷撃機5機が出現。2隻は即座に対空砲火を放ち、敵の雷撃を不満足なものにして撃退に成功。午前10時10分、前回の攻撃より強力な12機のP-40ウォーホーク戦闘機が出現するが、今度は友軍機のMC.200サエッタが加勢していて空中戦が行われる。そこへ独第27戦闘航空団のメッサーシュミットBf109が、敵側には更に12機のウォーホークが増援に現れ、2隻の命運を巡って激しい戦いが繰り広げられた。結果、Bf109が撃墜されるも敵機も撃退された。午前11時22分、ボン岬沖で3回目の連合軍機の来襲を受ける。戦闘機に護衛された18機の敵爆撃機がヘルメスとパンカルドに襲い掛かるが、激しい抵抗により敵機は有効打を与えられず、更なる増援を得て2隻を集中攻撃するが、命中弾をゼロに抑えて勝利。
しかし正午頃、遂に2隻の強運は途絶える事になった。50機に及ぶウォーホークの襲撃によりパンカルドは多数の命中弾と至近弾を受けて瞬く間に洋上停止。ウォーホークの群れは機銃掃射を仕掛けるべく低空から迫るが、15機のBf109に阻止された。だがパンカルドは既に虫の息であったため間もなく沈没。ヘルメスもまた至近弾によって乗組員23名が死亡、潤滑油ポンプが失われて航行不能に陥る。辛くも生き残ったヘルメスはパンカルドの乗員156名と便乗のドイツ兵172名を救助。やってきた病院船アクレイアに111名を移乗させる。北アフリカ方面から現れたダグボートに曳航され、チュニジアのラ・グレットにある元フランス海軍の施設まで辿り着いたものの最早修理の見込みは無く、連合軍が間近に迫っていたため乗組員は陸兵として駆り出された。
5月6日、連合軍はドイツアフリカ軍団最後の拠点となっているチュニジアのチュニスを総攻撃。物資も戦力も尽きかけていたドイツアフリカ軍団に押し返せる力は残っていなかった。
1943年5月7日、チュニスの戦線崩壊に伴って連合軍がラ・グレット港の入り口に現れ、ドイツ軍の手で閉塞船として沈められた。翌日の戦闘で乗組員は戦死するか、連合軍の捕虜になるか、トラパニまで退避した。5月8日、スプレンティド撃沈の功績でレシェル艦長に騎士鉄十字章が授与される。彼は無事シチリアまで逃げ延びて艦の喪失を報告したという。北アフリカ戦線が終結したのは自沈から僅か9日後の事だった。ラ・グレットを押さえた連合軍はヘルメスの残骸を引き揚げて邪魔にならない場所へ移動。一時は修理する事も考えられたが、採算に合わないとして放棄され、戦後に解体された。
艦長を務めたヨハネソン大尉とレシェル中佐の両名が騎士鉄十字章授与の誉れを得るほどの、武功抜群の艦であった。
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最終更新:2024/04/26(金) 00:00
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