MiG-25とは、ソ連が開発し、運用している戦闘機である。NATOコードネームはフォックスバット(Foxbat)。
初飛行は1964年3月6日(偵察機型の原型機Ye-155R-1による飛行)。最高速度はマッハ2.83だが、短時間であればこれを超える速度で飛行することもあったようだ。基本的に地上からの誘導を受け、高高度を高速で飛行する敵機を撃墜する防空戦闘機で、格闘戦には不向きである。戦闘機としては大型の部類で、F-15よりも大きい(最大離陸重量が36.7t、F-15Cで30t)。
アメリカ合衆国は1958年に超音速巡航爆撃機「B-70」の計画を公表した。1962年に初飛行を行ない、1964年には最初の航空団に12機を配備する予定だった。ソ連では早速B-70への対処について検討を開始、既存の迎撃機や地対空ミサイルでの迎撃は難しいと判断し、新しい迎撃機を開発することを決定、ソ連防空軍は1958年に要求仕様を出し開発が開始された。
これまでソ連で作られた迎撃機のように地上の管制に乗るだけではなく、そこから一歩進めて地上から自動操縦される。敵の妨害に対抗できる高出力レーダーを搭載し、データリンクの下りでレーダー画像を地上の管制室に送信、上りは地上管制システムからの操縦信号を送ることで、妨害の排除や最適な迎撃コースの選択を地上で処理できる。パイロットは機体とシステムが正しく機能するように維持するが、機体のレーダーが目標をロックオンするまでは操縦を行なわない。
最終的にB-70は1961年にケネディ政権によってキャンセルされた。しかし新型機の性能は当時アメリカが保有していたB-58や後継機の迎撃にも有効であったので、開発はペースを緩めたものの続行され、MiG-25は完成した。
1976年9月5日、ビクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉は単独での要撃訓練のために離陸し、一旦訓練空域に入ったのちに高度を下げて空域を離脱し日本を目指した。再度高度を上げたが雲で視界が悪かった為に再び高度を下げ日本の海岸線沿いに飛行、最終的に函館空港に着陸した。この時航空自衛隊のF-4EJがスクランブル発進し、一旦はベレンコ中尉の機体を補足したが、MiG-25が雲の下に出るために高度を下げた際に見失っている。
ベレンコ中尉は事情聴取を受けた後そのままアメリカへ亡命。日本側は機体を分解して百里基地に運び調査を行った(飛行テストは行わなかった)。調査後の機体は日立港でソ連の貨物船に積み込まれ、貨物船は同年11月15日に出発した。
「最大速度M3.4の高速戦闘機」
この点で西側諸国を震撼させたMiG-25である。どれくらい震撼させたかといえば「世界最強の制空戦闘機」と呼ばれるF-15はぶっちゃけこいつを相手にするために設計された機体って面もあるくらいだ。
しかし、上記のベレンコ中尉亡命事件で入手できたMiG-25を解析してみたところ…
とんでもない事実がいくつも浮かび上がってきた。
掲示板
49ななしのよっしん
2022/09/03(土) 01:12:34 ID: ycUkSMA2CJ
50ななしのよっしん
2022/11/23(水) 01:18:14 ID: YXw2xaB7ST
NHKで当時の共同通信社の記者と第28普通科連隊の隊長の記者のインタビューを見た
当時の困惑と混乱が手に取るように伝わってきた
https://
DIA(アメリカ国防情報局)とヴィクトル・イヴァーノヴィチ・ベレンコの記録情報もあるよ!
しかし貧乏だったんだなソ連もソ連軍も…
51ななしのよっしん
2023/02/07(火) 18:47:44 ID: i2DjuKG1sk
ベレンコ元中尉の亡命を批判する奴いるけどさあ、死人が一人も出なかったことはスルー?じゃあオウム真理教のサリン事件の方が良かったか?他の亡命事件だと今の北朝鮮とかもそうだが、死傷者が必ずと言っていいほど現れるのにな
それにあの事件は日本にとっても良い結果しかなかったろじゃん。ミグの実態が明らかになった(ミグ信者と反共主義者大歓喜)、異例の事態を受けてマニュアルに新たな1ページが追加されたため次同じ事が起きたら対応可能(出来なかったら警察も自衛隊も無能確定)、終戦からずっと平和ボケする日本が戦争が起きうる恐怖を間近で感じられるよう良い目覚まし(物理)になった
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最終更新:2023/03/21(火) 06:00
最終更新:2023/03/21(火) 06:00
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