Uボートとは、第一次大戦から第二次大戦にかけて製造されたドイツ海軍潜水艦の総称である。
ドイツ語では潜水艦の事を「Unterseeboot(ウンターゼーボート)」と言い、Uボートはその略称である。このため「ウーボート」と発音するのが正しいと言える。本来は潜水艦全体を指す言葉なのだが、現在では第一次世界大戦及び第二次世界大戦でドイツ海軍が運用した潜水艦群のみを指す事が多い。ただドイツ語版wikipedia等では他国の潜水艦であっても「Uboot」と称している。ここではドイツ海軍の潜水艦のみを紹介する。
UボートはU-〇〇(番号)の名で呼称される。例えばU-29。和訳すると「潜水艦第〇〇号」という素っ気ない名前となる。Uボートは1000隻を超える生産数のため名前を付けようにも先にネタ切れが来てしまうからね、しょうがないね(実際駆逐艦の方はネタ切れとなった)。ブロック工法や電気溶接といった当時の最先端技術を駆使して徹底的に工期を短くし、艦内は高度に機械化され、シャワー室まで備えているという大量生産ながら高い技術力で生み出されており、譲渡されたU-511を解析した日本海軍はあまりの技術差に「量産不能」と結論付けた程。
第一次世界大戦で連合国の軍艦を多数撃沈する戦果を挙げたことから、第二次世界大戦でも同様の効果を期待して多くの種類が建造された。全長は小型のもので約30m~40m、遠洋を航海する大型の攻撃型潜水艦は80mを超え、乗組員は25人から60人である。また、後期モデルの最大可潜深度は150m、水中速度は16.5ノット(時速約30km)に達する。狩りをする狼の群れを「ウルフパック」と呼ぶが、複数の潜水艦で攻撃するUボートの戦法もウルフパックの別名がある。そのためかUボートを海の狼と称する書籍も多い。
第二次世界大戦では開戦劈頭より通商破壊戦に従事。大西洋、北海、地中海、北極海、アメリカ東海岸、カリブ海、インド洋、太平洋と世界中の海を舞台に狩りを行った。U-29が英空母カレイジアスを撃沈したのを皮切りに戦艦や空母、巡洋艦など大物を食った事もあった。しかし1943年頃から連合軍側の護衛システムや暗号解析、対潜兵器、レーダーといった反撃の術が徐々に整い始め、約1,100隻建造されたうちの7割以上を失った。対するUボートもシュノーケルの装備や逆探装置及び対空兵装の強化で対抗するも、抗し切れず被害増大。狩る方から狩られる方へとその立場が変わっていったのである。とはいえ終戦直前の1945年4月まで細々ながら戦果を挙げていた。
日本ではあまり馴染みのないUボートだが、実は第二次世界大戦中にU-532が神戸港まで来たり、東南アジアのペナン基地を拠点に日独海軍が共同で通商破壊を行ったりと接点がある。有名なのは日本海軍に譲渡されて実際に呉まで回航されたU-511だろうか。またドイツが降伏した時に東南アジアに残っていたU-181、U-219、U-195、U-862を日本海軍が接収して編入している。
狼のように僚艦と協力して獲物を狩る、潜水艦特有の過酷な環境、敵艦との命がけの心理戦や緊張感など、見る者を惹きつける要素が多く存在するためか、現在に至るまでUボートを題材とした映画や書籍、ゲーム等が世に出続けている。急速潜航して爆雷攻撃から逃れるシーンというのはよくあるが、潜水艦を主役にした映画は傑作が多く、古くはロバート・ミッチャムが米軍駆逐艦の艦長、クルト・ユルゲンスがUボートの艦長を演じた「眼下の敵」や、1981年に公開されてヒットしたウォルフガング・ペーターゼン監督の「U・ボート」などが挙げられる。死と隣り合わせの密閉された空間とその物語は、常に緊張感を生むのである。艦が損傷して二度と浮上できない、と分かった時の乗組員の恐怖と絶望感は、想像を絶するものがある。
また日本の作品にも大きな影響を与えており、『機動戦士ガンダム』のユーコン級潜水艦や『宇宙戦艦ヤマト2199』の次元潜航艦UX-01はUボートがモチーフとなっている他、アダルトゲーム『蒼海の皇女たち』はUボート戦を題材としている。
1906年12月14日、ドイツ海軍は最初のUボートであるU-1を竣工させた。まさか水上艦ではなく潜水艦を主力にして戦争する事になるとは、この時誰も想像できなかったであろう。
1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発。開戦当初ドイツ海軍はUボート28隻を保有していた。当時のドイツ海軍には戦艦や巡洋艦等からなる大海艦隊があり、Uボートは最前線ではなく港湾防御に充てられて海戦の主役とは成り得なかった。しかしUボートがイギリス海軍の水上艦艇を撃沈した事で評価され、次第に作戦海域が拡大。1915年2月頃から通商破壊を開始する。敵国のイギリスは世界中に植民地を持つ海洋大国なのだが、島国なので広大な植民地から資源を得るには必ず輸送船に載せなければならなかった。Uボートは物資を運ぶ輸送船を集中的に狙う事でイギリス本国を干上がらせようとした訳である。大海艦隊と言えどイギリス海軍が持つ強大な艦隊には敵わず、また海上封鎖も出来ないため、敵の生命線を断つUボートは影の主役となった。
1915年5月7日、イギリスの豪華客船ルシタニア号をU-20が撃沈するが、死者1198名のうちアメリカ人128名が含まれていた。このためアメリカの国内世論はドイツ非難一色に染まってしまう。米国政府からの抗議を受けたのと、ドイツ自身も食糧と原料をアメリカからの輸入に頼っていた事から一時は潜水艦作戦を緩める。が、1917年2月1日よりUボート艦隊は片端から輸送船を沈める無制限潜水艦作戦を開始。イギリスに大打撃を与えて青ざめさせた。
ドイツが降伏するまでに竣工したUボートは345隻。5282隻(1196万4185トン)を撃沈したが、178隻を喪失して士官511名と下士官兵4576名が戦死。1400名が捕虜となった。敗戦時、Uボートは176隻が就役中、146隻が建造中であった。
大量生産しただけあってドイツは最高峰の潜水艦技術を持っており、戦勝国がこぞってUボートの獲得に精を出した。イギリスは95隻、フランスは45隻、イタリアは10隻、日本は7隻、アメリカは6隻を獲得し、それ以外は全てスクラップの末路を辿る。その際に日本はヨーロッパに調査員を派遣してU-142型の図面を入手し、巡潜型を開発している。
Uボートによって絶大なトラウマを負ったイギリスはヴェルサイユ条約第191項で潜水艦の建造禁止を明記し、ドイツから潜水艦を取り上げた。だがドイツは「国内で作らなければセーフ」とし、1922年4月にオランダで海事技術社というダミー会社を設立して秘密裏に潜水艦の技術研究を開始。ベルリンにはメントァ・ビランツというダミー会社を作り、海事技術者を支援しながら得られたノウハウを継承する。また国外に造船所を作ってそこでUボートを建造するという、ヴェルサイユ条約の穴を突いた巧みな方法で経験を重ねてゆく。1926年からはフィンランドやトルコに向けて潜水艦を輸出するようになり、1933年10月には潜水学校が開校。
1935年3月16日、我らがヒトラー総統閣下によって再軍備宣言がなされ、ドイツを縛る忌まわしきヴェルサイユ条約を撤廃。二度目の世界大戦を引き起こしたくないイギリスは譲歩し、6月18日に英独海軍協定を締結してイギリスが保有する潜水艦の45%までなら建造しても良いと認めさせた。待ってましたと言わんばかりにドイツは水面下で進めていたUボートの建造計画を表面化、早くも6月29日に敗戦後初となるU-1が就役する。
第一次世界大戦で保有していた大海艦隊は敗戦後にスカパ・フローで名誉ある一斉自沈をしており、ドイツ海軍は再建の途上にあった。元Uボート乗りで第一次大戦にも従事していたカール・デーニッツ提督は海軍再建の第一段階としてUボートの量産をヒトラー総統に進言。Z計画に223隻の建造が予定に組み込まれた。ただしこのZ計画は1948年を目処に練られたものだった。デーニッツ提督は自身の経験から「300隻のUボートがあればイギリスを締め上げられる」と胸を張っていたという。
1936年から勃発したスペイン内戦はドイツにとって新兵器の実験にうってつけだった。既に生産されていたVIIA型等がスペイン近海に派遣されてパトロールを実施し、貴重な経験を積む。
海軍再建中の1939年9月3日、ドイツ軍のポーランド侵攻により英仏連合軍が宣戦布告してきた事で第二次世界大戦が勃発してしまったのである。また完全に力を取り戻せていないドイツ海軍にはドイッチュラント級装甲艦、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦、シャルンホルスト級巡洋戦艦くらいしか有力艦艇が無く、駆逐艦ですら数が揃っていないなど第一次世界大戦の頃よりも弱体化している有り様。そこで主力艦艇に代わって立ち上がったのが、短期間での大量生産が可能で戦艦さえも食えるスペックを秘めたUボートだった。デーニッツ提督は英仏が宣戦布告してくるのを見越して既にUボートを北海や北大西洋に忍ばせていた。このため海の狼たちは迅速に狩りを行える状態だったのだが…。
開戦当時Uボートは56隻就役しており、このうち46隻が作戦行動可能であった。しかし航続距離に劣る旧型も含まれているため狩り場の北大西洋で活動できるのは22隻、作戦海域への移動や帰投を視野に入れると同時に活動できるのは僅か7隻のみと充分とは言えない陣容だった。また開戦後ヒトラー総統は英仏との和平を望んでおり、積極的な攻撃を禁じられた上、フランス船舶への攻撃は自衛以外認められなかった。更にUボートの動きを縛ったのが戦時拿捕船規定と呼ばれるルール。敵船を撃沈できるのは「停船を呼びかけて密輸品を発見した時」、「警告を無視して逃走した時」、「反撃してきた時」のみに限られ、いちいち確認してからでないと敵船を撃沈出来ない面倒さを伴う。この商船有利なルールはUボート乗組員に要らぬ手間と疲労を与える。追い討ちをかけるように開戦日の9月3日、U-30が誤って仏客船アセニア号を撃沈し、民間人128名が犠牲となる。ルシタニア号を彷彿させるこの事件は英仏を怒らせ、ヒトラー総統は「敵国の船であっても客船は撃沈してはならない」と布告した。このように開戦劈頭は制約にガンジ絡めされて思うように動けなかったのである。
対するイギリス海軍は正規空母を対潜哨戒任務に投入。艦載機による航空哨戒を行った。フランス海軍もまたイギリス海軍と捜索海域を分けて艦艇を出撃させ、血眼になって海の狼を探す。しかし潜望鏡を肉眼で確認するのは難しく、当時はレーダーもソナーも発達していなかったので発見は困難を極めた。
9月14日、U-39は英空母アークロイヤルを雷撃するも失敗し、護衛の駆逐艦から反撃を受けて撃沈。Uボート最初の喪失艦となった。その僅か3日後の9月17日、U-29が英空母カレイジアスを撃沈。これが第二次世界大戦におけるUボート最初の戦果であり、イギリス海軍最初の喪失艦となった。いきなり大型艦を食われたイギリス側は先述のアークロイヤル雷撃の件も手伝って恐怖に駆られ、慌てて正規空母を対潜哨戒任務から外している。一方、カレイジアスを葬ったU-29の戦果は軍首脳部にUボートを再評価させ、前大戦同様Uボート主体による攻撃を決意させるに至った。恐怖するイギリスに更なる凶報がもたらされる。10月13日夜、イギリス海軍の一大拠点スカパ・フローに侵入したギュンター・プリーン艦長率いるU-47が英戦艦ロイヤルオークを撃沈したのである。開戦から僅か1ヶ月でいきなり大型艦2隻を失ったイギリスは頭を抱えていたに違いない。プリーン艦長は一躍英雄として祭り上げられた。
海上艦隊を指揮するエーリッヒ・レーダー提督がヒトラー総統に進言した事で戦時拿捕船規定の緩和やフランス船舶への攻撃許可を取り付け、10月17日には客船への攻撃も認められた。最初に10万トンの撃沈スコアを稼いだのはU-48であった。
海の狼は雷撃するだけが攻撃手段ではない。商船が通る航路に機雷を敷設する事も重要な手段である。また四発爆撃機Fw200コンドルとは協力関係にあり、Fw200が敵船団を発見するとUボートに位置情報を通報する。逆にUボートからの通報でFw200が駆けつける事もあり、互いに連携して獲物を追い込んだ。海の狼と空のヴァルキュリアの連携を前に輸送船は次々に沈められ、イギリス軍は涙を浮かべながら悔しがり、チャーチル英首相はUボートとFw200を最優先攻撃目標に指定してどうにか捻じ伏せようとした。
1940年3月4日、デーニッツ提督はドイツ本国で待機中のUボートに出撃中止命令を下す。これはノルウェーとデンマークの攻略を目指すヴェーゼル演習作戦に備えた命令であった。4月6日にドイツ軍はヴェーゼル演習作戦を開始。海軍の戦力はほぼ全てノルウェー攻略に差し向けられ、Uボートも相当数が投入された。
ノルウェー海で通商破壊任務に従事するが、ここで磁気魚雷の欠陥が露わになる。魚雷を敵船に当てても起爆せず、みすみすと獲物を逃してしまうのである。戦艦ウォアスパイトを雷撃するも不発になった挙句、敵艦から対潜攻撃を受けたU-47のプリーン艦長は「木銃で戦争させられてたまるか!」と激怒したほど。実は魚雷の欠陥は開戦直後から出ており、U-56のツァーン艦長は戦艦ネルソンに3本の魚雷を当てたが全て不発という不幸に見舞われている。このせいでツァーン艦長は精神を病んでしまい潜水艦学校に回された。
魚雷の不発は戦果の減少を招き、1本当てて撃沈(上手く起爆)した商船は全体の40%に落ち込んだ。魚雷の消費数が増えた事でUボートも短期間で補給に戻らざるを得ず、なかなか苦しい戦いを強いられる。
あまりにも欠陥が多いので海軍は調査委員会を立ち上げて調査。スカンジナビア半島沖で大量に埋蔵されている鉄鉱石が磁気魚雷を狂わす事が分かり、6月以降、改良が進むまで磁気発火式の使用を取りやめて撃発発火式のみ使用する事に。この変更はUボートの攻撃力低下を生じさせた。幸い、イギリスのシール級潜水艦グランパスを鹵獲・解析したおかげですぐに解決の目途が立った。
ヴェーゼル演習作戦自体は成功に終わり、トロンヘイム、ナルヴィク、クリスチャンサン、ホルテンなどUボートの出撃拠点となりえる軍港を押さえた。
1940年6月25日、連合国の一角だったフランスがドイツに降伏。フランス海軍が使用していたビスケー湾沿岸の軍港を全てUボートの出撃拠点に使えるようになり、首都パリにはUボート司令部(Bdu)が創設されてフランスはUボートの一大拠点と化す。支配下に置かれたラ・パリス、ブレスト、ロリアンから出撃すればドイツ本国から大西洋に向かうより800kmの短縮となり、燃料や時間の節約に役立った。ただ地理的にフランスの軍港はイギリス本国に近いため空襲を受けやすく、空の脅威からUボートを守るためトート機関が保護用のブンカーを建設。厚さ3~8.75mのコンクリートで造られたブンカーはイギリス軍機の爆撃からUボートを守り、安全に整備や補給が出来るようになっていた。
フランスから出撃したUボートはより遠くに進出可能となり、連合軍が護衛に無関心だった事も手伝って多くの輸送船を撃沈。加えてヒトラー総統が戦時拿捕船規定を撤廃した事で片端から船を沈められるようになった。HX-79船団を襲ったU-47、U-38、U-46、U-48、U-100は計38隻(約32万5000トン)を撃沈。6月から10月だけで274隻を撃沈し、Uボートの喪失数は僅か6隻に留まった。本国で建造されたUボートも続々と送られ、戦果は留まる所を知らなかった。この時期はUボートの黄金期(First happy time)と呼ばれている。一方、Uボートの数は増えたものの、それでも57隻以上が同時に行動した事は無かった。
バトル・オブ・ブリテンを制したイギリス軍はドイツ軍上陸の危機が去ったと見るや、留めて置いた本国艦隊を船団の護衛に割くようになり、1940年の終わり頃には護衛兵力が強化された。このため大西洋を往来する敵船団に強力なボディガードが付くようになり、戦果を挙げるためにUボートは南アフリカやカリブ海などの遠方海域にまで出張しなければならなくなった。ここからやられっぱなしだったイギリス軍の反撃が始まる。
1941年に入ると海と空からの監視体制を確立し、哨戒機にはレーダーが搭載された他、無線方位測定装置を新たに開発。遠くからUボートを探知出来るレーダー装置の出現は黄金期を終わらせてしまった。イギリスが繰り出す対潜兵器はこれだけではない。6月20日、拿捕したドイツ船ハノーファーを改造した護衛空母第一号ことオーダシティが就役。6機のFw200とU-131を葬った。オーダシティ自体はU-751の雷撃であえなく艦歴を閉じたが、Uボートを締め上げる厄介な護衛空母が出現し始めた事は憂慮すべき事態だった。
1941年夏頃、ヒトラー総統は通商破壊以外にも水上艦艇や仮装巡洋艦の護衛任務をもUボートに担わせようとし、通商破壊に集中したいデーニッツ提督をたびたび悩ませた。またヒトラー総統は北アフリカ戦線にも興味を持ち始め、補給が乏しい中で奮戦するドイツアフリカ軍団を支援しようと大西洋から地中海にUボートを派出するよう命令。ただでさえ少ないUボートの数を更に減らしてしまう結果となった。
1941年9月、地中海に進出する第一陣のU-75、U-79、U-97、U-331、U-371、U-559がフランスを出港。9月21日、イギリス軍の牙城であるジブラルタル海峡をU-371が突破。一番最初に地中海へ到達したUボートとなった。11月には後詰めの4隻が地中海に進出。ジブラルタル海峡にはイギリス軍が常時監視の目を光らせていたが、Uボートが水深100mまで潜れる事に気付かず、むざむざと突破を許していた。
地中海に進出した海の狼たちは同盟国イタリアの支援を受けて活動。主にポーラ、ラ・スペツィア、メッシーナ、マゼラン島を拠点にしてドイツアフリカ軍団の支援と通商破壊を行った。しかし潮流の関係で一度地中海に入ると二度と大西洋へは戻れなかった。
1941年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を発動してソ連領に侵攻。独ソ戦が勃発する。
イギリスやアメリカはソ連の支援を表明し、早くも8月頃にアイスランドとムルマンスクを往復する援ソ船団の運航を開始。これを迎撃するため占領下のノルウェーからUボートと空軍機が出撃、極寒の北極海やバレンツ海でも通商破壊戦が繰り広げられた。8月6日、ムルマンスク東方でU-652がソ連の対潜船カピタン・ヴォローニンを撃沈して北極海における最初の戦果を得る。
1941年も終わりが近づいた頃、Uボートの前に招かれざる存在が立ちふさがった。その名はアメリカ合衆国。中立国を謳いながら露骨にイギリスや英連邦を支援し続けてきた「敵」である。
開戦劈頭よりイギリスに肩入れしてきたアメリカだが、1941年に入るとより干渉を強め、3月に連合国へ武器を供与するレンドリース法が成立。9月には大統領ルーズベルトが大西洋艦隊に独伊の艦船を攻撃するよう命じ、ヨーロッパの沿岸から1400kmの地点まで米艦艇が進出してきた。彼らはUボートを発見すると爆雷攻撃を行ったり、イギリス軍に通報したりと中立とは名ばかりの国際法違反を繰り返して海の狼を追いつめる。「戦争には不介入」という公約を掲げて当選したルーズベルトだったが、実のところ第二次世界大戦に参戦したがっていて、ドイツを徹底的に挑発して反撃してきたらそれを口実に参戦するつもりだったのである。故にUボートは中立の皮をかぶったアメリカ艦艇に追い回され、日に日に怒りを募らせていた。一方でヒトラー総統はあくまで紳士的に対応。Uボート艦隊に米艦艇への攻撃を禁じている。
9月4日に米駆逐艦グリアに追い回されてブチギレたU-652が反撃の魚雷を発射したグリア号事件が、10月17日には同じく怒ったU-568が米駆逐艦カーニーを大破させるカーニー号事件が発生。そして遂に10月31日、U-552が米駆逐艦ルーベン・ジェームズを撃沈。初めて米艦艇が失われた。ルーズベルト大統領は狂喜乱舞して国民に対独戦争参戦を訴えたが、思いのほか国民は冷静で反戦派が多数を占め、対独宣戦布告には至らなかった。だが米独間の宣戦布告無き戦闘は続き、特にカーニー号事件はヒトラー総統にとって相当カッカさせられる出来事であった。
1941年12月8日、地球の裏側で同盟国の大日本帝國が米英に宣戦布告し、ドイツも歩調を合わせて12月11日に対米宣戦布告を行った。これにより米艦船に対する制約が全て取り払われる。
早速デーニッツ提督はアメリカにキツい一撃をお見舞いすべくU-66、U-109、U-123、U-125、U-130の5隻をフランスから出撃させ、1942年1月13日に東海岸沖で一斉に通商破壊を開始(パウケンシュラーク作戦)。参戦したは良いもののアメリカは欧州戦線や太平洋戦線に艦艇を送っていて対潜哨戒が全く出来ず、哨戒機も僅か109機のみ、未だ平時の気分で呑気に航行する船や停電に非協力的な都市部も手伝って大損害が発生。Uボート5隻は喪失艦を出す事なく23隻(15万505トン)を撃沈した。第二陣「ノイランド」は連合軍の産油地帯であるカリブ海を狩り場とし、2月16日にU-156、U-67、U-129、U-161、U-502が通商破壊を開始。喪失艦無しで貨物船45隻と灯船1隻撃沈、貨物船10隻撃破する大戦果を挙げて凱旋帰国している。
4月14日、米駆逐艦ローパーがU-85を撃沈し、初めて東海岸沖での喪失艦が出た。1942年6月までに585隻(308万1000トン)を撃沈。これは第二の黄金期の到来を意味した。信じられない程の大損害をこうむった連合軍は7月上旬になってようやく単独航行を船団式に改め、北はノヴァスコシア州、南はパナマ、アルバ島、キーウェストにかけて複雑な船団護衛網を構築。単独での狩りでは戦果を挙げられなくなったUボートは迅速に集団戦法へと切り替えて戦果を挙げ続けた。
地中海方面では1941年11月13日にU-81が英空母アークロイヤルを、11月25日にU-331が英戦艦バーラムを、12月14日にU-557が英軽巡ガラデアを、1942年8月11日にU-73が英空母イーグルを立て続けに撃沈。敵地中海艦隊に痛撃を与えた。
1942年7月、バレンツ海方面にて36隻からなるPQ17船団を空軍機とともに襲撃し、海の狼は10隻撃沈の戦果を挙げた。36隻中24隻を失って半壊したPQ17船団は連合軍にトラウマを刻み付け、しばらく援ソ船団の運航を取りやめたほどだった。
大西洋方面ではケープタウン沖に進出したUボート艦隊が送られて通商破壊。1942年9月、そのうちの1隻であるU-156が大型客船ラコニアを撃沈。U-156は献身的に生存者を救助していたにも関わらずアメリカ軍のB-24から攻撃を受けてしまう(ラコニア号事件)。この事件によりデーニッツ提督は撃沈した船舶から生存者を救助する事を禁じた。また11月になると北アフリカ戦線の巻き返しを図って連合軍がモロッコやアルジェリア、オランへ上陸。U-155が護衛空母アベンジャーを撃沈する戦果を挙げたが損害も大きく、バーラム撃沈の誉れを得たU-331も失われた。
1942年だけで連合軍は1160隻(626万6215トン)という途方もない大損害を出し、ドイツ海軍の水上艦による戦果も合わせると被害は779万657トンにまで膨れ上がった。またUボートの増産により393隻が就役、このうち212隻が作戦可能な状態にあったという。
しかし1943年を境にUボートは次第に苦境へと追いやられていく。
1月初旬、北大西洋方面にハリケーンが襲来。荒れ狂う波と風と雨はUボートの作戦行動を阻害、それどころか艦の正確な位置さえも不明瞭なものにし、作戦中の164隻全てが敵船団を発見出来なかった。また1月14日より行われたカサブランカ会談で、チャーチル首相とルーズベルト大統領は前年の大損害でUボートの脅威を実感し、「大西洋の戦いを制するにはUボートを撃滅する事が重要」と認識を再確認。Uボート対策に本腰を入れ始めたのである。まず連合軍は1月中旬よりUボートの出撃基地や周辺都市に航空攻撃を加え、間接的に損害を与えようとしたが、これは大した戦果に繋がらず無駄な努力で終わった。
北大西洋がハリケーンに蹂躙されている頃、南大西洋の気候は比較的穏やかであり、ここではデルフィーン隊と呼ばれるUボート8隻が通商破壊任務を行っていた。1月3日、トリニダード沖を哨戒していたU-514が北へ向かう敵船団を発見して通報、デーニッツ提督の命によりデルフィーン隊が捜索体勢に入り、1月8日に敵船団を捕捉。直ちに攻撃には移らず海の狼はじっくり機会を待った。そして攻撃チャンスと見るや一斉に襲い掛かり、9隻中7隻を撃沈する大戦果を挙げて完勝、北アフリカ戦線に送られる物資ごと海中に沈めて北アフリカの連合軍の動きを硬直化させた。
一度は遅れを取った連合軍だったが、間もなく新型の対潜兵器やソナーや配置され、護衛空母の大量配置により空からの監視体制も強化。対するUボート側も哨戒機が飛んでこない「空のすきま」を狙って狩りを行ったり、新型魚雷の開発や対空兵装の強化で抵抗するが、悲しいかな絶望的な物量差を前に無力だった。
ハリケーンが去った1月下旬にUボートは攻撃を再開。HX-224船団から3隻の輸送船を沈めた際、捕虜となったイギリス海軍士官が後続のHX-224船団の位置情報を吐いたため、20隻のUボートが集結。HX-224船団との間で激戦が繰り広げられた。3/4に及ぶUボートが爆雷攻撃を受けて3隻を喪失、2隻が損傷する被害を受けたが、13隻撃沈の戦果を挙げる。2月21日にはON-166船団を襲撃して4日間で14隻(8万5000トン)を撃沈、ON-167船団ではU-124単独で4隻(2万3566トン)を撃沈、SC-121船団も13隻(6万2198トン)を失った。3月16日から21日にかけて行われた襲撃では21隻(14万1000トン)を撃沈するなど海の狼は苦境の中で最大限努力した。だが連合軍は護衛空母群を次々に投入、イギリスもカタパルトを搭載した商船(CAM)にソードフィッシュを載せ、「空のすきま」を塞いだ事でUボートを更なる苦境へと追い詰める。レーダーや哨戒機によってUボートは長時間の潜航を強いられ、今やまともに攻撃する事すら叶わなくなった。進退窮まったデーニッツ提督は5月24日、全Uボートに船団航路から撤退するよう命じた。この日、Uボートは大西洋の戦いに敗北。二度と優勢になる事は無かった。
連合軍は反撃に転じ、ビスケー湾の外側に進出。おもむろにUボート狩りを始めた。7月2日から9日までの戦闘で7隻のUボートが航空攻撃で撃沈。その後も沈没する艦が後を絶たなかった。ビスケー湾から外洋に出ようとした86隻中19隻が犠牲になった。あまりの被害に、デーニッツ提督は8月2日に出撃禁止を命じた。
その間、乗組員には休暇を、Uボートには大幅な強化が施された。電波探知機、音響魚雷、4連装対空機銃を装備した新たなUボート13隻が9月初旬に出現。U-669が撃沈されたが、連合軍機13機以上を撃墜した。しかしこれら新型Uボートを以ってしても、連合軍の跳梁を止めるには至らなかった。不利な状況に陥ってもなおUボートの乗組員志望者は後を絶たず、デーニッツ提督が感嘆している。
遣独潜水艦作戦で訪独した伊30潜より「インド洋は対潜対策が遅れている」との情報を得たドイツ海軍は、新たな狩り場としてインド洋進出に意欲を見せた。資材を載せたU-178が東南アジアに派遣され、日本軍の協力のもとペナンでモンスーン戦隊を結成。たびたびドイツ本国からUボートが送られる事になった。
1944年6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸。フランスへの侵入を開始した。フランスの要港にいる19隻のUボートと、ノルウェーのベルゲン港にいる21隻のUボートに迎撃命令が下された。このうち5隻はシュノーケルを装備した新式だった。だがUボートの出現は連合軍も想定済みで、猛攻によって4隻のUボートが損傷。U-955、U-970、U-629、U-373、U-740、U-821が立て続けに撃沈される大損害をこうむった。引き換えに得た戦果は輸送船12隻と護衛艦艇5隻を撃沈、輸送船5隻と護衛艦艇1隻損傷だった。
8月初旬、連合軍はUボートの出撃基地であるロリアンに接近。デーニッツ提督は一旦ラ・バリスやボルドーへの退避を命じたが、連合軍の速すぎる進撃により遂にフランス所在のUボートにノルウェー方面への脱出命令が下される。既に道中の海域には連合軍の厳重な航空哨戒が敷かれていたが、Uボートには新兵器シュノーケルが装備されていた。シュノーケルは潜航中でも艦内に新鮮な空気を取り込める画期的な兵器で潜航時間の延長に使える上、当時のレーダーの性能ではシュノーケルを捉える事は不可能だった。この兵器のおかげで海上封鎖を突破する事に成功し、22隻がドイツ本国またはノルウェーに脱出。外洋で作戦中だった9隻も生還した。この成功はひとえにシュノーケルのおかげと言える。シュノーケルの効果は抜群で、逐次Uボートに装備されていった。おかげで哨戒機はなかなかUボートを発見できなくなった。一時的にだがUボートは優勢を取り戻し、24隻を撃沈した。
8月15日にトゥーロンを失陥し、9月30日に最後まで残っていたU-565とU-566が爆破処分された事で地中海からUボートが一掃されてしまった。
1945年1月、39隻のUボートがイギリス方面で活動。6隻を撃沈されたが輸送船7隻を撃沈した。光明を見たデーニッツ提督は2月中に就役した新型艦を全て投入。41隻が出撃したが、護衛艦艇3隻を含む11隻撃沈に留まり、被害は12隻に及ぶ。3月はそれより多い15隻が失われた。4月には6隻からなる最後のウルフパック「シーウルフ」が編成され、アメリカ東海岸における通商破壊を企図したが、4隻が撃沈される。このうち4月24日にU-546が挙げた米護衛駆逐艦フレデリック・C・デイビス撃沈が欧州戦線におけるアメリカ海軍最後の喪失艦となり、Uボートの雷撃による最後の戦果となった。
Uボートの一つの到達点とも言える、超高性能を誇るXXI型のU-2551とU-3008も出撃していたが、いかんせん数が全く足りず、戦局に寄与できなかった。
5月4日、デーニッツ提督は戦闘中止命令を発令。Uボートに投降を呼びかけた。だがUボートの艦長たちはこれに反発し、独自に抵抗を続けるか自沈を選んだ。5月6日に対潜攻撃で沈んだU-881がUボート最後の喪失艦となる。ドイツが降伏した5月7日、バルト海や北海で爆発音が連鎖。実に221隻が自沈を遂げた。最初の投降艦が出たのは5月9日で、ここから徐々に降伏する艦が出て、156隻が投降した。このうち116隻はデッドライト作戦で海没処分され、6隻がフランス、4隻がアメリカ、4隻がノルウェー、3隻がイギリス、1隻がカナダ、10隻がソ連に賠償艦として持っていった。終戦時、日本の勢力圏である東南アジアには6隻のUボートが取り残されており、日本海軍はこれらを全て接収。1945年7月に自軍へ編入した。
こうしてUボートの戦いは終わった。多くの犠牲と戦果を得て…。
第二次世界大戦中に就役したUボートは1162隻、このうち748隻が沈没。乗員4万900人中、2万8000人が戦死し、5000人が捕虜となっている。対する戦果は2603隻(約1305万トン)撃沈、175隻の護衛艦艇を撃沈してイギリス人だけでも3万人以上の船員を葬った。イギリス海軍の戦死者は約7万人だが、この大部分がUボートとの戦いで失われた。北は北極海、西はカリブ海、南は南アフリカ南端、東はオーストラリア南東という長大な範囲を狩り場にして暴れてみせたのだった。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2023/06/04(日) 13:00
最終更新:2023/06/04(日) 13:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。