71
31 ななしのよっしん
2015/05/26(火) 10:55:37 ID: SAamt7Iphs
つっても宗滴いなくなったら後釜のやつらは
宗滴が圧倒してた一揆にメタクソにやられて和睦なんかしてるし
人材がいなかったんだよ実際
32 ななしのよっしん
2015/06/01(月) 12:46:02 ID: Ht0gr+iA1Q
この人の遺言(別に今すぐ死んでも構わないが、あと3年生きて織田上総介と正木大膳亮の行く末を見届けたかった)を聞くと、織田信長と正木時茂のどこで差が付いたのかと思ってしまう。
33 ななしのよっしん
2015/06/17(水) 10:29:04 ID: sDswPxAeap
軍事だけのイメージがあるけど政治・外交面でも大きい発言力を持っていたんだよなこの爺さん
本当に事実上の朝倉家のトップと言っても過言では無いんじゃね
34 ななしのよっしん
2015/07/14(火) 20:49:44 ID: OjYISMeV5+
>>32
正木時茂は割とすぐに死んじまうからなぁ
まぁ領主としての手腕と言うより家人を統率する能力の上手さを褒めてるわけだし、その点で時茂が並べられている武人たちに大きく後れを取ってるとは思えんな
武田家にトドメ刺して上総を里見-正木の勢力圏に入れたのは正木氏の働きあってだし
それにしても、遠国の情報ってどれくらいのスピードでどれくらい正確に伝わるものなのかな。ケースバイケースだろうけど興味深いわ。特に朝倉家は那須家の内紛にも関わってたりするしね。
35 ななしのよっしん
2015/12/06(日) 22:02:06 ID: V0qkUqFgW7
79って当時としては超長生きじゃね?
36 ななしのよっしん
2016/02/07(日) 13:34:39 ID: ET59H2tML4
宗滴死後の朝倉家が振るわなかったように見えるのは、宗滴の晩年に始まった三好長慶との抗争のためだよ
中央に出現したこの大勢力から若狭近江の商業路を守るために、朝倉家は六角家と組んで10年以上も戦い続ける羽目になった
三好家との抗争が始まってから、宗滴自身が加賀の占領地を放棄して若狭に転戦したこともある事実を考えると、三好家は最大の敵だと宗滴は考えていたんじゃないかな
しかも三好長慶は本願寺と和解して友好関係まで築いていたし
37 ななしのよっしん
2016/03/07(月) 05:45:04 ID: GTRMXP8fKe
>>26
遅レスだが、こういう短絡的な人間が歴史を語るとろくなことにならない見本だな
育成できないから戦犯とか馬鹿かと
名将が育成で作れるなら苦労せんわ
38 ななしのよっしん
2016/06/29(水) 16:49:20 ID: g9CwEwUoF5
>>37
元々の本人の資質が大きい点については同意するが
名将の登場に育成が関係ないなら育成の存在価値が消し飛ばないか?
古今東西、後進の育成に力が入れられるということはやっぱ意味があるってことだろう
実際鳴かず飛ばずの部下を激励して活躍に導いた話は色々あるやん
39 ななしのよっしん
2016/06/30(木) 04:24:32 ID: Y++JS5dt5S
個人の育成もそうだけど家風や組織の土台を作るのって織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信あたりも失敗するほど難しい
出来なかったからといってそこまで評価を下げる要素にはならない
それでも評価を下げるというなら次代が衰退した英傑たちの評価も総じて下げないといけない
宗滴含め彼らは幾人かの優秀な人材は育成したけどそれが必ずしも直接勢力の盛衰を左右できるとは限らないのは見ての通り
40 ななしのよっしん
2016/10/28(金) 12:09:16 ID: SAamt7Iphs
せめてあと20年生きてれば…
41 ななしのよっしん
2017/01/02(月) 18:48:35 ID: dDYqTIb6Iu
本人は優秀だけど生涯現役に拘り過ぎて、後進の育成を怠ってしまったってイメージが強いなあ
「歩けなくなるまで戦は止められん」って奮ってるぐらいだし
42 ななしのよっしん
2017/01/08(日) 22:16:18 ID: mIh3F3LS3H
育成云々に関しては結果論かなあとは思う
少なくとも宗滴の人物眼や配下の起用法は確かだったようだから
人間を平均的な水準まで教育、育成するのはそう難しい事ではないけど、その水準を突破するような求心力のある人物の登場ってのはやはりある種の奇跡のようなものじゃないかな
43 ななしのよっしん
2017/01/27(金) 01:19:46 ID: pWWYtBaggI
宗滴は立ち位置的に難しい……
本人は有能で合理的な実力主義者、ただし
その宗滴がなぜここまで腕を振るえたかというと、
結局は朝倉家の連枝であるから。
因襲的傾向の強い朝倉家中と、宗滴の苛烈な実力主義は相性が悪い。
その両者が宗滴という傑出した一個人のなかで、
危ういバランスのうえに辛うじて成り立ってたわけで、
これはもうどうしようもないように思う
44 ななしのよっしん
2017/03/17(金) 17:58:05 ID: OGo89t4OTA
福井で大河誘致するならこの人しかいないと思うのだけど何故由利公正推しなんだよお
45 ななしよっしん
2017/05/03(水) 20:32:42 ID: brPSg27PtF
≫44
越前時代行列も秀吉の噛ませ犬の柴田勝家とお市じゃなくてこの人が主役でもいいと思うんだけどね
46 ななしのよっしん
2017/05/21(日) 13:00:40 ID: yT0iMEkuaP
47 ななしのよっしん
2017/06/12(月) 22:06:05 ID: tl2EZZW7C7
あれ?味方したのは浅井側じゃないのか?<北近江の浅井亮政と六角氏との戦いでは六角側に味方。
48 ななしのよっしん
2017/08/03(木) 08:47:18 ID: WxKdDo9rJS
>>47
浅井久政の記事で敵対行動が何度もあって(城の居座り、長政の姪の婿大名を朝倉家が拉致)実は浅井朝倉同盟は強固ではなかったのではって考察されてたね。
49 ななしのよっしん
2018/02/17(土) 14:34:59 ID: ET59H2tML4
元々朝倉家と六角家が同盟関係
そこへ当時混乱していた近江北部を京極家が再統一し、朝倉家と六角家が警戒
浅井亮政はその京極家に楯突いた存在なので、当初は朝倉家にとって支援する価値があった
ところが京極家に取って代わった浅井亮政が好き勝手を始めて六角家の勢力圏に侵攻、朝倉家と六角家が苦労して鎮めようとしていた美濃の内乱に介入
番長が小谷城を占拠したのはその頃
朝倉家と六角家の同盟関係は続いたけど、その後も戦場では連携しなかった
浅井家がいたせいで、朝倉家と六角家の勢力圏は離れていたから
その浅井家は後に六角家に従属はしたが、信長包囲網が始まるまで戦場で六角家や朝倉家に協力したことは一度もない
逆に浅井家の勢力圏が邪魔して、朝倉家と六角家は三好長慶との戦いでは同じ戦場に立つことができなかった
番長が小谷城を占拠した時に浅井亮政、久政を捕らえて殺していれば歴史は変わったかもしれない
50 ななしのよっしん
2018/02/17(土) 14:59:14 ID: Z+Lzw8kVKf
その辺は浅井が上手く立ち回ったってことだよな
もっとも、そういう前例があったから久政長政の二頭時代でも同じ事を
やろうとして滅んじゃうわけだけど
51 ななしのよっしん
2018/05/09(水) 21:41:53 ID: frnGqyBuMz
・九頭竜川の戦いでおよそ30万(恐らく誇張有り)の一向一揆軍をわずか1万弱で撃破
・勢いに乗る浅井亮政に対し、北近江に城を築くことで彼を牽制(これがキッカケで朝倉・浅井の誼が生まれる)
・失脚した細川高国の支援するために京へ進出し、畠山・三好連合軍を撃破。王手寸前まで局面を進める(しかし高国とは不仲になり帰国。これが原因で主力を失い、高国は後の戦いで不利になり大物崩れの間接的な原因となる)
・長尾景虎(後の上杉謙信)に呼応して、加賀の一向一揆を鎮めるべく侵攻し、3城をたった一日で落とす(しかし一揆軍が後日反撃してきたので勝負ならず)
・上杉謙信は朝倉家と同盟を結んでいたが、宗滴が死んだことにより彼は川中島の戦いで武田信玄と和睦を結ぶこととなった
・宗滴の死後、朝倉家は一揆軍との戦いで戦果を挙げれなくなり、結局幕府の仲介で和睦する羽目に
戦果も華々しいけど、敵味方問わずここまで影響を与えたのは十分すごいことだと思う。ある意味戦国大名朝倉家は彼によって栄え、そして彼の死によって終焉を迎えたのだと感慨深く感じた
52 ななしのよっしん
2018/05/13(日) 19:26:33 ID: Fe2Oa50Hh9
>>48
小谷城の一角に『金吾丸』があるのはその名残だよね。
あと宗滴には一応息子がいるんだけどね。まあお坊さんだけど。
53 ななしのよっしん
2018/07/17(火) 21:51:31 ID: ECSbvUNAJ2
戦うことじゃなく勝つことに拘り名言を残した稀代の名将
朝倉宗滴様とフレイザード様
54 ななしのよっしん
2018/10/20(土) 13:35:38 ID: tl2EZZW7C7
この前一乗谷にいってきたら朝倉家の大河を作るための署名があったけどもし大河になったらこの人が主人公になるのかな
55 ななしのよっしん
2019/01/20(日) 20:59:21 ID: NT0Pzny6/l
>>54
来年の麒麟がくる!で明智光秀の青年期、織田家仕官前に朝倉家に仕えてた頃もやるっぽいからそれに期待だな。
惜しむらくは、恐らく光秀が朝倉家に仕える前に宗滴公は身罷られてるっぽいが。
56 ななしのよっしん
2019/03/17(日) 10:08:24 ID: iBRP/wKg/O
九頭竜川の戦いで30万人のクトゥルフ狂信者を撃破した人類の守護者
57 ななしよっしん
2019/10/16(水) 23:17:29 ID: brPSg27PtF
単純に思うけど朝倉氏景、朝倉貞景、朝倉孝景の3代の当主が長生きしていたら朝倉宗滴と言う武将がここまで有名になる事はなかったかもしれないよね
兄の氏景ところか甥っ子の貞景と甥っ子の息子である孝景も宗滴より先に亡くなっている
特に氏景が長生きしていたら、武勇に優れた朝倉家の一武将と言う感じで終わっていたかも
58 ななしのよっしん
2019/11/26(火) 10:53:00 ID: JpCkmoeVUc
>>49
この時期1554まで畿内では将軍細川六角VS三好の代理戦争だからね
管領を切り捨てないと和睦できない状態だけど、将軍を抱えてる上に都から追放されても管領の権威がでかいから、これが混乱した一面があったと思う
だから六角が管領代になれたんだが
おまけに三好長慶側は細川に長慶の父親が見捨てら切り捨てられて自害した
もはや親の敵なわけで収拾がつかなかった
中央ではドロドロした内紛でそれを浅井が利用して朝倉を背景に後背地を安定してるので六角をガリガリ削っていったわけでめちゃくちゃですよ
久政の息子の長政を見捨ててるし=政元がすでに生まれてるし
一歩間違えれば(長政が殺されてれば)お市の方は浅井に行かなかったかも
59 ななしのよっしん
2020/03/10(火) 19:07:41 ID: 6BQXjeASWt
元々が中央の混乱に便乗して越前分捕ったわけだし、畿内の争いに巻き込まれ続けるのはしょうがない気も
宗滴大活躍の九頭竜川の戦いにしても本願寺が出てきたきっかけは細川の要請のようだし
この時期の本願寺も内輪揉めが酷いね、兄弟でも殺す蓮淳とか
60 ななしのよっしん
2021/04/29(木) 18:29:19 ID: VLaoZI0U+J
烈風伝でこの人捕まえると必ず朝倉家を裏切ってくれるくらい義理低いのはなぜ
ほめた!
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