50
31 ななしのよっしん
2020/07/26(日) 16:58:04 ID: H9GSvnQORn
今川義元の旗本衆が付き従ってたからそれはない
旗本なんて普通軍の最精鋭がつとめるものだし
単純に雨が降ってたから武器を構えていなかっただけだろう
32 ななしのよっしん
2020/07/26(日) 18:13:34 ID: UEwBl6YBcw
旗本衆が精鋭だとしても新兵同様の貴族兵、良家兵との混成なんじゃねぇの?大体3:7くらいで
そもそも最前線で戦うのは忠誠が低い武将とか松平のような従属勢とかが一種の捨て駒、忠誠の証的な意味で配置されてその後ろに譜代で戦慣れしてるのが普通だと思うがね
だから後方、本陣に近いほど、無防備で軟弱じゃないけど新兵同然の貴族良家衆が多いと思うがね
猛者、戦慣れしてるのは最前線:本陣で8:2くらいの割合でこの2に戦慣れしてない家格が高い家臣、貴族、良家衆が混ざってる感じだと思ってる そこにたまたま、偶然、決死の覚悟の織田精鋭が襲ってきたとなればまず勝ち目はない
33 ななしのよっしん
2020/07/26(日) 18:55:18 ID: H9GSvnQORn
少なくとも刀狩りや兵農分離が影も形もない戦国時代で
そんなひ弱な兵卒採用する余裕なんてどこの大名家にもない。
34 ななしのよっしん
2020/07/26(日) 22:22:17 ID: UEwBl6YBcw
ひ弱な兵卒って側近やお偉いさんとその子供が、戦する可能性の少ない比較的な安全な後方で本陣守備や兵站なんかの後方任務やるのに決まってるだろ兵役だから形だけでも出ないといけないし
だからと言ってなんでわざわざ最前線で戦うんだよ 余程戦に上手い経験者か手柄立てたい武闘派系家臣以外前線に行くわけないだろ 何筋違いな話してんだよ
35 ななしのよっしん
2020/07/26(日) 22:34:01 ID: sMFIFiL4FU
この時期の足軽って募兵中心の構成のはずだし、
得体の知れない流れ者やよその国から追われてきた野盗まがいの半分キチガイみたいなのもようけおったやろ
譜代の家持ちは基本部隊長クラスを担うなら、松平みたいな全員キチガイ軍団以外はそこまでヒャッハーしてなさそう
36 ななしのよっしん
2020/09/11(金) 23:06:23 ID: BmrK+n0jYw
>>34 ただの結果論だな。兵站任務で言うなら大高城への兵糧搬入でむしろ指摘のある
松平元康率いる松平隊の方がよほど可能性があるし、寄親寄子を採用して軍制に優れた今川軍の
それも本隊のみが弱兵揃いだったなんて、桶狭間の結果から逆算して今川軍の敗因をつきとめようとしているだけ。
むしろ記事中ではなぜか織田軍の精鋭がうんたらって話があるけど
信長が清洲城を出た段階で伴った小姓は5人だけで、二次資料に
その名が知られてる「赤母衣」「黒母衣」の精鋭衆にしても
1567年の発足だから桶狭間ではまだ誕生していない。
織田軍の兵質が今川軍より際立って優れていたとも思えないな。
むしろ不意の遭遇戦(奇襲戦)に伴って織田信長、今川義元双方自ら
徒にて戦わざるを得ない結果になり、純粋に今川義元が先に戦死して勝負がついた、
乱戦の伴った疑似一騎打ちに近かったのが桶狭間だろ。まかり間違えば信長が死んでいた可能性も当然ある
37 ななしのよっしん
2020/09/11(金) 23:11:20 ID: BmrK+n0jYw
もっとも織田信長は桶狭間前に敵が引けば襲えとあるし、
のちの志賀の陣などを見ても決戦志向が非常に強い人物だから
不意の遭遇戦というよりは、織田軍による奇襲、強襲戦といったほうが正しいだろう。
最後は総大将である織田信長、今川義元の生存力で決着をつけると
強襲し、雨や不意打ちの効果で義元が先に倒れ生き残った信長が勝った。
勝因は雨や不意打ちによるものであって、今川が舐めプしたとか弱かったってのは
全部後世の結果から逆算した事後孔明
38 ななしのよっしん
2021/06/19(土) 10:56:19 ID: NAaXVs51De
最近は信長はそれが義元本隊だとは思ってなかったって説が有力らしいけど
それだと義元無能説が再燃しちゃうんだよなあ
戦力で圧倒的に勝ってるのにたまたま相手の主力部隊が目を付けるような場所に位置に大将がいたってことになっちゃうし
39 ななしのよっしん
2021/06/27(日) 20:12:10 ID: GdCzVpnlEW
まあ義元の先祖の義忠も討ち死にしてるしな
40 ななしのよっしん
2021/12/01(水) 04:49:14 ID: n1KALUd2hS
当時の戦闘の常識として、総大将同士が白兵戦になるほどの乱戦なんてそうそう起きない
布陣図を見るには義元の油断というのはかなり酷というか、信長の動きがまずおかしいね。
一番おかしいのは本拠地であるはずの清洲城をスッカラカンにしてること
この時点で今川軍は鷲津、丸根を攻囲し、信長の出撃後に両砦を落としているから
今川軍からすれば、丸根鷲津両砦を落として、一気呵成に清洲まで出撃すれば
織田信長の負けが確定するわけだから、この時点で戦況的には8割くらい勝ち
仮に信長が、義元本隊ではなく前線部隊の撃破に向かうのであれば
大高城方面に向かうのが筋で、少なくとも丸根鷲津が落ちた時点で
ピンポイントに今川義元を狙う方向にシフトしていたのはほぼ間違いないと思う。
41 ななしのよっしん
2021/12/01(水) 05:13:05 ID: n1KALUd2hS
ちなみに近年の歴史群像で、「今川義元は沓掛城ではなく大高城にいた」という
説が挙げられてる。これによれば、松平元康らがやったとされる
兵糧搬入は、別働隊ではなく今川義元の本隊によるもので、
今川軍本隊は大高城を救援したあと、三河方面に引き上げる際に
織田信長の強襲を食らって義元が命を落としたとある。
ただこの説では、大高-鳴海と清洲の目と鼻の先まで織田軍に
匕首をつきつけてた今川軍がいきなり軍事行動を辞めた理由の説明がつかない。
義元が大高城から沓掛城方面、あるいは諸軍の連携のために
大高城から出ていずこかへ進軍したと見るべきだろう。
ともかく、信長の動きを見ると、今川義元の本軍が他の別働隊と
わかれたところで強襲するというのが大前提だったように思う
42 ななしのよっしん
2022/02/12(土) 14:41:38 ID: eVisY6yiK6
>>38
勝ちが決まったと見て義元が沓掛城に戻ってしまう可能性もあったので、本隊ではないと考えていてもおかしくない
それでも信長本隊が出てくることを想定し、前線部隊との挟撃を狙って4000ぐらいを残しているとかね
臆病か軍略に自信がなく後方に下がっていたら、無能であることが理由で勝ててた
43 ななしのよっしん
2022/06/02(木) 05:35:09 ID: t6pEjQgve7
威力偵察、時間稼ぎのための遅滞戦闘しようと思ったら殴ったのがたまたま本隊だったとかが一番ありそうな話な気はする。
少なくとも、予定どおりだったとかそういうのはほぼありえねーわ。
44 ななしのよっしん
2022/06/13(月) 16:20:55 ID: ZTBVuGEecQ
>>43
信長としては、まず敵を強襲で押し戻して一勝を得て、士気を上げ、(敵が作り上げつつあった形勢に「紛れ」を作り)戦の形を作るのが目的だったというのはありそうな話よね
しかしそれもまた、信長の一貫した決戦志向の産物という>>37の議論も納得のいく話だ。
要するに、桶狭間の戦いの形勢を説明するにあたって、必ずしも織田信長が今川義元の居場所を知っていて、首を取れる蓋然性が高いだろうと判断できていなければならないわけではない
ただ、織田信長がそのような強襲・奇襲・乱戦の奮闘を起こしやすい指揮官だっただろうという傾向や、強襲で同等前後の戦力の一隊を破られることは戦国当時の軍事情勢においてよく起こりえたという傾向を検討しておけばいいと思う
>>40
>>義元本隊ではなく前線部隊の撃破に向かうのであれば
大高城方面に向かうのが筋
という合理的発想に罠がなかろうか。それは予想される機動であり、戦勝を得られなかったり、戦果を打ち消される恐れが高い
意表を突き戦勝を収めやすくするという想定が成り立つのであり、その想定の下では、必ずしも義元の首を狙い、その位置を同定しなければならないわけではない
45 ななしのよっしん
2022/06/26(日) 09:01:20 ID: Z1HEPcz9Ty
のちの刀根坂の戦いだと、織田信長は逃げる朝倉軍を一気呵成に追撃して
朝倉軍の名のある武将を多く討死させてるけど、本丸本命の朝倉義景は退却に成功してるね。
この時の朝倉軍は致命的な大敗北で、すぐに朝倉家が崩壊して滅亡したけど
義景をピンポイントで狙ったというよりは、見える朝倉軍全て倒せという
苛烈な采配が見て取れると思う。義元がどこにいたか知っていたというよりも
見える敵全てを倒していって(あるいは潰走させていって)、
気づいたら義元が存在する本隊とかちあったとする方が正確かもしれん。
計算され尽くした軍略というよりは、信長個人が極めて優秀な統率者で
士卒含めて精鋭揃いであったがゆえの、武勇に裏打ちされた勝利のように思う。
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47 ななしのよっしん
2023/11/26(日) 13:19:28 ID: +6ePxyhifl
日本陸軍の戦史研究チームも匙を投げて軍記物を丸コピした戦
それから100年経っても尚分からないことが多すぎる
48 ななしのよっしん
2024/10/05(土) 08:37:41 ID: SiwAhVn8Ih
大高・清須間が目と鼻の先とか言ってるのいるけど、今でさえ25kmほど、東海道線でも30分くらい。当時だと南区・港区等名古屋市南西部は湿地帯か遠浅の海なんで、徒歩でも移動に障害有るし、舟艇でも大量輸送向いていない。というわけで目と鼻の先とは到底言えない。
その上間に熱田神宮勢力有るので、この時点で上洛戦どころか清須攻めも難しい(大宮司千秋家も織田方だし)。
49 ななしのよっしん
2024/12/15(日) 22:19:57 ID: leeIkEQfIk
そういや前尾張の石高が50万ぐらいあるとか聞いたな、もしそれが本当ならそんな戦力差はなかったのか?
50 ななしのよっしん
2025/01/16(木) 06:52:47 ID: bCbt8CzEc6
尾張検地が本格的に始まったのは信雄時代からだし石高からの軍役・軍事力算出とかも豊臣政権になってからなので…(それまでは銭の貫高制)
そもそも尾張統一完了できてないから稲生の戦いの双方兵力の合計か浮野の戦い(3000)が即応で出せる兵力も余裕はあまり無かったとは思う
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