364
241 ななし
2019/10/29(火) 23:37:05 ID: nvzv6G8XJw
魏の奴ら、当時の倭のことなんてそんな正確に知らなかったんじゃないの?
九州か近畿かって揉めてるけど、
書いてる当の方、魏の奴も聞きかじりの伝聞と知ってる範囲でまとめて書いたら、
九州の話と近畿の話を混同して書いてたと
つまり、例えば、当時の魏人の頭では倭=九州くらいのイメージで地理もこのへんまでしかわかっていない
丁度、倭人伝にある通り、○○まで何日で行って、それから××まで行くのに何日かかって…という点と線程度
列島のおおよその地理、九州があって四国があって、本州があって……それすら把握していない
というか、把握してたらそのくらいの概要はあるべきはず
まず魏人は九州程度しか把握してない
242 ななし
2019/10/29(火) 23:39:27 ID: nvzv6G8XJw
邪馬台はヤマタイと読み方を変える以前の元々、ヤマトのままで読みは正しいのでないか
すなわち、大和(奈良)
この時代、大陸人に対して、倭人たちは自分たちをおおよそひっくるめて名乗る場合、
大和人と認識していたのでないだろうか
だから、九州しか把握してない魏人にもヤマトという名は伝聞で知っていると
もちろん、倭に住んでる人間は、近畿も九州も四国も、おおよそは自分たちの住んでる土地の地理は把握しているだろう
少なくとも大陸人よりも
大和とは現代の奈良のことのつもりで言ってたはずだ、彼ら自体は
邪馬台国はその伝聞
奈良には同時代の大規模な遺跡もあり、この時期に大きな勢力があるのはわかっているのだから、
ヤマト=大和だろう
243 ななし
2019/10/29(火) 23:59:29 ID: nvzv6G8XJw
しかしながら、魏はそこまで倭のことを知らない
このへんの伝聞も混ぜて書いたが、書いた本人的には九州くらいしか認識してないし、そのつもりで書いた
九州だけ程度でも、それでも遠く離れたよくわからない異国の土地なんだから頑張った方だよ
おそらく書いてるエピソードや知ってることは、だいたいが九州のことじゃないだろうか
倭人伝で把握できる範囲の九州までが、=ある程度把握できる交流範囲の限界
これ以上のことは魏人はよくわからない
だから、書いていることや魏人の想定しているのは九州のこと
ちょうど九州にも大小さまざまな国が乱立していた痕跡もあるし、実際そうなんだろう
まとめると、邪馬台国はヤマト国のことだけど、
魏人は近畿とか本州とかそこまで知らないし、(今でいう)九州のことを倭のつもりで書いたし、金印も九州(倭)にくれてやったつもり
元々書いた時点で近畿と九州を混同してるので、そりゃいつまで経っても結論は出ないって言うか、
記述通りの邪馬台国そのものなんて元々存在しない
(断片的に一部は九州が該当するし、一部は近畿が該当する。九州と近畿が合体したような記述通りの場所は存在しない
244 ななしのよっしん
2019/11/11(月) 14:13:19 ID: +iKV+LPNWd
>>243
中国の使者は少なくとも倭の糸国までは確実に来ているらしい
九州説も近畿説もそこは同意見
だから倭についてはかなりの情報を持ってる
邪馬台国まで行ったかは意見が分かれてる
記述通りに読むと九州熊本付近でそこは昔は山門と呼ばれた地域 日本書紀よるとね
245 ななし
2019/11/14(木) 20:08:33 ID: nvzv6G8XJw
>>244
そう。そのあたりまでは記述がはっきりしてる。
多少誤差があったり、かなりざっくりしたものであるとはいえはっきりしている。
(実際は距離は1千里1千里と等間隔よりかなりズレがあるとか)
しかしながら以降は記述自体があやふやになってくるのに、
翻って魏の本国での把握自体がその程度だったのでないか、と推論したわけだけど
魏の本国で把握、推測している倭の姿と、実際の当時の倭の国の実態
それにギャップがある可能性をもっと考慮すべきじゃないかなぁと思うんだ
個人的には現地人や現地に赴いてる人はともかくとして、
魏の本国にいる人たちには糸国くらいまでがわかる範囲で、以降はベトナムやフィリピンみたいな地形を想像してたんじゃないかなぁ、とか
(だから、記述通り読むと太平洋に出るとか書いてるけど、
これはそのまま当時の大陸、とくに魏では倭の国はそういう姿であろうと思われていた、
という解釈の形もあるのでないかと/大陸とひとまとめに書いたけど呉や蜀、内陸部や朝鮮半島沿岸部などなど場所によってかなり違いがあると思う。)
246 ななし
2019/11/14(木) 20:27:03 ID: nvzv6G8XJw
個人的な推論や空想だけど
魏が九州沿岸部までしかあまり把握できていなくて、
そこから先はかなりあやふやだったのでないか、という前提で
当時の倭や邪馬台国と呼んでいたものが何か、と考えると
日本列島全体を統治しうる中央政権的な物が成立する前、
各国(現在の都道府県くらいの広さ、古くから旧国名など国内で国と呼ばれている範囲)で独立、
群雄割拠していた時代があって、それをおおよそまとめた最大勢力・大和があった
30くらいの国(現在の都道府県くらいの広さ)を統治下に治めていた
という話と、
九州地方でも戦闘状態が多く、30くらいの国(現在の市町村単位の広さ、魏志倭人伝上でも国と呼ばれている範囲)で
衝突があったけど、このへんの地方を卑弥呼さんでまとめたよー
という話
2つあったんじゃないかなーとか
だってね、卑弥呼の話ってスケール小さい物しかイメージできないもの
巫女のねーさんトップに立てて収まりましたーって全国規模のスケールではちょっと考えられないよ
魏志倭人伝上にある国単位の話、村落や集落単位で「ははーひみこさまー」ってやってるイメージしかわかないよw
だから、九州の地方単位の(全国規模と比べると)小さな話と、
全国規模の邪馬台国の勢力とを混同してるんじゃないかなーって
(前提として九州沿岸しか把握していないので、あちら側からは混同してても区別がつかないので)
247 ななしのよっしん
2019/11/14(木) 22:40:48 ID: Ff6PcVVgPK
邪馬台国が後々の大和政権になって、邪馬台国と対立していた狗奴国が熊襲なんだろうなぁと何となく思っていたけど
実は狗奴国の方が後々の大和政権で邪馬台国の方が熊襲なんじゃないか?
248 ななしのよっしん
2019/11/16(土) 03:36:07 ID: +iKV+LPNWd
>>245
記述通り読むと太平洋に出るってのは間違った計算式が広まったものらしい
一日8時間歩くことを前提とし1秒間に何メートルだったかな?
それを一カ月歩くことを想定したもの
結果海へ突き出てしまうというもの
249 ななしのよっしん
2019/11/16(土) 03:42:11 ID: +iKV+LPNWd
>>246
個人的な意見としては邪馬台国は九州で卑弥呼が収めたのは北九州のみ
近畿から九州までが一体化というのはほぼありえないと思ってる
理由は、それだけ大きいならクナ国たった一国に苦戦するのがありえないのと時代の流れが不自然
邪馬台国が金印を貰う前一回だけ金印をもらってる
それは福岡か糸国と言われてる
2回目の金印が大和だとすると突然でかくなりすぎ
250 ななしのよっしん
2019/11/16(土) 03:42:44 ID: HOTc8l3Zty
日本列島が移動したから記述に矛盾が生まれてしまったのだ
ソースは飛鳥昭雄氏の書籍
251 ななしのよっしん
2019/11/16(土) 03:55:07 ID: +iKV+LPNWd
距離に関しては誤差があるけど当時にしてはかなり正確だと思う
日本人は日数で計算してたみたいだから恐らく中国人が図ったんだろうね どうやって図ったか分からんけど
韓国から対馬まで70㎞
対馬から壱岐まで60㎞
壱岐から松浦まで45㎞らしい
全て1000里と表現されている
その後の国間の距離も正確だよ
252 ななしのよっしん
2019/11/16(土) 03:59:31 ID: +iKV+LPNWd
問題なのは伊都国から邪馬台国まで1500里らしいから大和まで届かなくて問題になってる しかも方角は南らしいし
邪馬台国論争は男のロマンだよな
253 ななしのよっしん
2019/11/16(土) 04:15:17 ID: +iKV+LPNWd
>>247
想像力がすごいなww
初めて聞いた説だww
名前が入れ替わっとるやんw
まあ話してみ?
254 ななしのよっしん
2019/11/29(金) 21:59:19 ID: 3zcyx+/ZmW
西の親魏大月氏王と比べて東の親魏倭王が北九州だけだとクソ雑魚すぎるねぇ
255 ななしのよっしん
2019/12/23(月) 17:49:44 ID: bEQmWTg93y
それにしても瀚海って謎ですよね
瀚ってゴビ砂漠とかもそういうらしいですけど
対馬海峡を瀚海って呼ぶような地域ですか?
256 ななしん
2020/02/17(月) 22:45:31 ID: gidCUzqjnI
個人的にはこう思っています。
邪馬台國ではなく邪馬壹國でやまいこく→やめいこく→八女→八女市
日本の標高地図を見ると平野部に人口が多いのは歴然、九州では、筑後平野から熊本にかけてと宮崎平野がダントツ、宮崎の西都市を倭人伝の投馬と比定、投馬→とうま→とぅま→つま、西都市は古来より妻と呼ばれ都萬神社もある。
宮崎平野の西都市を投馬と考えた場合、それより人口多いと倭人伝で述べている邪馬壹國は九州では筑後平野以外にあり得ない様に思える。
それでは何故八女市か熊本方面の可能性もあり得るがやはり地名の持つ音を考え、八女市の伝説の巫女の話しや祇園山古墳等を総合的に考えると八女地方(久留米や山都郡等含む筑後平野一帯)の方がより可能性が高いと思われる。
ちなみに近くには筑後川支流であるが山ノ井川という川も流れている。
257 ななしん
2020/02/17(月) 22:48:14 ID: gidCUzqjnI
邪馬壹國は近畿ではないと思われる。
倭人伝では帯方郡より邪馬壹國は萬二千餘里とあり九州の松浦上陸時点で既に一萬餘里であり残り二千里では到底近畿迄行き着く事は出来ない。(当時の距離は短里と思われ、一里は70~80メートル)
258 ななしん
2020/02/17(月) 22:49:46 ID: gidCUzqjnI
伊都國(糸島半島方面で間違い無いと思われる)迄とそれ以降では倭人伝の記述形式が変わっている為、伊都國迄は順番に線を引く様に記述しているが、それ以降は伊都國より放射状に行き先迄の記述になっていると思われる。
東南に行くと至る奴國(那珂川市周辺)距離百里
東に行くと至る不彌國(宇美町周辺)距離百里
南だと至る投馬國(西都市周辺)水行二十日
と、此処迄は、誤差範囲内で十分納得出来る記述であるが問題は、邪馬壹國向けの記述で、
南だと至る邪馬壹國(八女市周辺)、女王の都とする所、水行十日陸行一月。
259 ななしん
2020/02/17(月) 22:51:01 ID: gidCUzqjnI
糸島半島方面から大分廻りで海路二十日で西都市は、古代の船旅ではあり得ると思われる。
糸島半島方面から長崎廻りなら海路十日で筑後平野(八女市周辺)、微妙だがなきにしもあらずとしても陸行一月はどうであろう。
陸行一月の真実は、不明で説明が付きかねるが
やはり総合的判断で九州八女は揺るがないとの印象を受ける。
260 ななしん
2020/02/17(月) 22:52:35 ID: gidCUzqjnI
狗奴國を毛野国と考える。上野国と下野国に分割された現在の群馬県、栃木県である。
毛野国は、関東平野の北側を治める大国と思われる。
倭人伝では、女王國以北はだいたい分かるが、傍らの國は遠くて情報もなく良くはわからないとある。つまり傍らの國とは女王國の北側ではないという事で、九州の東側に位置する本州や四国方面と思われる。
傍らの國の最後に奴國が記載されるが、それは九州にある奴國(那珂川市周辺)ではなく毛野地方の北側を治めた那須周辺であると考える。
つまり女王國を中心とした倭連合の影響範囲は白河の関以南の那須地方に迄及んで大連合を組んではいたが、那須国(奴國)のすぐ南の毛野国(狗奴國)だけは連合に組せず抵抗していたと思われる。
261 ななしん
2020/02/17(月) 22:55:29 ID: gidCUzqjnI
傍らの國で当てはまると思われる國を列挙する。
斯馬國(伊勢志摩の志摩国か)
巳百支國(磐城国か。福島県いわき市辺り、白河の関の東側)
伊邪國(伊予国か)
都支國(土岐国と読めないか。岐阜県土岐市辺り)
彌奴國(美濃国か)
好古都國(伯方国と読めないか。傍らの国は九州ではないとの立場から、博多ではなく瀬戸内海の伯方島近辺)
不呼國(ふさの国か。総の国のちの上総、下総国であるが、相模もふさかみからきている、武蔵もふさしもからきているとの説があり、安房国も上総国からの分離である為、毛野国以外の関東地方全域が総国(ふさの国)だった可能性がある。)
262 ななしん
2020/02/17(月) 22:56:57 ID: gidCUzqjnI
姐奴國(根の国か出雲国を根の国と比定する説有)
對蘇國(土佐国か)
蘇奴國(讃岐国か)
呼邑國(周防国か)
華奴蘇奴國(花園国と読めないか、北茨木市に華川町花園の地名有、花園神社や花園山、花園川もあり意外に古来よりの地名と考える。福島県いわき市のすぐ南辺りの地域である。)
鬼國(吉備国か、鬼ヶ島伝説等、鬼に関わる事多し、吉備(きび)、と鬼(き)で音も近い。)
為吾國(伊賀国か)
263 ななしん
2020/02/17(月) 22:58:14 ID: gidCUzqjnI
鬼奴國(久努国か。久努国造が静岡(袋井市)方面にあり、久野等似た地名も多数ある様、もしかしたら久能山もそのたぐいか。これこそ毛野国ではと云われかねない厳しい地名です。東海方面が他に出て来ない為、久努国に比定しています。)
邪馬國(山城(山背)国、大和(山戸)国を併せた奈良、京都方面か)
躬臣國(越国、こしの国か、後に越前、越中、越後に分割。かなり大きい。)
巴利國(播磨国か)
支惟國(紀伊国か)
烏奴國(宇野国と読めないか、鳥取県倉吉辺りに宇野の地名有、宇野海岸有。岡山にも宇野の地名あるも完全に吉備国の内部という感じな為、鳥取側を支持し比定しています。)
奴國(那須国か、近くに那珂川も流れている。)
264 ななしん
2020/02/17(月) 22:59:53 ID: gidCUzqjnI
現在の地名もそうであるが、古来より似たり寄ったりの地名が多く、正直どうとでも考えられる事が難点である。
有名な出雲の地名がどうもしっくりくるのがなくて、かといってないはずはないとの考えから
根の国出雲としてみました。
狗奴國をかなり実力があったであろう毛野國とし、その北側に奴國になりうる那須があるというところがポイントです。
福島県南部や北茨城、南関東全域も比定させており、実は当時かなり緊迫したホットな地域だったのではとも思えます。
265 ななしん
2020/02/17(月) 23:01:29 ID: gidCUzqjnI
毛野國の遺物はそれほど古くないとも聞かれますが、もっともっと掘って見なくてはまだまだわかりません。
私は別の地方の者ですが、北関東頑張れ!
266 ななしん
2020/02/17(月) 23:07:59 ID: gidCUzqjnI
大和朝廷10代崇神天皇が四道将軍を使わす以前の卑弥呼の時代より九州から白河の関近辺迄は内戦があったにせよ、倭連合として緩やかに社会を形成していたものと考えます。
大和朝廷崇神天皇の時代にはそれを元に、さらに強力に朝廷を中心に恭順させていったのではないでしょうか。
私は崇神天皇は卑弥呼より少し後の時代の人物と考えています。
267 ななしん
2020/02/17(月) 23:09:27 ID: gidCUzqjnI
どうして倭連合の盟主の地位が奈良大和方面に移ってしまったのか知る由もありませんが、そもそも邪馬壹國は軍事力で倭連合の盟主になったのではなく倭國大乱の後に諸国により祭り上げられ盟主となった様なので、他に軍事力で勝る國がいくつかあったのでしょう。
時代を経てその中より大和朝廷が台頭してきたものと考えます。
天皇家の出自は、卑弥呼の時代より前か後かはわからないものの、やはり伝説通り九州宮崎方面より移ってきたものと考えております。
268 ななしのよっしん
2020/07/13(月) 10:06:17 ID: +TF9JVQ4uk
269 ななしのよっしん
2020/07/14(火) 12:38:55 ID: Ff6PcVVgPK
邪馬台国が発展して大和朝廷と考えるには無理がある
邪馬台国は女社会なのに、日本書紀や古事記に書かれている古代の大和朝廷は男社会だし
男社会の狗奴国が邪馬台国を滅ぼしたor乗っ取って「ヤマト」の名前を奪ったと考えるべき
270 ななしのよっしん
2020/07/21(火) 01:41:27 ID: 3zcyx+/ZmW
女社会なんて記述あったっけ?
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。