サッカードイツ代表 単語

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サッカードイツダイヒョウ

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サッカードイツ代表とは、ドイツサッカー協会(DFB)によって編成されているサッカードイツ代表チームである。称はマンシャフトDie Manschaft)。ユニフォームホームはシャツがパンツ

ドイツ第二次大戦後に東西に分裂し1990年に統一されたが、一般にドイツ代表の歴史記録は分裂前のドイツ、分裂後の西ドイツ、統一後のドイツを同じチームと見なして扱われるのでここでもそれに従う。

概要

サッカーナショナルチーム
ドイツ代表
基本情報
国旗
協会 DBF
大陸 UEFAヨーロッパ
FIFAコード GER
FIFA加盟 1904年
監督 ユリアン・ナーゲルマン
FIFAワールドカップ
出場 20回
最高成績 優勝(4回)
UEFA欧州選手権
出場 13回
最高成績 優勝(3回)

FIFAワールドカップを4度、EUROUEFA欧州選手権)を3度制した世界トップクラスの強豪国。所謂ゲルマンと呼ばれる勝負を諦めない精面の強さは有名で非常に勝負強い代表チームとして知られている。

ワールドカップ優勝回数はイタリアと並んで欧州勢最多(全体でも2位タイ)、EUROでの優勝回数は最多を誇っている。また、ワールドカップEUROにおいてもっとも多く決勝に進出したであり、ワールドカップにおいてはもっともベスト8以上の成績を残しており、また、これまでワールドカップ欧州予選で敗退したことが一度もない一のでもある。

長年ドイツにはゲルト・ミュラー、ユルゲン・クリンスマンなどスターFWがおり、そのFWを中心にフィジカルを活かした肉弾戦を体にプレーするというのが伝統的なスタイルであったが、1990年代以降は戦術が綿密になったサッカーについていけず、長い低迷期に陥った。そこで自開催であった2006 FIFAワールドカップを機に若手育成という基礎革に着手。時間は掛かったが現在では緻密な頭プレーとパスサッカーを得意とする現代的なチームへと変貌を遂げた。

伝統的に世界的な名GKを輩出するであり、同世代で世界クラスの選手を複数輩出することも多いため、を正GKに選ぶかで意見が分かれ、代表監督にとっての悩みの種となっている。また、PK戦にやたら強いことで知られており、ワールドカップで4度PK戦を経験しているが敗退したことがない。そんな世界トップクラスの実績を持ったドイツだが、実はイタリアを大の苦手としており、ワールドカップ本大会では5度対戦して一度も勝ったことがない。

フットボールというのは非常にシンプルゲームだ。22人で90分間ボールを追いかけるだけ。そして最後に勝つのはいつもドイツ人だ。
― ゲーリー・リネカー

歴史

第二次大戦前のドイツ代表

初試合は1908年。ドイツ帝国時代の1904年に創立メンバーとしてFIFAに加入しており、1912年のストックホルムオリンピックが初の際大会出場となった。

第1回の1930 FIFAワールドカップウルグアイ大会はでの長になるため不参加となる。初参加となった1934 FIFAワールドカップイタリア大会ではベルギースウェーデンを破って準決勝に進出。準決勝でチェコスロバキアに敗れるが、3位決定戦でオーストリア勝利し3位に入っている。1936年には自開催のベルリンオリンピックベスト8となった。

1938 FIFAワールドカップフランス大会ではナチス・ドイツによるオーストリア併合によりオーストリア出身の選手を組み込んで挑むが、1回戦でスイスに敗れて敗退。

西ドイツ代表

第二次大戦ドイツは東西に分裂し代表チームも東西ドイツ(とフランス領ザール)に分裂したが、制裁により1950年まで際大会には出場できなかった。舞台への復帰が認められた最初の際大会となった1954 FIFAワールドカップスイス大会では、前評判は低かったものの決勝でハンガリーを破ってワールドカップ優勝を果たす。当時マジックマジャールと呼ばれ世界最強と謳われたハンガリーに対し0-2からヘルムート・ラーンの2ゴールで逆転したこの勝利はベルンの奇跡Das Wunder von Bern)と呼ばれている。グループリーグハンガリーと対戦した際は3-8で大敗したが、このときに監督のゼップ・ヘルベルガーはハンガリーの弱点を分析していたと言われている。この初優勝がきっかけでドイツ世界トップクラスの強豪国としての地位を手にするようになる。

前回の優勝メンバーが多く残った1958 FIFAワールドカップスウェーデン大会ではグループリーグを首位で突破し、準決勝まで勝ち進むが、準決勝で開催スウェーデンに敗れると、3位決定戦ではフランスのジェスト・フォンテーヌに4ゴールを決められ大敗。ウーベ・ゼーラーを擁した1962 FIFAワールドカップチリ大会は準々決勝でユーゴスラビアに敗れ、ベスト8で終わる。

1966 FIFAワールドカップイングランド大会で当時20歳のフランツ・ベッケンバウアーワールドカップデビューを果たす。ベッケンバウアーが中盤の要としてゲームコントロールし、重要な場面でゴールも決め、決勝まで進む。決勝では地元イングランド相手に後半ロスタイムに同点に追いつくりを見せるが、延長戦でジェフ・ハーストに2ゴールを決められ尽き、準優勝に終わる。なお、ハーストの延長戦での勝ち越しゴールクロスバーいた後にゴールライン上に落下。微妙な判定ながら審はイングランドゴールを認めており、この判定は歴史に残る疑惑の判定としてり継がれている。

1970年代に入り全リーグであるブンデスリーガが発足したことで内でのレベルが急速に高まり、特に"皇帝"フランツ・ベッケンバウアー、”爆撃機ゲルト・ミュラーらを擁し黄金時代を築いたバイエルン・ミュンヘンの躍進はそのままドイツ代表の黄金期へと繋がっていった。

1970 FIFAワールドカップメキシコ大会では、準々決勝で前回決勝で因縁の芽生えたイングランドとの再戦が実現。延長後半のゲルト・ミュラーの決勝ゴールリベンジを果たす。準決勝のイタリアとの試合では1-0から試合終了間際に西ドイツが追いつき、延長戦に突入、延長戦では両チーム5ゴールを上げるという熱い試合展開となり最後はジャンニリベラゴールを決められ敗れるが、ワールドカップベストマッチの一つとされ、「アステカの死闘」と呼ばれる名勝負となった。また、この試合の途中に右肩を脱臼しながらも不屈の闘志で最後までピッチに立ち続けたベッケンバウアーの姿はとなっている。3位決定戦ではウルグアイを下し、3位に入賞。この大会で10ゴール記録したゲルト・ミュラー得点王にき、この年のバロンドールも受賞している。

EURO1972では、ゲームメーカーのギュンター・ネッツァーが台頭。この頃からベッケンバウアーリベロを務めるようになり、2人がポジションを交互に入れ替えながらゲームメイクして相手を翻弄するのがチームの特徴となった。準々決勝ラウンドではイングランドを因縁のウェンブリーで撃破し、初めて本大会へ進出。準決勝で地元ベルギーゲルト・ミュラーの2ゴール勝利すると、決勝ではソ連を3-0で撃破し、UEFA欧州選手権優勝を果たす。このときのチームベッケンバウアーとネッツァーのコンビネーションに加え、流れるようなパスワーク、選手個々の身体ラテン系を彷彿とさせるテクニック融合したサッカーを披露した事から「チーム」と称えられた。また、この年のバロンドールベッケンバウアーが受賞したが、2位タイミュラーとネッツァーが並び、西ドイツ勢が上位3人を独占している。

開催となった1974 FIFAワールドカップ西ドイツ大会では、1次リーグ東ドイツとの東西ドイツ対決が実現するが、敗れている。2次リーグに入ると、不調のネッツァーに代わってヴォルフガング・オベラートがゲームメイクを任されたことによって攻撃が本来のきを取り戻し、全勝で決勝進出を決める。決勝ではヨハン・クライフ率いるオランダ代表を相手に開始々に失点するが、パウルブライトナーとミュラーゴールで前半のうちに逆転する。後半はベルティ・フォクツがクライフを抑え込むことでオランダペースを与えず、1954年大会以来となるFIFAワールドカップ2度優勝を果たす。トータルフットボールと呼ばれた革新的なスタイルオランダに対し、西ドイツベッケンバウアーがDFながらも自由に攻撃に絡んで全権を担う「リベロ」という概念を導入。ピッチ上の監督となったベッケンバウアーを中心に規と統率の取れたチーム作りによってEUROワールドカップの両方のビッグタイトルを獲得するに至った。また、監督ヘルムート・シェーンは初めて両タイトルを制覇した監督となる。

EURO1976では、1974年ワールドカップ優勝メンバーが多く残り、本大会へ進出。準決勝では開催ユーゴスラビアを代表デビュー戦のディーター・ミュラーハットトリックで粉砕し、2大会連続での決勝進出を果たす。しかし、決勝ではダークホースと見られていたチェコスロバキアPK戦で敗れ、大会連覇を逃す。この大会が事実ベッケンバウアーの最後の大舞台となった。1978 FIFAワールドカップアルゼンチン大会ではカール=ハインツ・ルンメニゲが台頭するが、2次リーグで敗退。大会後、14年間監督を務めたシェーンは退任し、コーチのユップ・デアヴァルが監督を引き継ぐことになる。

EURO1980では、ルンメニゲとベルント・シュスターという80年代を代表する両スター選手の共演が実現した一の大会となった。グループリーグでは前回優勝チェコスロバキアワールドカップ2大会連続準優勝オランダという強相手に連勝。オランダ戦ではクラウス・アロフスがハットトリックの活躍を見せている。第3戦はギリシャスコアレスに終わるが、グループAを首位で突破し、3大会連続での決勝進出を果たす。決勝では名GKジャン=マリープファフを擁するベルギーを相手にホルスト・ルベッシュの2ゴール勝利し、2大会ぶり2度欧州王者の座く。

1982 FIFAワールドカップスペイン大会は初戦でアルジェリアに敗れるという波乱の幕開けとなるが、残りの2試合をルンメニゲの活躍で連勝することで1次リーグを突破している。もっとも第3戦のオーストリア戦は、先制後お互いにロングボールを蹴り合うだけの談合試合となり、「ヒホンの恥」として非難されている。2次リーグは危なげなく突破し、準決勝ではミシェル・プラティニ擁するフランスと対戦。この試合では延長戦に入って2点をリードされるが、怪でスタメンを外れていたルンメニゲの投入で流れを変え同点に追いつく執念を見せ、最後はPK戦の末に勝利する。大会のベストマッチに挙げられる名勝負となったが、その一方でGKハラルド・シューマッハーフランスの選手に重傷を負わせたプレーファウルを取られず物議を醸している。決勝ではイタリアに1-3で敗れ、準優勝となった。

EURO1984グループリーグ敗退したことから、大会後にフランツ・ベッケンバウアー監督に就任。1986 FIFAワールドカップメキシコ大会は世代交代の過渡期にあり、エースのルンメニゲが負傷を抱えていたことで下評は高くなく内容も乏しかったが、ローター・マテウスの台頭もあって苦しみながらもお芸の「ゲルマン」でしぶとく勝ち残り、前回に続いて準決勝でフランスを退け決勝へ進出。しかし、決勝ではディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチンに敗れ、2大会連続準優勝に終わる。

開催となったEURO1988では、ローター・マテウスがキャプテンとなり、チームの中心として君臨するようになる。準決勝で「オランダトリオ」擁するオランダに敗れ、ベスト4で終わったものの、ユルゲン・クリンスマンの台頭など収穫もあった大会となった。

1990 FIFAワールドカップイタリア大会では4年前の辱に燃えるベッケンバウアーが引き続き揮を執り、曲者いのグループDをクリンスマンとルディ・フェラーの2トップの活躍によって首位で突破。決勝トーナメントでは、手堅いサッカー欧州王者のオランダチェコスロバキアイングランドを退け3大会連続決勝進出を果たす。前回と同じくアルゼンチンと対戦することになった決勝では守備的に戦い、ギド・ブッフバルトマンマークによってマラドーナ封じに成功。アンドレアス・ブレーメが決めたPKによる1点を最後まで守り切り、西ドイツとして出場した最後の大会で3度優勝を果たす。このときのチーム手さはいものの、攻守両面でとなったマテウスを中心に攻守のバランスが取れた欠点の少ないチームとなっていた。ベッケンバウアーは選手、監督の両方でワールドカップを制覇した史上2人の人物となった。

東西統一後のドイツ代表

大会後、東西ドイツが統一され、東ドイツの選手が加わる形になる。監督がベルティ・フォクツに代わり、統一ドイツ代表の最初の際大会となったEURO1992は決勝まで進出するが、決勝でデンマークに敗れる大番狂わせを許し、準優勝に終わる。1994 FIFAワールドカップアメリカ大会は4年前の優勝メンバーが多く残ったチーム編成となるが、ベテランを多く抱えた布アメリカの酷暑に苦しみ、準々決勝でブルガリアに敗れて敗退となる。

イングランドで開催されたEURO1996では、クリンスマンとの確執によってマテウスが構想外となったものの、代わってリベロを務めたマティアス・ザマーがチームの中心として台頭。ザマーの他にもフレッシュな戦が加わり、ベテランと若手が融合したバランスの取れたチームとなっていた。グループリーグでは、苦手のイタリアを敗退に追い込み、首位で突破。準々決勝で新興国クロアチア勝利し、準決勝では開催イングランドを相手にPK戦までもつれ込みながらも勝利し、2大会連続で決勝進出。決勝のチェコ戦では後半に入って先制ゴールを許すが、オリバー・ビアホフが2ゴールを決める大活躍でヒーローとなり、史上最多となる3度UEFA欧州選手権優勝を果たす。この優勝は東西ドイツが統合されてからの初タイトルでもあった。

しかし、その後ザマーが怪で長期離脱したこともあり、38歳となったローター・マテウスが復帰して挑んだ1998 FIFAワールドカップフランス大会では、準々決勝でクロアチアを相手に0-3とよもやの敗。ベテランに頼るチーム限界を露呈してしまう。その後、フォクツは辞任するが、世代交代先送りにしたしわ寄せとドイツ伝統のスタイルが古くなったことからEURO2000グループリーグで1勝もできないまま惨敗。この敗退を受けたDFBは、育成の革に着手するようになる。

2002 FIFAワールドカップ日韓大会では、監督経験のないルディ・フェラーが揮を執り、欧州予選でプレーオフに回る程の大苦戦を強いられたことで前評判こそ高くなかったものの、グループリーグサウジアラビアミロスラフ・クローゼハットトリックを含む8-0で粉砕。ライバルとなるような強豪国が次々と期敗退したことによって組み合わせに恵まれたことは否めないものの、3大会ぶりに決勝進出を果たす。決勝のブラジル戦ではロナウドの2ゴールによって沈み、準優勝という結果を残す。この大会では圧倒的存在感を放った守護オリバー・カーンの活躍が脚を浴びることとなった。しかしEURO2004ではまさかの1勝もできないままグループリーグ敗退となった。この敗戦を受けてフェラーは監督を辞任する。

ドイツ」として初のホスト開催となった2006 FIFAワールドカップドイツ大会では、EURO2004後に監督に就任したユルゲン・クリンスマンが若手を積極的に起用し、チーム革に乗り出す。直前の善試合では結果が出ずに不安視するも多かったが、大会が始まるとミロスラフ・クローゼルーカス・ポドルスキの2トップが躍動。ホームドイツ民の大援にも後押しされ、順調に勝ち進んでいき、準々決勝では因縁のアルゼンチンPK戦の末に下す。準決勝では苦手のイタリアに敗れたものの、3位決定戦でポルトガルを下して3位に入賞。大会後、クリンスマンは辞任し、アシスタントコーチだったヨアヒム・レーヴが後任となる。

レーヴにとって初の大きな大会となったEURO2008では、2年前のワールドカップで活躍した若手が順調に成長し、決勝進出を果たす。しかし、決勝ではスペインに敗れ、準優勝となる。2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会では、怪ミヒャエルバラックが欠場となったものの、トーマス・ミュラーマヌエル・ノイアーメスト・エジルトニ・クロースといった若手が新たに台頭。鋭いカウンター武器イングランドアルゼンチンといった強を打ち倒す。準決勝ではまたもやスペインに敗れたものの、3位決定戦ではポルトガル相手に勝利し、2大会連続で3位に入る。

EURO2012では欧州予選を首位で突破。本戦では死のグループされたグループBに入り、オランダポルトガルといった強相手に勝利グループステージを3戦3勝で1位通過を決めたが、準決勝で因縁のイタリア突。昔から苦手としていたイタリア相手から勝利をもぎ取れず、2-1で敗北ベスト4で大会を後にした。

2014 FIFAワールドカップブラジル大会ではマルコ・ロイスイルカイ・ギュンドアン、ベンダー兄弟などを負傷で欠いたものの、前回大会で台頭した若手が軒並み成長を遂げたことで前評判は非常に高く、ブラジルスペインアルゼンチンなどと共に優勝補に挙げられていた。グループリーグを首位で通過し、ラウンド16では苦戦を知られたもののアルジェリアを、準々決勝ではフランスを撃破。準決勝では地元のブラジルを相手に前半だけで5点を奪い、最終的に7-1という歴史的なゴールラッシュで圧勝し決勝進出。セレソンを無慈悲なまでに叩きのめし、ブラジル民に絶望感を与えたこの出来事はミネイロンの惨劇と呼ばれている。決勝ではアルゼンチンと対戦し、延長戦までもつれ込む熱戦の中で、延長後半8分にマリオ・ゲッツェゴールを決め、念願の24年ぶりの優勝を達成した。この頃、内のブンデスリーガではジョゼップ・グアルディオラユルゲン・クロップといった名将が活躍しており、レーブは彼らのエッセンスを選手にうまく落とし込み、近代的な戦術のチームへと発展させたことが4度優勝に繋がった。また、大会後ベテランとしてチームを牽引してきたクローゼフィリップ・ラームが代表を引退する。

EURO2016では、優勝補の筆頭に挙げられ、前評判通りに勝ち進んでいく。準々決勝では天敵ともいえるイタリアPK戦の末に破り、メジャー大会連続制覇へ期待が膨らむ。しかし、準決勝で開催フランスに敗れ、ベスト4に終わる。W杯優勝として参加したFIFAコンフェデレーションズカップ2017では、準決勝でメキシコ、決勝でチリを下し、大会初優勝を飾る。

2018 FIFAワールドカップロシア大会では、初戦のメキシコ戦を落とすと、第3戦の韓国戦でよもやの敗戦を喫し、まさかのグループリーグ敗退に終わる。グループリーグ方式が導入されて以降初のグループリーグ敗退となり、併せてノックアウトステージへの連続出場、連続ベスト8、連続ベスト4などの記録もすべて途切れることとなった。この失態でレーヴの責任を追及するも大きくなるが、DFBは続投を決断。しかし、低調な戦いが続き、EURO2020では、ベスト16でイングランドに敗戦。ついに15年間の長期政権を築いたレーブは退任し、後任はレーヴ監督時代にアシスタントコーチを務め、バイエルン監督として2020年3冠達成したハンジ・フリックが就任。

FIFAランキングを大きく落としたで第2ポッドとなった2022 FIFAワールドカップカタール大会では、開催カタール人権に対する抗議活動にを入れていた。一方、試合では初戦の日本戦で前半に先制しながらも、後半に堂安律浅野拓磨ゴールを許し、まさかの逆転負けを喫してしまう。第2戦のスペイン戦では、後半に何とか同点に追いつき、引き分けに持ち込む。第3戦のコスタリカ戦でようやく大会初勝利を挙げたものの、日本に敗れて2位になったスペインに得失点差で及ばず、2大会連続でグループリーグ敗退となってしまう。
失意のワールドカップ後は低調な内容が続いてしまい、リベンジを誓ったはずの2023年9月日本戦ではホームで1-4と惨敗で国際Aマッチ3連敗を喫する。この結果を受けてフリック監督は解任となる。123年の歴史ドイツ代表監督が解任となるのは初の出来事となった。

後任には36歳のユリアン・ナーゲルマンが就任。

主な戦績

FIFAワールドカップ
優勝(1954, 1974, 1990, 2014
優勝(1966, 1982, 1986, 2002)
3位(1934, 1970, 2006, 2010
ベスト4(1958)
ベスト8(1962, 1994, 1998)
2次リーグ敗退(1978)
グループリーグ敗退(2018, 2022)
1回戦敗退(1938)
EUROUEFA欧州選手権
優勝(1972, 1980, 1996)
優勝(1976, 1992, 2008
ベスト4(1988, 2012, 2016
ベスト16(2021)
グループリーグ敗退(1984, 2000, 2004)
FIFAコンフェデレーションズカップ
優勝2017
3位(2005
ベスト16(2021)
グループリーグ敗退(1999

世代別の戦績

オリンピック
優勝2016)、3位(1988
FIFA U-20ワールドカップ
優勝(1981)、準優勝(1987)
FIFA U-17ワールドカップ
優勝(2023)、準優勝(1985)、3位(2007,2011

主な代表選手

(※太字はワールドカップ優勝メンバー

2022 FIFAワールドカップ・カタール大会メンバー

歴代監督

太字はワールドカップ揮を執った監督赤字ワールドカップ優勝監督

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最終更新:2024/04/19(金) 08:00

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