月光(戦闘機)とは、大東亜戦争中に日本海軍が運用した夜間戦闘機である。
連合軍のコードネームはIrving(アーヴィング)。
昭和12年(1937年)8月に勃発した支那事変は、予想に反して長期化の兆しを見せていた。中国国民党軍は次々に遷都し、内陸奥深くに逃げ込んで徹底抗戦の構えを崩さない。これを追いかけるように日本軍も爆撃機を飛ばしたが、敵の臨時首都となった重慶はあまりにも遠かった。爆撃機は何とか往復できるが、当時主力戦闘機だった九六式艦戦は航続距離が短く同伴できなかった。仕方なく護衛なしで爆撃を行ったが、そこへ国民党軍の戦闘機が襲い掛かり、大損害が生じてしまう。この事実に衝撃した海軍は味方爆撃機を護衛しつつ、迎撃に来た敵機を撃墜する航空機を欲した。翌年の昭和13年、海軍は中島飛行機に陸上攻撃機を護衛する十三試双発陸上戦闘機の開発を要求した。しかし、その要求性能は途方も無いものだった。航続距離3700km(参考までに零戦が3500km)、最大速度510キロ以上、零戦と同じ運動性能を持ち、陸上攻撃機と同程度の航法・通信機能を有するという欲張りセットのような要求だった。陸上攻撃機に零戦並みの高機動力を付与する事など、当時の日本の技術では実現不可能に近かった。発注を受けた中島飛行機は、知恵を絞りながら開発に着手した。設計者は中村勝治氏と大野和男氏。社内では「G」と呼称されていた。
双発戦闘機という事でエンジンが2つ積める分、出力の向上は見込めた。反面、機体は大きくならざるを得ず、運動性の低下を引き起こした。悪い事に、2つ積んだとはいえ個々のエンジン出力はそれほど高くはなく、パワーで強引に運動性を引き上げる手段も取れなかった。巨体の双発機を零戦にするにはあまりにも難しかったのである。
1941年3月、十三試双発陸上戦闘機の試作一号機が完成。5月2日に初飛行をした。航続距離と速度は要求をクリアしていたのだが、肝心な運動性能が完全に劣ってしまっていた。陸攻を敵戦闘機から護衛する機体なのに戦うべき敵戦闘機との空戦に向かないと判断されてしまう。加えて支那戦線では既に零戦が配備され、爆撃機の護衛として十二分に働いていた事から不採用の烙印を押される。初手から苦い思いを味わう結果となってしまった。この失敗を受け、中島飛行機は雷撃機案や急降下爆撃案を生み出して機体の有効活用を図ったが、いずれもお蔵入りとなった。案が百出した事から、「Gの七化け」と言われていたとか。
しかし海軍は、本格的な偵察機を旧式の九八式陸上偵察機以外に持ち合わせていなかった。そして十三試双発陸上戦闘機は九八式陸上偵察機よりも航続距離が長く、20mm機銃1丁と7.7mm機銃2丁、後部に旋回機銃を持つなど損耗率の高い偵察任務に見合う武装を保有していた。装甲も空戦に耐えうるだけの強度も持っており、とりあえずこの十三試双発陸上戦闘機を二式陸上偵察機と改名。偵察機として採用する運びとなった。まさかの偵察機化である。
開戦後の1942年6月頃から月産10機程度の量産を開始。本格配備に先立って、試作していた5号機から7号機を台湾へ送り、台南空内に偵察飛行隊を設立。そして7月、二式陸上偵察機3機は試験的にラバウルへ進出。偵察カメラを搭載し、ガダルカナル島へ襲来した米軍に対して強行偵察を実施。10月14日、道中でF4Fの迎撃に遭い、1機が撃墜されるも別の1機が片発になりながらブインに帰還。貴重な情報を持ち帰った。九八式陸上偵察機では出来なかった長距離偵察で戦果を挙げ、評価された。それから各部隊への本格的な配備が始まり生産総数は54機に上ったが、米軍の戦力が強化されていくにつれ被害が増大してきた。二式陸上偵察機は航続距離こそ及第点だったが、何より偵察機に必要な高速性が欠けていた。空戦できるとはいえ、足が遅く運動性も悪い二式陸上偵察機は米軍機の格好の的だったのだ。台南空に配備された3機も2機が撃墜されてしまった。そのため二式陸上偵察機は、より高速な陸軍の一〇〇式司令部偵察機にその役目を奪われ、次第に出撃の機会を失っていった。
また油圧系統に故障が多く、部品の補給も滞っていたため、現地での稼働率が低く不評だった。1943年4月に一五一空が開隊され、二式艦偵や百式司偵とともに二式陸偵も配備されたが、殆ど運用されなかったという。百式司偵は高高度性能と高速性に優れ、二式艦偵は艦爆譲りの運動性で敵機を振り切れたが、二式陸偵は高速ではない、でかい、運動性劣悪と三拍子揃っていたため一番評価が悪かった。
戦闘機としても偵察機としても失敗した二式陸上偵察機。駄作の烙印を押されるかに思われたが…。
1942年11月、ラバウルに進出していた第251海軍航空隊の小園安名中佐は内地に帰還。横須賀で行われた大型爆撃機対策会議で、自らが考案した斜銃(しゃじゅう)が有効だと訴えた。しかし出席者は冷淡にあしらい、「実験する価値も無い」と断じられた。空技廠や実験隊からも「現地での単なる思い付き」と否定的だった。そんな中、十三試双発陸上戦闘機3機が空技廠に放置されている事が判明。「ほうっておくのは勿体無い」として小園中佐は空技廠に改造を訴えた。大型な機体だったため、斜銃を搭載するスペースがあったのだ。すると、航空本部の技術幹部が「放置されている機を使うならば」とこの提案を支持。試しに3機を改造してみる事に。こうして斜銃を搭載した十三試双発陸戦が誕生。ラバウルへ送る前に零戦と模擬戦を実施した。斜銃を使えば零戦にも対応できると判断され、9機の二式陸偵と2機の改造十三試双発陸戦が輸送された。装備された20mm機銃は大口径のもので、当たれば破壊力を期待できる代物だった。
1943年初頭、ラバウルに対しB-17による夜間爆撃が盛んになってきた。夜の迎撃は通常の戦闘機では難しく、しかも相手がフライングフォートレス(空の要塞)と称されるB-17だった事もありラバウルの航空隊は殆ど手が出せなかった。5月、試作機2機がラバウルに到着。同月21日より防空戦に参加した。この改造十三試双発陸上戦闘機は、小園中佐の狙い通り性能を発揮。夜間爆撃に来たB-17を死角の下方から射撃し、見事2機撃墜するという華々しい初戦果を挙げた。その後も次々に戦果を重ね、工藤重敏上飛曹と小野了中尉が駆る改造十三試双発陸戦は、10機のB-17とB-24を撃墜した。
この戦果に驚いた海軍は手の平を返し、二五一空が保有する二式陸上偵察機に斜銃を装備するよう命令。8月23日にその機体を制式採用して中島飛行機に量産を命じた。夜間戦闘機には「光」の文字を入れる慣習から、夜間戦闘機「月光」と命名した。名付け親は海軍航空本部の伊東裕満大佐。ちなみに今までは形式番号が正式名称だっだが、本機は月光が正式名称となっている。こうして1943年8月23日、月光は誕生したのであった。月光の存在には国民にも知らされ、その名は一般大衆にも親しまれた。
月光はその後も夜間に襲来するB-17やB-25を次々に撃墜。死角かつ敵の射程外から攻撃できる月光は、まさに傑作機だった。同じ速度で飛行すれば、同一の箇所に集中攻撃が出来る点が強さの秘訣だった。一時は米軍にラバウルへの夜間爆撃を中止させる程の打撃を与えたのだが、戦況は悪化の一途を辿った。そして連合国軍は効率の悪い夜間爆撃を中断し、白昼の爆撃に切り替えたため月光は敵基地への夜襲目的として運用されるようになった。
1944年3月1日、木更津基地にて本土防空を担う第302海軍航空隊が開隊。24機の月光が配備され、木更津飛行場で訓練が行われた。のちに行われる対B-29戦で迎撃の一翼を請け負う事になる。月光の活躍ぶりを見た陸軍は、同じ双発機である屠龍に斜銃を装備させた。
月光の生産は1944年10月で打ち切られた。B-29と対峙するには高高度性能が足りないと判断され、後継機開発が始まった。しかし極光や天雷などの後継機が悉く頓挫したため、月光は最前線で戦い続けた。
戦争末期の本土防空戦にも参加。襲来するB-29を迎撃するため空へ上がった。最初の会敵は1944年8月20日、八幡地区を爆撃しにきたB-29との交戦だったとされる。
しかしB-29は強大な敵であった。高度1万メートルを飛行するB-29に攻撃を仕掛けるには無理があり、また月光の最高速度が510キロに対しB-29は570キロを出せた。同じ方向に飛んでいれば決して追いつけず、手出しが出来ないまま見逃す事も多々あった。敵機は高性能なレーダーを搭載しており、夜間でも月光の接近を正確に読んだ。機体の大きさもネックとなり、敵の機銃に被弾しやすかった。
一方で戦果を挙げるため、夜間に低空で侵入したB-29に対しては夜間戦闘機として性能を遺憾なく発揮。探空灯に照らされた敵機の後方から忍び寄り、斜銃で突き刺す戦法で米軍に出血を強いた。B-29は比較的下方からの攻撃に弱く、上手く弱点を突く事が出来た。だが斜銃を撃つと反動で操縦桿と機体が揺さぶられ、慣れていないと照準を合わせるのが難しい欠点があった。
まず最初にエースとなったのは、計6機のB-29を撃墜した遠藤幸男大尉だった。彼の乗る月光が1機撃墜するたびにキルマークの桜の花が増えていき、その活躍はラジオで広く喧伝されて国民的人気となった。しかし1945年1月14日の名古屋空襲で無念の戦死を遂げた。彼は豊橋市上空で8機編成のB-29を発見し、遠州灘上空で1機を撃墜した。ところが反撃を受けて被弾炎上。遠藤大尉は燃える月光を操縦し、渥美半島まで移動すると先ず西尾上飛曹を脱出させたが、落下傘の紐が尾翼に切断されて開かず墜落死した。残った遠藤大尉は必死に機体を操り、民家が密集する地帯を避けて山間部で脱出。が、炎が落下傘に燃え移り、畑に墜落。地元の対空監視員が駆けつけ、トラックで遠藤大尉を搬送したが、その途上で死亡した。
3月10日の東京大空襲は夜間だったため、4機の月光が迎撃に向かっている。
4月7日、中島飛行機の武蔵工場を狙ってB-29が107機襲来。護衛としてP-51戦闘機96機が随伴していた。これに対し月光15機、彗星15機、銀河5機、零戦25機と若干数の雷電が迎撃に向かった。しかし敵に優秀なP-51が付いていたため、9機を喪失。その多くは月光と銀河と彗星で占められた。B-29迎撃用の月光では、戦闘機の相手は荷が重すぎたのだ。以降、戦闘機が護衛するB-29には手も足も出なくなる。
次に現れたエースは横須賀海軍航空隊の黒島少尉と倉本上飛曹だった。1945年5月24日夜、558機のB-29が東京を空襲。黒島四郎少尉と倉本上飛曹が乗った月光は22時頃に出撃し、迎撃に向かった。まず東京上空で1機を撃墜し、1機を撃破。続いて松戸上空で1機、鹿島灘で1機、九十九里浜沖で2機を撃墜し、たった一晩で5機撃墜1機撃破という凄まじい戦果を叩き出した。この戦果は全軍に布告され、2人には軍刀「武烈」が授与された。両名の月光には星印を貫く矢で象られたキルマーク8個がペイントされた。彼らは終戦まで生き残った。
5月24日の空襲以降からはほぼ護衛にP-51が随伴してくるようになった。戦闘機に対して分が悪い月光は出撃を見送らざるを得なくなり、6月以降は夜間爆撃そのものが減った事から出撃の機会すら無くなっていった。迎撃の任務を他の機体へ譲り、月光は夜間偵察や夜間襲撃へと任務を変えていった。この頃からレーダーも水上用のものに換装されていたという。対B-29戦に向かないとして、十八試夜間戦闘機・雷光が設計されたが計画通りの性能が発揮できなかった。最終的には特攻機に使用され、爆装した月光が台湾・沖縄・フィリピン方面の敵艦隊へ突入している。
終戦直前の1945年8月7日、福岡県行橋市が大規模空襲を受け、掩体壕に隠されていた月光が炎上した。8月10日夜、爆装した第302海軍航空隊所属の月光8機が、他の機体と共に関東沖の米機動部隊へ特攻を仕掛けたが、発見できずに帰還。その際に行方不明になったり不時着した機が出た。
総生産機約500機(477機とも)のうち残余は40機程度しかなかった。
戦争が終結すると、アメリカ軍が進駐。日本国内に残っていた目ぼしい航空機145機を接収し、3隻の空母によってアメリカ本国に送られた。この中には厚木と横須賀で接収された4機の月光が混ざっていたという。この際、米パイロットが月光を操縦し、空母バーンズに着艦させている。他の月光は連合軍に廃棄され、残らなかった。1945年12月8日、バージニア州ラングレーフィールド基地に到着。翌1946年1月23日にペンシルベニア州ミドルトンに送られ、航空機材倉庫に収められた。
メカニックによって中身を全てアメリカ製に変えた後、1946年6月15日に35分間のテスト飛行を実施した。テスト飛行はこの1回だけで、これ以外の月光は廃棄された。改造月光は1949年にスミソニアン博物館に寄贈され、イリノイ州の倉庫に収められた。しかし1950年に朝鮮戦争が勃発し、鹵獲機で倉庫が一杯になってしまったので、1953年に月光は外に引っ張り出されて野ざらしにされてしまった。1979年9月7日、スペースが空いた事で修復の対象に選ばれた。かれこれ20年以上放置されていたため内部の腐食が激しく、修復チームは一番苦労したという。1983年12月14日完了。現在の位置に展示された。これが地球上に現存する唯一の月光である。
2012年12月27日、厚木基地の防空壕跡から右主翼前縁スラットと思われる部品が出土した。
戦争も終盤に差し掛かった1944年12月2日深夜。オルモック湾にて、第7多号作戦の輸送隊と米第120駆逐群が交戦し、竹(松型駆逐艦)がクーパーを雷撃で撃沈。帝國海軍最後の水上艦撃沈を飾った。実はこの戦闘に月光も関わっていた。
オルモック湾に到着し、物資や兵員の揚陸を始める輸送隊。その上空を2機の月光が通過した。輸送隊を支援するため、湾内の魚雷艇を排除しに来たのである。ところが間もなく米第120駆逐群と会敵し、交戦。1機の月光は旗艦アレン・M・サムナーのマストぎりぎりまで接近すると、魚雷艇攻撃用の60kg爆弾を投下し小破させた。もう1機の月光はモールに機銃掃射を浴びせ、2名を戦死させた他、22名を負傷させている。この戦闘により揚陸の時間稼ぎが出来、警備中の駆逐艦桑と竹に敵の接近を伝えられた。
帝國海軍最後の水上艦撃沈を陰から支えたと言えよう。ちなみにこの2機がどうなったのかは不明。
掲示板
13 ななしのよっしん
2018/01/02(火) 15:08:39 ID: RfuK2ByptG
メタルギアはここから取ってたわけね。
そういや自走砲にゲッコーていなかったっけ
14 ななしのよっしん
2018/01/02(火) 15:26:04 ID: oGqv7E35fn
15 ななしのよっしん
2018/10/27(土) 19:08:51 ID: fePfhUSVjz
南方に進出していたとある部隊で
飛行機は壊れたものばかりの状態で飛行部隊の隊長さんが
整備兵に向かって一番マシな状態の月光を指さし
「こいつを直せ!転進するぞ!武装も降ろしてお前らも一緒に連れてく!」
と言った結果、整備兵達は死にもの狂いで修理して20人近く無理矢理乗っけて脱出したそうな
3個イチだか5個イチで無理矢理直したとか
なお、隊長さんは双発機の操縦は初だったらしい
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/19(金) 11:00
最終更新:2024/04/19(金) 11:00
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