CLOCK-DO-DRAW-DININGは日本のライトノベル作家美濃健文が発表した幻想文学群の第2作目。初稿(ver.0)は2013年6月。暗く淫靡な筆調であった前作「亡霊派遣社員千尋の奇妙な異日常」とは打って変わってこちらは美濃本来の作風であるパロディックかつライトなモチーフを多分に用いたSF仕立ての作品となっている。例によって安定の低レベルかつ書きっ散らし甚だしい見事な未完であり、続きが書かれる可能性はあるとも言われ、また無いとも言う。なお、主人公に初めて作者である健文本人の名前が用いられているが本人いわく「思いつかなかった」だけであり、特に彼との関係はない。
ケケケケ…オレ達ノ時代ハ終ワリダゼ?ナァバード?
ソウダナ、デモナ、オレハ残ルツモリダ。
ナンダッテ?バード、オメェ正気カヨ?
正気?ナンダソリャ、オメェイツカラソンナチキンメイタ野郎ニナッタ。
オメェ、残ルッテコトハ、オレ達ガオレ達デナクナルッテコトダ。ソコマデスル必要ナンカ、ネェハズダ。
マァ、ソレハワカンネェダロ。必要ナンテモノハ、ワカラネェ。
ソウカ、寂シクナルナ、バード。
悪ィナ。
気ニスンナ。元気デヤレヨ。
アァ。
時間ダナ。
ソウダナ。
第1時
健文は唸った。これが最後の一枚のはずだ。これさえ通り抜ければ、…。
「ううん…」
わからない、こんなものは勘しかない。だが健文はこんなものを勘だけで探り当てることにかけては恐らく世界最悪の天才の一人である。それはおそらくハッキングの才能だった。ところが、彼は機械音痴だ。そこがわからない。彼は学校の勉強も大の苦手であった。何より、引き算がわからなかった。近所の幼馴染の友人に引き算を教えてもらったくらいだ。彼の論理的思考能力は加法の理解で限界を迎えた。そんな子供時代から今日に至るまで、一体どれほどの苦労をしただろう。いじめられることもあった。尤も、それほど陰湿ではない。友人同士のちょっとやんちゃなやつに、無理矢理スパゲティーに牛乳を入れられるとか、それを無理矢理口に入れられるとかいう、いわゆる「おふざけ」のレベルだ。健文はそれをムキになって抵抗するキャラクターで通していた。いじめ友達はそれをおかしがってよりエスカレートに躍起になる。今思い起こせば、悲しい子供時代。
健文の運命を変えたのは、引き算を教えてくれた友達にパソコンを教えてもらったことだろう。当時はウィンドウズ95が生まれて、世間がインターネッツというものにしぶしぶ興味を持ち始めた(知り始めた)そんな頃だった。知的な知識人さん達がバイアグラとかイノベーションとかマルチメディアナンセンスとかいう言葉を振りかざしていたが、インターネッツの誕生により彼らの文明が著しく進歩したのは、紛れも無い、これが人類史上比類稀にみない、びっくり人間コンテストを覆す魔法の鏡だったからである。
「くそぅ…もう少しなのに…」
健文はあたまをくしゃくしゃさせた。追い込まれると必ずやるクセだ。もっとも不潔な方ではない。どちらかというと必要もないのに石鹸でゴシゴシと洗ってしまい風呂あがりには身体が痒くなったりする、要領の悪いタイプだった。歯磨きもやたらと長かった。どれだけ洗えば気が済むのだろう。一通り考えて、とりあえずこの場は諦めてみることにした。席を立った。
「あ、わかった。」
目がぱちんとすると大体それは当たっている。あわててキーボードを叩くと、それは正解。健文は最後の関門を突破した。はてさて…
ファイルのローディングが始まった。どちらかというとこの先の作業の方が健文は苦手だ。何をどのようにすれば固まっているファイルが開けるのか、その画像が見れるようになるのか、よくわからない。ここからは友達に電話をかける。小さな頃にドラクエ2の風のマントの使い方を聞いたときから、ずっとそんなことが続いている。
「何?じゃこのまましばらく待ってればいいの?オレちょっと我慢できないんだけど。3日くらい溜めにためでブッチョしてねぇから、うっははははは!でも今回のはぜってぇすげぇだろ、サイトが外国っぽいし、ここまでくるのに20個くらいパスワードがあったぜ」
彼の衝撃的な特技を知る者は必ずこう聞いた。何故わかるのか。どうやって考えているのか。健文は聞かれる度に適当に答えていた。何しろ本人にもわからない。とにかく4桁の数字の暗証番号などであれば何の事前情報がなくてもたちどころに当ててしまった。その程度のものであれば、ちょっと番号を忘れたら、手帳を開くより健文に聞いた方が早い。顔をちょっと見て「どうせこんな番号だろ?」と言いながらちょいちょいと入れてしまう(正解)なぜわかる。フランスの大統領の電話番号を一発で当てて本当に繋がってしまい、慌てて出鱈目なフランス語で挨拶をしたことが伝説になっている。ありえないが、本当の話だから仕方が無い。
だが、その能力は彼の生活に有益には全く生かされていなかった。彼は要するに、その能力をこっそりアウトなコンテンツをネット上で入手することにだけひたすら熱心に使っていた。彼とネットとの出会いはまさに神とその忠実な僕(しもべ)との出会いというところである。どちらが僕なのかはちょっとよくわからない。
健文は喉をゴクリと言わせて、じわじわとロードされていくおめでたいファイルを見届けた。人類が進歩した理由は、まさにそういうことだ。ようはいつの時代も、考えていることはこれしかなかった。戦争した日も、仲良くした日もあったが、結局理由は全部ここにあったのだ。健文は自分の下半身のパスワード探しに夢中だった。この先は彼の名誉のために、多くを触れないでおきたいところだが、やはり触れてしまおう。20個もの難解なパスワードを突破して得たそれは、鎖で繋がれたやや背の高い女と、それに虫の入った器を差し出す痩せこけた男の写真だった。露出はそれほど大きくなかったが、ひときわ目を引いたのは鎖で繋がれていた女の上半身、彼女には何故か胸(乳)が3つあった。健文はその不思議な身体の艶かしさに一際興奮して、目を血走らせながら例によって例のあれをあれした。にやにやと舌をなめずり、涎を垂らして仰け反る、ドッカンドッカン足音を立てて彼のフィンガーはますます快調を極めていく。おそれながら、はからずも。あれあれしている間に、彼のマイ・ワールドはインターフェクトなオブリビアンスをブッチモーニングしていった。可愛そうに…。(第1R終了)
数分後、彼の壮絶なオーナーズタイムが終わり、事態は長いハーフタイムへと入っていた。健文は他にやることがない。彼はニートではないと言い張っていたが、誰がどう見ても間違いなくニートだった。もっとも、彼のその特技をもし合理的かつ若干の悪意をもって用いるならば莫大な富を得ることなど造作も無いことであるはずだ。ただ彼はそういうことをしようと思わなかった。ごく素朴に単純に、彼は悪いことはしない。どうしたものか、特にやることもないので眠ってしまおうかと思ったが、結局散歩に出かけることにした。ぶらりぶらり、今日も清く正しい。
第1時-2分
さやかは席を立った。身体を覆っていたバスタオルをばっさりと投げ捨てる。人に裸を見られることが恥ずかしくないわけはなかったが、仕事だから仕方がない。ディレクタァの言われるままに、指定された意味不明な台本通りに彼女は適当に演技をしては、息を吹き返す。諦めている。カッと暑苦しい照明が生肌を照らす。
「カエルギョロギョロ、ギョロリンコ!」(両足を開いて)
「私の男はヒキガエル!ゲロ!」(手をぶんぶん振り回す)
「ゲロゲロついでにエクスタシー!ヒーンだギョロ!」(腰をくねらせる)
彼女はいわゆる駄目女である。駄目女とは、駄目男に惚れる女のことであるが、彼女の駄目男への愛着ぶりは実に恥じらいがない。おそらく彼女は牛馬の類に生まれれば、良い乳牛として世間に新鮮な乳汁を提供したに違いない。ところが人間というものは、ただ提供することを慶びとする雌を良い雌とはみなさない。それはやはり駄目女だ。彼女はただ、口を空けて母親から御乳を求める坊やに自分の御乳を咥えさせてやりたい、それが快楽であるのでもない、どちらかというと、苦痛を伴っている。だが、ジョン・ペンハウアーであるとかイライザ・クリウッドのように慈善の人を突き進んでいるのでもない。彼女はボランティア精神もなく、快楽でもなく、ただただ甘えを請うものを愛した。そして相手が求める限りは、いくらでも自らを崩壊させる勇気と犠牲心を持っていた。可愛そうに…。
そういうわけで彼女は今日も仕方の無い一日を送っている。駄目人間の餌をまかなうために、自らの若い内臓をただ対価との交換のために市場で売りさばく。さやかはレンタルビデオショップで自らの出演したDVDが並んでいるのを見せられ、赤面して泣いたことがある。当時の彼氏が無理矢理見せたのだ。いくら泣いても仕方が無い、誰もさやかにそこまで強いたわけではない。ただ一人一人の男たちが、何もしたくない、おまんまが食べたいと泣いて喚いていただけなのだ。だがそういうものがさやかにはたまらない。
仕事が終わると彼女はいつものように、頭の先から尻の間まで誰のものともわからない酸えた匂いの粘液に塗れていた。彼女に優しく声をかけるものはほとんどいない。タオルすらかけるものもなく、彼女は仕方なく丸裸のままひょこひょこと一人でシャワールームへ向かった。このような作品の場合女優本体とは金銭を生む源となる一番の商売道具であるはずだが、彼女はただビジネスの狭間に無造作に使い捨てられていた。そして、そろそろ使い切られようとしていた。出だしは悪くはなかったが、ロリータ物単品ものから徐々にグレードが下がり、気がつけば臭い名前の熟女もの、そして摩訶不思議な企画小品ばかりが連なった。尤も昨今の競争の激しいこの業界で女優を名乗っているだけ、彼女の見た目は決して悪いわけではなかった。ただ、もうそろそろ品切れである。
「ふぅ…」
第1時+35分
コンビニで買ってきたポテトチップを雑に開けて散らかし、楽しいおやつタイムを始めた。ついでにビデオショップで気になるDVDも買ってきた。コアなものはネット上で落とせるが健文は市販のものも決して嫌いではない。
健文は早速DVDをセットする。つい先ほどハーフタイムに入ったばかりだというのに既に彼の精力は回復しつつある(巨大なチャクラを持った妖怪が憑依しているのかもしれない)ようするにこれはハーフタイムショーだった。ズンズンと重苦しい音楽が流れ、人気女優さやかの危険な肢体が画面に溢れた。健文は学生の頃からさやかが大のお気に入りである。彼の特技がネット上のハッキング技術に多少なりとも生かされ出したのもきっかけは彼女の裏物の映像を入手したいという欲望に触発されたからであった。口の中に落ち着きの無いペースでポテトチップを放り込み、食べかすをボロボロと落としながら、健文はさらさらと涼しげにさやかの仕事をチェックする。
突然画面にダイアログが現れた。荒れた使い方をしているとPCはすぐに汚れてしまう。健文はウィルス対策も特にしていなかったから、ディスク内は雑菌塗れだった。こんな風におかしなダイアログが出て来ることは珍しくない。健文は全く気にしなかった。ウィルスのすることはたかが知れている。別に自分の全財産が奪われようと、性癖が全世界に晒されようと、気にしなかったから、どうでもよかった。どちらかというと、派手なウイルスに感染すると喜んだりもした。修復する友人には面倒臭がられていたが。
ダイアログを消そうとしたが、ウィンドウがあちこちに逃げ回り、捕まえられない。
《ヘッ、汚ネェ女ノケツナンカ見テンジャネェヨ。チキンジャナクテイイ、テメェガ食ッテルソレデイイ、コッチニヨコセ》
健文は多少違和感を感じたが、こんなこともあるだろうと思った。
「わかった食わせるよ。オレはどうしたらいい?」
《マイクツイテルヨナ?感度ヲアゲロ。スピーカーノボリュームヲマックスニシロ。》
健文は言われた通りに安物のマイクを取り付けた。マイクの感度のあげ方はよくわからなかったが、ダイアログの言われるままに操作して何とかなった。
スピーカーを向かい合わせにして真ん中にポテトチップを置いた。これで「食べる」ことができるらしい。健文は棒読みソフトを起動した。
「なんだか、お前ウィルスにしてはよくできてるな?もしかして人工知能か何かか?」
「細かいことはいいや。とりあえず、お前うちに何しにきた?ファイルでも盗みにきたのか?たいしたもんないぜ」
《細ケェコトハドウデモイイ。トリアエズ、オ前見込ミガアル。オレ達ノ目ニ止マッタゼ。オ前、ヒーローニナラナイカ?》
「ヒーローだって?こんな世の中でどんなパンデミックが起きるっていうんだ?まさかもうすぐ世界が滅亡するってのか?」
健文は気を抜いて小便を少々漏らした。
第1時+43分+3秒
撮影を終えたさやかは帰りの途についていた。頭上、巨大な雹が降り注ぐ。1つ、2つの小さな粒が落ちた後には、直径3メートルある超巨大な雹が落下した。さやかは悲鳴をあげた。雹はさやかを押しつぶし、いわゆるミンチ状に磨り潰した。その後同様に巨大な雹が相次いで落下し、さやかの肉体を砕いた。ゴリゴリと骨を砕く音が聞こえる。さやかの顔面は形を失った。
(命は、ここまで)
雹が降り注ぐ一方、落下物は多様性を増した。鶏が数百匹まとめて落下し、ガードレールに激突した。無数のドリアンが落下し、信号機に激突した。バイブレーターが高速に回転しながら、道路でうろたえる主婦を貫いた。幼児が泣いていた。リコーダーが矢の様に降り注ぎ、幼児を蜂の巣状に粉砕した。内臓が飛散する。
さやかは微かに残った意識で砕かれた身体を引きずったが、すぐに新たな雹が彼女の身体を砕いた。それは何者かによって意図的に落下されたかのようであった。さやかは完全に絶命した。
全人類はこの日、頭上からの謎の無数の落下物により、無差別に攻撃され、その肉体を完全に破壊される。それが何者によってなされたか、何をもって起こされたか、把握することはなかった。落下物による人類の破壊行為が完結するまでの時間は、数分にも満たなかった。わずかな時間で、人類は完全に絶命した。
降り立つのは、謎の生命体。身体が数本に分かれている、全身は紐状であり、頭が鳥の顔をしている。彼らが人類を絶滅させたのであろうか…?鳥の顔をした謎の生命体、その数体は奇声をあげる。
健文は欠伸をした。ポテトチップはすっかり空になっている。だが、今の一瞬脳を過ぎった感覚は一体何であっただろう。それは、人類の滅亡の夢であったのか?
《イイカ?オ前ニハ一瞬ダケ見セタ。今起キテイル未来ハ、ソノママ進ンデイクナラ、十分ニ滅亡スル。考エルナ、理解シロ》
「ああ、何となくお前の言いたいことはわかったよ。でも、どうして、3秒後に滅んだはずの世界がまだこうして残っているんだ?それくらいははっきりさせてくれよ」
《世界ノ管理者ガ、今ノ状況ヲ削除シヨウトシテイル。イイカ、今ハカロウジテ、調整ヲカケテイルンダ。サッキ存在シテイタハズノ世界ハ、実際ニ滅亡シタ。今オ前ガ生キテイルノハ、オ前ノ意識ヲ本ノ少シダケ、違ッタ空間ニ動カシタカラダ》
健文はもう一度欠伸をした。
「ああ、まるでわからないから、もういいよ。オレは見込みがあるから、ヒーローになる。これからどうしたらいい?」
《空間ヲ動カス必要ガアル。イイカ、マズナルベク固クテ使イヤスイ金槌ヲ用意シロ。ソレカラ、時計ヲ用意シロ。大量ニ用意シロ。100個ジャ足リネェゾ。1000個デモ足リネェナ。理論上ハアレバアルダケ成功シヤスイ。少ナクトモ、今オマエノイル部屋ニ隙間ガ無クナルマデ時計ヲ買ッテコイ。ソレモナルベクチックタックノ音ガ鳴ルヤツノ方ガイイ。デジタル時計ハ具合ガ悪イ。ワカッタカ?用意ノ仕方ハマカセル。世界ノ滅亡ガ嫌ナラ、言ウ通リニシロ》
第2時+4分
《イイカ、CLOCK-DRAW-DININGノ成功率ハ通常ノ人間デ0.0000001%以下ダト思エ。オ前ダケハ、ソノ成功率ヲ飛躍的ニ、イヤ、非現実的ニ高メルコトガデキル。ダガナ、ソレハヨウスルニ危険トイウコトダ。始メハ背ノビセズニ、オ前ノ思ウ単純ナ未来ヲ変エルコトニ集中シロ》
チックタック音の連打が部屋中に木霊する、さながら開店直後のパチンコ屋のように、耳障りな騒音がその閉鎖された空間の酸素を完全に支配している。健文の部屋は無数の時計で充満していた。耳が潰れてしまうほど大きく、全てがガッチンゴッチンと音を立てて、数百、数千(数千は無いのではないか?)の時計達が一斉に蠕動運動を続けている。どのようにしてこれだけの数を集めたか、未来が平和になったら、いつか彼に語ってもらおう。とはいっても、仮定だけの話なら、彼はとある通帳とATMの暗証番号を一致させて金銭を取り出すことができるから、元々金銭の工面の仕方などは、どうにでもなる話だった。だが、ここは彼の無垢な正義にかけて、そのような手段は一切行使していないことをお断りしておこう。
それはそうと、画面上のダイアローグからの彼への物理学レクチャーはいよいよ迷宮入りの気配を漂わせていた。元々、彼に原理から全てを理解させようという気はなかったが(それは研究を積み重ねた本業の学者でも無理な話だ)危険性と基本的な応用方法だけは叩き込んでおく必要がある。健文はガチゴチ音の連打する部屋の真ん中にぼんやりと寝転がり、ダイアローグの話を聞き流していた。健文は息を吸い込み大声をあげた。
「聞こえねぇよ!こんだけうるさけりゃ、聞こえねぇだろ!画面の文字を追ってるだけだ!ようするに、どうすりゃいい!この時計を全部ぶっ壊せばいいのか!」
《金槌デ、ナルベク固イモノヲ、叩キツヅケル必要ガアル。途中デ割レチマウト、都合ガ悪イ。鉄板ヲ用意シロト言ッテナカッタカ。何カ持ッテ来イ》
「なんでもいいのか!」
健文は台所へ行き、なるべく固そうなものを探した。自室からチックタック音のけたたましい音が聞える。完全な近所迷惑であろうが、苦情がきたら「世界の危機だ」とでも言ってやるしかないだろう。とにかくタイムトラベル(?)の材料を揃えなければならない。フライパン、ステンレス鍋、木製のまな板、この程度か、物置にも行ってみたが、弱そうなベニア板が置いてあったくらいで、ろくな物が見当たらなかった。再び騒音の部屋へ。
「おい!こんなもんだ!」
《ヨシ、期待ヨリハ良カッタ。ソコニアルレベルナラ、原理的ニハドレデモ可能ダ。後ハオ前ガヤリ易イ物ヲ選ンデイケバイイ。俺モオ前ニ御託ヲ言ウノハ面倒ニナッテキタ。実行アルノミダ。》
「ぶっ叩けばいいのか!」
《ソウダ。機械ノ言葉デ話スヨウニ、リズムヲ決メテ叩ケ。オ前ニ難シイアセンブルノ知識ハ期待シテイナイ。オ前ノ変エタイ未来ヲ変エルタメノ命令ヲ、全力デ打チツケロ。イイカ、半端ナ叩キ方ハスルナ。筋肉痛ドコロジャネェ、骨折モ覚悟シロ》
「骨折は勘弁しろよ!」
健文は全力で金槌を振るい始めた。フライパンにハンマーを打ち付けるとチックタク音の洪水の間にガッコンと金属が軋んで歪む気味の悪い音が滑り込んだ。ゆっくりとした鼓膜の振動感に早くも激しい嘔吐感を覚えながら、2発目、3発目をすかさず叩き込む。健文の狙いはある程度固まっていた。自分の変えたい未来、というほど大したことではない。とりあえず、“もしもこうなっていたら?”の世界を、作り出す暗号を、探せばいいのだ。4発目、5発目が鳴り響いた。フライパンは衝撃でぐらつき、中央が早くも湾曲している。
骨折はしたくなかったが、そうなってもおかしくないほどの力を込めて、既に10発以上を打ち付けていた。彼の感覚が予期していたのは、これ以降のハンマーを打ち付ける速度である。それは人間の腕力では少々無理がある。あたりのチクタク音は反響し、彼の鼓膜から頭蓋の組織粉砕し始めた。早く決着をつけなければ、彼は音が聞えなくなるかもしれない。徐々に視界がぼやけてくる。半狂乱の境地に至る必要がある。
《修正ヲカケロ!全テヲ壊ソウトスルナ!変ワル部分ハ今ノオ前ノ想像ヨリ遥ニ小サイゾ》
健文は大粒の汗を流しながら、一心不乱にハンマーを打ち下ろし続けた。時計の音は過剰な速さと大きさでその場を飛び回り、互いに共鳴して行き場を失っていった。健文は今まさに、未来を変えるのだ。
健文は脱臼した肩を押さえ、時計の音が鳴り響くままのその新たな空間にどっかりと腰を下ろしていた。無我夢中で叩かれた結果辺りには少々の血液が飛び散り、金槌は部屋の隅に投げ出されていた。ぼんやりとその場を見つめている。チックタック音は耳障りなままである。フライパンが完全に湾曲し、やはり部屋の隅に飛び散っていた。いつかの衝撃で、PCのモニターは破損しており、電源は切れていた。だが、それ以外は、至って静かな部屋だ。
部屋の中心、健文の目の前には、例のさやかがいた。それも、一矢纏わぬ姿で、さやかは呆然と立っていた。刹那、彼女は足下をふらつかせ、健文の元に倒れこんだ。あわててそれを抱きとめる。健文の最初のCLOCK-DRAW-DININGは、どうやら成功した。
無数の時計達が刻む数分間の間、二人は沈黙のまま、ただ互いの目を見続けていた。健文にとっては、それはその身体のどの部分も、ひょっとすると内臓すらも知っている、あのさやかである。一方さやかにとっては、紛れも無く健文を見るのは初めての、はずだった。そうこれは、二人の最初の接触である。
どのような所から、話を始めてよいか、健文は言葉を探した。説明を聞くことも苦手な健文は、人に説明することはもっと苦手だった。一方さやかも、説明することも、されることも苦手なタイプの人間だった。この二人の意思疎通は、言語では難しい。だが意思疎通のためには、やはり言語を使う必要があった。さやかが口を開いた。
「血、」
さやかは指先をひらりと立てて、健文の頬のついていた彼の血液をそっと拭った。それは特に意味の無い行動だった。自分の状況を理解することを放棄していた。その仕草に刹那の官能を覚えようとした矢先、健文は自らの神経に走る激痛が意識を駆け巡り、脳髄を支配された。流血し、肩が外れている。
「うああ…!」
「大丈夫?ちょっとじっとして、直し方知ってる!」
さやかは健文の胴体に馬乗りになり、脱臼した肩を自らの体重で強引に嵌め込んだ。彼の体の中で軟骨の擦れるような鈍い音が響く。激しい痛みに彼は絶叫した。はぁ、はぁと荒い息を立てて、気持ちを落ち着かせようとする。時計の音は今も鳴り続けている。さやかはむき出しに放り出されている自らの胸の谷間に健文の顔を押し当て、埋まらせようとした。健文は驚いてさやかを突き飛ばす。さやかはバランスを崩して転がり、床に犇く金色の薇時計の節々が彼女の裸体を歪に刺突した。彼女の身体に鈍い痛みが走り、やや低い声で小さな悲鳴をあげたが、辺りのチックタック音にそれはかき消された。
さやかは再び健文の身体に近づき、彼の顔をじっと覗き込んでいた。まるでこんな生き物を見るのは始めてであるかのようである。目の前の男は、さして美形の顔ではないが、悪くはない。ただ割りと猿顔に近い。体格は小柄だが、特にそこに好みはない。さやかは目の前に男がいれば、その相手との性交が精神的に可能であるかを無意識で想像する。それは彼女が性行為を好んでいるからではなく、逆である。男がそこにいれば、それは当然自分との行為を望んでくるだろうと彼女は考える。そのとき、彼女はできる限り相手の望みにこたえてやりたいと考えるのだ。そんな彼女の彼に対する結論は、特に異常なしというところだった。
「この部屋、うるさいね。」
「全部止めるのは面倒だから、外へ行こうぜ。」
「服が欲しい。」
健文はタンスから適当に自分の服を取り出してさやかに放り投げた。健文は服装に無頓着で、何か着ていれば十分だと思っている。さやかの身体は明らかに彼よりも大きく、豊満気味で、強引に着込んだ男子の衣服は今にも破けようとしていた。
ウンココ大統領公国においてウンココ大統領配下のガチチンコ閣下が武装蜂起した。辺りは大雨である。三匹のネズミが飛び出した。
第3時
彼は甲斐正之助という、低脳な健文とは違い有名私立大学の理工学部を卒業している。(健文は彼のことを正助と呼んでいた)現在は大学院生として物理学の研究をしているが、まだ論文は一つも書けていない。いわゆる持ち前のガリ勉と純朴な憧れだけで前に進んでしまい独創性という怪物にがっつり自身を絡め取られ、前に進めなくなった秀才肌の典型であった。尤も実家が不動産経営を営む資産家であり、経済的な不自由はまるでなかった。ボンボンだが、いいボンボンは爽やかだ。彼がいいボンボンである証拠に、年の割りに幼い顔をしていた。目が油に塗れた当代随一の悪徳政治家(20世紀に量産された汚い大人の典型である)のように細かったり、口先がスネオ(20世紀に発明された悪いボンボンの典型である)のようにとんがったりはしていなかった。声はトンガリに似ていない。ともかく、彼は極簡単な意味で、非常に聡明である。
「ありえないほどのアナログ時計を集めて、物凄い数の針の音が鳴り続けている中で、金槌で固いものをある決まったリズムで叩き続ける。そうすると、突然憧れのさやかちゃんが目の前に現れたりする。やり方によってはもっと難しいことができるらしい、と。何だろう、タイムトラベルの方法にしては地味というか、実際にさやかがそこにいることだけが驚きで『まさかそんな簡単なことで…?』という感じがするな」
「そうかな。時計を集めるのも、実際に金槌で叩くのも大変だったぜ。」
「クロックドローダイニング、と言うんだと、その画面上の人工知能みたいなやつに、その言葉の意味は聞いたのか?」
「さあ、言ってた気もするが、何しろ面倒くさかったからな」
さやかはぼーっと部屋の壁によりかかり、眠そうな目をして時計の秒針のこちこちと流れるのを見ていた。彼女は先ほど正助に、自分の身に起こったことをようやく少し考え、話した。彼女は、一度目のclock-draw-diningにより、自宅のバスタブから健文の目の前に自分が「移動」した経験を得ている。その「移動」はたとえば映画やマンガでみるような『ワープゾーンをくぐっていくような感覚』は何一つなかったという。しいていうなら、毎日の「眠り」と「目覚め」の感覚に似ていた。自分がいつ眠って、起きたのかがわからない、そのようにして、彼女は自分が気がついたら、健文の目の前にいた、というのだった。彼女の話は多少現実の物理のあり方に落胆させられるものであったが、実感にこもっていて、正助を納得させた。
「ちょっと聞いただけの話ではあるけど、そのクロックドローダイニングについてはイメージがわかる気がする。それよりも僕にわからないのは、君にその方法を教えたダイアログの方だ。ぱっと聞いた限りでもいくつも謎が出てくる。まずそれは人なのか?誰かがそれこそハッキング技術を利用して君に話しかけていたのだろうか。」
「さぁ、あんまりよくわかんねぇけど、生きてる感じがしたな」
「この間のアングラファイルを落としていたらつながったんだろう?その時のパスワードは覚えてる?」
「うーん…どうだろ、多少は覚えてる。というか、後半は毎回変わる感じだから同じものを入れても無駄だと思うぞ」
「覚えてなくてもいいが、ここでそのダイアログに会えるだろうか?」
話しながら正助は健文が侵入したアングラサイトのURLを打ち込んでいった。正助は几帳面な性格で部屋は常に綺麗に整っている。また、よく読書をしたが余分な本は持たずにまめに処分をしていた。部屋全体が傾いているような健文の部屋とは違い、よく長方形が感じ取れて気持ちがよい。だが健文はよく正助の部屋は薄気味が悪いと言った。それは健文に言わせれば食パンの耳を切り取ってしまったようだという。それはどちらかが雑であるというより、両者なりによる秩序の定義の違いだった。
《パスワードをいれてください》
「どうだろう、今すぐにブロックは突破できるか?」
「うーん…」
正助に促されると健文は少々唸りつつも着々と目の前のブロックを突破していった。一度全て開けているのだから、それほど難しくはない。途中で健文はふと考えをやめて、正助の方を見た。
「なんだろう、このままブロックを突破していくことはできるけど、たぶん例のダイアログには会えないと思うぜ?なんというか、あの時はその後さやかのビデオを見てたんだ。たぶんだけど、それが重ならないとあの画面は出てこないよ。」
「お前が一度ダイアログと別れて時計を用意した後はどうやってもう一度そいつに会ったんだ?」
「基本おれは電源をつけたままだからな。それに、あまり気にしていなかった。おれはなんというか、おれのパソコンにそいつがいるんだろうと思ったからな。そういうことじゃないというのはお前の話を聞いて気づいた。」
「お前の部屋のパソコンは?」
「壊れてはいないだろうけど、もう一回つけてもいないんじゃないか?」
「どうしたら会えると思う?」
「さやかのビデオがいると思う。」
二人はちらっとさやかの方を見た。さやかは二人の話を聞いている。自分のビデオのことを言われるのは実は相当苦手である。仕事をしている僅かな時間を除くと、恥じらいの感覚はごく通常の女性と同様、というよりむしろ通常の女性よりも高いくらいであった。そうなると自分のあられもない姿がVTRに納められ販売されていることは、本来は我慢のならないことであった。なら何故するのか。
「自宅から持ってくるか?」
「そのビデオであることが大事なのか、それともさやかのビデオであることが大事なのか?どっちだ」
「どっちだろうな」
「それを確かめる意味で、とりあえず僕の近所のツタヤで新しく借りてこよう。せっかくだからさやかに借りてきてもらおうか。」
正助は自分が何故こんなことを言ったのか、言った後でよくわからなくなり、急に恥ずかしくなった。正助は決してデリカシーのない性格ではない。またガリ勉ではあったが、異性との交際経験もそれなりに重ねている。この点、現実の異性とのコミュニケーションにコンプレックスのある健文とは違う。
「いやだ。」
さやかは低い声でぽつりと言った。正助はたいしたつもりで言ってもいない自分の言葉をあっさりと切り捨てられたことで少々傷ついた。自分は相手がそういった仕事をしている人間だから、少々見下しているのかもしれない、という思いが一瞬よぎった。ふるふる、と意識を正す。
「とにかく、ビデオだな」
「両方用意しよう。おれはさやかと自宅から持ってくるよ。お前はビデオ屋でさやかのDVDを借りて来い。」
第3時+50分
再び自室、時計の音は相変わらず鳴り続けている。ごろごろとした部屋の中央に健文のPCは転がっていた。モニターが割れているが、壊れてはいないだろう。試しに電源をつけてみる。ばちばちという音が鳴ったが、PCは順調に起動した。例のダイアログはいなかった。イジェクトボタンを押し、DVDを取り出す。
気まぐれで健文は再びそのDVDを挿入し、画面にそのビデオを再生した。後ろから背中ごしにさやかが画面を覗き込んでいたことが、何となく気になったからだった。さやかの肢体が再び画面にあふれ出した。健文にとっては何度となく見た姿である。またいつかは、現の裸体が目の前に現れ、それを抱きとめてもいた。だが、今の状態でも健文は、ややさやかに対して不満があった。それはまるで作り物のようである。
じっと画面にうつる淫らな姿を、二人は息をひそめて観察した。普段は野猿のように豪快に気分を荒立てる健文が、何故か微動だにせず、じっと映像の動きを見た。さやかは健文の背中ごしに、何も言わず、ただそれを見た。秒針のカチコチ音の隙間に延々と画面の中のさやかのあえぎ声が響いていた。
部屋に充満していた時計の、ある一つの目覚し時計が、ベルを鳴らし始めた(セットはしていない)その他のいくつかの目覚し時計も、ほぼ同時にベルを鳴らした。部屋の騒音はいよいよ苛立ちを覚えるほどになり、健文は勢いよく立ち上がると、振り返りさやかの顔面を全力で殴りつけた。
さやかは悲鳴をあげ、思い切り飛ばされて壁に叩き付けられた。健文はそれを追いかけ、さやかの上にまたがり、両の頬を何度も繰り返し、平手で打ち始めた。何度も何度も。
PCのモニターに映る女体のあえぎ声、秒針の音と、ベルの音、そして人の頬が平手で打たれるときの、びしびしと低く乾いた音が延々と部屋に響き続けた。これがタイムトラベルなのか?健文は何故そんなことを始めたのか、説明する気はなかった。説明するまでもなく、説明できないからである。
ようやくさやかは、抵抗することを思い出し、健文の手首をつかんだ。しかし彼女の握力では健文の小柄な身体でさえも制することはできなかった。彼女は今起こるべきことを直感し、自らそのはちきれそうな上下の衣服を破り取り始めた。気づくのが遅かった。彼は自分が求めていることを自分で理解することが下手なのだ。
ほどなく激しい性行為らしきものが始まった。彼は生身の人間としたことはない。さやかはいくらでもあるが、襲い掛かってくるそれは、職業的に手荒な真似をしてくるいつもの男子とは比較にならない、真の恐怖を帯びたものであった。何しろ、本人にも自分がどうなるのかわかっていない。健文は気分が動転するごとに、わけもわからずにさやかを殴りつけた。既に唇が破れ、出血している。近くにあった時計の一つを取り、投げつけた。ゴツンと鈍い音が鳴り、意識がくらりとする。どうにか接合に成功するころには彼女はあざだらけになっていた。その後の二人の姿は、後出しじゃんけんをしながら、片足でタイピングをするボスザルの尿便芸のように、奇天烈で、滑稽極まるものである。したがって、この場に公開することは控えるべきだろう。ゆっくり穏やかに、眠っていただきたいものである。大変な時間旅行を終えてどうにか目覚しのベルが鳴り止む頃までに、一通りのことを済ませることができた。
第4時+50分
九頭竜五十輔(ごじゅうのすけ)は変質者である。彼はいつも黒いスーツに白のネクタイをしている。ただし下半身は何もしていない。いわゆる「フル×ンネクタイ」の姿で、季節に構わず辛子色のコートを羽織っている。彼は地下鉄のホームを歩くのが好きである。ホームレスとして、複雑な構内を練り歩くのが趣味といえば趣味だ。何より、残飯を漁る時はとても楽しい。一般的に、彼らは社会から落伍したものだと思われているが、少なくとも五十輔にとって今の生活は限りなく自らの欲望に忠実に世界を実現して見せた成果の世界である。
彼の最も楽しい時間は朝の通勤時間、彼はあらゆる時間帯において、どの駅のどのホームがどの程度混み合うかについてはおよそ把握している(毎日の繰り返しによって自然に記憶する程度に)意志を持って歩かなければ呑み込まれてしまう(安全壁が無ければ転落の危険もある)程の、混雑の時間が具合がよろしい。彼のターゲットはそれほど若くはない。当初は若い人間にも興味を示したが、自分がいかなる工夫を凝らしたところで相手の反応するところが「素朴な嫌悪感と拒否感」でしかないことが味気ないと思うようになった。彼が夢中になっているのは成人として柔軟に社会を過ごしてある程度の年齢も重ね、何段階かの異性との接触も交えることで、そのものの存在することは自らの内外において十分に承知してはいるものの、かといって中年期に差し掛かることで開けてしまう、自らの諦念を含んだ性への快活さ、という程には自らを確認できていない、そのような“事実への戸惑い”を見せる年代であった。人ごみに紛れ込み、彼はその場限りの出来事として、明らかに他者が一瞬認識できる状況で、自らの辛子色の本性を露呈させる。その一瞬の、他者の脳裏に確実に焼きつくはずである奇妙な印象を、そのままの形で留め(あるいは一生の思いとして)封鎖していくことが彼の本懐である。
今日の仕事をやり終えた彼は、残りの午前の時間を、その相手のその後にたち現れるであろう世界の不愉快な変化に夢想することに費やした。今日もいい仕事ができた、と感じる。空腹感を覚えたため、食事を探しにいくことにした。
第4時+51分
正助は長い駅の廊下を全力で走り続けていた。彼はこの状況において初めて、自ら経験したことのない危機感を感じていた。正助は聡明な性格であったから、誰もが思いつく限りの初等的な哲学的迷いのようなものに対しては一通りの解答を作成していた(健文にはそれがない)したがって、自らの死については「それは、考えないことによって解決する」という程度の思いで、安心することができた(それで安心できないものもいるらしい)だが、彼が物理的に遭遇した「迫ってくる自らの死」は「考えないことによって解決する」ほど生易しいものではなかったようだ。
(もしかしたら自分は消されるかもしれない)
疾走の中で彼の脳裏には、そのような漠然としたイメージが散り散りの言葉となって駆け巡っていた。この危機を自分は、どのように脱出すればいいだろう。
第4時+51分-60分
先ほどの会合以後、彼は健文との約束通り、さやかのDVDを買いにレンタルビデオショップへ向かった。「何故さやかに買わせようとしたのか」については考えることを忘れていた。成人コーナーへ迷わず入り(普段は若干の戸惑いを見せるが、目的を持っていることが彼の行動を正当化させていた)ビデオを選んだ。正助はふとビデオを手にとりパッケージを眺めたところで、その正当化された行動を若干硬直させた。
(こんなとき、自分が持ち帰る一枚は、どんなものであったらいいのだろう…?)
あまり気にすることはないかもしれない。所詮相手は健文だし、もう一人は出演しているさやか本人だ。それに今回は、観賞することが目的ではない、健文の引き起こした謎の現象や、謎のダイアログの正体に迫るために購入するのみである。とはいえ、ふと彼の手にとった一枚は、あまり素直に持ち帰りたくない演出の凝らされているものだった。
(さすがにこれはなぁ…)
何を考えているんだと、若干窮屈な気持ちが起こりかけてきたところ、正助は背後に何かふわっとしたものがそっと寄り添ってくるような、気持ち悪い気配を感じた。振り向いて確認しようと思ったが、見ることが若干恐ろしい。若干ではなく、それはとても恐ろしかった。正助は健文のような天才の能力を持っているわけではない、間違いなく凡庸な人間であったから、感覚だけで背後の状況を即断することは難しかったが、それでも凡庸な存在が凡庸に持ち合わせる程度の直感により、自らが今から全力で走り出さなければ、自らの生命維持は著しく困難な状況になるであろう(なるのではないか?)という類の感覚を抱くことができた。
正助が走り出すために運動機能を働かせ始める瞬間とほぼ同時に、パカンという音が無数に連鎖した。彼の存在していたレンタルビデオショップの、成人コーナーに置かれていた空のジャケットの全てが同時に開いたのだった。彼はさやかのビデオのパッケージを手に持ったまま、出口に飛び出していった。
沢山の時計のチクタク音が無数に鳴り響く中で、健文は脱臼した肩を無理矢理筋肉で引きずるように動かし、ハンマーを叩き続けていた。彼は激しく動揺し、混乱もしていた。おそらく今死んでいる死者を今すぐに蘇らせるclock-draw-diningの“コード(彼が何となくそう呼び出した)”は彼の今の検索によれば見つからなかった。先ほどの無謀な異性への暴力行為の果てに、彼は何をしてしまったか。
さやかは見る影もない姿で(つまり、全身は晴れ上がり、出血し、明らかに関節がおかしな方向に歪んでいる)彼の観察する限り、絶命していた。いつの段階でさやかがそのような状態になったのか、わからなかった。ただ途中から、何の声も漏らさなくなった。健文はそのことでより不安を高め、より危険な行為を行った。そのことによって人体がどのような状態になるのか、について彼はその時間において、理解しなかった。
ハンマーを叩く腕が折れ、力が入らなくなり、彼はそれを手元から落とした。体の激痛を思い出し、その場に蹲った。
正助は恐怖に駆られながら疾走を続けていた。自分は一体どれほど長い間、この廊下を走り続けているのだろうか?ひょっとしたら、無限の時間、この世界を走り続けているのかもしれない、それは単なる比喩ではなかった。彼は先ほど(とはいうものの、既に数億年単位の時間が流れたように感じる)の健文の話から、CLOCK-DRAW-DININGの行使による悪意の攻撃がどのような様相を見せるか、何となくの類推を行っていた。正助の漠然とした理解によればCLOCK-DRAW-DININGは時間を「超える」のではなく「揺らす」ことであると思われた。極単純なイメージにおいての「並行世界」が仮に実在するのであれば、その並行世界の間を「飛び越える」というよりは「接続する」ことであると彼は想像していた。彼が現在類推していることは、自らが悪意を持った第三者によって、自らの生命を脅かすための並行世界への接続が行われているのではないか、ということだった。
この場に健文がいれば、悪意の第三者の攻撃を回避するための“コード”がこの場に存在するかを問い(それはたとえば、階段の上がり方であるか、地下鉄の音であるかもしれない)妨害行為を行うことで危機を回避する、ということも考えられた(ただし、冷静に理解はしていない)彼がいない以上、正助はただ手探りで、現在の状況から脱出することを考え続けなければならなかった。しかし、その方法はない。
彼は長い駅の廊下を走り終えて、出口へと繋がる階段をかけあがった。
正助は恐怖に駆られながら疾走を続けていた。自分は一体どれほど長い間、この廊下を走り続けているのだろうか?ひょっとしたら、無限の時間、この世界を走り続けているのかもしれない、それは単なる比喩ではなかった。彼は先ほど(とはいうものの、既に数億年単位の時間が流れたように感じる)の健文の話から、CLOCK-DRAW-DININGを行使する悪意の第三者が自らに攻撃を仕掛けたらどのような様相を見せるか、漠然とした推理を行っていた。正助の曖昧な想像では、CLOCK-DRAW-DININGは時間を「戻す」ことはできないが「捻じ曲げる」ことは可能であると思われた。極単純なイメージにおいての「並行世界」が仮に実在するのであれば、その並行世界の間を「行き来する」ことはできないが「到着する」ことはできるように思われた。一体自分は、どこまで走り続けているのだろう。彼は自らが老人のような姿に変わっていることにも気づいていなかった。
この場に健文がいれば、悪意の第三者の攻撃を回避するための“コード”がこの場に存在するかを問い(それはたとえば、階段の上がり方であるか、地下鉄の音であるかもしれない)妨害行為を行うことで危機を回避する、ということも考えられた(ただし、冷静に理解はしていない)彼がいない以上、正助はただ手探りで、現在の状況から脱出することを考え続けなければならなかった。しかし、その方法はない。
彼は長い駅の廊下を走り終えて、出口へと繋がる階段をかけあがった。
第4時+51分-isin(0.3π)-isin(0.3π)-isin(0.1π)
彼の走り回る廊下には、さやかの顔面が敷き詰められていた。これほどの顔面を一体どのようにして集めたのだろうか。もとより、人の顔面は一つしかないはずである。何より、さやかは今健文と共に彼の自室にいるか、またはそこでの用事を済ませて今頃は(今頃は…?)彼の家に再び戻っていると思われた。
(今頃は…?)
(今は、一体どこにいるのだ…?)
正助は髪の毛の全てが抜け落ち、全身はさながら白骨に近く、贅肉を全て失っている。彼自身は走り回っている意識を保っていたが、物理的に観察すればその白骨はただ無数のさやかの顔面の上で、ガタガタと体を動かしているだけであった。正助は敗北したのだ。
(だが、ここで意識を失う自分は、今この時間で意識を失うということだ)
(今自分の把握していることを、あのビデオショップで逃げ出す前の自分が把握していたならば、もしかしたら自分は何かを変えているかもしれない)
彼の全身がバラバラになり、その場に散乱した。
第4時+51分-isin(0.3π)-isin(0.3π)-isin(0.2π)
正助は恐怖に駆られながら疾走を続けていた。彼の目指すところは自らが逃げ出した地点、レンタルビデオショップにたどり着くことであった。彼はおそらく実在感覚にして途方もない時間、謎の攻撃からの脱出を目指して走り続けていた。彼自身が把握するところではなかったが、おそらく何かを間違えることで、自らは完全に命を奪われていると、想像していた。そもそも「自分が攻撃されている」ということを理解した自分は、自分の存在する前後の時間に何人いただろう?中には、脱出した自分がいるのだろうか?それとも、そもそも脱出という発想が誤っているのか…?彼は駅の階段をかけあがり、出口を飛び出した。目の前には、レンタルビデオショップから飛び出す自分の姿があった。彼はとても怯えた顔をしている。あの自分は、一体いつの時点の自分なのだろうか…?思えば、あの時点が「最初」であったのか、よくわからなくなってきた。しかし、正助の「記憶」を経過した時間ごとにたどっていけば、始まりはレンタルビデオショップにあるはずだった。
(今の自分は、この時点において何をすればいいだろう?)
第5時
都内のある公衆便所の個室内にて、柳沢文子は人類存亡の危機に瀕していた。彼女は某大手建設会社の経理部に勤務していたが、類人猿と比較しても首をかしげるものがある程の(尤も彼女は類人猿について知らない)大変な肥満に悩まされていた(それは、たとえばさやかのように女性として好ましくない体型であるから自己実現可能な範囲で体重を調整しておきたい、という類の(よくあることである)若年性エロスに基づく心情ではなく、現実的に生命活動の維持に支障のある状況であり、定期的な検査と服薬による異常値の補正を要する程である)彼女はその不本意な体型故に公衆便所の個室内で自らの腰掛けていた便座を(再生不能な程に)破損するという深刻な失態を起こしてしまっていた。絶望的な心理状況の中、彼女は自らの失態を整理する。そもそも、彼女は今朝方から機嫌が悪かった。彼女は(昨今の流行に漏れず)インターネットに私生活の多くを費やしていたが、彼女が近頃熱心にやりとりをしている相手(それは、文字でのやり取り)が語る所の辻褄が合わなかったのである。彼女が想像するにその相手は筋骨隆々としたイケメン体質の童貞であり、繊細な性格であるが故に周囲と打ち解けることが出来ず、唯一心を開くことができる相手がインターネットを通じて知り合った文字だけの存在(つまり自分)ということであった。彼女は当然に(体型故に、という因果関係の確定は天体の運行上都合が悪いので差し控える)異性との交流は行っていない(また父親も含め男性の家族はいなかった)ため、男性というものについて基本的な情報は専ら書物によって仕入れていた(かなりの博学である)彼女は中学から高校にかけて(当然に、友人がいない)毎日のように男性の睾丸の解剖図を観察し、そのエキセントリックな形状に魅入った。そのような状態であったから、彼女の心象風景に描かれる未知の異性といえばその大部分が睾丸を占めている、という状況でもあった。彼女は朝食を取りながら、前の晩に文面上の彼の話していたことを一つ一つ思い出し、腹を立てていた。いつもは2杯しか飲まないコーヒーを3杯飲み、しかも牛乳まで飲んだのである。朝から文子は内心にフラストレーションを溜め込んでいた。
(だから、つい“強”にしてしまった。一度それをしないわけにはいかなかった。)
文子は日本の水洗便所にその不思議な機能が搭載されてから(しかし余りにも合理的で美しい)その最大出力が日常要するに値しない理想値(と思える)に設定されていることに素朴な疑問を抱いていた(似た様な機能を発する為のボタンが何故か2種類あることについては比較的早い段階で把握した)しかしその最大出力を行うことは自分のような生身の(しかも肉体的に強い方ではない)人間が行うには余りにもリスクが高いことのような気がしていた。だが、この“強”の正体をいつか知らないわけにはいかないだろう(何故ならそれは自ら行う以外に知る方法がないから)という予感も抱いていた。彼女にとってその未知を人類の共通知へと発展させるタイミングが、今だったのである。
(それでも、その代償は余りにも大きすぎた。)
(きっと、私のせいなんだ…。)
余りの水圧に文子は身を激しく揺さぶり、その後ベキベキっという音(それは通常想像するより大きい)を立て、それは破砕されてしまった。それが「人類存亡の危機」であるとはいかに大袈裟であろうか?彼女が考えることは、非常に論理的であった。朝自分が、2杯のコーヒーを3杯とし、さらに牛乳を飲んだことが、現在の目の前の便座の破壊へと接続したのであれば、それが人類の存亡に影響を与えることは、全く不思議なことではない(少なくとも彼女の論理においては、整合的である)
彼女は割れてしまった便座をそっと個室内の壁面に立てかけた。ふと見るとそこにネズミがいた。文子はネズミを見ることは初めてである。しかしよく見るとネズミはそこにいなかった。文子は便座の無くなった便器の上にそっと腰を下ろしてみた(これも実はやってみたかった)彼女ほどの体型故に、その尻は便器内に落ち込むことなく、むしろ安定したポジションで設置することができた。多少冷やりとした感触があったが、このまましばらく座っているべきだと彼女は考えた。バッグのファスナーを開け、一冊の横長の本を取り出した。それは図鑑のような体裁で表紙には「高次元鳥類の類態と可能的観察」と書かれている。
(なんとなく取り出したが、一体この本はなんだろう…?)
彼女は本を取り出してから、自分が何故さも当たり前の動作のように自分がバッグからこの本を出したのか(出そうと思ったのか)わからなくなった。そもそも、今朝から機嫌の悪かった自分は本をバッグに入れた記憶がない。と、いうより、そもそもこの本を(というより、本を)買った記憶が近頃では全くない。では、この本は一体何であろう。彼女は電車に乗った記憶も無かったから、誰かが知らない間に自分のバッグに入れた可能性も考えにくかった。
(…私は電車に乗らずに、どうしてここまで来たのだろう…?)
彼女が入っている公衆便所は職場のすぐ近くである。そこまで行く為には電車に乗る必要があった。電車に乗った記憶がないことは単に、あまりに機嫌が悪かったからその記憶が飛んでいるのか、それとも、今日は電車に乗っていないのか。彼女は何か背中にぞわっとしたものが迫るのを感じ、一瞬身体を硬直させた。それはすぐに収まった。膝に本を置き、2回瞬きをしてみた(意味はない)よく落ち着いてみると、便器の下から自分の尻にちょろ、ちょろと細いものが当たるのを感じた。この感触はなんであろう。文子ははっと気がついた。
(間違いない、これはネズミの尻尾だ。自分が一瞬だけ見かけて、その後すぐに見失ったさっきのネズミは、今私の腰掛ける便器の中にいる。そして、ちょろ、ちょろと私の尻に尻尾を当てているんだ。)
それは生理的に不快な出来事だったから、状況を回避しようと思った。しかし、上手く立ち上がることができない。気がつけば、どうも息をすることも難しい(ように感じる)これは一体なんだろう。いよいよ身体に致命的な異常が起こったのではないかと、今更不安になる。しかし、その不安は目を足下に下ろしたことで解消され、その後新しい不安へと意識が移動した。
目を下ろした先の彼女の足は、足首から下が無くなっていた。しかし、それは「切断された」ものではなく、痛みは全くない、ごく自然な形で(つまり、人間にはそもそも足首から下が無かったかのように)ただ無くなっている状態であった。とはいえ、先ほどまで存在していたはずの自分の足(足首からつま先まで)が無くなっていることは、強い不安を覚えないわけにはいかない。
(これも、私がこの個室で便座を壊したことがいけないのか…?)
第6時
健文は便座から自分の顔を取り出した。
「ぶはぁっ!」
鼻を突く過剰な硫黄の臭いに腸がむせ返る思いがする。自分は一体どこからこの世界に抜けてきたのだろう。結局さやかの命を再生するためのCLOCK-DRAW-DININGのコードは見つかりそうになかった。ただそれは、「検索に乗らない」のであって、存在しないとは思えなかった。存在しているものが直感によって見つけられないことは健文の世界にとって、とても珍しい。しまいには、便座に顔を突っ込んでしまったというわけだ。それほど必死にやっても、彼に新しいひらめきはなかった。
何度も言うように、彼は非常に頭の悪い人間であったから、状況を逐次的に理解することはできなかったが、おそらく自分のいる世界にさやかが再び現れることは、とても難しい。それはわかった。
便所の天井が抜け、地割れのような音を立て、正助が落ちてきた。
「正助!」
正助は、まるで目の前のものが誰か忘れてしまったように、ぼんやりとしていた。
「正助!大丈夫か?」
「ああ、お前、健文か。そうか、ということはここは、出口なんだな。でもお前は、何人目のお前だ?」
「?なに言ってるかわからないが、たぶんそうだ」
「ごめん。なんでもない。さやかは、どうした?」
健文の遺体の前で、さやかはうとうとと眠りそうになっていた。激しい性行為らしきもの、の過程で、どのようにして自身が彼に抵抗し、そして最終的に彼の命を奪ったのか、判然としない。それに彼女は非常に理解の遅い人間であったから、彼が命を失ったことも上手く飲み込めないでいた。どうも、目の前で昆虫が死んでいるように思えた。
それに、自分は今こうして生きているはずだが、一方で死んでいるようにも思えた。そして死んでいる目の前の健文は、一方で生きているようにも思う。そのように考えると目の前にある遺体は、人の遺体ではなく、死骸、下手をすると何かの物体に近い。ただそれでも、自分がこの先彼と会うことは二度とないかもしれないと、ゆっくり自分の心の中に今の新しい世界を落としこんでいる。
天井が抜けて、落雷のような激しい音を立てて、正助が落ちてきた。正助は激しい落下で身体を痛めている。
「なんだ、さやかちゃんじゃないか。一体君は、何人目のさやかちゃんなんだ?」
さやかは一言も発しなかった。今彼女は気がついたが、自分が言葉を話すことができなくなっている。
「それはいい。健文はどうしたんだ。」
第7時
記憶喪失の逆はなんであるか、と考えた。あるはずの記憶が出てこない。ただし情報はそこにある。ディスクにデータが書き込まれてはいるが、読み出しの部分に欠損がある。その逆とは…?
(つまり、ありもしない記憶が何故か、出てくるということ。情報はない。ディスクにデータが入っていないのに、出力すると出てくる。それは、謎のコピー機。原稿がないのに、文字が浮かぶ…)
文子はまだ便器の上にいた。ちょろちょろと尻に悪戯をするネズミの尻尾もまだ、そこにいた。そして足首から下は今もなかった。彼女の頭には今、本来自分にはないはずの記憶が、次々と溢れるように浮かび上がり続けていた。
たとえばそれは、顔面蒼白の青年が、夢中で何かから逃げ続けている。そのイメージが繰り返し映る一方で、裸の若い男女(それも、何故か見覚えだけがある)が、互いを血まみれになるほどに殴打し合いながら、次第に激しく睦びあっていく様子が、生々しく自らの脳裏に浮かび上がってくる。この記憶は自分には存在しない。夢ですら見ようがない、と思える。自分に本来入力されていなかった情報が、意識の段階になって突然、自分のものとして目の前に映りこんでくる。不思議な感覚である。
そもそも、ごく当たり前に存在していた、自分の足首から下が、ごく当たり前に存在しなかったように今存在せず、何の矛盾もないかのように物理現象が継続していることも、不思議だ。足元がなくなることよりも、足元がなくなっているにもかかわらず、自分は足元があったときの自分のことをよく覚えている。
(それなら、激痛を感じなければおかしい。)
第8時
精神病院の待合室で、彼女は奇声をあげた。あわてて傍についている弟が彼女をおさえる。
「お姉さん!落ち着いて!もう少しだから」
姉は息を整えた。1秒先に自分が何を考えているかわからない恐怖と、どのように向き合っていけばよいのか。
弟は姉によって繰り返し、恐怖を与えられている(と、弟は思い込んでいる)それは、二人が遭遇した自然の狂気であった。
医師に呼ばれるのは姉ではなく、弟の方である。彼女は治療を受けていない(’以前に少しだけ検査をしている)分類不能の障害をもつ姉を献身的に見守り、身辺の世話を続ける弟が自身の治癒を求めているのである。
医師の問いかけに弟は静かに答える。服薬はいつも通り、ただ姉の調子がいつもより悪いという。医師は弟に(踏み込みない程度の)柔らかな言葉を与え、その呪縛を僅かに解いた。
「姉は何かを予感しているようなのです。その度に、何かに憑かれたように叫び、暴れてしまいます。」
姉は弟の背中を叩き、女性が口にすることを憚るようなことを何か繰り返した。(弟はそれが一番心に効いているようである)
「単語です。具体的な」
「ほう?」
「時計、時間、小鳥、そして図書館を目指した方がいいと。我々は遅れているといっています。何だかわかりません。ただ、意味不明なことが多い中でもその言葉は繰り返し出てくるのです。私には未来が見えるのだと」
「小鳥と時計はわかる気がしますね。ハト時計であるとか。図書館には行ってみましたか?」
「いいえ、姉の言葉に付き合うことはありませんから。」
医師は、それが賢明かもしれないと言った。姉は壁に向かって逆立ちをしていた。スカートがめくれており、二人はきまづくなって目を泳がせた。
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最終更新:2025/12/10(水) 07:00
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