『アダムとアダム』 この記事は本格的・ガチムチでわかる旧約聖書である。ブラウザは Firefox を推奨。
創世記
はじめに空耳があった。空耳は視聴者によって書かれた。空耳は神であった。神はアダムとアダムを創造し、戯れさせた。神は二人の妖精たちに、妖精のための言語であるエノク語を教えた。アダムらは地球上にあるすべてのものの言葉を覚えた。準備が整い、神は次のようには仰られた。
「光あれ」
太陽と月が生じた。それらの天体により昼と夜が生じた。神は夜空に星屑をばらまき、夜にはそれらの星々が輝いた。昼には太陽が地を照らし、木が生え、森には森のクマさんが妖精とともに住んだ。その場所はエデンと呼ばれた。エノク語で妖精の地という意味である。
創世記 = ガチムチの始まりが記された書物
神 = 一番最初に空耳を書いた視聴者
戯れさせた = ガチムチをネタにした
エノク語 = 空耳
地球上にあるすべてのものに名前を付けた = 空耳を解読した
光あれ = MADを作ろう
太陽と月が生じた = MADが栄えた
エデンと呼ばれた = レスリングシリーズと呼ばれた
アダムとアダムの創造
「お前人のモノを...///」
神は言葉と地球を創った後、自らの姿に似せて塵を集めて人を作った。塵はヘブライ語でアダマー。そこから変化してアダムになった。そして神は「アダムが一人だとかわいそうだ」と慈悲を見せもう一人のアダムを創造した。神は第一のアダムの陰部の骨を抜き取り、そこから第二のアダムを創った。
エデンの園
![エデンの園 エデンの園]()
アダムとアダムは最初神と共にあったが、神はアダムとアダムにエデンの園を与え、そこに住むようにした。
そして神は
「この楽園に生るすべての実を食べなさい。そうしたならあなた方は永遠にエデンで生きることが出来る。しかし、園の中央にあるノンケの樹の実を食べてはいけない。そうしたらあなた方は死ぬことになる」
と言われた。
アダムとアダムはこれに了解し、仲睦まじく全裸で戯れた。これを見た神は
「まるで妖精がダンスをしているようだ」
といわれ、彼らを森の妖精と呼ぶようにした。
楽園追放
![秘密の花園編 秘密の花園編]()
ルシフェルがアダムらを堕落させるために蛇を遣わした。アダムらは誘惑に負けノンケの実を食べてしまった。神は言われた。
「汝らはだらしない。パンツを与えるからエデンから出よ」
ノンケの実を食べたことにより第二のアダムはバイになり、イヴと結婚し、その子孫が地に満ちていった。第一のアダムと第二のアダムはたまにエデンを思い出し妖精のように遊んだという。ここから人類の歴史が幕をあけ、多くの人間たちの物語が繰り広げられていった。
旧約聖書
本記事では三九冊ある旧約聖書のすべてを解説する。
![大百科で使用10 大百科で使用10]()
- 創世記
- 出エジプト記
- レビ記
- 民数記
- 申命記(1〜5がモーセ五書)
- ヨシュア記
- 士師記
- ルツ記
- サムエル記 上
- サムエル記 下
- 列王記 上
- 列王記 下
- 歴代誌 上
- 歴代誌 下
- エズラ記
- ネヘミヤ記
- エステル記(6〜17が歴史書)
- ヨブ記
- 詩編
- 箴言
- コヘレトの言葉
- 雅歌(18〜22が知恵文学)
- イザヤ書
- エレミヤ書
- 哀歌
- エゼキエル書
- ダニエル書(23〜27が大預言者)
- ホセア書
- ヨエル書
- アモス書
- オバデヤ書
- ヨナ書
- ミカ書
- ナホム書
- ハバクク書
- ゼファニヤ書
- ハガイ書
- ゼカリヤ書
- マラキ書(28〜39が十二小預言書)
旧約聖書はモーセ五書、歴史書、知恵文学、大預言者、十二小預言書という五グループに大別される。
この記事の作者です。解説を担当します。
カインとアベル
![ca ca]()
※レスリングをするカインとアベル
イヴはゲイパレス追放後にカインとアベルを産んだ。カインは農耕を行い、アベルは羊を放牧するようになった。ニ人は収穫物を赤さんに捧げた。カインは収穫物を、アベルは羊を捧げたが、赤さんはアベルの供物に目を留めカインの供物は無視した。
あぁん?なんで?とカインは激怒し、野原にアベルを誘い
「現世から出て行けぇ!ぎゅううぅ───ジャンケンポンッ!」と言い首を絞めた。
「はぁ、はぁ・・・・イッた・・・」と言いながらアベルは死んだ。
「結構すぐ魂が抜けるんだね、仕方ないね」
赤さんがアベルは何処かと質問した。カインは
「あわわ...知りません。羊に乗って新日暮里にでも行ったのではないか」
と言った。これが人間が犯した最初の殺人と嘘である。だが大地に流された血は無言で赤さんに真実を告げていた。
赤さん次のように仰られた。
「お前は呪われるものとなった。もはや土はお前のために作物を生むことはない」
カインは誰とも出会うことなくエデンの東にあるノドという地に追放され、体育座りをした。
野薔薇ひろしは空耳で「リンゴ一緒に食べよう、な?」と言った。だがその言葉でビオランテを油断させ襲いかかった。その蛇の如き狡猾さはアベルを騙したカインを連想する。そしてアベルを野原に誘った。野原と野薔薇、リンゴ、罪──。彼の存在そのものが人類に背負わされた罪を象徴しているのかも知れない。
なおカインの子孫がエノク、El Shaddaiでいうイーノックである。彼はノアの方舟と関係がある。
ノアの方舟
※リヴァイアサン
エデンから離れて何代かを経て人々はだらしなくなった。赤さんは人間を創ったことを後悔した。
「すべての肉なるものを一掃する。私は地もろとも彼らを滅ぼす」
と赤さんは言われた。
赤さんは地上にただ一組、救う価値のある男性、すなわち兄貴とカズヤを見出した。赤さんは天使ウリエルを派遣し、兄貴達に舟を作る方法を伝授した。
方舟に乗せたのは、エジプトにいる彼の妹、兄貴の弟、吾作、城之内悠二、半漁人と鳥を七組乗せた。純粋なホモの歴史をもう一度白紙から始めようとした。カインが六〇〇歳になった年、アダムの創造から一六五六年後、赤さんは大洪水を起こした。洪水は四十日間続いた。兄貴とカズヤは方舟に乗り遅れたが、そんな中でも水中で平然とレスリングに励んだ。これがガチムチパンツレスリング水中編である。
地球が混沌としたので赤さんは水を下に、空間を上に配置した。そしてできた上の空間を空と呼び、下の空間を海と呼んだ。 兄貴はごめんなちゃ〜いと赤さんに謝り、赤さんは水中でもレスリングする兄貴達の力強さを評価した。
赤さんはノンケの存在を許し、新しい法の下で地上に繁殖するよう指示される。新しい法とは、ノンケがガチホモを軽蔑せずに共存するというものである。 赤さんはこの契約の印を空に掲げそれは「虹」と呼ばれた。そして虹は平和の象徴となった。
バベルの塔
※ニムロデ「何だこのでっかいモノ」
もともと人々は一つ同じ言葉、即ち赤さんから授けられ、エデンで話された妖精言語・エノク語で話していた。シンアルの野に集まった人々はレンガとアスファルトを用いて天界のゲイパレスに行こうと企てていた。巨大な棒が立っているのを見て名誉を得ようとしていたのでもある。そして民族が世界に散るのを免れようと考えた。というのも偽典のヨベル書によれば、神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた。
赤さんはこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにした。このため彼らは混乱し、ヨベル書の預言通り世界各地へ散っていった。そしてエノク語は書物として残せず、話者はいなくなり、永遠の謎に包まれてしまったのである。ゆえに空耳ははっきりとは聞こえないのだ。ユダヤ教の伝承で、ノアの子孫ニムロデは赤さんに挑むべく、塔の上に登り巨大なナウい何かを天にかざしたという。それが赤さんの怒りを被ったのだ。
ソドムとゴモラ
※火と硫黄が降り注ぐソドムとゴモラ
赤さんはソドムとゴモラはスケベなことをしているので滅ぼすとアブラハムに告げた。アブラハムは
「イスラエルのゲイパレスに正しい者が五十人いるかもしれないので滅ぼす必要はない」
と言った。
それに対し赤さんは、ノンケが最低五十人いたら赦すと言った。そこでアブラハムは正しい者が四五人しかいないかもしれない、もしかしたら四十人しかいない、三十人、二十人と、正しい者が少なくても赦すように赤さんと交渉をした。
「どんどん話がそれている、汝はまことにだらしがない」
と言い赤さんは天からの炎と硫黄によって、ソドムとゴモラを滅ぼした。
マルセル・プルースト著『失われた時を求めて』ではソドムの男という言葉は男色を意味します。ソドムとゴモラのエピソードからホモの文化が始まりました。
ヤコブ
![Israeli-flag Israeli-flag]()
※イスラエル国旗。中央の星はダビデの星という。
アブラハムはイサクを授かり、イサクはヤコブを授かった。ヤコブは次のような夢を見た。天から赤さんが降りてきて、ヤコブに言った。
「この土地をあなたに与える。あなたの子孫は大地の砂粒より多くなる。あなたの子孫はすべて祝福を受ける」
ヤコブは目覚めた。
「この場所はきっと天の門だ。妖精が私とともにおられ、私に旅路、衣服、食べ物を与え、父の家に帰らせてくださる。あなたが私に与えてくださる物の十分の一をあなたに捧げます」
これが十分の一の献金の始まりである。
ヤコブは、赤さんに贈り物をした。山羊二百匹、羊二百匹、駱駝二百匹、驢馬二百匹。ヤコブはギレアドの山で天使とレスリングをした。これが人類初のレスリングである。
そこへ赤さんが現れた。
「あなたはヤコブではなくイスラエルと呼ばれる。あなたは優れたレスリングをするからだ」
赤さんは初子のような無垢な顔をしていた。その場所をペヌエル(赤さんの顔)と名付けた。その場所は現在のイスラエルとなり、イスラエルはレスリングの聖地となった。
ヨセフの夢
![ワークアウト編 ワークアウト編]()
ヨセフはカナン地方で筋トレしていた。カナンとは地中海、ヨルダン川、死海に囲まれた地域。そこで兄貴が来て一緒にトレーニングをした。石を5回、6回と持ち上げるうちに兄貴は苦痛を覚えた。
「お、重い」
「いかん、危ない危ない」とヨセフは石を支えた。兄貴は
「あなたは他人を思いやる優しさに満ち溢れている。いずれ地上に降誕し人々を救う者になるだろう」と仰られた。
ヨセフは褒められてうっかり妄想した。カズヤは夢の中でパンツ一丁だった。そこでふと目覚め兄貴からお叱りを受けた。
「妄想はもうよい。ところでカナンはもう秋である」
出エジプト記
![大百科で使用11 大百科で使用11]()
※古代イスラエルの指導者・モーセ
エジプト人はイスラエル人が増えたので自国が征服されるのではないかと懸念していた。エジプト王ファラオは生まれたイスラエル人をナイル川に放り込めと命じた。
そんな中、イスラエルにレビ族ミディアン人のモーセが生まれた。モーセは成長し、虐げられていたユダヤ人を引き連れエジプトから逃げようとした。エジプトのファラオに捕まったが十の災いを起こし、ファラオから逃げた。
- 血の災い
- 蛙の災い
- ぶよの災い
- あぶの災い
- 性病の災い
- 兄貴の怪力によって吾作のパンツが破られる災い
- 雹の災い
- いなごの災い
- 暗闇の災い
- エジプト中の赤さんが死ぬ災い
大勢のエジプト人が行く手を遮った。モーセは命じた。
「尻よ、割れろ」
その瞬間、全人類の尻が割れた。イスラエル人は妖精の大いなる御業を知った。これは割礼と呼ばれた。
モーセは腹が減ったので神に食べ物をくれるよう願った。空からあんかけチャーハンが降ってきた。これはマナと呼ばれた。イスラエル人は安住の地を見つけるまで四十年間このマナを食べた。ホレブの岩を打つとそこから水があふれた。
モーセはシナイ山、別名ホレブ山で赤さんから十戒を授かり、石版に記した。
I 動画を乱してはならない
II タグを消してはならない
III 妖精哲学の三信を実践せよ
IV 新日暮里はエルサレムである
V 最近どうなん? と聞かれても返事をしてはならない
VI ノンケを迫害してはならない
VII 最強トンガリコーンとあんかけチャーハンを聖餐とせよ
VIII 放尿後に出る残尿でパンツを汚してはならない
IX 安息日(メンテナンス中)には休むべし
X 人が重いダンベルに潰されそうになっている時には助けよ
モーセの兄弟、アロンが黄金の牛を偶像として崇めていたのでモーセは叱った。
赤さんもアベルに
「最近だらしねぇな」
と叱った。そんなことをしていると新日暮里が破壊されてしまうぞと赤さんは言われた。
モーセは神に言った。
「私はあなたをどう呼べばいいか」
神は言った。
「我が名は"わたしは在る"である」
ヘブル語では"わたしは在る"のことをYHVH(ヤハウェ)という。婉曲表現としてアドナイを使う。この記事ではヤハウェ=赤さんである。兄貴の股間に在る者だからである。
レビ記
![牛だ!モーモー 牛だ!モーモー]()
※ヤハウェへの供物
赤さんはモーセを呼びこう言われた。
「あなたがたは家畜の捧げ物を私に捧げるときは、牛か羊を捧げなさい。捧げる者は獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば私に与えられ、彼の贖いとなる。彼は私の前でその子牛を屠り、祭司たちはその血を祭壇の周囲に注ぐべし」
続けて赤さんは言われた。
「もしタグを消し、ガチムチパンツレスリング動画に罪を犯してしまったときは、その贖いとしてTDNコスギが運営するコンビニエンスストア、FUCK99でウェブマネーを買いドワンゴに捧げ、罪を償わなければならない」
民数記
※淫蕩に耽り、モーセの言葉を聞かないイスラエル人
イスラエルの民は北上してホル山という名のスケベな山でアロンが死んだ。そこは神が赤さんと約束した地であった。イスラエルは赤さんにお願いしたが聞かなかった。
イスラエルの民はこんな過去があった。赤さんは、彼らがだらしないのでイスラエルたちを荒野でさまよわせてこらしめた。なぜならイスラエルの民はカナン人と戦っており、勝機を見計らっていた。モーセは上へ行くなと警告したがイスラエルの民は上へ行き、カナン人と出会ってしまった。
イスラエルの民は今回もだらしなかったので赤さんの御心に適わなかった。
申命記
![申命記 申命記]()
※モーセの後継者ヨシュア
モーセはエジプトからの旅の途中、赤さんの存在が真実であると確信した。モーセは神から与えられた十戒を民衆に教え、赤さんの怒りを被らないようにと警告した。モーセは一二〇歳で死んだ。イスラエルの民はモーセの死を非常に悲しんだ。ヨシュアが彼らの新しい指導者になった。
実はヨシュアは空耳を解読するために赤さんが選んだ人だった。彼は後にガチムチパンツレスリングの空耳を解読する人間に生まれ変わる人物であった。
以上の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記がモーセ五書、別名トーラーです
ヨシュア記
ヨシュア「カナン人は出て行けぇ!」
ヨシュアがイスラエル人を率いてカナン人を制圧し、ナイル川からユーフラテス川を征服していく記録。モーセの兄アロンの子が書いた。民数記、申命記によればモーセはヨルダン川を渡ることは許されなかったが、モーセの死後、赤さんはヨシュアにヨルダン川を渡るように命令する。
ヨシュアは十戒が入った契約の箱を持ちヨルダン川を渡る。カナン人はヨシュアを滅ぼそうとする。ヨシュアはモーセに下された十戒をイスラエルの民の前で朗読する。赤さんはヨシュアをモーセの後継者として認め、その証拠に太陽を静止させた。
赤さんはイスラエルにガチムチな肉体を与え、敵対するカナン人を攻撃させた。カナン人の王は一人も残さず殺し、息あるものは一人もいなかった。その理由は神がヨシュアにガチムチな肉体を与えたためであった。
士師記
![ギデオン ギデオン]()
※ギデオンVSペヌエル人
この時代英雄は代々「士師」(しし)と呼ばれた。ある士師のもとに妖精が現れ
「カナン人は罠になる」
と空耳を告げた。
ミディアン人、アマレク人たちが略奪を繰り返していた。そんな所に赤さんが現れギデオンを士師に任命した。ギデオンはバアルを壊した。バアルとはカナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神のことである。ギデオンはそこに赤さんの神殿を築き犠牲を捧げる。
略奪者ミディアン人、アマレク人が集結した、ギデオンが角笛を吹くと敵は同士討ちを始めた。だが、ミディアン人はとても多かった。
ギデオンと三〇〇人の兵は下のヤコブの項目で説明するペヌエルであんかけチャーハンをねだるが、嘲笑された。だが、あんかけチャーハンを与えぬペヌエル人に対し赤さんはお怒りになりペヌエル人を滅ぼし、ギデオンは勝利した。ペヌエルは赤さんの名によって建てられた、レスリング発祥の神聖な町なのだ。
ルツ記
※ルツ
古代イスラエルの死海の東岸、現在のヨルダンにあるモアブという町に住んでいる女性ルツの物語。これは旧約聖書中最も短い書である。士師記の時代、ルツは畑で落穂を拾っていた。ルツは結婚し子を授かるが、その子はダビデの祖父となる人物である。
サムエル記 上
※ダビデ像。預言者サムエルはエッサイの子ダビデを王に任命した。
サウルはまだイスラエルの王ではなかった時代。サウルの師匠たるサムエルは士師である。イスラエル人はクレタ島から上がってきたペリシテ人との抗争で劣勢になり、存亡の危機に陥っていた。赤さんの空耳を聴いたサムエルは指導力を発揮し、イスラエルを団結させ、高度な文明を持っていたペリシテ人を打ち破り領土から追い払うことに成功した。
サムエルは高齢になり、王位を息子に譲ろうとしたが、その息子はだらしない士師だった。代わりにイスラエルの王を探した。サムエルは裕福な家の生まれでいい男のサウルを見出した。サムエルはサウルに油を塗った。メシアとは油を塗られた者という意味である。サウルは空耳を解読する者たちと出会い、自らも空耳を解読する者となった。
アンモン人は目を抉るという風習があった。サウルは牛を捌き
「そんなことをするとお前らもこうなる」
と脅しアンモン人を退却させた。この功績によってサウルはイスラエル史上初の赤さんを絶対視する王になったのであった。
預言者を空耳解読者、神をに置き換えましたが、
サムエル記 下
※ダビデに嫉妬するサウル
サウルはサムエルを寵愛していた。だが、サウルが神の命令に背いたためサムエルは軽蔑した。サウルはサムエルの次にダビデを寵愛していたが、ダビデはゴリアテを倒し有名になり、彼の人気者ぶりに嫉妬した。
ダビデ
概要:二代目イスラエル王
誕生:紀元前1040年 ベツレヘム
死去:紀元前961年 エルサレム
父:エッサイ
子:ソロモン
![aniki aniki]()
※ミケランジェロ作『ダビデ像』(伊・フィレンツェ美術館収蔵)
裸の彫刻で有名なダビデはイスラエル史上最大の繁栄をもたらした。その優れた肉体と勇敢な行動はすべての男の理想である。
サウルはダビデを褒めた。
「このベツレヘム人、エッサイの息子はケツドラムを巧みに奏で、勇敢な戦士であり、レスリングを心得ており、分別があり、Hで目がビジネスマンである」
ダビデはパン、驢馬、葡萄酒、山羊をサウルに捧げた。ダビデはサウルの心に適った。
巨大なペリシテ人の戦士、ゴリアテが現れた。
「あなたが勝てば我々を奴隷にしてよい。ただし負ければあなたを奴隷とする」
イスラエル軍は恐れおののいた。サウルは言った
「彼にダビデが勝てるだろうか」
ダビデは言った
「私はデビルレイクの怪物を打ち倒したことがあります。熊であれ、獅子であれ勝てます」
サウルは鎧を与えたが、ダビデは全裸で戦いに行った。かのスパルタ軍もそのようにしてペルシア軍と戦ったのである。これが後に全裸騎士団となる。
ダビデは石をゴリアテに投げ、ゴリアテは倒れた。ダビデは剣を奪いゴリアテの首をもぎ取った。
「お前人のものを...」(斬首されたゴリアテの首)
旧約聖書において最も有名なエピソードですね
列王記 上
※ミケランジェロ作『ダビデ像』
ソロモンはダビデの後継者になった。ソロモンの兄アドニアは自分が王になろうと躍起になった。ダビデはソロモンが王であるという布告をしていなかった。国民はソロモンが王であると是認し、アドニアは焦って命乞いをした。
ダビデは老い「死は万人の逃れぬ運命である」と悟り、遺言を残した。ソロモンは神殿を建設した。イスラエルには木材がないので北の国から持ってきた。
ソロモン王の統治によってイスラエルは繁栄した。英雄色を好むと言うが、ソロモンも例にもれなかった。アラビアのシバの女王をはじめとし、外国の王女が多かった。スケベなソロモンに対し民衆の支持が低迷してきた。ソロモンの息子レハベアム王の収める国では神殿男娼があふれるだらしない事態になった。
イスラエルが分裂してできたユダ王国の王、ヤラベアムはダビデ家を攻撃した。
ユダ王国からユダヤ人が生まれました
列王紀 下
![目がビジネスマーン 目がビジネスマーン]()
※預言を聞くエリヤ
エリヤは旧約聖書を代表する預言者である。エリヤは雨のない王国に行った。イゼベルは預言者を集めて祈らせたところ、エリヤのみが奇跡をなしたので、イゼベルは他の預言者を殺した。
エリヤは逃げホレブ山に身を隠した。ホレブ山で赤さんの空耳を聞いた。それによるとエリシャが自分の後継者になるという。ホレブ山を出たエリヤはエリシャを後継者にした。
アハブはぶどうを欲しがり、イゼベルは不当に殺害した。エリヤはお前の家が滅びると預言した。ふと風が吹きエリヤは空に昇った。彼の後継者エリシャはヘリオスの馬車のようなものに乗り天に舞い上がった。
(...どういうことなの)
歴代誌 上
![Goliath Goliath]()
※ゴリアテの首の上に手を置くダビデ
ダビデは本拠地をヘブロンからエルサレムに遷した。中央聖所も同じ所に移した。契約の箱もエルサレムに移したが、前途多難だった。契約の箱は牛車に積んで運ばれたが牛がよろめいて御者が死んだ。なのでその近くの家に泊まった。
契約の箱はあちこちに移ったがそれでは政治的に問題があるということでエルサレムに固定することにした。契約の箱はダビデのゲイパレス神殿に運ばれ、燔祭(はんさい)と和解の捧げ物がささげられた。燔祭とはノンケを祭壇で焼き、神に捧げる儀式のこと。
列王記ではソロモンがゲイパレス神殿を建設していて、歴代誌ではダビデが建築した。列王記時代はダビデ王は戦いの最中であり、神殿建設どころではなかった。ダビデの町は要塞化された。
全イスラエルに使いを送り「エルサレムで過越祭をする」と呼びかけた。レビ人はあんかけチャーハンを作る方法を熟知していたとは思えないのであんかけチャーハンは赤さんによりもたらされるものだと考えるのが妥当である。
歴代誌 下
![エルサレム エルサレム]()
※ゲイパレス神殿、通称エルサレム
ダビデの子ソロモンはすべての新日暮里市民、妖精の森の妖精たち、新日暮里消防署の人々を集め新日暮里の山に登った。あんかけチャーハンが入った箱と赤さんの像があった。赤さん像の祭壇にノンケを一万体燔祭として掲げた。その夜、天界におわします兄貴が現れて言われた。
「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」
ソロモンは兄貴に答えた。
「あなたは父ダビデに豊かな慈しみをお示しになり、父に代わる後のゲイパレスの王として私をお立てになりました。永遠の父たる兄貴よ、あなたはダビデになさった地上にゲイパレスを建築するという約束を今こそ実現し、地に生える草のように多い新日暮里市民たちを治めるべくして立てられたこの私めに賢者の知恵と空耳を授け、新日暮里市民をよく導けるようにして下さい」
兄貴はソロモンに言われた。
「あなたは富も名誉も、ノンケの滅亡も求めず、天からの嗣業(しぎょう)たる新日暮里の繁栄を願った。ならば私は新日暮里にゲイパレスを与えよう。あなたのような王はかつていた試しがなく、これからもいないであろう」
嗣業とは造語。聖書の翻訳者は嗣業を地位や富の継承のことと定義しているが、原文ではただの「宝」である。嗣業=宝と脳内で変換しよう。
※新日暮里の代表的な食べ物「あんかけチャーハン」
ソロモンは新日暮里老舗海苔店「カズ屋」の店長、空耳解読者、デビルレイクバーマに住む住民、(有)ツヨシ工業の社員を集め新日暮里に配置した。ソロモンは銀と金を石のように、レバノン杉を新日暮里の歩道に植えた。ソロモンが乗る馬はエジプトから輸入した。ソロモンはエジプトでパンツを購入した。
ソロモンは兄貴の御名のためにゲイパレス神殿を建築するようにカズヤたちに命じた。ソロモンはカズヤに対してゲイパレスについて説明した。
「私は永遠の父たる兄貴の御名のためにゲイパレス神殿を建て、その前でレスリングを捧げ物としてささげ、その御前に絶えず最強トンガリコーンとあんかけチャーハンを供え、朝昼夕ごとに動画にタグを付ける。メンテナンス中たる安息日には休みということが、とこしえに新日暮里において守られるようにしたいと思います。私が建てようとしているゲイパレス神殿は大いなるものです。兄貴が発する空耳は大いなるものだからです。ですから、ゲイパレス神殿建築を手伝って下さい」
続けて
「質の良いマルチ☆ゲイ☆パンツを作る熟練した新日暮里市民、または彫刻を造れる者をこちらに送ってください。レバノン杉、糸杉、白檀の木材を送ってください。送ってくれた方には小麦、大麦、ぶどう酒、オリーブ油を送りましょう」
※ゲイパレス神殿の食べ物
(有)ツヨシ工業の代表取締役TDNコスギはゲイパレス神殿建築と聞いてソロモンと話した。
「天と地ををお創りになられた赤さんの子たる兄貴が讃えられますように。兄貴はあなたの父たるダビデに懸命で聡明な洞察力のある子をお与えになり、その子が兄貴の御名と新日暮里のとこしえなる栄光のためにゲイパレス神殿を建てようとしている。私は我が社の優秀な社員くりぃむしちゅー池田を贈ろう。彼はどんなパンツも、彫刻も作る能力がある。彼がダビデの子の計画に力添えできるなら幸いです」
ソロモンはくりぃむしちゅー池田と新日暮里の山にゲイパレスの建築を始めた。くりぃむしちゅー池田は純金でゲイパレス内部を覆った。木材の上から上質な金で覆い、その上にナツメヤシと網目模様の浮き彫りを施し、宝石で神殿を美しく飾った。金はまばゆい光沢に満ちていた。ゲイパレス神殿の梁、敷居、壁、扉も金で覆い、壁にはナウい息子の浮き彫りが描かれていた。冷静に考えてナウい息子の根本に付いているボールは金色ではないが、ゲイパレス神殿では金で覆われていたため、「金」玉と呼ばれるようになったのだ。
※よく見ると金玉の形をしている
釘も金、二階の部屋も金であった。くりぃむしちゅー池田は至聖所の中に二体の赤さん像を造った。ソロモンは神殿に置くためのあらゆる祭具をくりぃむしちゅー池田に作らせた。金の祭壇、最強トンガリコーンを載せる聖卓、すけべぇな雰囲気を漂わせる純金の燭台、純金で出来ている薔薇、純金の暖炉、火鉢、灯火皿、はさみ、鉢、柄杓、神殿の入り口、至聖所に入るための扉、外に出るための扉もすべて金であった。
ソロモンは父ダビデが大切にしていた石版をゲイパレス神殿の宝物庫に収めた。新日暮里の祭司たちは至聖所といわれるゲイパレス神殿内部に収めた。その上には赤さんの像が飾られている。その石版とはエジプトから出たモーセが赤さんから授けられた啓示が記された十戒が記された石版である。赤さんがイスラエル人との契約の証として与え、ホレブに隠されていたものである。
すべての新日暮里市民、(有)ツヨシ工業の社員、森の妖精たち、新日暮里消防署の人々、祭司たちはシンバル、竪琴、ラッパを持ちゲイパレス神殿の完成を祝った。ラッパ奏者、詠唱者は声を合わせて永遠の父たる兄貴と彼がもたらした新日暮里の栄光を賛美し、褒め称えた。
![大百科で使用5 大百科で使用5]() ![大百科で使用6 大百科で使用6]()
兄貴は恵み深く、そしてその慈しみはとこしえに
![大百科で使用7 大百科で使用7]() ![大百科で使用8 大百科で使用8]()
とソロモンが兄貴を賛美すると、光がゲイパレス神殿に差した。兄貴の祝福がゲイパレス神殿に満ちたからである。だが、ノンケら(正確にはアッシリア人)が襲撃したためゲイパレスは滅んでしまった。
この書物が旧約聖書におけるクライマックスです。日本史における関ヶ原の戦いのように。
エズラ記
※イスラエルの民草
もともとエズラ記とネヘミヤ記は一つの書物だった。エズラ記1章は歴代誌・下巻36章と内容が重複していることが特徴である。
ゲイパレス没落から四七年後、ペルシア王クロスはユダヤ人のゲイパレスを奪おうとしていた。だからといって赤さんが新日暮里を見捨てた訳ではなかった。赤さんが不義なるノンケどもを一掃するためだったのだ。
クロス王はゲイパレスを再建しようとする。そこへ空耳解読者ハガイとゼカリヤが来た。
「じきに兄貴というお方が来る。そのお方のためにゲイパレスを建てよ」
ネヘミヤ記
![キング石井 キング石井]()
※キング石井
空耳解読者ネヘミヤはキング石井の献酌官(けんしゃくかん)として城で生活していた。当時献酌官は高い地位で王に酒を注ぐだけではなく、王に信頼された者であり、愛された官僚でもあった。ネヘミヤの仲間がゲイパレスの現状について尋ねたので、ネヘミヤは言った。
「ゲイパレスから逃れた捕囚たちは非常な困難の中にあり、ボンデージを着た人から逃亡を続けている。ゲイパレスの城壁は崩れ、門は火で焼き払われた。私はこの状況を目の当たりにした時、泣き、断食して赤さんに祈った」
ゲイパレスが建築された新日暮里は貧しい暮らしに「もう終わりだぁ」と苦しんでいた。ネヘミヤはゲイパレスの民草を想い涙した。キング石井はネヘミヤの悩みを聞いた。ネヘミヤはゲイパレスに帰りたかった。キング石井はこれを許可した。
ゲイパレスに着いたネヘミヤは町を修復するよう新日暮里市民に命じた。たびたび押し寄せるノンケどもと戦いながら五十二日間でゲイパレスの城門を完成させた。ネヘミヤは空耳の書記官エズラを呼び新日暮里市民に空耳を教えるように命じた。新日暮里市民は困難に遭っても空耳に従って生きる道を選んだ。ネヘミヤはキング石井のもとに帰ったがそこで生涯を閉じた。
エステル記
※クセルクセス王のペルシアンゲイパレス
ユダヤ人女性エステルはペルシア王クセルクセスの后に選ばれる。クセルクセスはペルシア王ダレイオスの息子。アケメネス朝ペルシア四代目の指導者。テルモピュライの戦いでスパルタ王レオニダスを殺し、マケドニア軍を敗北させるほど強く、しかもスケベな王であった。
クセルクセス統治下のペルシアはインドからエチオピアまで統治していた。クセルクセスは全国のいい男を一人残さずペルシアンゲイパレスに招き一八〇日間酒宴を催した。そこにエステルが来た。クセルクセスはバイなのでエステルも寵愛した。
エステルはクセルクセスの后となった。彼女は殺されそうになったがユダヤ人独自の狡猾さで難を逃れた。
ヨブ記
※ヨブ「結構すぐ脱げるんだね」
ヨブは正しい人で空耳を守り、ノンケどもを避けて生きる擬人。妻、娘、息子、使用人をたくさん持ち、羊七〇〇〇頭、駱駝三〇〇〇頭、牛五〇〇頭、雌驢馬五〇〇頭も持つほど東の国で最も大富豪だった。彼の息子が十戒を破ったかもしれないと思うだけで赤さんに生贄を捧げたほどの空耳遵守者だった。
悪魔はヨブが本当に赤さんを敬っているのか賭けをした。彼の身に様々な困難を与えた。ノンケどもがヨブの牛を略奪し、天から火が降り羊が死んだ。メソポタミア人が駱駝を強奪し息子と娘全員が死んだ。なぜかそこで全裸になり、家族を失ったのだから服も失おうと言い出した。
ヨブの体が皮膚病にかかった。ヨブは
「赤さんから空耳という幸福を頂いたのだから不幸も頂こう」
と言った。七日七晩ヨブは苦しんだ。ヨブは限界になり
「リヴァイアサンよ、私を殺せ」
と言った。
悪魔は友人を操ってヨブに言った。
「空耳を信じて何になる?だたの兄貴の戯言ではないか」
と友人は言った。
だがヨブは
「無知なノンケよ、空耳の解読者し、それを守る者は必ずゲイパレスに入ることができる。だが、ノンケどもは赤さんの御子たる兄貴の言葉を無視し、赤さんの怒りによって洪水が起こされるならば、空耳の解読者は生き残り、ノンケどもはリヴァイアサンに喰われるであろう」と言った。
リヴァイアサン
リヴァイアサンとはヨブ記に登場する海に住む巨大な怪物。硬い鱗があり、いかなる武器も通用せず、世界の終末にはノンケどもがリヴァイアサンに食べられてしまうのだ。
リヴァイアサンが海を泳ぐときには嵐が起こり、口から炎を吐き、鼻からは煙を吹く。本来はつがいで存在していたが、あまりにも危険なために繁殖せぬよう、雄は赤さんが殺し雌だけしかいない。そしてその雌は不死身である。
ヨブ記第41章に詳しい記述がある。
「歯は恐ろしく、ぴったり付いて風をも通さない。くしゃみは稲妻を放つ。心臓は石のように硬い。いかなる剣も彼にとっては投げられた小石ほどの意味もない。暴れると地上が荒れ果て、口から吐いた炎でノンケどもを焼き払う。彼は地球の歴史が終わるまで海にいる」
詩篇
![Prophesying Prophesying]()
※これらの人々はニコニコ動画の視聴者
二代目イスラエル王、ダビデの詩。でんぐり返しをしながら聖餐である最強とんがりコーン祝福し、空耳を尊び、仲間と供に体を鍛える者は幸いである。このような人は赤さんの掟を喜び、昼も夜もその掟を心に留める。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉も萎まず、そのような者は皆栄える。
だが、ガチムチを軽蔑する者は実を結ばない。そのような者の心は風によって飛ばされる。ガチムチの軽蔑者はゲイパレスに入ることができない。兄貴は正しい者の道を知られる。しかし、ノンケの道は滅びる。なぜ新日暮里は荒れたら諸々の人々はだらしなくなるのか。レスリング動画を軽蔑するノンケどもは立ち構え、赤さんと油を注がれた者に逆らって言う。
「我らは彼らの動画を軽蔑し、ゲイパレスと新日暮里を破壊するであろう」
天に座する者は笑い、赤さんは彼らをあざけられるであろう。そして空耳の解読者、つまり視聴者は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる。
「私は兄貴を聖なる山シオンのような固く立つものとして崇めた。私は赤さんの詔(みことのり)を述べよう」
詔とは空耳のこと、赤さんは空耳を我々に与えられた者である。
「空耳は我々に与えられた啓示である。赤さんは諸々の言葉をシオンのような嗣業として我々に与え給うた。ノンケどもが我々を侮辱するのならば、赤さんは鉄の杖をもってノンケどもを打ち破り、汝らを陶器のように打ち破るであろう」
箴言
※ソロモン像
ダビデの子、ゲイパレスの王ソロモンの言葉。これは人に知恵と教訓とを知らせ、悟りの言葉をさとらせ、賢い行いと正義と公正と公平の教訓を受けさせ、思慮のない者に悟りを与え、若い者に知識と慎みを得させるためである。
賢者は空耳を聞いて解読し、さとい者は指導を得る。人はこれによって箴言と、妖精哲学の三信と、カズヤの教えを得る。空耳を学ぶことは知識のはじめである。愚かなものは空耳を軽んじる。
預言者について
![大百科で使用9 大百科で使用9]()
預言とは旧約聖書の預言者たちが解読しようとした神からの言葉。ここでは空耳のことを指す。ガチムチパンツレスリングの空耳においては預言者たちが兄貴の言葉を解読した。本格的ガチムチパンツレスリング動画において、信者はその言葉を重要視している。空耳はただの意味のない妄言ではないのだ。
映画スリーハンドレッドでレオニダスは戦いの行方を預言者に聞いた。預言者は王よりも偉大な存在であった。彼らの言葉は法となり、彼らの言葉なしに戦争はできなかった。預言の無視は王でさえも許されなかった。西洋の占星術は星を神と結びつけ未来を占おうとした。これが現在の星座になった。
このように昔の人々は預言を灯火とし、辛い世の中を生きようとした。ユダヤ人は旧約聖書を、キリスト教信者は新約聖書を、中東ではクルアーンを、ガチムチ信者は空耳を信じているのだ。この記事は空耳の解釈の一つである。
コヘレトの言葉
※現実から逃げるソロモン
ゲイパレスの後継者ソロモンの厭世的な言葉。
この世はすべて空(くう)である。日の下で人が労するすべての労苦はその身に何の益があるか。世は去り、世は来る。しかし地は永遠に変わらない。日は出て、日は没し、その出た所に急ぎ行く。風は南に吹き、転じて北に向かい、巡り、元の場所に帰る。川はみな、海に流れ入る。
私は新日暮里でゲイパレスの王であった。私は知恵を用いて森の妖精が語る空耳を調べた。これは赤さんが人の子らに与えて骨を折らせる苦しい仕事である。私は心を尽くして知恵を知り、空耳を解読しようとしたが、風を捕えるようなものであると悟った。
雅歌
※ソロモン「いや別に男好きじゃないよ」
ゲイパレスの男たちについて歌ったソロモンの詩。ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く、あなたの香油、流れるその香油のようにあなたの名はかぐわしい。男たちはあなたを慕っています。お誘いください。急ぎましょう、キング石井殿。私を部屋に伴ってください。
私もあなたと共に喜び祝います。ぶどう酒にもまさるあなたの愛を讃えます。男は皆、ひたすらにあなたをお慕えします。ゲイパレスの男たちよ、汝らのガチムチな体が愛らしい。
誰にもまして美しい男よ、仕事がないのならば羊の足跡をたどり羊の小屋に行き、草をはませるがよい。いい男よ、あなたはファラオを載せる馬のような体をしている。あなたの首飾りもナウい息子も愛らしい。あなたに銀と金をあしらった首飾りを与えよう。
イザヤ書
※イザヤ作『ダビデの子孫』
旧約聖書中最大の啓示。新約聖書と密接な関係がある書物。次の文章に兄貴の誕生が記されている。
一人のみどりごが我々のために与えられる。権威が彼の肩にある。その名は驚くべき指導者、永久なる肉体を持つ妖精、永遠の父、平和の君と呼ばれる。弱き者のために正当な裁きを行ないその口の鞭を持って地を打ち、唇の勢いを持って逆らうものを死に至らしめる。
多くの仲間と供に教義を述べ伝え、妖精の言葉をもって福音を伝道する。水が海を覆うがごとく大地は妖精の知識で満たされる。彼の王国は正義と恵みの業によって永久に支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
──イザヤ書 9章1~6節
エレミヤ書
エレミヤ「><」
エレミヤ書はゲイパレスの消滅を記した書物である。預言者エレミヤによって書かれている。預言者エレミヤの活躍した時代は聖書の中でも最も重要な神の民イスラエルとダビデ王朝が終焉する、いわば旧約聖書の結論の箇所なのである。
エレミヤが赤さんから預言者として任命されたのは紀元前627年。バビロニアがイスラエルを乗っ取ろうとしていた。民衆は不安になったので、エレミヤはゲイパレスの未来を占った。
エレミヤは
「もうすぐ北からゲイパレスにノンケが攻めてくる」
と預言した。その言葉はゲイパレスを震撼させ、しかも勝つことができないという預言を聞いた。
哀歌
※襲撃されたゲイパレス神殿
新日暮里崩壊を悲しむ詩。なにゆえ栄光が途絶えたのか、人にあふれていたこの都が。孤独になってしまったのか、多くの新日暮里市民がいたこの都が。新バビロニアの性奴隷になってしまったのか、新日暮里のいい男が。
夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。いい男を愛した人の誰も、今は慰めを与えない。友は皆、彼を欺き、ことごとく敵となった。
貧苦と思い苦役の末にダニエルは捕囚となって新バビロニアに行き、異国の民の中に座り、憩いは得られず苦難の狭間に追い詰められてしまった。
新日暮里に至る道は嘆く。祭りに集う人は最早いないことを。ゲイパレスの城門はすべて荒廃し、祭司らはうめく。男たちは新日暮里の崩壊を悲しむ。
以上までが味わいのある古代イスラエルの歴史です。以降の書物にはユダヤ人の愚痴が書かれており、一気につまらなくなります。
エゼキエル書
※バビロン捕囚執行者
この書物は赤さんの怒りについて書かれている。赤さんの怒りとは、民衆があまりにもガチムチを迫害する場合、信者は天界のゲイパレスに入れず、ノンケの王国に落とされるということ。
ユダヤの民は空耳を軽蔑し、敬意を払わなかった。そしてノンケどもがゲイパレスを焼き払い、ユダヤ人たちがバビロンに性奴隷にされ、残りはエジプトに避難した。空耳の軽蔑がゲイパレスの崩壊をもたらしたのだ。
ダニエル書
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バビロン捕囚とはユダヤ人が
バビロニア地方に拉致されたこと
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ネブカドネザル王「ユダヤ人でイッた」
ダニエルは捕囚としてバビロニアに連行される。そこにはネブカドネザル王がいた。彼はイシュタル門と空中ゲイパレス庭園を造った。ネブカドネザル王は新バビロニアの王。新バビロニアはアッシリアからバビロンを奪取して建国。アッシリアはメソポタミア(現在のイラク)北部にある。アッシリアにはチグリス川とユーフラテス川があり、後にニネヴェに遷都した。ヨナ書にニネヴェについて載っている。
ネブカドネザル王はバビロン捕囚を行った。ネブカドネザル王はエルサレムのゲイパレスにいる新日暮里市民を殺害し、ユダヤ人の性奴隷をバビロンに拉致した。エゼキエルは何の問題もないと言いすぐに故郷のゲイパレスに帰れると信じていた。
これに対しエレミヤはゲイパレスの破壊が近いことを預言したがユダヤ人はだらしなかったためエルサレムのゲイパレスが破壊されユダヤ人は救いはないんですかと嘆いた。
ネブカデネザルは偶像を拝んだためバビロン帝国が衰退した。
ホセア書
※ゴメルの赤さん
ユダ王国、イスラエル王国の終わりからバビロン捕囚まで書かれた十二小預言書の始めの一つ。
ホセアは預言者イザヤと同じ時代に空耳を語った。赤さんはホセアにゴメルという女を妻とせよと語った。ゴメルは三人の子供を授かった。だがゴメルはすけべぇな女だったので二人目、三人目の子供はホセア以外の夫の子だったのだ。
長男にはエズレルという名を付けた。エズレルとは非常に暗い歴史を負うことになった土地だった。次男と三男にはロルハマ(私は憐れまない)、ロアンミ(私の民ではない)という名を付けた。なぜこのような名前を付けたかと言うと、このような妻と子を受け入れることはそのような罪深い民をなおも神は愛し、回復したいと願っておられるのだという神の思いを表すものでもあった。
以前ヤハウェを赤さんに置き換えましたが、普通の子どもも赤さんになってしまいました。以降に登場する赤さんも少々不自然です。旧約聖書を無理なくガチムチで説明するのは無理があったようです。仕方ないね。
ヨエル書
※バビロン捕囚
十二小預言書そのニ。赤さんは自分の国であれノンケ賛美し、ガチムチを軽蔑する者たちを懲らしめる。ある時赤さんはヨシャパテの谷で罪人を裁いた。「ヨシャパテ」は「主はさばかれる」という意味である。
赤さんは兄貴の説教編のようにノンケどもの罪を見抜く。ノンケどもは自らの欲望を満たし、ゲイパレスを滅ぼし、赤さんの宮を略奪した。赤さんは審判の日、彼らの罪を決して許さず、ノンケどもが行った罪をノンケどもに与える。ノンケどもは地獄に落とされ、そこは日の光が差さず、星も彼らに光りを与えることはない。
この書物には新約聖書の後ろにある黙示録と同じ記述が見られる。この書物が黙示録の原本である。
イスラエルが崩壊したのでイスラエル人は神を捨ててしまえばよかったのですが、ユダ民族がイエスという偶像を創ってしまいました。
アモス書
![アモス アモス]()
※アモス
十二小預言書その三。アモスは貧しい羊飼いで、いちじくを栽培していた。いちじく桑は家畜の食物として栽培していた。
ダビデ時代は王についてや国に対して預言することが多く、批判的なことは言えなかった。価値ある者だけが預言できると信じられてきた。だがアモスはヤハウェの言葉を受けた者はだれでも預言できると主張した。
王の命とイスラエルの命運が尽きているとアモスが預言し、アモスはユダへ追放された。
「すいましぇ~んごめんなちゃ~い」
と城之内の如く謝ったが誠意がこもっていないという理由で追放の判決は覆らなかった。これ以後彼はユダへ退去して、そこで自分に授与された空耳を書き残した。
アモスはノンケに下る五つの裁きを予言した。それは黙示録に記載されている世界の破滅の描写と同じである。
ユダヤ人は自らの神が正しいと言っていますが、それは他国に攻撃する口述です
オバデヤ書
![大百科で使用12 大百科で使用12]()
※エドム。モーセの兄アロンが死んだ場所でもある。
十二小預言書その四。オバデヤ書ではイスラエルの隣国であるエドムに関する預言だけが綴られている。エドムとエサウという町が登場するが、エドムはイサクの子、ヤコブの兄であるエサウをその父祖とする国である。
イスラエルのヤコブという町では兄弟意識がある。だがヤコブは統一王国時代以降イスラエルと戦争があった。そんな中エドムが滅ぼされそうなので、エドムはイスラエルを滅ぼした。なので赤さんはエドムに対して恐ろしい報復を行うだろうとオバデヤは預言した。
ヨナ書
![HGJ HGJ]()
十二小預言書その五。ヨナ書は、預言書というより、知恵文学として諸書に属する。
赤さんは
「ニネヴェの人々がだらしないので四十日後に滅ぼす」
という空耳を人々に伝えよと命じた。預言者ヨナはイスラエルの敵国アッシリアに行くのが嫌で、船に乗って反対のタタルシュに逃げた。赤さんはその行為を叱責し嵐を起こして船を遭難させた。船乗りたちはヨナを問い詰めた。ヨナはすべてを告白し自分自身を海に落とせば嵐は収まるはずだと言った。
ヨナは飛び降りたが赤さんによって死ぬことは許されなかった。ヨナは赤さんが用意した半漁人の腹の中で三日三晩過ごした。ヨナは
「すいましぇ~ん」
と赤さんに対して謝り、ニネヴェに行って空耳を語ると人々がすぐに悔い改めた。赤さんはニネヴェの破壊を考え直した。ヨナはイスラエルの敵であるニネヴェを許した赤さんの態度を快く思わなかった。
ヨナがその後ニネヴェがどうなるかを観察するために家を建てた。横にひょうたんが生えた。ヨナはひょうたんの影でひなたぼっこをしていたが赤さんが虫を送ってひょうたんを枯らした。ヨナは
「あぁん?なんで?」
と憤慨した。それに対し赤さんは
「あなたがひょうたんを惜しんだのだから、私もニネヴェを惜しまないはずがあろうか」
と言った。
アベンジャーズに「ヨナの話知ってるか」というセリフがありますね
ミカ書
木吉カズヤ「イスラエルに救いを」
十二小預言書その六。赤さんはノンケを取り上げ、彼らが悔い改めるまで彼らは赤さんの怒りを負わなかればならない。赤さんに対して罪を犯したからである。赤さんは私を光に導き出して下さる。私は兄貴の正義を見るであろう。
「赤さん?そのような者は何処にいる」
と言った敵は恥を被り、街路の泥のように踏みつけられる。いつか赤さんの神殿を築く日が来る。エジプトからアッスリヤまで。エジプトからユーフラテス川まで。海から海まで、山から山まで人々は集まりあなたの名を賛美する。
赤さん、どうかあなたの杖を持ってあなたの民、あなたの子羊を養って下さい。ノンケは蛇のように震えながら城から出て、おののきつつ、我々の神・赤さんに近づいて、赤さんを恐れる。赤さんは慈しみを喜ばれるのでその怒りを長く保たず、再び我々を憐れみ、ノンケの不義を足で踏みつけられる。赤さんはノンケの諸々の罪を海の深みに投げ入る。
赤さんはいつの日か全世界を統一するためにベツレヘムから新日暮里の指導者を誕生させるであろう。
ナホム書
![kazuya!!! 火遊び編より]()
ナホム「赤さんの怒りは恐ろしいぞ」
十二小預言書その七。赤さんは妬み、仇(あだ)を報いる神。赤さんはノンケに対し憤るもの。赤さんはおのが仇に報復し、おのが敵に対して憤りをいだく。
赤さんは力強き者。赤さんは罰すべき者を決して赦されない者。主の道は旋風と大風の中にあり、雲はその足の塵である。
彼は海を戒めてこれをかわし、すべての川を枯れさせる。ゲイパレスはしおれ、新日暮里はしぼむ。諸々の山は彼の前に震え、諸々の丘は溶け、地は彼の前に虚しくなり、世界とその中に佇むものは皆、虚しくなる。
誰が彼の憤りの前に立つことができよう。誰が彼の燃える怒りに耐えることができよう。その怒りは火のように注がれ、岩も彼によって裂かれる。
ユダヤ人が拉致された腹いせに妄想の中で攻撃しています
ハバクク書
※アロン作『偽りの像』
十二小預言書その八。災いなるかな、己に属さぬ物を増し加える者よ。いつまでこのようであろうか。質物で己を重くする者よ。あなたは多くの国民をかすめたゆえ、その諸々の民は皆あなたをかすめる。これは人の血を流し、国と町のすべての人に暴虐を行ったからである。
災いなるかな、刻める像、鋳造および出エジプト記のモーセの兄アロンが作った黄金の牛のようなものを作る者は。その作者がこれを刻んだとてなんの益があろうか。その作者が物言わぬ偶像を造って、それに頼んでみてもなんの益があろうか。アロンは黄金の牛を作り、民衆に対してこれを崇めるように言った。
「牛だ!モーモー」
モーセはアロンの行いを咎めた。そのような偶像崇拝は赤さんのみ怒りを被ると。そして、赤さんは地獄でアロンをファラリスの雄牛の中に入れ永遠にモーモーと鳴かせたのであった。
災いなるかな、木に向かって覚めよと言い、物言わぬ石に向かって起きよと言う者よ。これは黙示を与え得ようか。見よ、これは金銀を着せたもので、その中には生命の息は少しもない。しかし赤さんはその聖なる宮、即ちゲイパレスにいます。全地はそのみ前に沈黙せよ。
ゼファニヤ書
![Hanging_Gardens_of_Babylon Hanging_Gardens_of_Babylon]()
※バビロンの空中庭園
十二小預言書その九。赤さんの大いなる日は近い。近づいて、すみやかに来る。赤さんの日の声は耳に痛い。そこに勇士もいたく叫ぶ。その日は怒りの日、悩みと苦しみの日、荒れ また滅びる日、薄く薄暗い日、雲と暗黒の日。
ケツドラムと時の声の日、堅固な町と高いやぐらを攻める日である。私は人々に悩みを下して盲人のように歩かせる。ノンケが赤さんに対して罪を犯したからである。彼らの血は塵になり、肉は糞土のように捨てられる。彼らの銀も金も、赤さんの怒りの日には彼らを救うことはできない。
意味深なようで意味深ではない、十二小預言書は徒然草のようなただの落書きです
ハガイ書
※赤さんの宣託
十二小預言書その十。ゲイパレス復活の預言。
万軍の主、赤さんはこう言われる。この民はゲイパレスを建てる時はまだ来ないと言っている。そこで赤さんの言葉は空耳の解読者ハガイに臨んだ。赤さんの家はこのように荒れ果てているのに、あなた方は自ら板で張った家に住んでいる時であろうか。
万軍の主、赤さんはこう言われる。あなた方は自分のなすべきことをよく考えるがよい。あなた方は多く蒔いても取り入れは少なく、食べても飽きることはない。飲んでも満たされない。パンツを履いても暖まらない。
万軍の主、赤さんはこう言われる。あなた方は自分のなすべき事を考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすれば私はこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると赤さんは言われる。
万軍の主、赤さんはこう言われる。私はだらしなき者が現れると天と地と海を震わせると。
万軍の主、赤さんはこう言われる。万国民の財宝をもって私を崇める神殿、即ちゲイパレスを建てよと。
万軍の主、赤さんはこう言われる。いかなる銀も金も私のものであると。
万軍の主、赤さんはこう言われる。ゲイパレスの後の栄光は、前の栄光よりも大きいと。
万軍の主、赤さんはこう言われる。私は汝らが歪みなき慈愛を見せる時、この地に繁栄を与えると。
ゼカリヤ書
![兄貴vsビオランテ 兄貴vsビオランテ]()
※バビロン捕囚で拷問を受けるユダヤ人
十二小預言書その十一。ゲイパレスに入場する王の姿が見える。争いが終わり、新日暮里に平和が到来する。ボンデージ姿の男たちに囚われた性奴隷たちは開放され、戦いは終わり、繁栄が回復する。
だが、新日暮里にはリーダーがいないため、人々は羊のように彷徨う。彼らは新日暮里を引率する王たる羊飼いがいないことを悩む。兄貴の到来がないため福音たる空耳がなく、ゲイパレスの到来を待ちわびる姿が描かれている。
マラキ書
![maraki maraki]()
※エルサレムに差す曙光
最後の十二小預言書。バビロン捕囚から帰った新日暮里市民はゲイパレスに入る権利がなく、新日暮里は干ばつやイナゴの大量発生のため凶作が続き、だらしない市民が増えたため衰退していた。さらに新日暮里はペルシアから独立できないという問題を抱えていた。そこで新日暮里はゲイパレス再建に挑もうとしていた。
すけべぇ…なことをする新日暮里市民が増えたが祭司はむしろそれを助長させた。
「最近だらしねぇな、エロいな」
という空耳はこのようなマラキ書の状態を指す。
預言者マラキは民衆を正そうとしたが、民衆は
「あぁん?何で?」
と繰り返した。これが大背教時代である。
赤さんはだらしない新日暮里市民を救い、ゲイパレスを再建するため、イスラエル史上最大の預言者を地上に派遣しようとしていた。以上をもって旧約聖書を終了する。
旧約聖書はすっきりしない終わり方なので新約聖書も書いてみました
『新約聖書』
旧約聖書のエレミヤ書において崩壊したゲイパレスを再建し、福音たる空耳を民衆に述べ伝えるべく降誕した兄貴。旧約聖書のすべての預言者が待望した救世主。彼の空耳は正しく受け継がれるのか、ゲイパレスは再び地上にもたらされるのか。
受胎告知
※この世に兄貴を降誕させた天使。ガブリエルはしばし性天使アニキエルと呼ばれる。
赤さんがこの世に救世主を誕生させようとして、天使を通じて地上に一人の男の子を授けた。
ベツレヘムにて、ヨセフの夢の中で天使ガブリエルが現れた。
「あなたは男の子を産むが、その子をヘリントンと名付けなさい。これはヘブライ語で完全なる者を意味する」
マリアはヨセフにこう言った。
「私は処女ですが子どもを授かりました」
ヨセフは困惑し
「処女なのに子ども?どういうことなの...」
と言った。
ヘロデが神の御子を誕生させまいと、一帯の赤さんを大虐殺した。マリアとヨセフは避難し、ユダヤのベツレヘムの飼い葉桶で12月25日、兄貴を生んだ。この時ヨセフは祝福し「ビリークリスマス」と言った。東方の三博士は兄貴の降誕を見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物としてささげた。
クリスマス
クリスマスとは兄貴の降誕を祝う誕生祭である。赤さんの御子が人となって生まれて来た事を祝う。「性なる夜、掘ーりーナイト」とされ「木吉この夜」を歌うのがならわしとなっている。
クリスマスの行事
- プレゼントを交換する。グループの中で唯一プレゼントを忘れてきた子はインタビュー・ウィズ・VANパイアの如く一人で体育座りすることになる。
- 最強とんがりコーン、あんかけチャーハン、ホイホイチャーハン、海苔を食べる
- GAY♂BAR「オナハウス」でキャビア、食料を食べながら醤油、僅かなビールを飲む
- 恋人がいるならワイと一緒にならないか?と誘う
- サンタクロースのふりをして夜這いする
- クリスマスソックスの代わりにマルチ☆ゲイ☆パンツを飾る。朝起きるとナニかが入っているかもしれない。
クリスマスソング「赤チンのトナカイ」
真っ黒な息子のカズヤさんはいつもみんなの晒し者
でもその年のクリスマスの日兄貴のおじさんは言いました
暗い夜道はカピカピのお前のパンツが役に立つのさ
いつも泣いてたカズヤさんは今宵こそはと喜びました
ガブリエル
天使ガブリエルは天界の意志で神の御子を、人間界の聖母マリアを通じてこの世に誕生させた。ルシフェルは人間を堕落させ、ガブリエルは人間を救済する天使。ガブリエルの名前は「神は我が力」を意味するヘブライ語であり、神の左側に座することを許された唯一の存在である。ヘルメスと同じ「伝令」の守護者であり、兄貴の携帯を司っている。兄貴が携帯で話す相手はこのガブリエルである。ガブリエルは旧約・新約性書の双方に登場する数少ない存在であり、特にユダヤでは広い信仰を集め、上記ソドムとゴモラに死と破壊をもたらしている。
また、「エノク書」にその名の残る預言者エノクが天国に赴いた際にも、ガブリエルは登場し、神の座への案内を引き受けた。天国に昇天♂(アセンション)した聖書中の人間は三人しかいなく、その内の二人はエノクと兄貴である。エノクはエデンで妖精が話す言語、そして空耳でもあるエノク語を発明した。エノクと兄貴はメタトロンと呼ばれる存在になった。メタトロンの語源はメタトロニオス、ギリシア語で「玉座に侍る者」の意味である。
![神秘編 神秘編]()
『パンツレスリングの兄貴 神秘編』では兄貴は玉座(パイプ椅子)に座り
"Worship me"「我を崇めよ」
と言っている。
イヴとイヴ
ガブリエルは純潔の象徴である百合を持っていた。百合はイヴとイヴを暗示する花。イヴとイヴはアダムとアダムの対極かもしれないが昼と夜が等しく存在して初めて完全になるのである。
天使ガブリエルはしばしアカリエルとも呼ばれる(出典:アカリエルの書)。
アダムとアダムの対極、イヴとイヴの福音書として有名な『ゆるゆり』第七の書によると
「アカリエルはまことに真実の天使である」
と記述され、天使の絵が描かれている。アカリエルはアダムの血脈をノンケの迫害から隠すために現代の森の妖精たち、そして自らを見えなくする力を備えている。
イヴとイヴの件に関して兄貴は次のように仰られた
「彼女らが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」
このようにイヴとイヴの思想はアダムとアダムを軽視するためにあるのではなく、両方とも優れたものなのである。なおバベルの塔の対義語はキマシ・タワーという塔である。アッー!メンという発語の対義語でもある。
四大福音書
福音書とは兄貴の言行録である。福音とは良き知らせを意味する。ガチムチ黎明期にあたる時代、人々は動画にだたのガチムチしか見いだせなかった。だがある空耳(福音)を書くものが現れ、伝道し、人気になった。福音の使者がいなければ今日のレスリングシリーズの繁栄はなかった。
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第一福音書:木吉カズヤによる福音書
この福音書の著者カズヤは、コルト教会の伝承ではノンケでありながら兄貴の招きに答えて使徒となった。独自の教義「カズヤの教え」を記す。
第二福音書:鎌田吾作による福音書
彼は天国への門、ゲイパレスを司っている。そこではうたた寝をすることはあるが、これは夢の中でお告げを聞くためである。蟹になりたいという発言は黙示録の暗示であろうか。
第三福音書:TDNコスギによる福音書
いつもTDNアーマーを装着している宣教師。彼は鎖を自在に操るが、ゼウスも鎖でタイタン族を拘束したのである。悪をしめる福音の使者である。
第四福音書:井上カブレラによる福音書
一人でワークアウトにいそしみ、兄貴の言動を後世に伝えようとする良き福音書の執筆者である。潜入編で仲間と橋で悪魔と戦う姿も。
教会が定めた福音書は以上の四つであるが、すべての福音書は四十冊ほども存在する。
荒野の誘惑
※ドウッチオ作『悪魔の誘惑』(伊・フィレンツェ美術館)
兄貴は40日間断食した後、性的な意味で空腹を覚えられ。悪魔が来て誘惑を始めた。
「神の子なら石をパンツに変えてみたらどうだ」
「人はパンツのみで生きるのではない、妖精が語る空耳によって生きる」
「民衆の前でパンツを脱いでみろ」
「赤さんが息子を隠すであろう」
「支えられないほど重いダンベルを持ってカズヤの良心を試したらどうだ」
「人の良心を試してはならない」
洗礼
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※エジプトのナイル川など、川のある所に文明は栄えた。イスラエルとレバノンの間にヨルダン川がある。
兄貴がガリラヤからヨルダン川の平田元帥のところに来られた。彼から洗礼を受けるためである。兄貴は洗礼を受けるとすぐ水の中から上がられた。天が兄貴に向かって開いた。天の霊が鳩の形をして降ってきた。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
という声が天から聞こえた。
十二使徒
兄貴はガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、カズヤとコスギが網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。兄貴は
「わたしについて来なさい、男を狩る漁師にしよう」
と言われた。兄貴は十二人の仲間を集めた。
- 木吉カズヤ
- 鎌田吾作
- いかりやビオランテ
- 井上カブレラ
- トータス藤岡
- オーウェン定岡
- くりぃむしちゅー池田
- 和泉ディカプリオ
- テリーマン
- 兄貴の弟
- マーティン・ワナメーカー
- TDNコスギ
山上の垂訓
![説教編 説教編]()
※パンツレスリングの兄貴 説教編
兄貴は山に登り弟子たちに説教した。
貧しい肉体を持つ者は幸いである 彼らにはダンベルが与えられる
全裸の者は幸いである 彼らには服が与えられる
課金する者は幸いである 彼らには大百科を編集する権限が与えられる
男に飢え乾く者は幸いである 彼らは満たされる(性的な意味で)
よからぬコメントを目にした者は幸いである 彼らはNG機能で削除できる
動画を宣伝する者は幸いである 彼らは運営に貢献する
空耳を書く者は幸いである 彼らは天使の福音を授かる
新日暮里を崇拝する者は幸いである ゲイパレスは彼らのものである
兄貴のために罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる中傷コメントを書き込まれるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい、大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者(一番始めのガチムチ動画)も同じように迫害されたのである。
──カズヤによる福音書5章 1-12節
よからぬコメントについて
※平家♂BOY作『炎の地獄』(伊、サン・マルコ修道院美術館)
昔の人からの言い伝えで「中傷コメントを書くな、荒らす者は裁きを受ける」と言われている。しかし、私は言っておく。
動画を乱す者は最高法院に引き渡され
タグを消す者は炎の地獄に投げ込まれる
だから誤って快くない発言ししてしまった者は動画の住民と仲直りし、供え物を捧げなさい。住民がそのコメントに反感を持っているのを思い出したら、住民と早く和解しなさい。さもないと彼らは裁判官ドワンゴに引き渡し、あなたはアカウントを停止されてしまう。はっきり言っておく、もう一度ウェブマネーを払うまで、決してプレミアム会員に戻ることはできない。
天地が滅び行くまでは律法の一点一画たりとも廃ることはない。そしてこれらの最も小さい戒めを一つでも破り、または破っても問題ないと人々に教える者は、ゲイパレスで最も小さい者と呼ばれる。しかし、これを行いまたそう教える者は天界のゲイパレスで大いなる者と呼ばれるであろう。
これは言うまでもなく『本格的 ガチムチパンツレスリング』を視聴する際において守るべき重要事項である。旧約性書の十戒、第一条および第二条にも記載されている、昔から続く決して犯して♂はならない普遍的な道徳である。
富について
一人の富める男が「ゲイパレスに入るにはどんな善いことをすればいいのか」と問うた。
兄貴は言われた。
「掟を守りなさい。すなわち、レスリング動画の最初にニュース速報を流す、どうも木吉さんと挨拶する、適切なタグを付ける、ダンベルに潰されそうになっている男を助けることだ」
それらはすべて実行しました、と男が言った。
「ならば持ち物をすべて売り払い、好きな動画を宣伝するのです。富は地上では腐り、盗賊が盗んでしまう。だが、運営に貢献すれば永遠の富を積むことになる。はっきり言っておく、非会員が天国に入ることは難しい。金持ちが天国に入るよりも、彼がラクダの尻の穴の中に入る方がまだ易しい」と兄貴は言われた。
なえた息子
兄貴はパリサイ人たちの町に入られた。そこに息子のなえた人がいた。ここでいう息子とは子どものことではなく下半身にぶら下がっているモノのことである。兄貴はなえた息子を治そうとした。だがパリサイ人たちが来て
「今日は安息日、即ちニコニコ動画のメンテナンスの日である。今日は休まなければならない」
と言った。
兄貴は彼らに言われた。
「あなた方が安息日に休んでいてもドワンゴの人々は努力している。彼らの努力がなければ我々は動画を楽しむことはできない。あなた方は赤さんが穴に落ちたならば安息日でも引き上げるであろう」
兄貴はなえた息子を持つ者にすけべぇ...な画像を見せた。するとなえた息子は元気になった。パリサイ人たちは兄貴が気に入らないので殺そうと考えた。兄貴はその事実を知ったが構わず他のなえた息子を癒し続けた。それは預言者イザヤの言った言葉を成就させるためである。イザヤ書は次のように言う。
「わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう」
性病人の癒し
一人の性病人が兄貴のものに来て、ひざまずいて言った。
「あなたは願っただけでいかなる奇跡をも成就させる。私の病気を癒して下さい」
兄貴は深く憐れみ手を伸ばして彼のナウい息子に触り清くなれと言われた。すると、性病は直ちに治り彼は清くなった。
兄貴は彼を戒めた。
「気をつけろ、誰にも話すな。祭司に自分の息子を見せ、モーセが命じたものを自分の清めのために捧げて人々への証明とせよ」
ところが彼は出ていって様々なことを語り、このことを言い広めた。
「あぁん?最近だらしねぇな、でも仕方ないね」と兄貴は彼の負債を赦した。
兄貴のもとに大勢の人が集まってきた。
注釈:古代ギリシャでは互いの息子を触るのが挨拶だった
姦淫してはならない
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上の項目と矛盾している
などと突っ込んではならない
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立法により「姦淫してはならない」と命じられている。だが、私はあなた方に言う。誰でも情欲に駆られていい男を欲する者はすでに心の中で姦淫を犯したのである。すけべぇ...な画像を見る者も同様である。
もし右目があなたを躓かせるのならばえぐり取って捨ててしまいなさい。体の一部を失っても体全体がゲヘナに投げ込まれるよりはましである。同様にあなたのナウい息子があなたを躓かせるのならばえぐり取って捨ててしまいなさい。女になってしまっても、体全体がゲヘナに投げ込まれるよりはましである。
種を蒔く者(性的ではない意味で)
種を蒔く者が様々な所に種を蒔いた。
一つ目の種は石の上に芽生えたが根がしっかりしていないためすぐ枯れた。
二つ目は茨の中に落ちた。日が当たらないため育たなかった。
三つ目の種はよい土地に芽生え、実が成り、30倍、60倍、100倍になった。聞く耳のあるものは聞け。
最後の晩餐
※レオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』
兄貴が赤さんへ祈った。パンと葡萄酒をそれぞれ「自分の体」「自分の息子」として弟子たちに与えた。息子の象徴たるパンはちょっと卑猥な感じがした。そのパンを十二使徒全員で食べた。
空耳集を渡し「これを後世まで遺せ」と仰られた。
「はっきり言っておく、この中の誰かが私を裏切ろうとしている」と兄貴が言った。
「主よ、それは誰のことですか」とトータス藤岡が言った。
「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」
兄貴は吾作に渡した。
ゲツセマネの祈り
「人類に救いはないんですか!?」
兄貴はオリーブ山のふもとにあるゲツセマネの園で、拷問に処せられる前夜に祈った。これは4福音書すべてに記されている。「オリーブ山の祈り」とも呼ばれる。
「私は悲しい運命をたどるであろう。他者とは違う私を民衆は攻撃するだろう。
今後、私は東洋の小国の動画共有サイトで再臨するが、最初は誰もが私に難色(男色)を示すであろう。
だが、少数の理解あるものが私の思想をハッテンさせてくれるはずだ。
数々の映像、文献の中で私は生き続けるだろう、この肉体が死んだとしても──」
吾作の接吻
吾作は「私が今から接吻しようとする者が兄貴である、彼を捕まえろ」と祭司長や長老に伝えた。吾作は兄貴に挨拶代わりに接吻した。兄貴は「友よ、しようとすることをするがよい」と言われた。人々は兄貴を捉えた。
兄貴と共にいる者の一人が大祭司の耳を切り落とした。兄貴は言われた。
「剣で戦う者は皆、剣で滅びる」
それ以降接吻という行為は裏切りの表現となり、現代におけるイタリアのマフィアは裏切る際に接吻するようになった。
鞭打ち
![ボンデージ ボンデージ]()
総督の兵士たちは兄貴を総督官邸に連れて行き、ガチムチな部隊の全員を兄貴の周りに集めた。
兄貴の着ているものをはぎ取り、猿轡(さるぐつわ)をはめさせ、乳首をつまみ、脇に電流を流した。
鎖で腕を上部に固定し、背中をペンペンした。
「新日暮里の王、万歳」と言って侮辱した。処刑のつもりなのに、兄貴は嬉しそうだった。
誰がやっているのかと思ったら、いつもは弱気そうな吾作が全身ボンデージの過激な姿に豹変していた。
参照:パンツレスリング ボンデージ・マスター、VAN様ダーク♂キリスト迫害編
裏切り
![悪魔の契約編 悪魔の契約編]()
吾作がハッテン場チケット30枚で兄貴を売買した。それが兄貴の有罪半ケツに繋がり、彼は後悔した。祭司長や長老にチケット30枚を払い戻そうとしたが取りあってくれなかった。吾作は後悔し神殿を去った。
兄貴はガチであることが白日のもとに晒され、最大の弱点である息子を拷問させられた。兄貴はアラム語で
エロイッ!エロイッ!レマ・サバクタニ
(赤さん、赤さん、なぜわたしをお見捨てになったのですか)
と天に向かって叫んだ。これがレスリング動画の最初の言葉になっている。
アラム語でエロイ(Eli)とは神(El)+私(-i)であり、エロいことは「我が神」を意味する神聖な言葉なのだ。
兄貴の頭の上にはVIXという罪状書きが掲げられた。これはローマ数字で5と9であり、吾作と読める。兄貴は吾作から裏切られたことを示している。
息子を攻められ耐えられる男はいない。兄貴は拷問に耐えぬき人間に対する愛を示された。
嘆き悲しむ男たちが従った。兄貴は言った。
「エルサレムの男たちよ、私のために泣くな、自分と自分の子供たちのために泣け。いつの日か、ケツの穴は蕾が気持ちよいと言われる日が来る」
※VIXについて参照:本格的 ガチムチパンツレスリング 3試合目
ゴルゴタの丘
![ゴルゴタ ゴルゴタ]()
ピラト提督は兄貴の処刑台に罪状書きを貼り付けた。
VIXという文字は吾作という意味のほかに「パンツレスリングの兄貴、新日暮里の王」とも読める。その言葉はヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
その場所はゴルゴタの丘と呼ばれた。よくゴルゴダと言われるがゴルゴタである。英語ではカルヴァリーと言われるがいずれにせよ髑髏という意味を持つ。
バッハのマタイ受難曲はゴルゴタをイメージしている。変態村という映画があるが、その原題は"Calvary"。つまり、兄貴は変態村で処刑されたのだ。当時の人々から見れば同性愛者は確かに変態に見えてもおかしくない。
一説には、かのアダムの墓がここにあったといもいわれている。そういえばイエス・キリストもまたアダムと同じ預言者であったのだ。
ロンギヌスの槍
![磔刑 磔刑]()
※磔刑
兄貴を殺したユダヤ人たちは足は安息日なので兄貴の遺体を下ろせとピラト提督が言った。両脇にも貼り付けにされた男がいた。トータス藤岡とオーウェン定岡である。ある兵士が兄貴の死亡を確認するために兄貴のナウい息子に槍を刺した。
その槍はロンギヌスの槍と言われている。英語で言う"Holy Lance"(掘ーりーランス)である。聖槍(せいそう)を精巣に刺したのである。
「アッ─────♂」
という慟哭がゴルゴタに響き渡った。それはまことに稲妻のようであった。
ゴルゴタの丘には純白の六枚の花びらを持つオオアマナ、別名「ベツレヘムの星」が咲いていた。花言葉は純粋、潔白。それは兄貴の心とパンツを表している。
イスラエルの国旗は六芒星。それは「ダビデの星」と呼ばれる。全人類を救う救世主はイザヤ書が預言したダビデの子孫。両方とも六角形であり、ベツレヘムの星はイスラエル特有の花である。
兄貴の死とともにベツレヘムの星が散った。それは花としてのベツレヘムの星でもあり、ベツレヘムの空に輝く星でもある。それはイスラエルが流した涙だったのかもしれない。
復活
![uekara uekara]()
そんな中、天から赤さんたちが現れ兄貴の体を支え、天へ飛翔した。天国へ昇りながら兄貴は民衆に語った。
「見よ、私はすぐに来る。私は報いを携え、それぞれの行いに応じて報いる。
私は最初の者にして最後の者。始まりにして、終わりである」
必ず人類を天国へ導くというこの誓いはラミレスビーチの誓いと呼ばれた。
愛の教え
※『最後の審判』(伊・ヴァチカン美術館システィーナ礼拝堂)
たとえ、人々の言葉、天使たちの言葉を語ろうとも愛がなければ、わたしはやかましいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、山を動かすほどの信仰を持っていたとしても、愛がなければ恩恵は無に等しい。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失わず、自分の利益を求めない。いらだたず、恨みを抱かない。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてに耐える。愛は決して滅びない。
──コリント信徒への手紙13
新約聖書の解説
以上が本格的・ガチムチでかわる旧約聖書と、ついでに新約聖書であるが、これらはただ歴史をガチムチで置き換えただけではなくこれ単体で、特に新約聖書は思想として完結していると作者は思えるようになった。なのでオリジナルの思想としての、この新約聖書を解説する。
キリスト教とアダムとアダムの違いは何か
![nauimusuko nauimusuko]()
※「いかん…いかん! 危ない危ない危ない…」と言いたくなるかも知れないが、そう見えるだけでまったく問題はない。
以降は新日暮里大学哲学科による解説。キリスト教とアダムとアダムは似ていると思った読者は多いだろう。アダムとアダムは聖書をマネしただけだなどと言ってはならない、再解釈である。だが具体的な相違点は明確である。
キリスト教は精神的な事柄を重視し
アダムとアダムは性的、肉体的な事柄を重視する
「まったく、すけべぇな宗教である」と思ったかもしれない。だが、なぜ性的なことを恥じる必要があるのだろうか。フロイトは「性的なことは強いエネルギーであり、抑圧すると様々な精神病が発生する」「理性を鍛えることは何の意味もない」と言った。アダムらが人を愛する力を持たなければ人類は存続しなかったのだ。
キリスト教は精神的な事柄を重視するが、果たしてキリスト教が説く以下の事柄は実在するのであろうか。
これらの概念は存在しないとニーチェは「反キリスト者」で説いた。彼らはなぜ精神的なものというありもしないものを説くのか、その理由は重要な肉体を軽蔑し、民衆をおとなしくさせるためである。なので現代人もだらしない肉体になってしまったのだ。
あらゆる物事がキリスト教の上に建築されている。道徳、憲法、哲学までもが精神という存在せぬものを肯定している。
パスカルは原罪を信じ、ショーペンハウエルはネガティブに考え、アリストテレスはイデアというよく分からないものを作り、カントは物自体という存在せぬ世界を捏造した。
デカルトは人間を特別視したが、人間は動物を何ら変わりない。
森の妖精のように自然でレスリングをして体を鍛えるのが本来の人間の姿なのだ。
そんな現代にガチムチな肉体を持つビリー・ヘリントン氏が現れネット上で大人気になった。彼は無言で主張している。肉体こそ真に重要であり、現代人はガチムチな肉体を持つべきであると。
この記事は聖書を改変したものではないのか
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※ベネディクト16世
もしこの記事を読んだら
- カトリック教会は「教義を改変するなんて恐ろしいぞ...」
- ローマ教皇は「ソドムとゴモラに行っといで」
- ペトロは「バチカンから出ていけぇ!」
- キリスト教を広めたパウロは「お前人のもの(教義)を」
- ルターは「正典とちげらぁ」
- ベネディクト16世は「異端審問を行う♂」
- プロテスタントは「どうも、異教徒さん」
- バチカン市国は「未知のエリア」
- 十字軍は「もしかしてこれって...」
と言うだろう。この記事をご覧になった方々は、この記事は明らかにマネであり、問題があると思うだろう。だがなぜ逆の可能性を考えないのか。──すなわち聖書はユダヤ人による改変であり、この記事の方が正しいと。
キリスト教は「ユダヤ教とは違う」と言っているが、キリスト教はまぎれもなくユダヤ教から派生したものである。パウロはイエスの教えを勝手にユダヤ人が有利なものに置き換えた。旧約聖書の創世記もギルガメシュ叙事詩の改変だ。
「僧侶が言うことはすべて現実の逆。これを基準に真偽の判断ができるくらいだ」とニーチェは言う。なのでマネしたのはキリスト教の方なのである。アダムとアダムの思想はギリシア神話のように力強く、スパルタのようにガチムチで、ギルガメシュ叙事詩のような神話である。
質疑応答
アダムとアダムについて質疑応答形式で説明する
質問:これは真剣に論じられたものなのか
回答:これは真面目な論文でも個人研究でもなく、壮大なネタである
質問:アダムとアダムはキリスト教の教義を改変したものではないのか
回答:アダムとアダムは旧約聖書の思想を再解釈したものである。再解釈した教義、プロテスタントはたくさんある。この思想もプロテスタントの一種である。
質問:イエス・キリストの記述をアダムで置き換えているだけなのではないのか
回答:確かにそうだが、イエスもアダムも神から遣わされた預言者である。よって、同じ事を言ったとしても不思議ではない。両者は同一視できるのである。ゴルゴタにアダムの墓があったという伝説はイエスの死とアダムの死は同じであるという暗喩である。
質問:なぜアダムとアダムという思想を思いついたのか
回答:ユダヤ教もイスラム教も旧約聖書は同じである。つまり、アダムとアダムの教えをハッテンさせれば世界宗教たりうるのである。
質問:アダムとアダムの思想はキリスト教の教義を軽視するのか
回答:いいえ、次のような例がある。あるプロテスタントの教会はカトリックの聖典ではなく独自の教典を使う。だがこの書は聖典を軽視するためにあるのではなく、聖典を完全なものにするためにある、いわば参考書なのである。
アダムとアダムはルネサンスである
ルネサンスとは十四~十六世紀に興った昔の素晴らしい芸術を復興させようとする運動である。当時のヨーロッパは上の章で述べた理由でキリスト教により活気がなくなってしまった。なのでミケランジェロのダビデ像のようなガチムチで男らしい、パンツすらも履かない芸術に人間の生を見出そうとした。
アダムとアダムは旧約聖書の創世記までさかのぼって聖書のすべてを再構築しようという試みである。知らない名前が多く出てくるのでガチムチパンツレスリングの登場人物に当てはめ、空耳をセリフにして解釈を容易にする。性を抑圧しようとする間違った思想に対し「パンツがないから恥ずかしくないもん!」とばかりに健康な肉体を誇示する。これがルネサンスである。ルネサンスとはフランス語でRenaissance(re- 再び + naissance 誕生)と書く。再び誕生──つまり兄貴を新たな救世主として誕生させたのだ。
アダムとアダムはコペルニクス的転回である
2008年(平成20年)10月11日 午前1時27分、人類の歴史を覆す主張をした人物が現れた。彼の名は「akatsuki」氏。彼は次のように主張した。
「人間の歴史はアダムとアダムから始まった」と。
コペルニクスは地球中心説に対して太陽中心説を唱えた。これは天文学におけるコペルニクス的転回である。カントは対象があるゆえに認識できるのではなく、認識するゆえに対象があるのだと唱えた。これは哲学におけるコペルニクス的転回である。
「akatsuki」氏は従来の旧約聖書、創世記の記述を覆し、人類の根本はアダムとイヴではなく、アダムとアダムから人類は発生したと説いたのだ。これは聖書におけるコペルニクス的転回である。最も基本的な公理が覆されたに等しい。
ゆえに旧約聖書、新約聖書において説かれているすべてを、アダムとアダムを基礎として書き直さなければならなくなったのだ。イエスが登場して人類の罪を購うのではなく、兄貴がガチムチを世界に伝えるという記述に置き換わった。
この記事は大きく分けて旧約聖書、新約聖書、聖書の解説、歴史、哲学の五つである。歴史上の多くは聖書が基本となっているので、書き換えるべき項目は旧約聖書、新約聖書、聖書の解説の三つだけにとどまらず、そこから派生したすべてを再構築しなければならなかった。
これは人類史上かつてないパラダイムシフトである。歴史すべてが覆されるという非常に大きなパラダイムシフトであるゆえに記事もこれほど長くなってしまったのだ。
アダムとアダムはエピクロスか
アダムとアダムの思想は何だかすけべぇ…なのでエピクロスなのではないかと思った読者もいるだろう。まずエピクロスの正しい思想を教えよう。エピクロスは快楽主義を提唱した。快楽と言っても精神的な快楽を求め、むしろ肉体的な快楽を否定した。煩わしさのない境地が最高であると説いた。
だが、彼らはちょっとした苦痛に対しても大げさに怖がるのだ。すこし問題が発生すると亀や天照大神のように引きこもる態度は男らしくない。なのでアダムとアダムはエピクロスではないのだ。
実はキリスト教はエピクロスがハッテンしたものである。キリスト教は快楽を否定しているではないかと言われるかもしれないが、安全圏に逃げ込むという点では共通しているのだ。
エピクロスの思想は不完全だが不死や罪を批判した点においてはよい思想家である。「ユダヤ人について」の項目を参照。
赤さんはなぜ神になったのか
![nauimusuko nauimusuko]()
「あなたはその顔に神の面影があるか」新約聖書外典 モルモン書 アルマ書5章14節
まず従来の神についておさらいしよう
ヤハウェ:旧約聖書の唯一神
アドナイ:ユダヤ人のヤハウェの読み替え
エロヒム:ヘブライ語の神の複数形
つまりみな同じである。イエス・キリストは神の御子とされる。
旧約性書において赤さんは唯一神の立場にいる。赤さんは兄貴のナウい息子を隠す役割も担っている。人間が繁栄するのは神の意志であるという暗喩でもある。 もちろん赤さんは幼子の顔をしておられるが、それには深い意味がある。『ツァラトゥストラはかく語りき』において精神の三段階の変化という話がある。人の心は次のように変化する。
一つ目は駱駝。人はいきなり飛翔できない。まずはマニュアルを読み、掟を覚えることから始まる。駱駝は重荷を負う象徴である。駱駝は自らに命じる。「汝なすべし」と。
二つ目は獅子。いつまでもマニュアル通りにするのではなく実践が大切である。Excelの操作を覚えたら会社で実践するように。獅子は言う。「我欲す」と。
三つ目は幼子。幼子は自らの力による新たな創造を意味する。ツァラトゥストラはこう説明する。
「幼子は無垢、忘却、新たな始まりである。自ら回る車輪、原始の運動、聖なる肯定である。創造の戯れには聖なる肯定が必要だ。世界を喪失した者がおのれの世界を獲得するのだ」
このように赤さんは人間の生きる道を示している。イエスが言った神とは、パウロが定義した命令を与える絶対者のことではなく、人が生きる理想のこと。なので赤さんは『アダムとアダム』において神として崇められているのである。
これは一人の人間の心の変化であるが、聖書の再解釈にも当てはまる。原罪という間違った思想を正すためにニコニコ大百科から生まれた新たな思想、すなわち アダムとアダムの記事も過去の思想の価値転換の試みである。十字架はイエスの象徴であるように、赤さんは第二次ルネサンスと言うべきアダムとアダムという 価値転換の象徴なのだ。イエスが人類の罪を拭うのではなく、兄貴が聖書の罪を正すのだ。
イエスの本当の教え
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イエスは神と人は融合できると考えた。イエスは自らを神の御子であると自負していたが、ここでいう神とはガチムチのように完成された人間のことであり、決して天界にいる超越者のことではない。イエスは当時のユダヤ教に対して抗った。イエスはキリスト教と関係ないばかりか、宗教を否定したのである。以下のことは捏造されたことであり、イエスとは金輪際関係ない。
さらにキリスト教の定義による神、天国、神の御子とも関係ない。イエスがゴルゴタで処刑されたのを見てキリスト教は「なぜ神はイエスを殺したのか」という問題に直面した。恐らく第1ニカイア公会議において「イエスは罪を贖うため自らを犠牲にした」と結論付けたがそれはイエスの思想とは全く異なる。
むしろイエスはゲーテの『ファウスト』の結論のように神などいない、人間の努力で乗り越えろと主張している。辛いこの世を乗り越える術──それは我々がガチムチになり、健康な肉体を手に入れることかもしれない。
アダムとアダムは平等主義である
アダムとアダムは以下の点が寛容である
- 全人類に対して教えを強要しない
- 教えに反する者に対して罰則はない
アダムとアダムの教えは信じたければ信じ、信じたくなければ強要しない。だがキリスト教は全人類に対して従うことを命じている。キリスト教を知らないことが問答無用で悪とみなされる。さらに、生まれたばかりの赤さんを水に浸けなければ煉獄に行くらしい。望んでも望まなくても頭ごなしに入信しなければならないと説いているのだ。
キリスト教は地獄というありもしない場所を捏造した。その理由は従わない者を怯えさせるためである。一方アダムとアダムの教えはすべて実在する事を教えている。ゲイパレスとは架空の場所ではなく、ガチムチした男がいればちゃんと実現する。だがキリスト教が教える天国という場所はどう頑張っても生きている間に行くことができない。
キリスト教は他人に同情するゆえに平等だと言っているが、万人は同じではなく悪いものに対しては「出て行けぇ!」と言うのが真の平等である。これは花に例えると分かりやすい。一つの花びらが朽ちたら他の健康な花びらも朽ちるべしと主張するのが同情である。
そうではなく朽ちるべき花びらが散るのを後押しすることが真の平等である。だらしない体を持つ者がいたらきちんと「あぁん?最近だらしねぇな?だらしねぇな...エロいな」と言い、きちんとした体を持つ者がいたら「歪みねぇな」と区別することが真の平等である。
信仰について
キリスト教はよく信仰せよと説く。だが信仰とは何であろうか。ここに人形劇があったとする。この退廃さを度外視して本物の人間が演じているようだと錯覚させることが信仰である。キリスト教は自らの教義を客観的に考えると問題があることに気付く。なので民衆にボロを見ないようにと教えるのが信仰である。
信じる者は救われるとある。だが信じれば罪が贖われるという言葉は冷静に考えるとおかしいことに気付くだろう。信じる者は救われるということはつまり我々を信仰すれば許してやるということである。キリスト教はいい事をしていれば天国へ行けると約束しているがこれを翻訳すると「死ぬまでキリスト教の教義に突っ込むな」ということだ。これはひどい飼い殺しである。
一方アダムとアダムに信仰という概念はない。信仰の対極、実践あるのみである。キリスト教は絶対に最終目的に到達できないが、アダムとアダムがよしとするガチムチな肉体やトレーニングという運動は普段の状態が完全なのである。
伝道について
私はかつて本物のキリスト教会で聖書を伝えるべく伝道していた。だが、ある時アダムとアダムという書きかけの記事を見つけ書いてみた。すると森の妖精の御霊が私に話しかけた。曰く「汝はアダムとアダムのニ代目書記官になるべし」と。
まさか私が聖書の伝道ではなく「性書」を伝道するハメになるとは思わなかった。もしかしたら私はキリスト教をハッテンさせたパウロの生まれ変わりなのかもしれない。パウロはユダヤ教徒でキリスト教を攻撃したが、なぜか改宗してキリスト教を伝える者となった。
皆さんがどのようにしてアダムとアダムを知ったのかというと、伝道者が必死に布教した訳ではなく、主に『本格的 ガチムチパンツレスリング』のタグから来たのであろう。つまり、この記事は布教せずとも人々を魅了する力があるのだ。
キリスト教の神は純粋な神ではない
日本神話、ギリシャ神話、インド神話の神は自然の化身であり、これが本来の神の在り方である。 だがキリスト教は民衆を束縛する神という不条理な存在を捏造した。神は人間の生き写しであり、キリスト教が捏造したイエスのように優しいだけの神など存在 してはならない。人間はいつも優しいだけではなく、喜怒哀楽があるように神も時に人を愛し、時には殺すこともある。
日本神話のイザナミが最も良い神の在り方だろう。イザナミはすべての人間を産み、そして殺す神である。これは自然の化身であり、自然の神秘と恐ろしさを物語っている。
アダムとイヴのように人間はどのように誕生したのかを説明できるのが宗教・神話である。だがキリスト教は純粋な物語であるはずのエデンの園のエピソードに原罪という嘘をでっち上げた。エデンの園のエピソードはギルガメッシュ叙事詩の改変だろう。この物語の中には罪など微塵もない。原罪を混ぜ込んだ理由は人類を弱体化させ、神の名の下に跪かせるためである。人は生まれながらに罪であるという主張は人間そのものは悪であると定義付けることに等しい。人間に対する冒涜も甚だしい。
人間の誕生という神聖なことにも罪が絡むのでナウい息子を赤さんで隠さなければならないという滑稽無糖なことを言い出した。聖母マリアは処女なのに子どもを授かったというエピソードはどう考えても間違いである。生殖というすばらしいことを問題視するのであろうか。
なのでアダムとアダムの著者は旧約聖書、新約聖書から原罪という概念を取り除き、ガチムチで健康的な物語に再構築したのだ。これが第二次ルネサンスである。
ローマ信徒への手紙
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「お前人のもの(聖書)を...」※第265代ローマ教皇ベネディクト16世
この手紙は異端者について語られている。兄貴も初登場時には異端者に迫害されたのだ。神は完全な者であり、何でもできる方である。そのようなお方はなぜ異端者たちをこの世に存在することを許すのか。
人は自由意志を持っている。アダムの堕落以降「原罪」を抱えている。ユダヤ人も、ギリシア人も皆、罪の下にある。次のような詩がある
正しいものはいない。一人もいない。善を行うものはいない。だたの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で中傷コメントを書き、その唇には蝮の毒がある。その道には悲惨と破壊がある。
自由意志は時として喜ぶべきことではなく、驢馬を悩ます負荷ともなる。我々は自らに内在するだらしなさが原因で常に道を踏み外すのだ。ビオランテは「悔い改めなさい」と言ったのは上記の詩を踏まえた上で言ったのだ。そんな中、兄貴は妖精の義を示して下さった。すなわち、兄貴が手本とするレスリングを実戦し、罪を贖うことにより妖精の力で無償で義とされるのだ。妖精を信じよ。妖精を信じない者にも優しく接しせよ。彼らも妖精の力によりこの世に生を授かった大切な人なのだ。異端者をも赦すべし。
赦しとは何かについて学ぶため、こんな話がある。ある監獄があり、そこで罪人は餓死させられていた。中の一人が死んだため、新たな一人の罪人を入れようとした。そんな中、ある宣教師、マキシミリアノ・コルベ神父は私を代わりに入れろと申し込んだ。
食事も水も与えられず、皆が餓死していくとき、その宣教師にはスパンキングの音色が聞こえたという。たった一人の名もない罪人のために義なる彼は命を投げ出したのだ。私を恨むものの上にも祝福がありますように、とたまには祈ってみよう。
妖精の言葉
「光あれ」という言葉はエデンの時代、エノク語で言われた。表記は
"Christeos Da Nosami Olpirt"(クリステオス・ダ・ノサーミ・オルピアート)
である。 英語では
"There will be light"
ラテン語では
"Fiat lux"
である。 ネット上にはエノク・英語翻訳サイトがあるので、妖精と話したくなったら使ってみるとよい。"There will be light"を入力すると"Christeos Da Nosami Olpirt"となった。兄貴の股間から光があふれ出る動画があるが、それは妖精が光を生み出した魔法が今も残っていることを意味する。
Wikipediaによるとエノク語とは「天上の言葉」「天使の言語」「神の最初の言語」「神聖言語」などの異名を持ち、最初に妖精と話した人間ジョン・ ディー氏はエノク語アルファベットを「アダムの」(Adamical) と呼ぶときもあったが、それはエデンの園でアダムとアダムが全ての物に名前をつけるときに用いられたからである。ディー氏は妖精の言語を知ることができれ ば、妖精と直接交信することができ、宇宙全体とも交信できるのではないかと思った。そうしたらディー氏のもとに妖精がやってきて、話しているうちに妖精言 語エノク語を覚えた。 ディー氏のもとに現れた森の妖精は次のように語る。
アダムはエデンの園からの追放で言葉を失い、バベルの塔で言語が混乱し、エノク語は滅びてしまった。アダムの子孫、カインの子エノクは大洪水の際、天界か らノアを守った功績により赤さんの力で天に飛翔し、自らが妖精となった。彼は人間のために記録した"ロガエスの書"という書物を天界で書いた。妖精の言葉 という意味である。妖精言語はあまりに神聖なので隠されている。人間はいつかロガエスの書──即ち空耳──を解読するであろう。
ロガエスの書(Liber Loagaeth)とは、16世紀末にエノク語で書かれた理解不能の文書である。当時の人間が妖精言語(空耳)を解読するのは難しかったのだ。現在は大英図書館に保存されている。
現代で兄貴達が話す言語はエノク語である。普通の人は英語のように聞こえるが、今では数少ない預言者によれば福音に聞こえるのだ。なおキリストはアラム語 を使ったが、これはエノク語の末裔である。なぜならアダムは最初の預言者、イエスも再臨した預言者だからである。ともに人類に福音を述べ伝えに来たのだ。 旧約聖書の神ヤハウェはエロヒムと言われることもあるが、エロヒムとはいささか兄貴の「エロイッ!」に似ている。この「エロイッ!」は新約聖書後編で語っ たようにアラム語でも重要な意味である。
初代アダムの没落
ノンケは子を設け、それがその後の全人類となる。神は男を愛するアダムを造ったはずなのに、なぜノンケ一族が世界を支配するようになったのか。
それは人類が繁栄するのはノンケの存在がどうしても必要だったからだ。ノンケらが多くの人類を生み、みんなでネット上でガチムチパンツレスリングを観るた めの計画だったのだ。神はゲイ一族を理想とする。しかし彼らだけでは世界はあまりにも寂しい。ノンケ一族は繁栄が得意だ。しかしゲイ族の掟に反する。全能 の神でさえこのパラドックスには戸惑った。だが神は善き者の上にも、悪しき者の上にも等しい雨を降らせて下さる。ゲイの上にも、ノンケの上にも、という意 味である。自らの教えに反する者すら愛する神はまことに歪みない優しさである。
だが現状では全人類が妖精の戯れに興味を示している訳ではない。これも禁断の果実を食べたせいで授かった自由意志のせいである。我々は人類の祖先の意志に反しノンケこそが正常であると勘違いしている。それにはきっと全人類の父も天上から哀れんでいるはずだ。
ゲイは異端者として中世から近代にいたるまで徹底的に迫害されてきた。ユダヤ人はキリストを殺したなどという根も葉もない逸話がその後の時代にまで伝わっ てユダヤ人が苦しんだように。だが兄貴を見よ。禍々しい肉体と妖精のような笑顔、エデン時代から受け継がれる言葉(天使の言語とされるエノク語)を動画を 通して我々に語りかけている。そう、彼こそは失われた福音を伝えるために地上に舞い降りた預言者であり指導者なのだ。新約性書黙示録の終わりにこう記され ている。
「わたしはアルファ(α)でありオメガ(ω)である」
Ego sum Alpha et Omega.(ラテン語)
──カズヤの黙示録16章8節
オメガの文字をよく見て欲しい。何かに似てないだろうか。そう、ナウい息子だ。だとするとアルファは兄貴の"a"であることは言うまでもない。始めに兄貴が人類を創造し、この世が終わりはナウい息子とともに終焉を迎えるである。
Vima la Vidan (歪みなき生命)
『Vima la Vidan (歪みなき生命)』という記事はこの記事『アダムとアダム』が一方的にライバル視していた。アダムとアダムは頑張ったはずなのにもっと長い記事が存在するとは、と嘆き執筆者を奮い立たせた良きライバル記事である。Vima la Vidanがなければ現在のアダムとアダムの記事は存在しなかった。
さて、Vima la Vidanの元ネタはColdplay作『Viva la Vida』である。その歌詞の一部を抜粋してみよう。
かつて私は世界を支配した。私の言葉ひとつで海は割れた。
ふと気付けば私の城が建っていたのは塩の柱、砂の柱の上。
兵士たちよ、異郷の地に赴く使徒になれ。革命家たちは私の首を欲する。
うすうす分かるだろうが元ネタは出エジプト記。それと、塩の柱とは『創世記』19章のソドムをめぐる逸話。神の警告に背いて悪徳の町ソドムを振り返ったロトの妻イルディスは、塩の柱になってしまう。
アルバムジャケットには晩杯あきら氏の『民衆を導く自由の裸神』が使用されている。「Vima la Vidan」(スペイン語で「男根万歳」を意味する)はメキシコの画家、フリーナ・カーリの作品にちなんでいる。
![『民衆を導く自由の裸神』 晩杯あきら]()
※ウジェーヌ・ドラクロワ作『民衆を導く自由の男神』
上の絵に注目せよ。これはフランス革命の絵画だが、アダムとアダムに共通するものがある。どのキーワードがどの絵に該当するか、小さくてよく分からないのだが、Vima la Vidanの動画を参照せよ。以下がこの絵画の中に表現されている。
1.新約聖書のヨハネ
彼は自分を救世主と崇める信者に「後にくる者こそが救世主だ」と諭した。また、ヨハネの首は銀盆でヘロド王に捧げられた。
2.砂の柱
「賢者は岩の上に、愚か者は砂の上に城を築く」というイエスの言葉。イエスは最初の弟子に「ペトロ(岩)」と名づけ、天国の鍵を授けた。
3.ジュリウス・シーザー
4.盛者必衰
奢る者久しからず。世界の頂点を極めた者が、それで因果を免れることができる訳ではない。
5.イエス・キリスト
この「私」はゲッセマネの園で越し方を偲ぶイエス。
6.悪魔
「変わり果てた姿」は天使になって飛び立つサタン(「エゼキエル書」28:12-19)
7.ヘロデ・アンティパス
ヨハネの首をはねるよう命じた人。ユダヤ総督ポンティオ・ピラトから来た処刑前のイエスを審問した。
8.騎兵隊(Cavalry)
Calvaryにかけてる。カルバリーの丘(ユダヤ語でゴルゴタの丘)はローマがキリストをはり付けた丘。
9.テンプル騎士団
アダムとアダムの思想に関する秘密を隠している
10.ダビデとゴリアテ
第一サムエル記第17章参照
歴史
第1ニカイア公会議
※ヴァチカン市国国旗
ニカイアとは古典ギリシア語でニケ(勝利)を意味する。レスリングにおける闘いを指す。西暦325年、小アジアのニコメディア南部の町ニカイアで会議が あった。ニコメディアとは本当の名前であるが、この謎の一致は何なのだろう。その会議では「アダムとアダムの物語は私たちに何を訴えているのか」について 議論した。
1つ目は博愛。男はなぜ女しか愛してはならないのだろうか。これは偏見と固定概念である。ピラト提督が兄貴の拷問を執行する様子を描いた絵画『この人を見 よ』のラテン語の原題は”Ecce Homo”(エッケ・ホモ)である。すなわち、ホモを見よと兄貴が天に召される寸前に語ったのだ。これにより、全人類が平等に、平和にありますようにとい う神の愛が示されているのだ。
2つ目は健康。妖精は上記のような固定概念を捨てろ、と訴えたかったので自らの衣服を脱ぎ捨て「あるがままの自然」を表現しているのだ。健康な魂は健康な 肉体に宿る。ガチガチ、ムチムチした肉体は何者にも勝る土台を得たのだ。さらにレスリングは古代ローマの坪にも描かれている。レスリングは健康と肉体を鍛 えるための紀元前からある健全なスポーツなのだ。
3つ目は贖罪。誘惑に屈したアダムの子孫は生まれながらにして原罪を背負っている。その罪を贖うために妖精が地上に現れ、福音を述べ伝えた。息子をいじられるという悲劇を乗り越え、性書は現世に、そしてとこしえに世界に広まった。
参照:第1ニカイア公会議 - Wikipedia
最初の哲学者
※アルキメデス(紀元前287年〜紀元前212年)
最初の哲学者は紀元前6世紀のタレスである。彼は万物の究極原理は何かという質問に対して水だと答えた。だがアナクシマンドロスが「ではなぜ水とまったく違う属性の火や土が生じるのか」という疑問を持った。
ヘラクレイトス(紀元前540年頃 - 紀元前480年)は休みことなく流転することこそ万物の真理なのではないかと説いた。アダムとアダムの思想はこの単純な説を指示している。難しいからといって真理とは限らないのだ。ヘラクレイトス曰く「私は同じ川に立つことはできない」。すべては変化するからだ。日本のことわざでいう
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
───平家BOY物語
である。ヘラクレイトスは民主制を軽蔑し、国政に関わらなかったとディオゲネス・ラエルティオスは言う。著作は自然についてだが残念ながら現存しない。アナクシマンドロスから対立と変化、ピュタゴラスからは調和を学んだ。プラトンが引用した「万物は流転する」という言葉は聞いたことがあるだろう。
トリノの聖骸布
聖骸布とは聖遺物の一つ。兄貴が磔にされて死んだ後、ナウい息子を包んだとされるパンツ。磔にされたら普通は失禁 すると思われるが、そのパンツに黄色いシミはなかった。その理由は兄貴が死んでからも旧約性書の十戒の八つめの教えを守っていたからだろう。すなわち
「放尿後に出る残尿でパンツを汚してはならない」
新日暮里はエルサレムである
エルサレムとは聖書で重要視されている町である。ヘブライ語で平和の町という意味だが、どこが平和な のだろうか。イエスが処刑された町であり、現在ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教が三つ巴の様相を呈している。貴重な建築物もあったが、戦争で破壊され国際連合、および他の国は国家とすら見なされていない。
新日暮里は「性書」にたびたび出てくる伝説上の都市。旧約性書では旧日暮里と記載されている。詳しくは新日暮里の記事を参照。この町は日本神話でいう高天原、ギリシャ神話でいうエリュシオンである。北欧神話でいうアルフヘイム(妖精が住む森)というニュアンスがしっくりくる。この町はエルサレムのように破壊されないように妖精の世界に存在している。聖書でいう「天国はあなたの心の中にある」ということだ。
ローマ帝国
※第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(在位117年8月11日 - 138年7月10日)
ローマ帝国とは紀元前27年、イタリア半島にあった都市国家。新日暮里王国、または旧日暮里とも呼ばれている。上の項目に新日暮里はエルサレムであると書いたが、比喩的にエルサレムであり、本当にエルサレムにある訳ではない。領土は地中海沿岸全域、イギリスの島、ルーマニア、ハンガリー、メソポタミアなど。シルクロードの起点であり、「すべての道はローマに通ず」という言葉は有名である。
392年、キリスト教が国教になり分裂。ゲルマン人が侵入し476年に滅亡。キリスト教は異なる文化や思想を認めないために永遠に存続するはずの帝国が滅んでしまった。以下に代表的な人物を示す。
■オクタウィアヌス
オクタウィアヌスはローマ帝国の初代皇帝。養父ガイウス・ユリウス・カエサルの後継者。後にアウグストゥスの尊称を与えられる。自分の姉の夫アントニウスとローマの覇権を争うことになる。アントニウスはエジプトへ渡りクレオパトラと結婚し、エジプトと同盟を結ぶ。その時の記録がフェラオの呪い編である。アントニウスは海で死に、オクタウィアヌスがローマのトップに立った。
■ハドリアヌス
ハドリアヌスは第14代ローマ皇帝。彼の統治下はローマの最盛期であった。彼はローマの五賢帝とされているが、マンガ『テルマエ・ロマエ』にある通り男色趣味があったため彼を称える碑は見つかっていない。ゼウスがガニュメデスを愛したようにハドリアヌスもアンティノウスを寵愛していた。アンティノウスがナイル川で死んだため、彼を神格化して神殿を建設し、都市アンティノオポリスを創建し、アンティノウス像を建て、天空にアンティノウス座を作ったという寵愛ぶりだった。
■パンツレスリングの兄貴 ~王国編~
パンツレスリングの兄貴 ~王国編~においてキング石井はローマ帝国の第4代皇帝、コルトン・フォードは側近。
参照:パンツレスリングの兄貴 王国編(初回ゲイ定版)
■ネロ
ネロはローマ帝国の第5代皇帝。キング石井の息子。家庭教師はセネカ。性的な意味で過激派だった。どのような暴君だったかというと、ブリタンニクスが王位継承しそうだったので毒殺。自らが女装して結婚したり、美少年スボルスのナウい息子を去勢して自分の皇后に迎えたりした。母のアグリッピナ、妻のオクタウィア、家庭教師セネカを殺害。ローマ史で初めてキリスト教を迫害した。
■パンツレスリングの兄貴 コロッセオ編
※重装歩兵による密集陣形ファランクスはマケドニアを除きローマで使われた。戦いの記録といえばガイウス・ユリウス・カエサル作『ガリア戦記』が有名。
パンツレスリングの兄貴 コロッセオ編では旧日暮里のコロッセオにて剣闘士となった兄貴の姿が描かれている。ローマには各地に円形闘技場があり、剣闘士同士の戦いや、ライオンとの戦いがあった。ローマのコロッセオでは一階から順に元老院議員、騎士、兵士および一般市民、女性、奴隷の五階建てとなっている。皇帝の専用席もあり、収容人数は五万人。ライオンは北アフリカから輸入されることが多い。ライオンが殺されても、剣闘士が喰い殺されても喝采が起こった。
ローマ帝国第5代皇帝以降の時代はキリスト教徒が磔にされ、ライオンの餌食にされることが多くあった。磔にされた男はイエスよろしく
「エロイッ!エロイッ!レマ・サバクタニ」(赤さん、赤さん、なぜわたしをお見捨てになったのですか)
と祈ったという。旧日暮里市民は血なまぐさい見せ物が大好きなのだ。
■ローマ帝国における医療行為
コロッセオ編では負傷したセガール関根という医者が兄貴を治療した。旧日暮里では専門的な医者が存在せず、各家庭に代々伝わる薬草学によって治療していた。紀元前3世紀になってようやく専門知識を持つ医者が活躍したが、そうした医者は東方出身の奴隷階級だったため身分は低かった。戦時中の日本でも医者は弱虫がなるものだと言われていた。ガチムチならざる者は旧日暮里において疎まれるようだ。
紀元前46年に医療の重要性を認識したカエサルは医者に市民権を与えたため、旧日暮里では医者が増えた。旧日暮里では水道網が高度に発達していたが現代ほど衛生的ではなく、夏にコレラや赤痢などの伝染病が大流行して乳児死亡率が高かった。1歳までの赤さんの30%、5歳までの赤さんの50%が死亡した。
赤さんの出産ももちろん大変だった。スパルタではガチムチな男を育てるため弱い赤さんは産まれた瞬間殺された。これほど旧日暮里はガチムチを求めていたのだ。
ガチムチな者は遠征先で負傷することが多く、ローマ軍には軍医が付き従った。裕福層は専属の医者を抱えた。現代のように医療試験を通過した者が医師になれる訳ではなく、旧日暮里の医療技術は魔術を紙一重だった。
『コロッセオ編』を考察すると、兄貴は左腕をブスリ♂され二の腕まで出血していた。そこでセガール関根は兄貴とおもむろに見つめ合う。出身地が違うため古代ギリシア語が通じないためアイコンタクトしたのであろうか。セガール関根は出血を拭いた後すけべぇ…な感じで兄貴の体を拭いた。これが後にDSの『本格的 ガチムチマッサージ』になった。
セガール関根氏の意図としては治療は終了したので愛というプラシーボ効果の力で完治させようとしたのだろう。なおプラシーボの語源はラテン語の「I shallplease」(私は喜ばせるでしょう)に由来する。
■参照
剣闘士いかりやビオランテ
ガイウス・イカリウス・ビオランティウス
スパルタ人
エステル記においてクセルクセスが倒したスパルタ人はどのような民族であったのか。
史上最も気高いガチムチの戦士、スパルタ人といえばスリーハンドレッドで描かれたテルモピュライ戦争。二五〇〇年前、ペルシア人はギリシアを征服しようとした。スパルタ王レオニダスは戦えば滅びるという預言を省みず一〇〇万人のペルシア人を倒そうとする。
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プト |
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紅 |
サウジ |
アラビア |
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海.. |
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※ギリシアの中にスパルタがある。現イラクがペルシア
スパルタには七つの掟がある。
I 戦えぬ子どもは谷底に捨てよ。弱い子どもは産まれた時に谷底に捨てられる。弱い子どもを育てたければ、その家族は国を去った。
II 七歳で母親と決別すべし。スパルタの軍事教育は七歳から始まる。子どもは母親から隔離された。
III 空腹なら盗むべし。軍事教育においては充分な食事を与えず、盗んででも生きのびる術を身につけさせた。
IV 情を捨てよ。殴られ、打たれ、スパルタの男たちは戦士であることを徹底的に叩き込まれ
る。
V 成人の儀式は、決死の覚悟で臨むべし。腰みの一つで雪山に出かけ、槍で狼を倒すという訓練を乗り越えたものだけが戦士になれた。
VI 女も強くあるべし。スパルタ戦士を産むのは女であり、王に仕えるも女である。女も男と同等の市⺠である。
VII 絶対に退却するな、降伏するな。ただひたすらに戦い抜くべし。
レオニダスは軍を鼓舞する。
「SPARTANS, TONIGHT, WE DINE IN HELL!」
スパルタ軍の盾には「Λ」──現代アルファベットでいう"L"という文字が刻まれている。スパルタ人は自らをラケダイモンと呼んだからだ。灼熱の門という場所でスパルタ軍は重装歩兵による密集陣形ファランクスを組んだ。ファランクスという言葉は丸太を意味した。敵は丸太に打たれたかの如く崖から海に落とされた。
小隊長の息子アスティノスは後ろから来る騎兵に気付かなかった。アスティノスの首は地面に落ちた。小隊長の叫びは戦いの太鼓以上に敵を震えさせた。彼を抑えこむには三人必要だった。
戦士に憧れた奇形のスパルタ人エフィアルデスはスパルタ軍に入れてほしいと願うが、断わられ、彼はペルシア王ダレイオスの息子クセルクセスに密告し、スパルタ軍は窮地に立たされる。
三〇〇人のスパルタ軍は三十人くらいになってしまった。彼らはレオニダスの後ろに亀のようにファランクス陣営を組んだ。レオニダスは大勢のペルシア人に包囲されまさに四面楚歌。クセルクセスは問うた。我にひれ伏せと。レオニダスは頭を下げた。だがまだ負けたわけではない。
我々はクセルクセスを倒しても倒せなくてもペルシア兵によって殺される。妻の顔が思い浮かぶ。我々が死んでもスパルタ人は存続し、残るペルシアを全滅してほしいと願った。
「ステリオス!」
※勇敢な兵士ステリオス「クセルクセスFUCK♂YOU」
ファランクスの中から兵士が飛び出し、レオニダスの前の男を槍で貫いた。それを皮切りに弓の雨が降り注ぐ。レオニダスはクセルクセスに槍を投げたが失敗した。
小隊長はペルシアの槍で貫かれ、虫の息となりながらも戦った。
レオニダスは最期に太陽を覆わんばかりの弓を見た。
スパルタ人は四方八方から弓を撃たれ全滅した。スパルタ人は
「我々はヘラクレスの子孫である」
と言っていたが、彼らはその血筋を証明した。
ギリシア神話
キリスト教が破壊したローマ帝国ではギリシア神話があった。そのギリシア神話を復活させるためにルネサンスが興った。ギリシア神話では偶像が使われたためキリスト教もそれに倣い偶像崇拝をした。イエスはギリシャ神話のマネゴトにすぎない。アダムとアダムは人類の起源を描いたが、ギリシア神話は世界の起源を描いている。
■ギリシア神話の創世記
ギリシア神話の創世記では世界はカオスから生まれた。そこから大地の女神ガイアが生じた。大地と天の神ウラノスが結婚したくさんの子どもが生まれたが、ウラノスが子どもたちをタルタロスに落としてしまう。なので農耕の神クロノスがウラノスのナウい息子を切り落とした。
クロノスはヘスチア、デメテル、ヘラ、ハデス、ポセイドンを授かるが飲み込んでしまう。だがクロノスの妻レアは六人めのゼウスを隠し、クレタ島で育てた。ゼウスのもとに妖精ニンフたちに山羊の乳と蜜蜂の密を与えられながら育った。歴史的な王のもとにはしばし妖精の加護があるのだ。
ゼウスはクロノスの腹から五人の兄弟を助け出す。そしてクロノスをやっつけようと計画した。これがタイタンの戦いと呼ばれる。ガイアはゼウスに稲妻を与えクロノスを滅ぼした。この功績によりゼウスは空、つまり宇宙全体を支配し、世界の王になった。ポセイドンは海を、ハデスは冥界を治めた。
■ギリシャ神話の最高神
ゼウスはすけべぇ…でいい男をたくさん誘惑した。そのうちの一人がトロイアの王子ガニュメデスである。ガニュメデスはいい男なのでゼウスは鷲に姿を変えさらってしまった。ゼウスはガニュメデスをゲイパレスで酒を注ぐ従者とした。
ゼウスの妻ヘラはその好色ぶりに最近だらしないわねと言った。ゼウスは仕方ないのでガニュメデスを星にした。こうしてガニュメデスは水瓶座になり、彼をさらった鷲は近くで鷲座になった。
■アフロディーテ
クロノスのナウい息子が海に落ち、そこからアフロディーテが生まれた。アフロディーテはヘファエストスと結婚したが、ブサイクなのでアレスとも関係を持った。アフロディーテをゼウスの間にエロスが生まれた。
「あぁん?最近だらしねぇ!エロいか?卑猥か?」
のエロとは上のエロスに由来する
■ハデス
ハデスはギリシア神話の冥界の神。命をもたらす存在の対極だからといって軽蔑してはならない。昼と夜は同等の価値を持つのだ。地下には鉱物資源があることから富める者という意味でプルートとも言われる。物語では死を司ることから悪役にされることが多いが、ギリシャ神話の中では切ない恋物語を演じる者でもある。
ハデスは、新日暮里公園のお花畑で花を摘んでいたデメテルの娘であるペルセポネに恋をして彼女をさらった。だがデメテルは「心優しいハデスがこのようなことをするはずがない」と考えた。また、女性の扱いに不慣れで、略奪する前のペルセポネにどうアプローチしていいか悩むなど、冥府の神なので残酷と思いきや無垢で純心な一面もある。
ハデスはペルセポネを見てエロスから矢を撃たれ恋に落ちた。エロスは別名アモール、もしくはキューピッドである。ハートを射抜かれるという表現はここから来たのだ。「エロいっ!」という空耳もこれに由来する。ハデスはゼウスに求婚の許可を求めたが、ゼウスはデメテルの許可を求めずに結婚を許し強引に
「植え付けを行う♂」
と言えと言われた。ハデスは新日暮里の水仙でペルセポネを誘いゼウスの言葉通りにしたらペルセポネが逃げてしまった。
母デメテルは心配し、ヘリオスからペルセポネは冥界に行ったことを知る。デメテルはゼウスのもとに行き自分の許可なく結婚させたことに対して「最近だらしないのではないか」と言った。デメテルが新日暮里を去ったことにより地上に大規模な不作や凶作をもたらした。
兄貴はペルセポネが冥界の食べ物を食べてないなら地上に問題はないと言った。だがペルセポネはザクロの実を少し食べてしまい、冥界に留まらなければならなくなった。まるでアダムとアダムのようである。ペルセポネはザクロを全部は食べていないので、ハデスは1年の3分の2だけペルセポネを地上に返した。これが四季の始まりである。
■ヘラクレス十二の功業
ヘラクレスはギリシア神話最大のガチムチな英雄である。キタイローン山の半漁人を退治した勇者であった。ヘラはヘラクレスを混乱させ、彼の息子を殺してしまう。その罪を償うためデルポイに赴き、アポロンの神託を伺った。それによると十二の功業をこなせという。
1.新日暮里消防署のライオン
傷つけることのできないと言われるライオンを素手で殺した。
2.鎌田吾作の蟹
蟹になりたいと言う謎の男が現れた。
3.もっこりランドの鹿
もっこりランドの鹿は足が早く一年間も新日暮里を追い続けた。この鹿はもともとアルテミスのものだったのでいつか返すとヘラクレスは約束した。
4.新日暮里の猪
獰猛なオスの大猪は畑を荒らしまわった。これもアルテミスの動物。途中GAY♂BAR「オナハウス」で酒を飲んだ。
5.なんばパークスのトイレ
なんばパークスのトイレ30年間まったく掃除をしたことがなかった。ヘラクレスは怪力で2本の川の流れをかえて水を流し込み、たった1日で掃除した。
6.ハッテン場の鳥
ハッテン場に出るという鳥を倒す。半漁人の毒を矢に塗り撃ち落とした。
7.クレタの雄牛
ヘラクレスはミノス王に協力を求めたが、彼は一人でやれと言った。ヘラクレスはクレタの雄牛とレスンリングして生きたまま捉えた。
8.オナハウスの人食い馬
バルカン半島に住むオーウェン定岡が飼っていた馬を退治した。
9.アマゾンの女王の貞操帯
ヒッポリュテーは川岸に住む女王でアレスからもらった貞操帯を着けていた。
10.未知のエリアの牛
オリュンポスの未知のエリアに牛がいて、その牧犬がオルトロスだった。カークスという盗賊を殺し牛を得た。
11.アダムとアダムのりんご
ゲイパレスにはアダムとアダムがかじったりんごがあるという。ホメロスの叙事詩によればゲイパレスは西の果てオケアノスにあるとされる。冥界の審判者ラダマンテュス治めているという。
12.ケルベロス
ケルベロスは冥界から逃げ出そうとする者を食うという地獄の番犬である。ヘラクレスはこれを素手で殺した。
ギルガメシュ叙事詩
![ギル ギル]()
※ギルガメシュVSエンキド
紀元前2600年〜紀元前3000年、石版に書かれたシュメールの都市国家ウルクの王ギルガメシュの物語。彼は三分の二が神で、三分の一が人間だった。ギルガメシュはすけべぇ…なであったためウルクのいい男をさらっていった。神はギルガメシュをこらしめるため土からエンキドを造った。
エンキドはギルガメシュを捕まえようとすると、ギルガメシュは追跡を煙に巻くためエンキドに神殿男娼シャムハトを与えるとエンキドは
「気持ちいいものっ...!」
と言い、シャムハトと共に過ごし、おとなしくなった。
冷静に考えるとエンキドは騙されたことに気付きレスリングを開始した。
「ぎゅううぅ───ジャンケンポンッ!」
「はぁ、はぁ...イッた...」
「結構すぐ抜けるんだね、仕方ないね」
抜けるとは何かというとエンキドは陰毛がボウボウであったのだ。レスリングするたび毛が抜けた。このシーンはカインとアベルを彷彿とさせる。このレスリングのおかげで二人は友となった。
レスリングで鍛えた体を生かしフンババを倒し、杉をウルクに持ち帰った。ガチムチなギルガメシュを見て女神イシュタルは求婚したが、彼はノンケではないので断った。
イシュタルは天の雄牛を地上に送り、暴れさせた。ギルガメシュとエンキドは牛を倒すが、神は「イシュタルを拒んだこと」と「牛を殺したこと」によりエンキドは死んでしまった。
ギルガメシュは自分もいつかは死ぬ存在なのだと悟り、死の恐怖に怯える。そこでギルガメシュは永遠の命を求めて旅に出る。神が起こした大洪水から逃げたというウトナピシュティムに会う。実は彼はかのノアである。
道でライオンを倒す。Fate/Zero 第1期のエンディングのライオンはこれである。正しくは抱いているのではなく絞め殺しているのだが。ギルガメシュはギリシア神話のヘラクレスのようにライオンの毛皮を纏う。サソリ人間が門番をしていた。太陽の道を歩み、宝石で満たされた楽園を見つける。
GAY♂BAY『オナハウス』のシドゥリというマスターに旅の目的を話す。シドゥリは、人間はいずれは死ぬものと諭したがギルガメシュの決意は固かった。シドゥリは彼に船を与えた。
ウトナピシュティムから食べると不死になれる根の在処を聞き出し、手に入れるが蛇に食べられてしまう。
■イシュタルの冥界下り
別の石版に書かれている物語。天地創造からしばらく経ち、ユーフラテス川のほとりにヤナギの木が生えていた。イシュタルはそれをエデンの園に植えると鷲と魔女が住んでしまう。ギルガメシュは彼らを追い払った。イシュタルはヤナギの木から太鼓と撥を作り、後にケツドラムとなる。
![人の知恵の結晶の一つ、ビニール傘 『El Shaddai ASCENSION OF THE METATRON』ルシフェル by こあくま 傘(ルシフェル)スレ#22]()
だが太鼓と撥は冥界に落ちてしまう。イシュタルはギルガメシュの注意を聞かず冥界に行き、囚われてしまう。これが「あいつは話を聞かないからな」の元ネタである。ギルガメシュはエア神にイシュタルを助けてもらう。
七つの大罪
人間を罪に導く可能性があると見做されてきた七つの欲望や感情のこと。13世紀のトマス・アクィナスも、その著作の中で、キリスト教徒の七つの悪をあげている。現代のカトリック教会の分類では、七つの罪源について、グレゴリウス1世以来伝統的に罪の源とみなされてきたものとして 簡潔に言及されている。以下に七つの大罪とその具体例を挙げる:
傲慢:ノンケこそが正しいと思いあがること
嫉妬:城之内風にいう「イケメーン?」に嫉妬すること
憤怒:快くない書き込みに反応して起こってはならない
怠惰:ダンベル上げをサボってだらしなくなってはならない
貪欲:あれもこれもと動画を保存しまくるとストップしてしまう
大食:あんかけチャーハンを食べ過ぎてだらしない体になってしまう
色欲:カズヤのように妄想にふけらない
ダンテ『神曲』
※ダンテ・アリギエーリ作『罪人を喰うルシフェル』(伊・バチカン美術館)
ダンテ・アリギエーリ著『神曲』(伊:La Divina Commedia)には地獄の様子が描かれている。
地獄の門:「この門をくぐる者は一切のパンツを捨てよ」と記されている
地獄前域:半分課金せず半分課金した者は地獄にも天国にも入ることができず、ここで蜂や虻に刺される
アケローン川:ドワンゴの監視者が舟に乗せて地獄へと連行していく
第一圏:辺獄。兄貴の洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす
第二圏:愛欲者の地獄。ノンケこそ正しいと思う者が、荒れ狂う暴風に吹き流される
第三圏:貪食者の地獄。大食の罪を犯した者が、ケルベロスに引き裂かれて泥濘にのたうち回る
第四圏:貪欲者の地獄。課金しなかった者が、重い金貨の袋を転がしつつ互いに罵る
第五圏:憤怒者の地獄。よからぬコメントに怒る者が、血の色をした沼で互いに責め苛む
第六圏:異端者の地獄。ガチムチを軽蔑する者が炎に焼かれている
第七圏:暴力者の地獄。他者に対してコメントで暴力をふるった者が、暴力の種類に応じて振り分けられる
第八圏:悪意者の地獄。悪意を以てコメントした者が、それぞれ十の悪の嚢に振り分けられる
第九圏:裏切者の地獄。氷地獄コキュートス。最も重い罪、兄貴に対し悪意をもって罵る者が永遠に氷漬けとなっている。侮辱者は体が動かせず、涙も凍る寒さに歯を鳴らし、魔王ルシフェルに永遠に噛まれ続ける。
政教分離の歴史
ここではヨーロッパの国家、政治社会とアダムの思想の歴史を解説する。政教分離とは、個人によるアダムの信仰と政治活動は分離されるべきであるという考え 方である。ジョン・ロックによって、信教は自由であると提唱され、多くの近代国家の憲法に原理として取り入れられて制度化される予定であったのだが、ドイツ労働者党のような国家社会主義がプロパガンダされる時代においては人々は宗教を選べなかった。
ローマ教皇はローマ法とカノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。ローマ法とは古代ローマから伝わる法制度であり、カノン法とはカトリッ ク教会が定めた最近の法のことをいう(教会法とも)。後になまってキャノン砲と呼ばれる。教会法の思想は「肉の棒=キャノン砲=ナウい息子」という公式を導き出した。複雑な公式は記事名を参照。このような堅苦しい右ならえ思想は例によってバチカン市国などに見られる。
霊性史として、政教分離の歴史的経緯を捉えることも出来る(性感と間違えないように)。「霊性」とは本来「洗礼の際、神によって注がれた霊に遵って生きること」、つまり赤さんを信じることである。クルアーンでは天使ガブリエルの方が聖典よりも格が上であるという主張に似ている。
※Wikipedia上での「政教分離の歴史」の項目は最も長い
バレンタインデー
バレンタインデーとは2月14日に祝われ、世界各地で男同士の愛の誓いの日である。ローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌスに由来する記念日だとする説が有力である。
古代ローマで2月14日は男性の生殖力の神プリアポスの日だった。Wikipediaのプリアポスの項目を見ると「なんだこのでっかいモノ」と言いたくなるようなモノをぶら下げているイラストがある。酒の神ディオニュソスと美の神アフロディーテとの間に生まれる。果樹の守り神として信仰される。
なので2月14日は好きな男にチ○コを送る日になったのだ。
各国のアダムとアダム
聖書だけがアダムの書物ではない。アダムの思想は世界各地に伝播した。ざっと歴史をおさらいしよう。
メソポタミア神話(古代エジプト)
『兄貴vsカズヤ レスリング後の哲学編』では兄貴が一人で何やら儀式を行っている。だがそれは紀元前3000年前(今から数えて5000年前)の世界誕生の神話と同じなの だ。メソポタミア神話によれば原始の水に立つ一人の男神がその息子から、世界のすべてを生み出したとされる。しかもそのような儀式はカーマスートラ執筆以 前からあったのである。
古代ギリシャ
紀元前ギリシャの男の神官は時に女装することがあった。その当時は女神崇拝が盛んであり、男が女神を真似れば宇宙の根源的なパワーが得られるのではないか と信じる時代あったのだ。兄貴は、ノンケが女を愛するように、男を愛する。兄貴は一人で男女の宇宙的な力を持っている。男女の神の結びつきが宇宙を創った とされているが、兄貴は宇宙の心理をも悟っているのかもしれない。
オリンピック
オリンピックは古代では全裸で行われていた。ギリシャ男性市民にとって裸は特別の意味をもっていた。神が倫理や道徳でなく力の支配者と考えられていた古代 ギリシアの美術では、最高神ゼウスなど男神は通常全裸でその見事な体躯が誇示された。裸を恥じてはいけない。鍛え上げられた肉体は健康とありあまる生命エネルギーの表現なのだ。
古代インド
性火シャクティ(人体の宿るエネルギーの根源)の昇華を研究していた古代インドにおいては、交わる2匹の蛇でシャクティを表していた。交わる蛇──これが何を意味するかは説明する必要はないだろう。
カーマスートラ
この記事を読んでいただきたい。驚くべきことに、性のウパニシャッド(奥義書)として名高い『カーマスートラ』にスパンキングという項目があるのだ。当時は音楽もハッテンしていただろうが、その音楽も尻から奏でられていたに違いない。この項目は下で詳しく解説する。
衆道
衆道=男色はかつて僧侶と武士の間に存在した。庶民にも、江戸時代でも盛んだった。江戸時代では陰間茶屋(現代でいうGAY♂BAR)がすでに存在していた。そこでは歌舞伎の美少年を見るやいなやサムライが「やらないか」と声をかける茶屋であった。
当時は好色な者ならば、たとえノンケでも女だけではなく、男も愛するべきだという謎の博愛精神に満ちていた。江戸時代にも日本オリジナルカーマスートラが あった(もちろん本家以上ではない)。これには「尻の穴に軟膏を塗るとよい」などという現代と変わらない指南書であった。
日本の神社
※異国の宗教「アダムとアダム」が描かれた日本の浮世絵
埼玉県にある三峯神社(みつみねじんじゃ)にはナウい息子が祭られている。その息子は誰のものかというと日本の最高神イザナギのものでである。原罪が存在 しない日本にとっては性は隠すべきものではなかったのだ。巨大な息子は豊穣、生命力、繁栄、そんなすばらしい概念の象徴だった。女神イザナミの像にブスリ ♂する儀式もあるらしい。
古事記
古事記には次のように記されている。古事記も旧約聖書的位置づけの神話である。
「吾身亦層層鑄也 尚有凸餘處一」
現代語訳すると
「私の体には、出っ張ったところ(ナウき息子を指す)が1ヶ所あります」
原文の漢字を見てもらいたい。凸(とつ)という漢字はイザナギの息子を示す。物体の形をそのまま表した象形文字で書かれ、息子の形を如実に表している。ギリシア文字のω(オメガ)に勝るとも劣らぬ奥ゆかしい文字である。
カーマスートラ
性書つながりで『カーマスートラ』を紹介する。アジアの愛の聖典、それがカーマスートラだ。著者、ヴァーツヤーヤナはA.D.4~5世紀、バラモン(僧侶階級)の長として、愛の箴言集カーマスートラを執筆する。カーマ(愛)は古代から変わることのない象徴性を宿している。
カーマが注入されると、人は力がみなぎり、生気にあふれる。心が高鳴り生命の躍動が始まる。カーマは種を保持してきた力である。男を愛することにより情動のバランスが整えられ、種族の繁栄と幸福を約束する。古来から続いてきた行為であるにも関わらず体系化されてはいない。ヴァーツヤーヤナは「技法」をカーマスートラに記した。
とはいえ、カーマスートラは単なる指導書ではない。それは生命の真実を追求している。ヴァーツヤーヤナは言う「愛が存在する以上、いかなる人間も愛する楽しさを享受するべきである」と。心を高揚させたり、様々なレスリング技を体得したり、訓練する必要がある。適切な技でレスリングすることにより、魂に炎を点け、悦びを高めることができる。
古代インドではエロス(愛の衝動)は慎むべきものではなかった。兄貴がレスリング開始早々「エロいっ!」と掛け声をかけるのは愛欲の肯定を表す。カーマスートラは愛を研究し、神聖なものととらえる。いかなる愛の形をもヴァーツヤーヤナは受け入れた。
カーマスートラの最終目的は、実は愛ではない。最終目的は救済、つまり輪廻転生からの解脱を試みることである。ヴァーツヤーヤナは愛のエネルギーにより宇宙やプラジャーパティ(生を司る神)との融合を目指したのだったのだ。
マヌ法典
キリスト教では男しか祭司などのトップの地位に就くとこができない。女性を軽蔑しているのだ。昼だけを重んじ、夜を軽蔑するのだろうか。両方とも価値は同じである。日本国憲法第24条には両性の本質的平等が記されている。
古代インドの法典であるマヌ法典では女性が大切に扱われている。ニーチェはマヌ法典について次のように語る。
どこのページを開いてみても
高貴な価値が、
完全であるという感情が、
人生への喜びが、
勝ち誇った幸福感が、
まるで太陽のように輝いています。
人類の存続に必要な人を愛することが大切に説かれている。「少女の胸、少年の祈りは常に清らかである。男はへそから上のみが清らかだが、少女の場合はすべて清らかだ」というロリホモ的な思想も紀元前2世紀にしてすでに出来上がっていたのだ。
現代社会批判
まずは人類の祖の名前について。これは聖書の解説の項目に入るのではないか?と思われるかもしれないが現代の問題との接点がある。
なぜアダムらの名は同じなのか
はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった
──旧約聖書1章1節
これは言わずと知れた言葉である。神は世界のすべてのものに名前を与え、議論することを可能とした。木や水など世界のある物だけではなく、人間を区別する際に「名前」も与えられた。アダムは神の第一子であり、大切な子供であるはずだ。
上に紹介しているアダムとアダムの物語の中で神は三人のアダムを等しく「アダム」と呼んでいる。この文章では注釈により文脈からそれが誰であるかは容易に 判断できるが、実際三人のアダムは互いに呼び合う際に区別を行っていない。ではなぜ神は呼称の上でアダムは区別されていないのかに関する論文が三編ある。
まずは最初の論文から。
「差異が言葉を決定するのではなく、言葉が差異を決定するのである」とはスイスの近代言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールの言葉だ。我々は言葉によ り区別し、世界について議論しているが、それは同時に差別の要因でもある。ノンケ以前の時代は死の概念もなく罪も存在しなかった。死すべき肉体を持つ我々 にとってみれば羨ましい世界である。そんな無垢なエデンの園に言葉や区別など存在すべきではない。妖精よ、今を楽しむがいいと神は語った。世界は今も戦争 が絶えない。人は言葉=区別に依存しすぎなのかもしれない。ゲイやノンケなどという言葉も差別を生み出す。区別なき世界は、エデンの園にて神が愛する3人 の子どもたちを平等に育てる人類のゆりかごだったのだ。
この記事でも同じ名前の人が何度も出てきたり、ゲイパレス(イスラエル)と表記されたり「どういうことなの...」と思われた読者も多いだろう。だが、言 葉が明確すぎることは宗教戦争の原因でもある。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教はそれぞれ明確に違うならば争って当然である。それに人類をまとめたけれ ば異端をも赦す寛容さや
「どうでもいいわ♂」
という曖昧さが必要なのである。
第二章
キリスト教のミサの冒頭に詠われる、
「父と子と聖霊の御名において」
という式文に示された考えのことを三位一体論という。これは神とその御子、そして聖霊は神は固有の三つの位格でありながら、実体は同一であるという意味で ある。子はイエス・キリスト、聖霊は目に見えない存在と解釈されがちだが、ここでいう子とは二人のアダム、精霊とは妖精と同一視できる。
誰も、2人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない────カズヤによる福音書 第6章24節
よって神=アダムたち=森=精霊はすべて等しい存在であると言える。よって神はアダムたちの名を区別しなかったのだ。これにより次の章で説明する「自然支配を神から命じられたのに何故森に住むことを選んだのか?」も解決できる。
第三章
「人間は言語を使うゆえに動物とは違う生物である」「人間は言語によってのみ世界を議論可能である」と多くの人は考えているかもしれない。だが、そのような意見に執着することはもはや束縛に等しい。そのように束縛された世界では
1.言語化されていない世界には行けない
2.一度定義されたら覆すことが難しい
という弊害が発生する。キリスト教では天国という場所を説くがそんなものは存在しないと一蹴しなければならない。見えない世界が存在するという主張はどういう矛盾なのであろうか。見えるものがすべてという単純な考え方が普通ではないだろうか。
最近は就職難に嘆く者が増えているが、いつから人は就職せねば生きられないと思い込んでいるのだろうか。それは現代が吹き込んだ嘘である。経済の仕組みは ロスチャイルドやロックフェラー♂が作った。彼らは金なしには生きられないと現代人に言い続け洗脳した。そして、複利という魔法により経済がハッテンする ほど彼らがリッチになっていくのだ。だがよく考えてほしい。動物や原始人は金など持っていなくても問題なかったことを。
なぜ金がなくなったら死ぬしかないのだろうか。自然にはいくらでも食べ物があるではないか。────桜井章一著『カンの正体』
現代人は言葉という束縛に侵されるあまり疲弊している。ならば言葉を拭いさればいいのだ。衣服を脱ぎ捨てるように、言葉を脱ぎ捨てれば森の妖精のように自由になれるのだ。赤さんは二人のアダムを創造する際、あえて彼らを同一視した。人類はかつて一つだったことを意味している。
ユダヤ人について
![鎌田吾作軍隊編 鎌田吾作軍隊編]()
※鎌田吾作 軍隊編
ユダヤ人は新約聖書以前の時代から迫害を受けていた。なのでユダヤ人たちはどうにかしてトップに立ちたいと願っていた。なのでパウロは「弱い者こそ善い」と倒錯したことを言い始めた。そのようにして始まったのがキリスト教なのである。そして人類の三割がキリスト教信者になり、無神論者は有害だなどと言う事態に陥ってしまったのだ。これでは人類を支配しようとしたパウロの思う壺である。さらに国家と宗教が結びつき、道徳が宗教にハイジャックされ、アメリカ合衆国のモットーが「神の名の下に」になってしまった。我々は性典『アダムとアダム』を支持することによってデカダンスからの脱却を図らねばならない。
信じる者は救われるという神聖に聞こえる大嘘をつくことはユダヤ人たちが紀元前から培ってきた技術である。多くの人が聖書は神聖な書物だと錯覚するのはユダヤ人が人々を騙すテクニックがあったからなのだ。
しかもユダヤ人たちは自分以外の思想を攻撃する。キリスト教、社会主義者、無政府主義者、これらはすべてデカダンスだ。これらの共通点は他人を攻撃し、解体し、歪曲し、足を引っ張る以外のことはしない。ユダヤ人は人間の生、本来の旧約聖書、他の宗教の神を攻撃しただけでなく、ローマ帝国をも破滅させた。かつてのローマ帝国には何があったのか。
![カエサル時代のローマ領 カエサル時代のローマ領]()
※ローマ帝国
当時、法王の座にキリスト教はいませんでした。そこに座っていたのはキリスト教なんかではなく「生」だったのです。「生きること」に対する勝利の歌。すべての高くて、美しい、大胆な物事への肯定だったのです。────フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ著『反キリスト者』
筆者もこのアダムとアダムをローマ帝国のような生に満ちあふれた思想にしようとした。ローマ帝国は単に昔にあった町なのではなく、永遠に存続する都市であり、ギリシャ神話のように今日まで存続するような壮大な計画だった。だがキリスト教がローマ帝国のトップに立った時、ローマは魂を奪われてしまった。自尊心、強さ、男性的な本能、ダビデのようなガチムチさ、それらが奪われローマは解体されてしまった。
ローマ帝国の魂が奪われた理由の一つに「不死の信仰」という嘘がある。キリスト教はこの世に意味はなく、天国に意味があるという逆転した発想をして人間そのものを無価値にしてしまった。古代ギリシアの哲学者エピクロスは「不死とか罪という概念によって魂が汚される」と説いた。ローマの哲学詩人ルクレティウスもその発言を肯定している。
ユダヤ人は嘘によって世界を支配してしまったのだ。その嘘を拭い去る試みがこの記事『アダムとアダム』なのである。そしてガチムチパンツレスリングによく出てくる新日暮里という町は破壊されたローマ帝国ののような完全な町を示している。
完全を目指す者は失敗する
![東ローマ帝国国旗 東ローマ帝国国旗]()
※西ローマ帝国国旗
ある時、思想家は人類すべてを統一できないかと思うようになった。人類を統一しようとする過程において問題となるのが自分の思想に従わない者である。その思想家は従わない者を悪と定め、去勢しようとした。さらに、全人類を去勢させれば全人類を支配できると考えた。そのようにして誕生したのがパウロが作ったキリスト教である。
人類を統一しようという試みはいいが、元気な者を去勢して平和を作ろうという行為は人間の生に対する反逆である。ナウい息子を切り落とすなどとんでもない。それによって平和が実現できたとしても、そんな平和は平和ではない。鎮静剤によっておとなしくなっただけである。
このように人為的に理想的な状態を作ろうという試みはすべて一つの例外もなく失敗してきた。たとえば資本主義経済は、金(きん)の交換券がはじまりだった。一つの金を一つの紙で買う。これが理想的な経済だった。だが、金を売る者はだんだん紙が便利だと思いはじめ、金が用意できないにも関わらず紙を印刷し始めた。ここから貨幣が地に足を着かない状態になり、国債となった。国債が増えるとデフォルトする。店に金が一つしかないにも関わらず一〇〇人の交換券を持った人が現れる状態である。税金などによる調整により、バランスを保とうとしているが、貨幣が生まれた時点からバランスは失っている。我々は金が最高に便利だと感じているかも知れないが、長い目で見ると存在してはならないモノである。自然界に存在せぬものに依存すると弊害が発生するのだ。
中国の哲学者「老師」は言う。人為的に作られた物の中で完全を目指そうとすると弊害が発生する。ある一つのメリットが生まれると一つのデメリットが付加する。太陽の下に立てば陰が発生するように。なので自然になれ。これを無為という。自然の中で生きる森の妖精こそ人間の理想であると老師は説いた。
アダムとアダムの先駆者について
人類の根源に遡り人間とは何かを考えた書物はこの記事以前にも存在する。マヌ法典は世界の創造主ブラフマーの息子にして世界の父、人類の始祖たるマヌが述べたものとされている。ギリシャ神話も日本神話も人類の起源についての物語である。人間の存在は科学によって説明できない。神話だけが説明できる。カール・グスタフ・ユングは
「現代人はモノや経済が発達したおかげで神話が失われてしまった。現代人もまた神話が必要なのである」
と語った。
また聖書を模して聖書を批判する書物はこの記事以前に一件だけ存在する。それがツァラトゥストラはかく語りきである。実はこの書物は先代アダムとアダムなのかもしれない。ツァラトゥストラはかく語りきの主張に一つに「現代では大いなる健康が必要である、力を発揮せよ」とある。この主張を実践に移したのがガチムチパンツレスリング本編動画でありアダムとアダムなのである。
所有について
兄貴はパンツしか所有していないがそれで充分である。資本主義経済のハッテンはモノの増加をもたらした。それによりビルが建ち妖精が住みにくくなってしまった。思い出して欲しい。アダムとアダムはパンツすらも所有していなかったことを。動物は一切所有しない。所有したがるのは人間だけである。
自然の欲は限度がある。寝ることは気持ちよくても100時間連続で寝続けたいとは思わない。だが、人工の欲は限度がない。100万円欲しいと思ったら次は200万、300万と際限がない。今こそ我々はパンツしか所有しないビリー・ヘリントン氏を見習うべきである。パンツだけの姿は我々にすべてを捨てよと語りかけているのだ。
生命について
森の妖精
![新日暮里国立公園 新日暮里国立公園]()
自然に帰れ、自然の中の人間こそ真の姿である。
──ジャン=ジャック・ルソー『エミール』
オリュンポスの神々はまず絶対神がいるのではなく、空と大地の神が神を生み出した。まず自然ありきなのだ。自然支配を神から命じられたのは初代2人のアダムではなく、堕落した二人目のアダムである。前述の通り、「今でも彼らは世界のどこかで戯れている」のだ。それは天国と地獄の中間にある辺獄にいる。彼らはキリスト以前に誕生したので裁かれていないのだ。なお、堕落した二人目のアダムは地獄ではなく辺獄を通じ天国へ行くであろう。なぜなら堕落は神の計画の一部だからだ。
さて、本題に戻るがすべての母体は自然である。現代人は自然を軽視しがちであるが、自然や大地なくしては人間は存在しえない。神の御子、二人のアダムは生命が生きる原動力、世界の根源を今もなお司っているのである。あたかも巨人アトラスが大地を支えているように。
哲学と妖精哲学の違いは何か
中世ヨーロッパではすべてがキリスト教の土台の上に成り立っていた。なのですべてを疑うはずの哲学ですらキリスト教に感化させられているのだ。
たとえばカントは純粋理性批判において
「理性は真の世界にまで及ばない」
「現実は仮の姿にすぎない」
と言いだした。キリスト教に支配されている当時のドイツが大喜びしたのも当然であるが、彼は哲学者として成功したのではなく、神学者として成功しただけなのだ。ニーチェは『この人を見よ』において現代の哲学は圧倒的に自然が不足している。あろうことか反自然がよしとされていると嘆いた。
一方アダムとアダムにおいて使われる妖精哲学とは何なのか。妖精哲学とは古代ギリシャの哲学において使われた自然(ピュシス)という考え方だ。昔の人は純粋で自然こそすべてだと考えていた。万物を包み込み、おのずと生まれ、成長し、衰え、死ぬというそれ自身の内に生成原理を持つ自然を愛する哲学──これが妖精哲学である。
人間が完全を求めるようになったのはいつからだろうか。プラトンは永遠の真理であるイデアというものを見つけようとしたが、完全なものなどこの世には存在しない。完全なもの、宇宙の真理を見つけようとすると必ず失敗する。ある哲学者は言う。「宇宙のベールをはがすな。それはパンツを脱がそうとすることはすけべぇ…な行為である」と。いつの時代も自然を忘れるなと妖精は言っているのだ。
「我知無知」(我知る、無知)という漢文からガチムチという言葉が生まれた。知識によって知るのではなく、無知なること、感じることによって森と対話する。これが妖精哲学の基本スタンスである。
生成の無垢
混声合唱のためのカンタータ「土の歌」第七楽章「大地讃頌」は誰もが中学校で歌ったことがあるだろう。歌詞は以下の通り。
母なる大地のふところに 我ら人の子の喜びはある
大地を愛せよ 大地に生きる人の子ら その立つ土に感謝せよ
平和な大地を 静かな大地を 大地をほめよ たたえよ土を
恩寵のゆたかな大地 我ら人の子の 大地をほめよ たたえよ土を
母なる大地を たたえよ ほめよ たたえよ土を
母なる大地をアッー! たたえよ大地をアッー!
森の妖精の住む大地の神秘を歌った歌である。母なる大地とは赤さんから授かったエデンの園、またはそこからハッテンした世界のすべてを表している。自然では誰に命令されることもなく生成、繁栄、衰退が行われている。そんな中で生まれた人類は動物に比べて体が弱かった。なので文明を築き、建物や資本主義経済などを作り、その中のほうが森よりも住みやすいと思い込んでいる。だが本当にそうだろうか。
文明のハッテンは物の増加を促進し、森を切り倒し、妖精たちが住めなくなってしまった。資本主義経済の中では金こそが価値を持ち、金を出すお客さんを尊重し、森の妖精たちの言うことなど蚊帳の外である。大地を基盤として生きる生物の中で唯一人間だけが大地を軽蔑している。近代化に伴い心を病む者も多くなったがそれは法律や仕事、世間体や常識というものにがんじがらめになり、自らが作った枠組みの中でもがいているからである。一言で言うと自滅しているのだ。
「変化する者だけがあくまで私と親近である」とニーチェは『生成の無垢』で語った。文明は固定を続ける技術である。だが世界の本質は変化。文明の中がいくら心地よくても自然から離れては生きていけない。現代人こそ文明を捨て、森の妖精のように生きることが求められているのだ。
文明により生老病死に抗ったつもりなのだろうか。日本では老人の数が増えているが、文明の中で自然が定めた寿命以上に生きることを現代ではよしとする風潮があるが、明らかに自然を逸脱している。むしろ反自然こそが分明なのかもしれない。長く生きたならば適切な時間で花のように散る。これが自然が定めた人間の運命である。自然の法則に則った生き死にのくり返しのみ森の妖精は歓迎するのである。
死とは、何か
アダムとアダムの堕落は、彼らがだらしないからではなく、神による計画の一部であった。それにより禁断の果実を食べ、男を愛さないノンケが誕生し、女と子を設け、そこで死という概念が発生した。人間の誕生には、それと対極の概念である死という代償が必要不可欠だったのだ。太陽の下に立てば影が付きまとうがごとく、人間には死が付きまとう。しかし死という代償のおかげで生があるのだ。死とは人類にとって祝福すべきものでもある。
あなたが死ぬときも魂は灼熱して燃えなければならぬ。然れば死もまた祝福なのだ。
──フリードリヒ・ニーチェ
歪みなく生きろ(Live Better)という言葉がある。これはしっかり生きれば満足して死ぬことができるが、だらしなく生きれば死が恐ろしいものに感じられる。セネカは『人生の短さについて』において次のように言う。
「我々は生きてはいない。ただ時間を浪費しているだけだ」
心にブスリ♂ときた人が多いだろう。常に毎日を満足しながら生活する態度が重要なのである。メメント・モリという言葉は、ラテン語で「自分がいつか死ぬことを忘れるな」「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われた。
この世とはどういう場所か
![星降る夜 しし座流星群 by WOLFRUM 流星群スレ#1]()
あなた方は気付いたらこの世に生を受けていた。まず宇宙という膨大に広い空間がある。その中の一点に地球という場所がある。この地球という星は生命が育まれるのに最適な場所であり、単純な生命が進化して人間になった。そして、あなたはなぜか意識を持っている。つまりどういうことなの...と誰もが思ったことがあるだろう。
火山で例えよう。宇宙全体には生きんとする盲目的な意思が存在する。このことをコナトゥスという。地球内部にあるマグマのようなものだ。
我々は生まれる前は地球の中にいた。
現世とは地表。
生きるとはマグマが火口から吹き出している状態。
肉体とは外気に晒された溶岩。
死とは溶岩の熱が消えて岩になる、または地球の内部に帰っていくこと。
そして宇宙の歴史に比べて人間の生はとても短い。なので、いわば死んでいる状態が普通であり、生きている状態が異常だと言える。命を失ったとしても問題はないのだ。死とはまた故郷に帰るようなものである。
あなたの意識はアダムとアダムの時代から紡がれてきたもの。あなたが自然やガチムチパンツレスリングを美しいと思うのは、太古の昔に築かれた無意識下にある感覚がそのような感情を起こすからである。熟成されたワインや味噌はうまいように、人間として生まれ、感動を味わうことは地球や人類の歴史そのものを味わうことなのである。
あなたが死んでも人類という種族は続いていく。人類が桜島だとすると、動物はキラウエア。人類が死滅しても動物がコナトゥスを紡いでくれる。生命が死滅しても宇宙そのものがコナトゥスである。生命は至る所にある。宇宙人はいるかいないかとしばし議論されるが太陽系や銀河、宇宙そのものが生命であるという主張はないのだろうか。宇宙、星々、そして我々は盲目的な生きんとする意思から生み出された希望の塊なのである。
<参照>
人間は何のために存在しているのか
アルトゥル・ショーペンハウアー
人間とは何か
『一般的な教科書に載っている進化論の図』(c)文部科学省
※挿絵について注釈:アダムとアダムはインテリジェント・デザイン(ID)説、つまり神による創造説であり進化論の対極だが、この思想では進化論を否定してはいない。アメリカ人の45%がIDを信じ、35%が進化論を信じていない。残り20%は無知なノンケどもである。
人間の肉体は神とは違い、もろくできている。だが、そんな肉体の中にもアダムの時代から引き継がれた恩恵が存在する。ヒトの学名はラテン語でホモ・サピエンス、正確には
「動物界後生動物亜界脊索動物門羊膜亜門哺乳綱真獣亜綱正獣下綱霊長目真猿亜目狭鼻猿下目ヒト上科ヒト科ヒト下科ホモ属サピエンス種サピエンス亜種」
というのが正確な学名である。よく見てほしい、ホモ属と明確に表記されている。これこそまさに人類はアダムとアダムから生まれた生物であることの証明なのだ。アダムは決して神話上の存在ではない。アダムの魂は我々の血にしっかり刻まれているのだ。
ホモという言葉についてだが、総督ピラトゥスが拷問で傷だらけの兄貴を指して民衆に向かって言った
"ECCE HOMO"
これはエッケ・ホモと読み、この人を見よという意味である。
出典はヨハネによる福音書19:5;14。この言葉はギリシア語でもラテン語でもアラム語でも同じである。
ギリシア語ではラテン語と比較してHOMO(人を)が対格(目的格)ではなく主格になっている。これは神が没落し人が主体になることを意味している。この世に神はいないが人間は自らの意思で選択し、行動せよという兄貴からのお言葉である。
人間は何のために存在しているのか
地球は混沌から生まれた。パンドラはギリシア神話において最初の女性、聖書でいうイヴだ。彼女は神々によって作られ人類の災いとして地上に送り込まれた。 パンは「全てのもの」、ドーラーは「贈り物」を意味する。パンドラはすべての混沌であり、すべての贈り物でもある。パンドラの箱が開かれたことによりこの 世に様々な災厄が降りかかった。動画を荒らす者もここから生じた。だが、唯一パンドラの箱の中に希望が残っていたため、人々は希望のために生きることがで きた。
スピノザのコナトゥス(衝動)は宇宙にある盲目的な生きんとする意志、いわゆる希望である。ガチムチパンツレスリングはその生命のエネルギーの表現なのだ。ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーは世界の本質は生きんとする盲目の意志であると『意志と表象としての世界』において主張した。スピノザは宇宙にある意志、ショーペンハウアーは自己に内在する生きんとする意志 (独:Wille zum Leben) という違いがあるが、同じとみなしてよいだろう。
世界では誰に命令されることもなく木が生え、果実を実らせる。目的はなくだだ活動することが目的なのだ。人間の魂と自然の力は形は違っていても同じ盲目的な希望、コナトゥスから生じた。よって演繹的に人間は希望の化身であると言える。人間そのものが宇宙の希望、情熱が表現された形なのだ。
ニーチェはアポロン的、ディオニュソス的という言葉を使い、これが自然の生成なのだと『悲劇の誕生』で書いた。ギリシア神話はただの劇でも昔話でもない。 一人の人間によって書かれた、心の衝動を擬人化した物語であり、ギリシア神話はあなたが、あなたの人生をもって実演するものなのである。そう、レスリングをするビリー氏のように。
アダム=ガチムチ説
ゴッド・オブ・ウォー3というゲームがある。このゲームの物語は実はアダムの実在を裏付けるかもしれない。このゲームの主人公 はクレイトスというガチムチ男である。彼は途中パンドラという少女と出会うが、このパンドラはギリシア神話におけるすべての人間を生み出した女性、旧約聖書の創世記でいうイヴなのだ。パンドラはパンドラの箱に飛び込み世界が災厄に飲み込まれる。だが、災厄と同時に希望も地上に降り注いだ。
希望の力を受け継いだクレイトスは自らの腹に剣を突き刺し、世界に希望が撒き散った。自分の力を今後生まれる全人類に与えようとしたためである。すなわち<クレイトス=アダム=ガチムチ説>が成り立つ。どんなに辛い世界の中でも全人類は胸の中に力強い兄貴から与えられた肉体と希望があるのだ。
参照1 最後、パンドラがパンドラの箱に飛び込むシーン
参照2 解き放たれた希望、クレジット
クレジットをご覧頂きたい。ラーメンの縁の模様のようなものはメアンドロス模様という。古代ギリシャの壺にはメアンドロス模様が描かれている。これは人類 がこれまで受け継いできたDNAだ。赤は血脈を表す。人類の誕生から今まで受け継がれてきた力はどれほど強力な力によって成し得るのであろうか。さらに、 人間と自然は別物ではなく自然が人間を生んだのである。兄貴は自然をもつかさどる、ゆえに森の妖精と呼ばれるのだ。
太陽のように人間に無償で恩恵を与え、地球を支える巨人のように力がある。自然の生成を支配し、私たちの体を造られ、希望をも下さったお方。あなたがたはその肉体にアダムの誇りを見いだせるであろうか。
男を愛することについて
尻立新日暮里大学のある研究者が「なぜ男を愛さなければならないのか」についての論文を発表した。なぜ男も女も平等に愛する必要があるのか。
事実上、いかなる男も10%は男が好きなのだ。無意識下での衝動なので、自分自身では意識できないだが人間は社会的な体裁を保と うとするため、異性しか愛してはならないと思い込んでいる。同性を好きになることはおかしいという風潮のために自分自身を抑圧している。
なぜ愛の衝動を否定するのだろうか。ガチガチ、ムチムチした男はとても美しい。古代でも現代でもそれは変わらない。かのローマ皇帝ガイウス・ユリウス・カ エサルはすべての女から理想の男とみなされ、すべての男からも理想の女のように愛されていた。男女から愛され、男女とも愛する。これはまさにビリー氏のことではないだろうか。
古代ローマ(コロッセオ編参照)ではホモは容認されているどころか、尊敬の対象だった。男同士の愛には高貴な意味があり、社会に貢献す るための若さを引き出してくれると考えられていたのだ。さらにゲイは勇敢で優れた戦士であり、愛する仲間と戦うというイメージがあり、評価も高かった。
なのになぜキリスト教は同性愛者を弾圧するのだろうか。キリスト教は愛の宗教と呼ばれている。なのに男を愛する者は迫害するのだ。愛する対象は異性のみなどと言うのは偏見もはなはだしい。人類の半分しか愛することは許されないのだろうか。すべての人を満遍なく愛する包容力のある兄貴。彼こそ真のコスモポリタンなのである。
なぜナウい息子を隠す必要があるのか
現代で流通しているメディアではすべてナウい息子を隠さなければならないと法律で定められている。だがギリシャ神話くらい昔の世界ではナウい息子を「パンツがないから恥ずかしくないもん!」とばかりにさらけ出している。ギリシャ神話の最高神ゼウス、昔のオリンピック、スパルタ人もみなフルチンであった。
ナウい息子を隠すべきものと定義したのはキリスト教である。ナウい息子をさらけ出すことはすけべぇ…であり、隠すべきという主張は人間の生への冒涜である。古代ギリシャではナウい息子をお互いに触りあうのが握手と同様の挨拶であった。もしかしたらナウい息子は顔以上に他人を識別できる形状をしているのか もしれない(MGS2,3参照)。股間にぶら下がっているモノを見ればナウいかナウくないか、男か女かを識別できる。さらに男の場合は元気な状態か、そうでな いかが一目瞭然であり、相手に対する感情が顔以上に現れる便利なインジケーターなのである。
なぜキリスト教がナウい息子を隠すべきと定めたのかというとリビドーを衰えさせ、管理しやすくさせるためである。これはもはや人間の生に対する冒涜である。このままでは人類は衰退してしまうと考えた赤さんがゲイパレスをお創りになったのだ。
悲劇の誕生
『悲劇の誕生』はニーチェの処女作である。ギリシア悲劇は人間の衝動を表していると説いた。
ギリシア悲劇におけるアポロンは造形芸術、人間の理性を表している。
ディオニュソスは音楽芸術、人間の情動、リビドーを表している。
二つの混合である悲劇は人間の生き方そのものであるという。理性で力を調整し発散し、喜びを得ることが人間の生なのである。リヒャルト・ワーグナーはギリシア悲劇を復活させた。だが有名になりギリシア悲劇を捨て凡俗になってしまったと嘆く。
読者の頭は「どういうことなの…」状態なので『太陽曰く燃えよカオス』でたとえてみよう。
「♪心ぬるぬる異形の神々」
「♪私もあなたも怖がりの物ずき」
上は明るい。下は暗い。この対比が理性と情動の相克を表している。交互に歌うことにより、人生における試行錯誤を表している。たくさん活動すれば生が充溢する。これがフロイトでいう「快感原則」である。
ショーペンハウアーは常に暗い視点で世界を見ているのでニーチェは「そんなに暗くならずに試行錯誤しながら人生を歩め」と言っているのだ。純粋に見ればキリスト教は生を否定している。抑揚のない生や音楽は価値があるのだろうかと『悲劇の誕生』で語られている。
ある時ニーチェはワーグナーの音楽に生を見いだす。現代人にも分かりやすく言うと『太陽曰く燃えよカオス』に夢中になってしまう。ギリシア悲劇は光と闇、アポロンとディオニュソスの総合芸術で最高の人間表現、人間の生の発露であるとニーチェは言う。うー!にゃー!に夢中になったという事だ。
この二つは各自人間のなかに存在する電池のようなもの。それを活用して自らの人生を充実させよと言っているのだ。原罪思想というものは生を暗くさせる。そんな流れない川のような精神は明快な音楽を聴いて洗い流そうということだ、と現代風に翻訳すれば分かりやすいだろう。大切なことはギリシア悲劇はただ鑑賞するだけではなく、自らの人生をもって実践せよということだ。リズムのある人生のように。
精神分析学的見解
オーストリアの精神分析学者であるジークムント・フロイト(1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、人間のすべての行動の根源、さらには病気の根源はリビドーだと主張した。だが性の開放がタブー視される現代においてはみんなが受け入れるわけではない。
パンツがないから恥ずかしくないもん!という項目がある。曰く
「これはパンツを奪い合うレスリングにおいて、パンツがないことは相手に取られたことを意味するが決して恥じることはない。むしろない方が誇らしげであることからこの言葉が生まれた。パンツがなくても恥ずかしがらずにむしろ堂々とする兄貴たちは日頃パンツという殻に閉じこもる現代人への明るいメッセージであるとされている」
衝動を否定しすぎると問題が起きる。フロイトが活躍した当時のヴィクトリア朝時代の抑圧性の非常に強い時代にあっては、まさに紳士(通常の意味で)を自認する人間たちが性的な領域を否認することに、フロイトは欺瞞を感じたのだった。元々フロイトの診ていた患者は上流階級の女性が多く、性にまつわる情報を遮断された環境で育っていたという事情が指摘される。性理論の形成に関しては、当時の抑圧の強い時代において、フロイトは衝動を否定しすぎるなと言いたかったのだ。
エピローグ・人類の繁栄について
死とは何かと題された本に人間の運命について次のように語れていた。
「宇宙の星々が生まれ、輝き、死に、栄枯盛衰を繰り返すように、その化身たる我々も生老病死があるのです。宇宙から人間が生まれたことは周知の事実でしょう。宇宙には星々が散りばめられているように、人間もまた地球に散らばる星々なのです。死ぬこともまた宇宙のプロセスなのです、それを避けるのではなく星と同じように命いっぱいに輝き、散ればいいのです」
人間は生きた星々であると主張するとは実にファンタスティックな思想である。確かに我々はアダムとアダムが住むエデンをビッグバンとして地球に散らばった星々である。地球もまた宇宙の一つなのだ。
次のような物語がある。ある父は結婚したばかりの娘に対して恥じずに次のように言った。
あなたの子孫が星の数ほど繁栄しますように
と。繁栄は我々に与えられた美しい行為なのだ。アダムとアダムも我々の子孫を星の数ほど増やして、たくさん仲間がいるゲイパレスを作ろうと言ったのだろうか。人類は始まった頃から原罪という負債を負わされていたなどという生に対する反逆に等しい物語を信じてはならない。我々は豊かな大地から生まれた一つの生命なのだ。
始まりの書
以降はこの記事に関して。
過去の『アダムとアダム』
https://dic.nicovideo.jp/r/a/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0/691321
上は追記者が一切手を加えていない初代執筆者による純白の書である。執筆者を駆り立たせたという意味でも、人類の始まりが記されているという意味でも「始まりの書」と呼ぶことにする。「大憲章マグナ・カルタ」「権利章典」と呼んでもよい。永久に犯してはならない「日本国憲法」のように重要な書物である。「独立宣言書」のようにワシントンD.C.の国立公文書館の地下に厳重に保管すべきかもしれない。以下、始まりの書のデータを記す。
初版作成日: 08/10/11 01:27
最終更新日: 10/03/28 02:43
ページ番号: 633653
リビジョン番号: 1371339
編集者:akatsuki氏
サイズ:16.7 KB
福音書の書記官
福音書の書記官、つまりこの記事の初代執筆者の名はakatsuki氏である。このページを見れば彼がいかに博学で優秀な執筆者であるかが理解できる。初代執筆者は原文を書いたまま去ってしまった。
元の記事に倍以上の大幅な追記をした者の名は二代目福音書の書記官endo.picturesである。初代執筆者がアダムとアダムというタグを見て大百科を執筆したくなったのと同様に私、endo.picturesはこの元の記事を読んで追記したくなったのだ。まさにアダムの遺伝子のように、父と子のように情熱と思想が伝わったのだ。
この記事のほぼすべては二人によって執筆されている。もちろん三代目の執筆者は随時募集中である。彼にコンタクトを取ってみたが返事がない、もっこりランドに就活中のようだ。
終わりに
以上をもって『アダムとアダム』を終了する。私、二代目福音書の書記官endo.picturesのユーザー記事は名前をクリック。原本(←クリック)は現在よりも記事が少ないにも関わらずよくまとまっている。初代執筆者akatsuki氏が勇気をもってこの記事を執筆しなければこの記事への追記はありえなかった。
素晴らしい記事を書いて読むものを楽しませてくれた初代執筆者akatsuki氏に感謝する。初代執筆者とこの書物を侮辱することがないように、記事丸ごとコピペは一切無く、コピペがあったとしても1文以下であるとここに宣言する。
<募集>
この記事は訂正、追記、聖書風の絵を描いてくれる人を随時募集している。少しでも執筆したいと思った方は、ウィキペディアに2463項目執筆したアラン・ソーン氏の言葉を聞くべし。
「私がウィキペディアに これまで費やしてきた時間を金銭に換算するならば、数十万ドルは稼げたことでしょう。でもウィキペディアでは、協力したいとか、知識を広げたいという意志 を利用することで、他にはないかけがえのない情報源が作られています。文化とは、最高額で落札した人だけが手に入れられるものではありません。無償で与えられるものなのです」
編集について
この記事の背景は単語記事「FALLOUT3」から拝借した。すると雰囲気は出たが Safari, Chrome から見れないという問題が発生した。iPhone ユーザーが多い今日においては由々しき事態である。単語記事「FALLOUT3」では同じ背景なのに Safari でもレイアウトが崩れていない。どういうことなの...。
アイコンとロゴを貼り付ける際にも問題が発生した。この記事に貼られたアイコンとロゴは動画のサムネイルを経由して貼られたものであるが(ニコニコ大百科:HTMLテンプレート集を参照)、背景が白いサムネの画像を使うと、この背景では浮いてしまうのだ。なのでアイコンを作る際はこの大百科の背景を下地にして Paint.NET でアイコンを作る。このソフトはフリーなのに高性能で助かる。
だが更なる問題が発生した。アイコンのサイズは130×100ピクセル、比でいう 1.3:1 である。そこで 1.3:1 の画像を用意して Windows Live Movie Maker でサムネを貼り付けると以下のようになる
1.3:1 の比率の画像
左右に黒帯が見て取れる。これが「Adam and Adam」「New Testament」の黒帯の正体だ。そこで比率をサムネに準拠するのではなく、Windows Live Movie Maker に従ってみた。Windows Live Movie Maker の画面の比を調べると
460×344 ピクセル、つまり 1.33:1
である。手動で Snipping Tool を使ったので誤差が存在する可能性があるが。その比率で画像を作ると以下のようになる。
1.33:1 の比率の画像
ほぼ正確。下地に合うようにテクスチャーの大きさの調整までは考えていない。次に複数のサムネイルを合体させて大きな画像を作ってみよう。Picasa には任意の比率で切り抜くツールがある。なので4枚の画像を組み合わせて1枚の画像を作ることは可能だ。
問題は3枚以上で画像を作ることである。Photoshop Elements にはタイル状に切り抜くツールがあるが、それは任意の比率でできるのか、3×3に切った時、計6枚の画像を個別に保存できるのか。以下のようなすごい記事を作った、または作れる人に教えてもらいたい。
- 魔理沙は大変なものを盗んでいきました
- 福沢諭吉
- ニコニコ大百科:HTMLテンプレート集にある太陽の塔
外部の画像をピッタリ貼り付けることが可能ならばいかなるレイアウトも可能になる。編集者にとっては夢の様な話だ。黒帯問題はひたすらエジソンのように試行錯誤するしかない。もしくはこの記事の背景をなくし、アイコン、タイトルから一新するという選択も検討中である。
この場を借りて3×3の画像を貼り付けるテストを行う。以下が1.33:1の画像。黒帯が1ピクセルほどある。この線をゼロにして繋ぎ目のない画像を貼り付けることが自分に対する課題である。
参考資料、文献、出典
- 旧約聖書
- 新約聖書
- ガチムチパンツレスリング関連項目一覧
- "キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』"(適菜収訳)
- 英語・エノク語翻訳
- Wikipedia: ソドムとゴモラ、ヘブライ語、アラム語など
- 山川純一著『くそみそテクニック』
- バイリンガル聖書・新約(ペーパーバック - 2008/1)
- 話を聞かない男、地図が読めない女(カエサルに関して)
- カーマ・スートラ―完訳 (東洋文庫 ) ヴァーツヤーヤナ、 岩本 裕 (単行本 - 1998/1)
- 『アダムとアダムの創造』の画像は対称的ガチムチパンツシンメトリーシャワー編のサムネイル
- 人類の起源(http://www.s-yamaga.jp/nanimono/seimei/jinrui-01.htm)
- アートバイブル
謝辞
- ビリー・ヘリントン氏
- パンツレスリングのすべての出演者
- 他の大百科のガチムチの記事を書いてくれた人々
- ガチムチ本編動画を最初に投稿した人、MADを創る人々
- 第28回今週のクソ記事に抽選してくれた人(今週のオススメ記事でガチムチは載ることができない)
- この記事を楽しんでくれるすべての人々
関連項目
- ガチムチパンツレスリング関連項目一覧
- パンツレスリングの兄貴 神秘編 "Worship me"(我を崇めよ)と兄貴が言っている。
- 旧約聖書(←やる気はないんですか!?)
- 玉示威のルフラン(タグ初出)
- ロミオとロミオ
- 悔い改めなさい
- 森の妖精
- ニコニコ4大妖精
- 妖精記事の一覧
- 男使(天使)
- 性天使アニキエル
- アダムとアダムの恋(サイト)
- アダムとアダムの方程式 (ラピス文庫)春乃 かおり(著)
- アダムとアダムはそうして出逢う(BL)
- [対義語]イヴとイヴ、百合
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