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アレクサンドロス

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アレクサンドロス(Alexandros)とは、ギリシア語圏で用いられる男性名である。欧州圏で同義の名前は広く用いられる。(英:アレキサンダー、羅:アレクサンデル露:アレクサンドル、伊:アレサンドロ、アラビア語等:イスカンダル

世界史の人物としては、マケドニア王のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)をすことが多い。(下記で詳述)

概要

紀元前4世紀の古代マケドニアの王。フィリッポス2世の子として生まれる。

アレクサンドロスは14歳から16歳までの間、かの有名なアリストテレスのもと、学友とともに教育を受けた。(なお学友はのちにアレクサンドロスを支える将軍となる。)そうしてその4年後、20歳の時にが暗殺されたことに伴い王に即位すると、東方への大遠征を実行した。

東方大遠征

まず、紀元前334年に小アジアトルコ)でグラニコスの戦いを開始した。味方であるマケドニア軍の兵は38,000に対し敵兵は40,000。しかし彼、アレクサンドロスは手な甲冑を着込み、恐れることなく先頭に立ったという。後に続く部下と共にそのまま突進を決め、マケドニア軍の士気は大いに高揚した。彼は勢いをとどめず波に乗り、を投擲して敵将ミトリダテスを仕留め、戦に勝利する。

続いて紀元前333年にシリアのイッソスでペルシャ帝国と開戦(イッソスの戦い)。ダレイオス3世率いるペルシャ軍の兵100,000という破格のものであったが、この時のアレクサンドロスのカリスマ性は尋常なものではなく、それ故ペルシャ軍は恐れ慄き敗走した。、妻などの女性が捕虜となったダレイオスは、マケドニアに対し和を申し出たが、アレクサンドロスはこれを拒否し、ペルシャ帝国に追い打ちをかけた。

次に紀元前332年に反ペルシャの向きが強かったエジプト解放ファラオ称号を戴くと、都市アレクサンドリアを建てた。

その翌年の紀元前331年には、チグリのガウガメラで、再びダレイオス率いるペルシャ帝国と対峙する(ガウガメラの戦い)。この時マケドニア軍の兵は47,000。しかし対するペルシャ軍の兵20万を軽くえていたが、アレクサンドロスはこれに勝利すると、次々にペルシャの都市侵略虐殺・破壊してまわった。

こうして戦争に次々と勝利した彼は、小アジアトルコ)、エジプトペルシアイラン)、パキスタンインドというとてつもない広範囲を支配下に収めた。

しかしその後、ソグディアナバクトリア方面の遠征中で部下の士気が低下し、また溝が生じた。インド方面では西部を支配下とするが、部下との溝は深まり、これ以上の遠征は断念された。こうして満たされることのないアレクサンドロスは、紀元前323年にスーサへ帰還する。

その後

そんな中でも彼はアラビア遠征を企図していたのだが、志半ばの32歳の若さで急逝してしまう。遺言は「最も強き者が帝国を継承すべし」。

このため後の覇権を争う戦争(ディアドコイ戦争)が勃発し、彼の帝国は重臣のアンティゴノス(マケドニア)、プトレマイオスエジプト)、セレウコスシリア)の手によりに3国家に分裂した。(なお、プトレマイオスしたエジプトは、後にかのクレオパトラを輩出している。)

彼の東方遠征と大帝国の建設は、ギリシア文化東方文化エジプト文化融合を生み、ヘレニズム文化が勃した。

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最終更新:2024/03/28(木) 23:00

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