エディ・ディアスとは、丸メガネとアイブラックがトレードマークの広島東洋カープに所属していた助っ人外国人野手。
内野をどこでも守れるユーティリティープレーヤーだった。
1990年にシアトル・マリナーズと契約。1997年にミルウォーキー・ブルワーズにてメジャーデビューするも16試合のみの出場だった。
1998年オフ、広島東洋カープが正田耕三の抜けた穴を補強するため、守備力の高い外国人選手を補強する目的で契約を結ぶ。背番号は99年のみ2だったが、2000年からは生え抜きの有望株東出に譲る形で以降は49となった。
来日後、99年と2000年の2年間は首脳陣の意図もあり下位打線で起用され、ホームランも10本に満たなかったが、2001年には四球数、HR数、出場試合数など自己最高の数字を記録した。特にHR数は前の2年間で8本づつだったのが、この年だけで32本と大爆発した。広島の外国人選手の30本以上のホームランは23年ぶり(当時)で、同年同じく在籍していたルイル・ロペスも32本を放ち外国人アベック記録となった。更に元々の強肩を活かした内野守備、三振の少なさも相まってベストナインにも選ばれた。年棒も前の2年間の3000万円から7000万円にアップしたとされていて、当時実家で牧場を経営していたデイァスは、牛を買い増す目標を達成したのだという。
翌年2002年も開幕から順調な滑り出しで、5月には二桁HR1番乗りを果たすなどしていたが、故障し登録を抹消されたこともあってこの年に退団した。
その後は韓国、メキシカンリーグで4年プレーした後、2007年からは地元ベネズエラのウィンターリーグで2年プレーし、現役生活18年で引退したとされている。
海外のサイトによれば、引退後はベネズエラのコヘデス州に在住しており、 地元ベネズエラの野球インストラクターを勤めているという。さらにラテンアメリカの環境団体から日本へのスポーツ大使に任命されたと写真つきで報じられている。その際、広島時代について「良い成績を残すことができたし、日本への挑戦は自分の人生の中でも永遠に大切な時間だ」と述べている。
外国人選手では珍しく、眼鏡をかけてプレーしていた。また「捕手としてもプレーした選手」と千葉ロッテに所属したマイク・ディアズと混合され間違われることも多い。
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最終更新:2025/12/09(火) 10:00
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