「アタシに期待?しないほうがいいよー」
ナイスネイチャ(ウマ娘)とは、「ウマ娘 プリティーダービー」の登場キャラクター。
実在の競走馬、ナイスネイチャをモチーフとするウマ娘である。CV:前田佳織里
誕生日:4月16日 身長:157cm 体重:増減なし スリーサイズ:B79/W56/H80
生まれついて物事を斜めに見てしまうちょっぴり卑屈なウマ娘。夢に向かってキラキラしている周りのウマ娘を遠巻きに見ている。
言いたいことをスカッと口に出してしまう性分について、女の子としてどうなんだろうと気にすることもあるが、わかっちゃいるけどやめられない。※ナイスネイチャ|ウマ娘 プリティーダービー 公式ポータルサイトより
癖っ毛のツインテールが特徴的なウマ娘。勝負服は濃い緑のジャンパードレスとブラウス。左足にだけガーターを着けているのは史実で左前脚の故障に苦しんだからだろうか。クリスマスカラーが印象的な胸元のリボンは史実のメンコをモチーフにしており、イニシャルの字体までしっかり再現されていて史実のネイチャファン的にポイントが高い。モデルが牡馬なので右耳にリボンを結っている。
「素晴らしい素質」という意味の名前に本人は自嘲的だが、素質を引き出してくれるトレーナーとの出会いをひそかに期待しているようだ。
第6話で初登場。
毎日王冠(GⅡ)ではラストの直線でグラスワンダーを差してサイレンススズカ、エルコンドルパサーに次ぐ3着と善戦する。つづく天皇賞(秋)(GⅠ)にも出走。
最終話ではトウカイテイオー、ビワハヤヒデとともに走っている。(OPでも描かれているが今回ナイスネイチャが追加された。)元ネタの1993年の有馬記念(GⅠ)は、ネイチャが有馬3回連続3着の異業を達成し伝説になるレースなので、一瞬だが見逃せないカットである。
サイレンススズカとは近しい仲らしく彼女と絡むシーンで度々出演している。
ほかにエイシンフラッシュ、ウイニングチケット、メジロライアンとの交流がみられ、交友関係の広さがうかがえる。
現在ゲームはサービス開始前のため、データはありません。追記をお願いします。
戦績等の詳細は当該記事へ→ナイスネイチャ
ナイスネイチャは、現在も存命中である。
生まれ故郷である北海道浦河町の渡辺牧場で引退馬協会から支援を受ける「フォスターホース」として穏やかな余生を送っている。ネイチャの近況は渡辺牧場様がマメにアップしているYouTube動画で確認することができる。また一般見学も可能。(団体での見学は不可)
2017年からは引退馬協会の広報部長に就任し、毎年ネイチャの誕生日である4月16から5月16日までの期間にインターネット上で寄付金を募る「ナイスネイチャ・バースデードネーション」を開催している。(本年度は目標の500,000円を上回る677,000円の寄付が集まり終了した。)
「フォスターホース」にはネイチャのほかにウマ娘にもなったタイキシャトルやメイショウドトウなどがいるので気になる方はぜひ引退馬協会のHPを覗いてみよう。グッズ購入で気軽に支援することも可能だ。
1990年の夏、栗東の松永厩舎に入厩する。
育成センターではガキ大将だったネイチャは、松永厩舎でも一際手のかかる存在で、蹴ったり噛みついたり、人を乗せたまま立ち上がって振り落とそうとしたりといったことは日常茶飯事だった。
そんなやんちゃ坊主の担当になった厩務員が馬場秀輝である。
馬を恋人のように扱うのが馬場の流儀らしく、ネイチャがどんな悪戯をしても決して怒らずやさしく世話をし続けた。その甲斐あって、やがてネイチャは以前とは全く別の馬のようにしおらしくなった。特に馬場に対しては素直で、「オレとはもう、ほとんど何でも通じてるよ。」と豪語するほど親密な関係だった。引き綱なしで馬場の後ろをトコトコ歩いてついていくネイチャの姿は栗東でも当時有名で、メディアにも取り上げられた程である。一方で馬場が付いていなければウンともスンとも動かなくなってしまうことがしばしばあって、わざわざ馬場を呼ぶこともあったという。
4歳(現3歳)の夏から条件戦を2連勝、さらに重賞を鋭い末脚で2連勝して強さを見せつけていた。夏の上がり馬として挑んだ菊花賞はレオダーバンの4着に沈んだが、続く鳴尾記念(当時GⅡ)では勝利し重賞3勝目をあげた。GⅠの栄冠もそう遠くないだろう、というのがこの頃の厩舎や競馬ファンの評価だった。そう、ここまでは・・・
鳴尾記念以降は、トウカイテイオー、メジロマックイーン、メジロパーマー、ビワハヤヒデといった強豪相手に勝ちきれないレースが続き、2、3、4着を量産していく。有馬記念3年連続3着という不滅の珍記録まで達成し、善戦マン、ブロンズコレクターなどと鼻で笑われるようになってしまう。ワイドや三連のある時代に走っていれば評価も違っていただろうに。
そんなネイチャが久しぶりに勝ったのが94年の高松宮杯(当時GⅡ)で、実に2年と7か月ぶりの勝ち星だった。当日の中京競馬場にはダービー馬ウイニングチケット目当てであろう6万5千人の観衆が集まっており(74年のハイセイコーの高松宮杯6万8千人のレコードに次ぐ当時史上2番目の動員数だった。)、勝利したネイチャはGⅠ並みの大喝采を浴びたのである。でもGⅡというあたりがネイチャらしいというか・・・
以降は引退まで低迷が続き、結局これが現役最後の勝利となってしまった。
イマイチ勝ちきれない戦績が日本人の判官びいき精神をくすぐったのか、ネイチャには多くのファンがついた。当時の栗東では1、2を争うアイドルホースで、馬房には大量の千羽鶴が飾られていた。
毎回負けてるくせに「勝つのはうちの馬やで!」と関係者に吹かしまくる名物厩務員の馬場も人気になって、「男は強気 馬場秀樹」なんて横断幕まで出されたのだが、厩務員の横断幕が出されたのはこれが日本競馬史上初のことだった。
松永厩舎はこうしたファンを大切にした。プレゼント用のテレホンカードやブロンズ像と作ったり、競争後はメンコやゼッケンを惜しげもなく配布して積極的に交流を深めていた。調教師の松永善晴は頑固でとっつきにくいと業界でも知られた人だったが、ネイチャのファンが厩舎を訪ねてくるようになってからはすっかり角が取れて友好的にファンと接するようになった。その変わりぶりはあの杉本清も感心したほどである。
主戦騎手の松永昌博は「あれだけファンがいるとね。馬に変わらされたんでしょうね。ファンの有難味がわかるというか、ファンあっての競馬だという気になりますよね。」と述べている。
ネイチャの一戦一戦には大勢のファンと共有した嬉しいこと、悔しい気持ちが込められている。今までにない得難い経験だっただろう。こうして厩舎にとってもネイチャは思い入れのある一頭になっていったのである。
高松宮杯の後は衰えを隠せず、一時は引退も検討されていたのだが、松永厩舎は現役を続行させた。
競走馬の世界は厳しい。現役時代に結果を残せなかった馬の行く末は馬肉と相場が決まっている。成績優秀ならば繁殖用にまわされるが産駒が振るわなければ同じ道をたどる。それがビジネスのために生かされているサラブレットの定めなのだといえばそれまでだが、競馬関係者の全員がそれをよしとしているわけではない。特に馬と一番身近に接する厩舎の人間は引退後まで考えている事が多い。
ネイチャの現役続行も厩舎が彼の将来を考えての選択だった。
血統も戦績も微妙なネイチャは、種牡馬になれるかどうかわからない、なれてもその先が・・・というラインである。だからできればGⅠの勲章を手に入れて種牡馬にしたい、それが無理ならばせめて元気なうちは現役を続けさせてあげたい。それに、重賞をあと1つ勝てば引退式が行える。(JRAの規定ではGⅠを制した馬、重賞を5勝した馬、特に貢献があったと理事長が認めた馬は引退式を行えることになっている。ネイチャの重賞勝利は4回。)ネイチャやファンのために引退式はやらせてあげたい。
こうした厩舎の思いがあって、残り少ない現役生活にあと1勝を賭けてみよう、ということになったのである。また、馬主も直後の京都記念の好走を見てその賭けにのった。
ただ、馬場の心境は複雑だった。
馬にとって競馬は危険を伴うものであって、競馬場で命を落とすことも珍しくない。
「無事之名馬」と賞されることが多いネイチャだが、彼の現役生活はけして順風満帆だったとは言い難い。
デビューして4戦目の後、骨膜炎で半年間の放牧を余儀なくされ春のクラシックを棒に振り、5歳に上がってすぐに球節炎と骨膜炎で再び10か月の休養。6歳時には大阪杯レース直後に左第4中脚骨を骨折していたことが判明して半年間戦線を離脱している。8歳の京都記念後に左第2中手骨を、現役最後の年の春には右前管骨をそれぞれ骨折している。引退を決定づけるのも脚部の不安である。何事もなくすんなりいったのは高松宮杯を勝った年くらいで、後は毎年のように故障に悩まされ続けている。
家族のように愛情を注いで世話をしてきた馬場にとってネイチャの競走馬生活は心配の連続だった。さらに、ネイチャが京都記念後に骨折したちょうど同じころにライスシャワーの衝撃的な事故があって、その心配を一層強くさせた。
「オレが治しちゃったら、こいつはまたレースで走らなくちゃならない。」馬場が治療場に通っていたころグロリーシャルマン(競走馬)の青木厩務員にそう漏らしている。年老いて力も衰えたネイチャをこの上さらに走らせることが本当に彼の幸せになるつながるのだろうか。馬場の胸中では、元気なうちは走らせてあげたいという気持ちと予後不良の懸念がせめぎあい、結局引退が決まるまで思い悩むことになった。
96年、投票上位だったネイチャは本年も有馬記念出走が予定されていて、出ればスピードシンボリやメジロファントムを抜いて6年連続出走という当時としては空前の大記録打ち立てることになる。
ところがレースの3週間前、馬場が日課の触診中に左前脚に異常を見つける。レントゲンの結果、第二冠骨のヒビわれと判明。それはレースに出しても支障のない些細なものだった。しかし、ネイチャの将来を考え苦しい葛藤をしてきた馬場にとって、この状態で出走させることはとても認められるものではなかった。
馬場は調教師の松永にネイチャ引退させるように訴え、松永も「(ネイチャのことを誰よりも知っている)お前がそういうのだったら、仕方が無いな」と引退を認めた。松永も調教師の誇りとしてこの大記録を望んでいたはずだが、それを推し殺してでも自分のわがままな進言を聞き入れてくれたことが、馬場はうれしくて涙が止まらなかったという。
こうしてネイチャは不滅の大記録を目の前にしてターフを去ることになった。
ネイチャが栗東を発ち故郷の渡辺牧場に帰る日。
いつものように馬場がネイチャを牽いて馬運車に乗せようするが、ネイチャは嫌がった。
「レース当日に輸送するときなんかは自分から進んで馬運車に乗り込んでいた。乗るのを嫌がったりすることなんていままでに一度もなかった。」と後に馬場は語っているが、もうこの場所には戻れないということをネイチャ自身が本能的に判っていたのかもしれない。
ネイチャを引き取った渡辺牧場は家族経営の小さな牧場で、負担はけして少なくなかったが、それでも「一生うちで面倒見る」と言って迎えたのは、彼への感謝と引退してもなお熱心なファンがいたからである。残念ながら種牡馬としては大成せず種牡馬登録を抹消されたが、現在は功労馬として穏やかな余生を送っている。本当に最初から最後まで人に恵まれた幸運な馬である。
引退から20年以上経った。ネイチャは今年で30歳、人間でいうと90半ばくらいである。かつて轡を並べたライバルたちはもうほとんどいない。菊花賞馬のレオダーバンも2001年に種牡馬を引退した直後に廃用行方知れずになってしまった。ネイチャが居た松永善晴厩舎はすでに無く、誰よりもネイチャを愛した馬場も98年に不慮の事故で亡くなっている。
しかしネイチャは、今も元気に牧場を駆けている。松永厩舎、渡辺牧場、大勢のファン、そして馬場厩務員の深い愛情にいまなお支えられて―――
参考資料
・プーサン 知性派の競馬(Vol.3)
・厩舎へ帰ろう2
・『優駿』1997年2月号
・『優駿』2003年8月号
・週刊100名馬 Vol.41ナイスネイチャ
・ナイスネイチャ 世界で一番好きな馬
ほか8点
ナイスネイチャ(ウマ娘)に関するニコニコミュニティを紹介してください。
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最終更新:2025/12/08(月) 02:00
最終更新:2025/12/08(月) 02:00
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