これからしっかりとついてくるんだよ、トレ公!
ヒシアマゾン(ウマ娘) とは、Cygamesのメディアミックスプロジェクト『ウマ娘 プリティーダービー』の登場キャラクター。
実在の競走馬、ヒシアマゾンをモチーフとするウマ娘である。 CV:巽悠衣子
誕生日:5月3日 身長:160cm 体重:レースに支障なし スリーサイズ:B91・W58・H85
何かとタイマンで勝負したがる、熱血肌の姐御。
野蛮に見られがちだが、相手が勝てば、その強さを称える潔さも持っている。
美浦の寮長で血の気が多い反面、料理洗濯掃除も大得意。
あらゆる場面で頼りがいのある存在である。
雷や幽霊にはからっきし弱い。
“女傑”と呼ばれ、トップクラスの実力を持つウマ娘の一角。弱きを助け強きを挫く、古き良き時代のスケ番タイプの姉御肌。
曲がったことが大嫌いで、己の信念を唯一のルールとして行動する、一本筋の通った性格。リニューアル前
トレセン学園の美浦寮長を務める褐色肌ウマ娘。姉御肌な言動で後輩ウマ娘たちの面倒ごとに振り回される反面奔放な性格から調子に乗って生徒会などに絞られる事も。一方で料理が得意だったりと家庭的な面もある。
発表時のお披露目会にてウマ娘の名前当てクイズが行われた際に某特撮ヒーローをイメージするポーズであった為に早くからその正体が看破されていた。もっともその言動は別の特撮ヒーローそのものであったが。
一方でハンバーグ×アマゾンをネタにしたにん◯んハンバーグに定評のあるアマゾンもある。
因みに、初期の勝負服からは明らかにはいてないとしか言いようもないほどの際どさであった。後に修正され、ゲームではさらに別物になってより普通の「セーラー服」っぽくなっている。
| before | after |
|---|---|
スペシャルウィークが参加した「リギル」の入部テストにて所属メンバーらと共に登場。物語当初はゴール係として終始し、その役目に不満を持っていた。
その後はサイレンススズカが出走する秋の天皇賞にエルコンドルパサーらと共に出走。レース前にスズカにタイマン勝負を宣言して以降は事あるごとに「タイマン」連呼するキャラが定着した模様。
同期でもあるナリタブライアンとは何かと張り合っており、後のWDTでもタイマン勝負を宣言している。一方でトレセン学園のイベントでは一緒に盛り上げて何だかんだ仲の良さが窺い知れる。
シーズン2での本人の登場はOP、および1話と10話でゴールドシチーによるヘアカットを受ける場面のみと少ない。しかし練習場のゴール板にヒシアマゾンが描かれており、そちらの登場回数は多い。何なんだこれ。
また、天皇賞(春)を前に学園を一時休んだライスシャワーも美浦寮長であるヒシアマゾンには行き先を伝えていたため、ミホノブルボンはヒシアマゾン手製の地図を頼りにライスの元へ向かっている。
トレセン学園の日常を描いているせいか寮長としてウマ娘を引っ張るシーンが多い。
| ステータス(☆3) | |||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| スピード | スタミナ | パワー | 根性 | 賢さ | |||||||||||||||
| 93 | 84 | 105 | 82 | 86 | |||||||||||||||
| バ場適性 | |||||||||||||||||||
| 芝 | ダート | ||||||||||||||||||
| A | E | ||||||||||||||||||
| 距離適性 | |||||||||||||||||||
| 短距離 | マイル | 中距離 | 長距離 | ||||||||||||||||
| D | A | A | B | ||||||||||||||||
| 脚質適性 | |||||||||||||||||||
| 逃げ | 先行 | 差し | 追込 | ||||||||||||||||
| G | B | C | A | ||||||||||||||||
| 成長率 | |||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
| 固有スキル『タイマン!デッドヒート!』 | |||||||||||||||||||
| 最終直線で後ろの方から外を回って追い抜く時、速度を上げる | |||||||||||||||||||
| ウマ娘テンプレートボックス | |||||||||||||||||||
2021年6月21日に★3育成ウマ娘[アマゾネス・ラピス]が実装。
史実ではマイル~中距離が主戦場だったものの短距離と長距離の両方で印象的なレースをしているが、有馬記念を目標に絡めているためもあってか長距離がBで、短距離は目標に絡まずDに抑えられている。とはいえDなら継承で直接Aに届く範疇なので、クリスタルカップ再現バージョンも頑張れば普通に作れるだろう(当のクリスタルカップ自体はすでに廃止されているので登場しないが……)。デビューから2戦ダートを走ったことからダートEなので、ダートの穴埋めもできなくはなく、なかなかの万能ぶりである。
戦術は追込A、次いで先行Bというユニークな形になるが、固有スキルの条件が「最終直線で後ろの方から」を要求するので、事実上は追込専用。育成中には事故回避で使い分けを検討する程度だろう。
史実では外国産馬ゆえに牝馬三冠の資格がなかったが、ウマ娘世界ではお構いなしなので目標にトリプルティアラが全て組み込まれている。既出の同境遇のウマ娘でも三冠路線のレースが1つ以上は入っているが、三冠全て組み込まれているのは初めて。
サポートカードに加えて、CPUライバルとしては初期実装済だった。
特にマヤノトップガンの育成シナリオではナリタブライアンにこだわるマヤノに好意的に接し、レースでも固定ライバルとしてぶつかることとなる。
サポートカードはSR[テッペンに立て!]とRで初期実装。得意トレーニングはパワー。
所持スキルは追込指定3つ、先行指定2つの合計5つとまっぷたつに分かれており、欲しい方をあげません!されやすい。特にそれぞれの「○○のコツ」が取れるのが大きな魅力だが、カードにヒントボーナスはないので狙っていくのは難しい。
高い友情ボーナス(元々が高いうえに固有ボーナスあり)とそれなりの得意率を持ち、友情トレーニング要員として優秀。パワーボーナスがなくスタミナボーナスだけ4凸で付くので、連発するとスタミナが妙に伸びたりもする。


華やかな闘魂。
90年代に活躍したホクトベガ、エアグルーヴに並ぶ牝馬。
父はアメリカ芝路線の王者Theatrical、母は愛1000ギニーやコロネーションステークスを制したマイラーKaties、母父は日本に輸入されたノノアルコという血統。
ヒシの二代目である阿部雅一郎氏のヒシ再建計画の一環で、海外セールで購入した母をアメリカの牧場に預託し生産するというプランの元生まれたのが彼女なのである。
余談だが、当初は「ヒシアマゾネス」で登録するつもりだったのだがJRAに却下され、苦し紛れにアマゾンで登録しなおしたらOKになった経緯がある。
2戦目は江田照男、引退レースの96年有馬記念は河内洋、それ以外は中舘英二が一貫して騎乗する。
1993年9月19日・中山競馬場(中舘英二騎手がツインターボで勝利したオールカマーの当日)の新馬戦(ダート)は快勝したが、続く2戦連続で2着するなど詰めの甘さを見せた。しかし阪神3歳牝馬ステークス(現・阪神JF)では驚くような勢いで突き抜け5馬身差圧勝・レコード更新。評価を高め(同時に中舘騎手もGⅠ初制覇)、最優秀3歳牝馬に選出。
しかし次走で圧倒的人気を背負いながらビコーペガサスに敗れ2着。続くクイーンカップはしっかり勝利するが、阪神3歳牝馬Sで完勝した相手にクビ差止まりではあった。
○外(外国産馬)だったヒシアマゾンは当時の規定でクラシックに出られず、しかもNHKマイルカップも創設されていなかったため、母の距離適性を見込んで当時中山1200mで開催されていた4歳(現3歳)限定重賞クリスタルカップに出走。ペースにイマイチ乗り切れず後方のまま4角を回るが 、タイキウルフが逃げ切る勢いを見せていたところを弾丸のような勢いの末脚でぶっ差して勝利する。
その後は連勝を続け、2つ目のG1勝利となるエリザベス女王杯(この頃は牝馬三冠の三冠目だが、ここは○外でも出走可能)までに当時のタイ記録である重賞6連勝を達成し、その勢いのまま有馬記念に出走。
有力な古馬が乏しかったのもあって圧倒的1番人気を背負っていたのが、その年の三冠馬ナリタブライアン。一方ヒシアマゾンは6番人気止まりだったが、ブライアンをマークして真っ向勝負を挑む。結果は3馬身と差はつけられたが後続も引き離しての2着となり、この年の最優秀4歳牝馬に選ばれた。完敗とはいえ、この時代において現3歳の牝馬が有馬記念でここまで走れるのは紛れもなく破格だった。
1995年(現4歳時)はアメリカ遠征を行うも怪我のためにレースに出ることなく帰国。復帰緒戦の高松宮杯では5着に敗れ、デビューから有馬までの12戦連対(後のダイワスカーレットと並ぶ)が途切れてしまう。しかし続くオールカマー・京都大賞典では完勝して復活をアピール。ジャパンカップでは故障から立ち直れないナリタブライアンに代わり奮闘するもドイツ代表馬ランド(マイケル・ロバーツ騎乗、1993年ドイチェスダービー覇者)に屈し惜しくも2着に敗れ、有馬記念ではブライアンに代わり1番人気を背負うが出遅れも響き5着。それでも最優秀5歳以上牝馬に選ばれ、3年連続でJRA賞を受賞している。
1996年以降も現役を続けたが振るわず、1997年にはレースに出ることなく屈腱炎の発症により引退。
引退後は繁殖入りし、一度日本で種付けしたのちに故郷のアメリカに帰国するが目立った結果は残せず、アメリカの牧場で余生を送っていた。
そして、平成が終わりを迎える中での2019年4月15日夜、アメリカ・ケンタッキー州の牧場にて老衰でこの世を去った。享年28歳。人間で言うところ90歳に相当する。
中の人である巽悠衣子もTwitterにて追悼文を発表。また騎手時代に主戦を務めた中舘英二調教師も「故郷のアメリカで老衰だったのがせめてもの救い」と、かつてのパートナーの死を悼んだ。
現役時代にドバイの星となった「お姉ちゃん」ことホクトベガに会えたであろうか。
詳細は当該記事へ→ヒシアマゾン
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最終更新:2025/12/07(日) 21:00
最終更新:2025/12/07(日) 21:00
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