ベニー・ディステファーノ(Benny Distefano(Benito James Distefano))とは、米国メジャーリーグ史でも稀有な「左投げの捕手」であり、1990年の中日ドラゴンズに舞い降りた最狂の破壊神助っ人外国人である。
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1982年にピッツバーグ・パイレーツに入団。1984年にはメジャーリーグに昇格し、以後メジャーとマイナーを行ったり来たりする生活が続く。MLBでは控えの外野手、一塁手で、左の代打として起用されていた。
1989年にはMLBで左投げながら捕手として3試合に出場。珍しい「左投げの捕手」に日米のメジャーリーグファンの話題となった。
さて、彼が当時かのわしが育てた闘将星野仙一が指揮をとる中日ドラゴンズに入団するのはその翌年、1990年1月末のことである。
中日へやって来たディステファーノはパワー溢れる左の長距離砲として期待された。
だがそのバッティングは非常に粗く、ボールをバットの芯に当てることが出来ない。また、内角球に非常に弱かった。4月7日の横浜大洋との開幕戦の初打席で中山裕章からホームランを放ち活躍を期待されたが、それ以降は変化球には手も足も出ず、ポップフライ量産機と化してしまった。
更にディステファーノにはあらいものがあった。それが「気性」である。
西武とのオープン戦、8回の裏のことだった。バッターは3番指名打者ディステファーノ。ピッチャーは制球力に定評のある鹿取義隆。だが、鹿取の投げた球は内角高めから外れディステファーノの顔面付近へとすっぽ抜けた。球は避けたディステファーノの右肩に当たった。
これにディステファーノは怒り狂い、鹿取にバットを投げつけた。さらに止めに入った捕手の大宮龍男の顔面を思い切り数発殴打。オープン戦にも関わらず中日西武両軍入り乱れての乱闘になってしまった。
乱闘は一度沈静化するものの西武の広野功コーチがディステファーノと言い争いとなり、またディステファーノが暴れだした。中日の選手たちがディステファーノを抑えつけ、漸く乱闘は終わった。ディステファーノは退場処分となり、後日セ・リーグから厳重注意、また、10万円の制裁金を課せられた。ちなみに、オープン戦での暴力行為による退場はこれが史上初である。何度も言うようだがこれ、オープン戦の出来事である。
ディステファーノは米国3Aで「ベニー・エキサイティング」と呼ばれるほどの暴れぶりを見せた非常に血の気の多い選手だったのだ。
ポップフライ量産機と化したディステファーノは相当ストレスが溜まっていたのだろう。凡打に苛立っては球場のロッカーやベンチなど頻繁に球場内の備品を破壊していた。さらに時の中日の監督は武闘派星野仙一監督。乱闘が頻発していたためディステファーノは打撃不振の鬱憤を晴らすかの如く乱闘に明け暮れた。
そして5月24日のナゴヤ球場での中日巨人戦、事件は3回裏に起こった。打者はバンスロー、投手は槙原寛己。槙原の投球がバンスローの顔付近を掠めた。紳士的でおとなしいバンスローも、これには怒り、槙原へと詰め寄ろうとする。星野監督は友寄正人球審に槙原の投球に対しての抗議を始めた。だが、巨人ベンチから松原誠コーチの野次が聞こえると星野監督はこれに激怒、巨人ベンチへと詰め寄る。両軍ベンチから選手がグラウンドへと駆けてきた。
ここで止めに入った水野雄仁が星野仙一に張り手を食らわされた話は有名だが、ディステファーノは巨人江藤省三コーチの顔面に渾身の左拳をお見舞いしていた。江藤コーチは口から出血してしまった。ディステファーノはその後も暴れ続け、乱闘の発端の当事者でもないのに退場処分となり、制裁金100万円を課せられた。
ちなみに退場処分発表の審判団のアナウンスの際、友寄球審が
「デストラーデ選手を退場処分にします!」
と西武のデストラーデに退場宣告をしてしまった。
ディステファーノはその後も乱闘要員として活躍し続けたものの、打棒は振るわず、8月には解雇された。
米国に帰国後は1992年にヒューストン・アストロズに復帰。同年4月28日のメッツ戦の8回、内野安打を放ちデービッド・コーンのノーヒットノーランを阻止した。
引退後、2007年にコーチとして球界復帰。2010年はニューヨーク・メッツ傘下の1Aブルックリン・サイクロンズの打撃コーチとなった。
今でも乱闘での無双な暴れぶりで多くの野球ファンの記憶に残る選手の1人である。
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最終更新:2025/12/10(水) 04:00
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