三式砲戦車(秘匿名称ホニⅢ 以下ホニⅢ)とは、大日本帝国陸軍が開発・配備した火力支援車両の一つである。
原型の一式七糎半自走砲(ホニⅠ・以下ホニⅠ)とは違い実戦経験は無し。本記事では砲戦車についても解説する。
まず砲戦車とは、昭和10年頃に高価な戦車を対戦車砲で失わないようにその対戦車砲を破壊する自走式火砲として構想された兵器で自走砲の原案にもなった(当時両者の区分と任務内容は曖昧であった)。
主砲には九七式中戦車や九五式軽戦車より火力の高い短砲身75㎜砲を旋回砲塔式に搭載することになり、その際、「大口径ゆえに対戦車戦闘への転用も可能では?」の理由で長砲身75㎜砲(野砲級)の搭載も意見として出されたが迅速な反撃が困難であり現行開発中の野砲搭載のホニⅠを改修して対戦車用に転用した方が早いとの理由で立ち消え、かわりに連射速度の高い長砲身57㎜砲を搭載する駆逐戦車案が出されるもこちらは中戦車や砲戦車に吸収されるような形で消滅してしまう。
このような対戦車砲(陣地)の撃滅を念頭に置いた車両の開発は世界的にも一般的なことであり、例としてドイツ軍の大戦初期におけるⅣ号戦車やソ連のBT-7の主砲を45㎜砲から76.2㎜砲に換装したBT-7aがあげられ、他にはM4中戦車を重装甲化したシャーマンジャンボも実際の運用的にかなり近い。
砲戦車は対戦車砲陣地(後に敵戦車に転換)の撃滅の他、対戦車砲と撃ちあいになることを想定されたため、既存の戦車と比べ大火力・重装甲であることが求められたが、整備性や技術力を考慮して主力戦車と部品の多くが共用または車体が同じであることが好ましく場合によってはホニⅢや試製砲戦車ホリのように旋回砲塔を妥協し固定戦闘室も採用された(というより切迫した大戦末期以降はこちらが主流になった)。
大戦末期においては砲戦車という車種が対戦車火力が高い車両全般を指すようになり砲戦車部隊には3式中戦車のような中戦車の名を関した車輌も配備された(四式中戦車も砲戦車部隊に配備される予定だったらしい。)。
昭和18年半ばごろ砲戦車の主任務が対戦車砲陣地から対戦車戦闘に転換した際、二式砲戦車(ホイ)の代わりにホニⅠを砲戦車として使用したいという意見が戦車部隊側からあった。しかしホニⅠは戦場の間を高速で移動する戦車部隊やトラックに乗った歩兵部隊についていくために考案されたシロモノで主任務も野砲と同じく、後方からの支援であり対戦車戦闘には不可欠である直接照準器は付いてないため対戦車戦闘には不向きだったり、戦闘室は正面こそ主力戦車より厚かったがオープントップ(天板と後部ががら空き)だったため砲弾や爆弾の破片、銃弾に弱く生存性が低かったりまた対戦車砲や戦車砲と違い紐を引っ張って砲弾を発射する形式だったりと砲「戦車」としては問題だらけであった。
そこで改良案として開発されたのが本車両である。昭和18年頃(書籍により19年)から開発が始まり同年に竣工したといわれているれ開発時は七糎半砲戦車甲という名称であった。
構造は簡素ながらも本格的な直接照準器を搭載、戦闘室は7角形の密閉式戦闘室を採用した。この戦闘室は車体からはみ出し戦闘室正面の装甲も薄くなったが破片や銃弾に強くなり全体的な生存性は向上した。ホニⅠが抱えていた問題は発射方式の問題を除き改善され、本格的な対戦車戦闘用車両になったといえる。なお密閉式になったことによる視界の悪化を補うため戦闘室の周囲にのぞき穴を確保することで補っている。戦車のようなキューポラがないのは構造の簡略化のためだと思われる。(上述の発射方式の問題は三式中戦車でもそのままとなった。)
生産は19年以降に開始され終戦までに60~100両生産された。運用法としては三式中戦車の穴埋め用として三式中戦車と併用しともに砲戦車部隊に配備されることとなった。自走砲部隊に配備される計画があったが実現していない。
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最終更新:2025/12/07(日) 11:00
最終更新:2025/12/07(日) 10:00
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