与謝野晶子 単語


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ヨサノアキコ

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与謝野晶子とは、明治~昭和初期の歌人である。

概要

現在の大阪府堺市出身で、老舗和菓子屋の娘「鳳志よう(ほう しょう)」として生まれる。堺女学校で源氏物語などの古典や小説を読み耽り、20歳ごろから和菓子屋の店番をしながら和歌を投稿し始める。

1900年、参加した短歌の会で歌人の与謝野鉄幹と不倫関係を持つ。翌年に家を出て東京で鉄幹と同棲するようになり、歌集「みだれ髪」を発表した。女性の恋愛をストレートな表現で歌ったことに加え、官能的な内容も含まれていた。当時は慎ましい女性が好まれたことから、文壇からは酷評が多かった。しかし世間では、特に青年を中心に内容を支持する人も多く、石川啄木なども愛読した。現在は日本のロマン主義の作品の1つ、与謝野晶子の代表作として知られる。

その後与謝野鉄幹と結婚し、「志よう」から「晶」とし「与謝野晶子」というペンネームを使い始めるようになる。鉄幹との間に12人の子を設けたが、その後鉄幹の歌が売れなくなってしまったため、晶子の歌人としての収入を中心に子供たちを育てることになった。

ちなみにバナナを晶子の膣に挿入したまま一晩を過ごし、翌朝に鉄幹がそのバナナを食べたという話がある。この話を性研究の会「相対会」に入ろうとした鉄幹が代表者の小倉清三郎にしたところ「そんなの誰でもやってる」と一蹴された。この話は週刊ポスト2011年2月4日などに見られるが、一次資料は記事執筆者は発見できなかった。

1904年に、晶子のもっとも有名な詩「君死にたまふことなかれ」が発表される。日露戦争に出兵した、晶子の弟の鳳籌三郎に向けた詩である。当時から天皇の詔勅に反すると批判され、現在でも反戦の詩とされることが多い。しかし、反戦詩というよりも、本来は弟への「愛のメッセージ」であると解釈されることもある。

日露戦争以降は評論家としても知られ、平塚らいてうなどと共に女性の地位向上に努めた人物として言及されることが多い。ただし、「妊娠や出産について国庫からの補助金を出すなど、女性は国家に保護される必要がある」としていた平塚とは意見が対立しており、共働きとなる時代を想定して「女性は親にも国家にも依存するべきではなく、夫婦の労働による収入のみで生活するべき」としていた(与謝野晶子「平塚さんと私の論争」)。これは多くの議論を呼び、「母性保護論争」と呼ばれるようになった。

1935年に夫の鉄幹が亡くなる。その5年後、晶子は脳出血により右半身が不随となり、1942年1月に意識を喪失、同年5月に亡くなった。享年63歳。

ニコニコ動画ではなぜか変な方向でネタにされやすい。

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