九七式重爆撃機とは、大日本帝國陸軍が運用した爆撃機である。略称は九七式重爆。
連合軍が付けたコードネームはサリー。
1935年9月、陸軍は現行の九三式重爆撃機に代わる次期主力機の試作を内示。川崎航空機、中島飛行機、三菱重工に基本設計を作成させた。審査を行ったあと翌1936年2月15日、中島にはキー19を、三菱にはキ-21の試作を命じて競合させた。二社が造り上げた試作機は早速審査が行われ、甲乙付けがたい性能を発揮。中島のキ-19は古臭いが手堅く、三菱のキ-21は信頼性が未知数だが斬新な設計だったため、陸軍は思い切って折衷。三菱の機体に、中島のエンジンを組み合わせる折り合いを付けた。書類上では三菱のキ-21に試作増産が命じられたが、中島が勝っていた機銃配置などの要素が盛り込まれ、二社の良い所が結集。完成した試製キ-21は海軍の九六式陸上攻撃機を性能面で凌駕し、かつ近代的な装備を備えていた事で帝國陸軍初の本格的な爆撃機に仕上がった。ただ重爆にしては爆弾搭載量が750kgと少なく、航続距離も短い欠点があった。これは対ソビエト戦(大陸での戦闘)を想定していたからと言われる。1937年8月に九七式重爆撃機と命名、制式採用された。
ちょうどその頃、支那事変が勃発。九三式重爆は既に旧式化しており、繋ぎとしてイタリアから購入したイ式重爆撃機で急場を凌いでいる状況だった。九七式重爆の量産は急務となり、中国大陸で初陣を迎えた。中国国民党軍は遷都を続け、険しい山岳に囲まれた重慶を臨時首都にして徹底抗戦の構えを見せていた。その臨時首都を爆撃すべく、漢口や運城から出撃。7、8000kmを長躯して重慶や更に奥地の成都、蘭州を爆撃した。故障が少なく稼働率が高かった九七式重爆の評価は高く、前線の将兵から支持された。九七式重爆の配備が行き届くにつれ、イ式重爆は姿を消していった。陸軍爆撃機の中では最も多く量産され、一部は満州国に民間用として払い下げられたり、タイ空軍に譲渡されたりした。
大東亜戦争劈頭ではサイゴンに進出した九七式重爆がマレー、ジャワ、スマトラ、ビルマ、シンガポール等を爆撃。快進撃の一助となった。ビルマを占領した後はインドの都市を爆撃している。しかし戦争中期にもなると九七式重爆も旧式化。後継機として百式重爆撃機が造られたがエンジンの信頼性が低く、将兵に嫌われて九七式重爆が使用され続けた。ようやくまともな後継機こと四式重爆撃機が生産体制に入ったが、終戦まで一線で戦い続けた。
1945年5月24日、義烈空挺隊を乗せた12機が出撃。アメリカ軍に占領された読谷飛行場の破壊を狙ったが4機が不時着、7機が撃墜された。残りの1機が強行着陸に成功し、中から飛び出したコマンド部隊が駐機中の米軍機を破壊した。しかし全員が射殺され、168名中99名が戦死した。
最終的な生産数は2054機。
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最終更新:2025/12/08(月) 07:00
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