五十嵐章人(いがらし あきひと、1968年4月12日-)とは、群馬県出身の元プロ野球選手(内野手)である。現在は群馬ダイヤモンドペガサスの監督を務める。
群馬ダイヤモンドペガサス #84 監督 |
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五十嵐章人 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 群馬県 |
生年月日 | 1968年4月12日 |
身長 体重 |
180cm 79kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 内野手、外野手 |
プロ入り | 1990年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
野球選手テンプレート |
前橋商業高校時代はエースで3番として甲子園に出場し、日本石油入社後に野手(外野手)に転向。1990年ドラフト3位でロッテに入団。
数多くの珍記録を所持している。
1995年には捕手として出場、2000年に高校以来の投手として出場したことでNPB史上二人目の全ポジション出場を達成。この年1シーズンで6ポジション(キャッチャー以外)を守った。
2001年6月22日の西武戦で4番ファーストで出場し、全打順先発を達成。この試合で西口文也からホームランを打ち、この時点で残るは8番でのホームランとなっていた。なお五十嵐が4番で先発したのはこの一度だけである。
2002年に近鉄に移籍。4月21日のダイエー戦に8番セカンドで出場し、右中間スタンドにホームランを放ち、史上6人目の全打順本塁打を達成。通算ホームランわずか26本での達成だった。
2003年に現役を引退。現在、全ポジション出場と全打順本塁打の両方を達成した唯一の選手である。
五十嵐の前に全ポジションを達成したのは1974年の高橋博士だが、こちらは消化試合のファンサービスとして、イニングごとにポジションを代えて一試合全ポジションを達成したというものだった。一方の五十嵐は10年かけて全ポジションを達成している。
前述の通り、プロ入り時は外野手。デビュー年から外野(主に右翼手)として80試合を守った。
3年目から遊撃手を守り始め、4年目(1994年)に内野手登録に転向した。この年は二塁手45試合・遊撃手60試合。
1995年は二塁手メイン。この年にチームで風疹が流行し、捕手二人体制の状況で退場処分により捕手がいなくなってしまい、二塁手スタメンだった五十嵐が緊急でマスクをかぶる。捕手としての実戦経験はこれが初めてだったが、何とか乗り切った。一塁手・三塁手も守る。
1996年は一塁手と外野(左翼手か右翼手)がメインでたまに遊撃手。それまで遊撃手を守っていた南渕時高が二塁手にコンバートされたため、この年からロッテでは二塁手での出場はなくなった。
1998年のオリックス移籍後は三塁手メインに。一塁手も兼ね、たまに二塁手・遊撃手・外野も守るというユーティリティプレイヤーとしての立ち位置を確立。2000年以降はジョージ・アリアスの加入により一塁手出場が主になる。
2000年6月3日の近鉄戦で投手出場して全ポジションを達成。この試合は3-17という大敗であり、8回裏に至っては一死も取れないまま6失点という大惨事であった。この状況で仰木彬監督のファンサービスも兼ねた計らいで登板する事になり、そのまま無失点に抑えてしまった。
2001年、5月25日の近鉄戦で代打から二度目の捕手出場。この日も6-10の派手な負け試合だった。
投手、捕手は当然ながら、実は中堅手として先発した事が一度もなかったりする。
球団 | レス | No | プレイヤー |
---|---|---|---|
オリックス | 応援歌のピコカキコ一覧#1074 | 12345 |
通算:14年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 870 | 2061 | 1801 | 188 | 422 | 26 | 171 | 5 | 70 | 12 | 173 | 5 | 267 | 31 | .234 | .347 |
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最終更新:2024/03/29(金) 09:00
最終更新:2024/03/29(金) 09:00
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