伊藤敦規とは、日本の元プロ野球選手である。現阪神タイガース一軍トレーニングコーチ。
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1988年から2002年までの15シーズンに渡ってセ・パ3球団でプレーした投手。水平よりやや下目をリリースポイントとするフォームで投げていたため、サイドスローとする文献とアンダースローとする文献が混在している。
阪急・オリックス時代は即戦力の先発投手として期待され、オールスターに出場したこともあったが故障を経て低迷。トレード先の横浜を解雇された後、テスト入団した阪神で中継ぎ投手として見事な復活を遂げた。
比較的人材が豊富だった暗黒時代後期の阪神中継ぎ陣を代表する名選手であり、2ちゃんねるのプロ野球板で現在まで続く「阪神中継ぎ労働課」スレでは「課長」の愛称で親しまれている。
1963年愛知県生まれ。地元の野球名門校・中京高校(現在の中京大中京)に進学したが、甲子園のマウンドに立つ機会はなかった。卒業後は家業の工務店を継ぐことを念頭に福井工大に進学する。
大学在学中に頭角を現し、3年時に日米大学選手権の代表メンバー入りを果たすと、直後のロサンゼルスオリンピックにも代表メンバー(当時はアマチュア選手限定)として出場。2勝を挙げて初の金メダル獲得に貢献した。
社会人野球の熊谷組を経て1987年のドラフト会議で阪急ブレーブスの1位指名(武田一浩の外れ指名)を受けて入団。翌年のドラフト会議を前に阪急はオリックスに身売りしたため、彼が阪急史上最後のドラフト1位指名選手となった。
右のアンダースロー投手ということから、当時既に衰えを見せ始めていた大エース・山田久志の後継者として期待を受けた。同期入団に同姓の伊藤隆偉がいたため、登録名は伊藤敦とされた。
初年度はプロの壁にぶつかったものの、二軍でノーヒットノーランを達成。3年目の1990年に先発ローテーション入りを果たすと、1991年には規定投球回をクリアしてリーグ7位の防御率3.08という好成績を残した。翌1992年には監督推薦でオールスターに出場。第3戦に登板するも駒田徳広(巨人)に逆転2ランを浴び敗戦投手となった。
この年以降は故障もあって次第に低迷。1994年のシーズンオフに2対3の交換トレードで横浜ベイスターズに移籍したが鳴かず飛ばずの状態が続き、1996年限りで自由契約となってしまう。年齢的に引退も考えられたが、ダメ元で幼い頃からファンだったという阪神タイガースの入団テストを受け、見事合格。現役続行に望みを繋いだ。
阪神では先発に見切りを付け、徹底して中継ぎ・抑えとして起用されることになった。これが功を奏したか、1年目からここ数年間の低迷が嘘のような安定したピッチングを披露。チームトップの60試合に登板し8勝8セーブ、防御率2.67という申し分のない成績を残す。
その後も中継ぎエースとして見事な活躍を続け、2001年まで5年連続で50試合以上に登板。2000年には37歳の高齢でリーグトップの71試合に登板し、その翌年にさらに成績を良化させるという鉄腕ぶりを見せつけた。当時の阪神中継ぎ陣は地味ながら実力のある選手が揃っていたが、伊藤の安定感はその中でも頭一つ抜けていたと言える。
本人が語ったところによると、最後に一花咲かせてくれた阪神への恩に報いるため、自分の羽根で機を織り続けた「鶴の恩返し」の鶴のごとく「羽根を抜いては投げている」気持ちだったという。だが2002年にはその羽根もついに尽きたか、肘・腰の故障で満足に投げることも出来なくなってしまう。結局この年限りで、暗黒時代の中継ぎ陣を共に支え続けた同士である葛西稔・遠山奬志・弓長起浩らと共にマウンドを去ることになった。
阪神時代の6年間で残した成績は312試合 334回 25勝12敗8セーブ 防御率2.69と同時代に活躍した中継ぎ投手の中でもトップクラスのものだったが、暗黒時代ということもあってか注目を集めることは少なく、オールスターにも一度も出場できなかった。もっとも「オールスターくらい休ませろ」というファンの配慮があったという説も…
引退後しばらくは実家で家業に勤しむ傍ら解説者として活動していたが、2005年に三軍コーチとして阪神に復帰。史上最年少の15歳でドラフト指名を受けた辻本賢人の教育係となった。
翌年から二軍トレーニングコーチとなり、2009年には一軍トレーニングコーチとして入閣。そのまま現在に至る。
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最終更新:2025/12/07(日) 13:00
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