伊達成実 単語


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伊達成実(だて しげざね 1568年~1646年)は天下の副将軍伊達政宗の片腕であり、友であり、決して後戻りしない家中随一の剛の者であり、大河ドラマ「独眼竜政宗」の脚本家である。

我こそは伊達藤五郎成実なり

のちの「伊達一族の長老」伊達実元が嫡男として1568年信夫郡大森城にて出生。幼名・時宗丸。
母の鏡清院は実元の兄・晴宗の次女、つまり叔父と姪の近親婚であった。

幼少期は了山和尚の下で学問を修め、政宗に遅れること2年の1579年、大森城で元服。名を藤五郎成実と改める。
※大河ドラマの関係でよく誤解されるが政宗と共に虎哉宗乙へ師事したという事実はない。

1584年頃に家督を継いで大森城主となり、同じく家督を継いで主君となった政宗の命により伊達領南方の抑えを担う。 主として大内定綱対策にあたり、調略により内応者を作ることに成功している。

これを契機に1585年小手森城の合戦へと突入、大内の援軍に駆けつけた蘆名・畠山勢により事態が膠着したため成実は独断で戦線を離れて南へ陣を移し、田村勢と合流した。
政宗は激怒したがこれにより援軍との連絡を絶たれた城方は窮地に陥り、定綱も逃亡したため成実配下の使者を城へ招き入れてあっさり降伏を申し出た。
しかし条件面で折り合わず、総攻撃をかました挙句に城に火をかけた上でなで斬りを決行。中にいた使者はほうほうの呈で自陣へ戻ってきた。

 同年、先君輝宗の弔い合戦である人取橋の戦いでは東方面の瀬戸川館に布陣し力戦奮闘、次々と戦況が悪化する中で本陣へ攻撃している佐竹勢に横から突撃を敢行し、川へ追い詰められた政宗の前には成実自らが手勢2-30人とともに現れてなおもこれを食い止めた。
ついでに主君の馬の尻を軍扇でひっぱたき、川から引き上げさせたりもした。
この八面六臂の活躍により感状を賜る。

1586年二本松城を拝領。入れ替わり大森城主となった片倉景綱と共に南の守りを固めた。

1588年の郡山合戦では北方での大敗(大崎合戦)を好機と見た蘆名方・大内定綱が侵攻を開始。
景綱らと寡兵でしのぎ続け、蘆名方の内部抗争に乗じて当の攻め手を逆に調略で絡め取る抜群の功を上げた。
これにより長年逃げ回り何度も矛を交えた仇敵・定綱をついに臣従させることに成功した。

 1589年摺上原の戦いでは前もって内応の確約を得ていた猪苗代盛国を政宗と引き合わせ猪苗代・会津方面の戦端を開いた後、景綱と共に別働隊を率いて猪苗代へ進軍。
政宗本隊が不利を心配して援軍に来ようとするのを断り捨石となる覚悟であった(結局助けに来ちゃったけど)
開戦時には四番備を担当。自軍を襲う砂塵を巻き上げた向かい風の影響で猪苗代・片倉・白石隊が崩れていく中、猛然と敵陣へ斬り込んで体勢を持ち直すきっかけとなり、風向きが変わった後の大勝へとつなげた。

不退転を象る毛虫(百足)の前立てが如く、ひたすらに突き進んだ時代であった。

いつの日か天下を取ると仰せられたではないか

主君・政宗がラスボスに翻弄されていく中、成実は徐々に己が信条とした「武」を発揮できなくなっていく。
列挙するだけでも

  • 小田原参陣反対→黒川城に残って留守番
  • 葛西大崎一揆→煽動が露見して蒲生氏郷の人質
  • 岩出山城転封→二本松から角田へ所領引越し(所領半分以下に減封)
  • 文禄の役に従軍→誰得
  • 秀次事件→ラスボスへの誓詞に署名
  • かつて敵対した石川昭光が臣従→親戚というだけで自分より席次が上etc.

時流が変わり、槍働きがご機嫌取りに変わった時、武辺者の成実は何かを失った世の中に嫌気が差したのかもしれない。

1595年(諸説あり)ついに出奔に至る。

※この時期伊達家では出奔が相次いでいるが、伊達家一級資料にもほとんど記述が無いため動機と滞在先は諸説入り乱れている。
ちなみに「領地召し上げの際妻子を皆殺しにされた」というのは俗説であり、史実では領地接収前に妻子とも早世している。

様々な伝聞をまとめると
文禄の役より帰国、勲功に報いるものが得られなかったため高野山へこもる。
外様の石川昭光が自分より上の席次に据えられ、そのまま課役を拒否して失踪。
徳川家康に仕官を試みるが政宗の妨害に遭い断念、相模国糟谷に逐電。
上杉景勝から5万石で誘いを受けるが「家臣筋の家に仕える気はない」として断る。
※伊達実元が入嗣を果たしていれば上杉景勝は長尾景勝として成実の下にいただろうということ。
となる。

見参、見参ッ──────────!!

1600年関ヶ原の戦いの前哨戦である白石城攻めでは出奔の原因(の一つと言われる)である石川昭光の陣より推参。
放浪中仕官に誘ってきた上杉方へ手痛い一撃を浴びせて攻城に一役買っている。

時期は不明だが家紋の使用について政宗から問責が受けたことがあった。
成実は「竹に二羽飛雀紋は元々父・実元が上杉より譲り受け御当家に献じたもの。その際に同じ紋を使うとのちのち差し障りがある旨はっきりと申し上げているはず。」 と申し開きをしたため政宗は非を認めて詫びを入れている。

1602年の亘理城拝領から先は領国経営はもとより、松平忠輝と五郎八姫の婚姻の際に政宗名代として輿を将軍家に届けるなど、さまざまな役目を果たしていくことになる。
そして大坂の役参陣、最上家改易による城接収を最後に出陣することもなくなり、二代目忠宗の治世にはかつての父と同じく家中の長老として重きをなして政宗亡き後の伊達家を支え続けた。

おそらくこの頃に「成実記」「伊達成実日記」「政宗記」の元となる草稿を編纂。
「物の数にも入らぬ者を取り立て、その功たるや比類なし」などと政宗を褒めちぎる一方で暗に自らの出自を自負し、前述した小田原参陣までを微に入り細に入り書き連ねることで「やっぱり自分こそ家中随一の剛の者だ」とこっそり悦に入ったりもしている。それゆえ小田原以後の記述は手抜き。
これにより後世の創作に多大なる影響を与え、大河ドラマ「独眼竜政宗」や「信長の野望」シリーズでは目論見通り(?)脳筋描写ばかりが目立つこととなった。おのれ。
また将軍徳川家光に戦話を所望されたときは、大激戦であった仙道人取橋の合戦を物語り、御簾を隔てて聞いていた将軍を感動させた。

最晩年には出奔中に本家へ鞍替えした元部下を隊将へ推挙したり、その御礼とかつての非礼を侘びに訪れた当人を薙刀で追っ払ったりしている。
「お前が有能なことと、あの時裏切ったことは全くの別儀。お前を許した訳ではない。」とのことらしい。

同じ頃、領地の石高を増やしすぎた(亘理城拝領時の約2倍)ために幕府に端数を没収された。でもまた増やした。自由なおじいちゃんである。

1646年2月9日、養嗣子・宗実に家督を譲り、同年6月4日に死去。享年79。

辞世「古来より稀なる年にここのつのあまるも夢の中にぞありける」
大意:70まで生きた古来稀なる御大将(政宗)より9つも長く世を見て参ったが、やはりこの世はうたかたの夢。駆け抜け続けてあっと言う間の一生であった。

戒名:雄山寺殿久山天昌大居士

明治時代に建てられた亘理神社に武早智雄命として祀られ、武の神様となった。 

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける伊達成実の一覧

軍事 内政
群雄伝(S1) 戦闘 85 政治 60 80 野望 80
武将雲録(S1) 戦闘 85 政治 76 72 野望 68 教養 69
覇王 采配 81 戦闘 88 智謀 37 政治 62 野望 55
戦才 176(A) 智才 104(C) 政才 142(B) 83 野望 63
戦闘 91 智謀 54 政治 61
烈風 采配 71 戦闘 88 智謀 54 政治 55
世記 采配 81 智謀 49 政治 49 野望 57
統率 81 知略 44 政治 46
下創世 統率 81 知略 44 政治 46 教養 63
統率 87 武勇 94 知略 53 政治 52
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関連項目

  • 伊達政宗
  • 伊達実元
  • 伊達輝宗
  • 歴史
  • 戦国時代の人物の一覧
  • 独眼竜政宗
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