伊達政宗(だて・まさむね)とは、
(文和2年/正平8年(1353年)- 応永12年9月14日(1405年10月7日)没)南北朝時代から室町時代の大名。兵部少輔、大膳大夫、五位下。入道円孝。父親は8代当主伊達宗遠。父・宗遠と共に置賜郡に侵攻して長井氏を滅ぼし置賜を伊達氏の拠点となり、17代政宗の時代に豊臣秀吉の奥州仕置により本拠を岩出山に移すまでの200年余りにわたって置賜は伊達氏の支配下に置かれた。
正室は室町幕府3代将軍・足利義満の生母の妹で足利将軍家と強い結びつきがあり、鎌倉公方が領土要求してきた時はそれを拒み、1399年大崎氏・蘆名氏などと同盟して戦うがこの時は破れ出羽に逃れるが1402年ふたたび反旗を翻し、鎌倉方の上杉禅秀と戦い上杉方へ大打撃を与える。「伊達政宗の乱」と呼ばれるこの2つの戦いは足利将軍家と鎌倉府の代理戦争でもあり、この戦いによって伊達家の名を近隣諸国に響かせる事となり9代政宗は「伊達家中興の祖」と称えられ、その名をあやかって17代政宗が命名される事となる。
弟の宗行は伊達郡大條(大条)村を与えられ大條(大条、おおえだ)氏と名乗る事となるが、サンドウィッチマンの伊達みきお(本名・伊達幹生)はこの大條氏の流れを汲む。
妹は最上氏2代当主直家に嫁ぐ。
伊達藤次郎政宗(永禄10年8月3日(1567年9月5日) - 寛永13年5月24日(1636年6月27日))は、
伊達家16代当主の父伊達輝宗の嫡男として米沢城で生まれた(というのが一般的だが、米沢市中心部の上杉神社がある米沢城址ではなく、米沢市西部にあったという舘山城で生まれたという説が有力になり始めている)。幼名は梵天丸。
母親は出羽国の最上義守の息女で、最上義光を兄にもつ義姫。妻は愛姫。
政宗という名は伊達家中興の祖である9代大膳大夫政宗にあやかって名付けられた。
伊達氏は11代当主持宗から16代当主輝宗まで足利将軍の一人から一文字頂いていたが(補足として持宗は足利義持から、輝宗は足利義輝から)、17代目に対しては上記のとおり先祖の名を襲っている。
これには理由があり織田信長が足利義昭を京から追放し戦国の世も大詰めとなったところ、奥羽では群雄の勢いが
ますます強くなっていった。そんな奥羽で父祖を築いてきたものをどう保ち、またそれを発展するか、そして中央の大勢力にはどう立ち向かうべきか、これを考えた時に中興の祖といわれる大善大夫政宗のような武将になるのが望ましい、従ってこの名を襲名させようとして元服の際に名乗らせた。後に初陣で輝宗と共に相馬盛胤に奪われた領地の回復に成功しているため輝宗の願いは早くもここから始まったといえよう。
幼い頃に天然痘(疱瘡)にかかり右目を失明。一説によれば右目を失明した事を生母が忌み嫌い、それが後にお家騒動(生母が弟である伊達小次郎を次期当主に据えようと画策し、政宗を毒殺しようとした事件)につながったともされる。しかしもう一方の説は全く反対で、失明した事は伝説の高僧・万巻上人の生まれ変わりである証拠と感銘して上人の遺徳を大いに讃えたとも言われており、実際の所は不明である。
なお、政宗の代名詞である「独眼竜」という中二病臭い二つ名は後世に名付けられたものであり、小説・大河ドラマで使われた事で有名になったが、初出は明治34年(1901年)に発行された『独眼竜伊達政宗』(高橋紫燕・著、久保天随・校、大阪:鍾美堂)で、元々は唐末期の突厥系軍閥で後唐の太祖となった李克用(856 - 908)の別名の一つである。
政宗は17歳で家督を相続すると、かつての伊達家の繁栄を取り戻すべく周辺の勢力(主に最上氏・芦名氏など)を討伐していった。
しかし、中央では織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉による天下統一事業が着々と進み、政宗のところにも何度も停戦命令が届く。それを黙殺し続けていた政宗であったが、当時伊達家と同盟を結んでいた北条氏の小田原城攻めが開始された段階でとうとう秀吉の下に屈した。
この時の参陣の遅れについては、秀吉との駆け引きの他、参陣直前に母親に毒殺されかけるものの、解毒剤の撥毒丸(ばつどくがん)をすぐに使用したため一命を取り留めたものの、その後の療養のため、などの説がある。背後には最上義光がいて、義姫が弟の小次郎(幼名:竺丸)を寵愛しているため小次郎に伊達家を継がせて掌握しようという陰謀があったともされるが、いずれも不明な点が多い。
秀吉政権下では明らかにアヤシイ行動を咎められ、何度か謀反を疑われるが機転の利いた対処で切り抜け、東北地方の有力勢力として存在し続けた。
ちなみに、秀吉晩年期における政宗の石高は58万石であった(参考:前田利家→81万石、宇喜多秀家→57万石、上杉景勝→120万石、毛利輝元→121万石、徳川家康→256万石)。石高の順位(石高ランク第五位の”大大名”)から言えば、秀吉政権末期のいわゆる「五大老」「五奉行」合議体制に政宗が入っていてもおかしくはないのであるが、なぜか入っていない(ちなみに、政宗より後に秀吉に帰参した上杉景勝は五大老に入っている)。これは秀吉の親戚である宇喜多秀家の存在もあるだろうが、やはり「政宗ねぇ・・・」という危惧の声も大いに影響しているのではないだろうか。
関が原の戦いでは徳川家康の東軍側に付き、伯父の最上義光等東北諸大名と共に会津の上杉景勝を牽制する役目を担う。関ヶ原の後、論功行賞によって伊達は領地を失う事を免れ、江戸幕府が誕生すると仙台藩の初代当主となった。
仙台藩初代藩主となってから、政宗は積極的に徳川家への接近を試みた。初代将軍・家康はこれを警戒しながら対応していたが、二代将軍・秀忠以降は御意見番として将軍の相談に応じており「仙台公」あるいは「仙台侍従殿」「仙台黄門」(「侍従」「黄門(権中納言の唐風官名)」は政宗の官職に由来する)とも呼ばれ、三代将軍・家光からは「伊達の親父殿」とよばれて親しんだ。その信頼の深さはさながら「副将軍」にも等しかったとされる。
晩年は美食研究などで知られ、日に1~2時間は二畳敷きの専用トイレ兼執務室に篭って朝夕の献立を考えるほどの熱の入れ様で、例えば「白鳥の塩漬け」は幕府に献上するほどの自慢の逸品だったとか。そうした政宗の美食研究の結果生まれたのが「ずんだ餅」「凍み豆腐」であると言われている。
尚、この美食が祟ったのか、晩年は肥満に悩まされたとも言い伝えられている。一方で健康には人一倍気を遣っていたようで、煙草を一日三回きちんと吸っていた・・・って、当時の煙草は薬扱いなんだから仕方ない。(仙台にある伊達政宗霊廟=墓所である「瑞鳳殿」の調査が行われた際に政宗の遺骨ならびに副葬品等々の調査が行われた。その中に喫煙具一式もあった。)
深刻な歯周病持ちで、晩年は上の両犬歯しか歯が残らなかったという。加えてかなりの下戸で、飲酒にまつわる失敗談も幾つか伝えられている(これも政宗墓所の調査で判明した)。
戦国の気風を晩年まで保っていたことで三代将軍家光に慕われており、もっと早くこの世に生まれていれば・・・そう思わせる人物である。
寛永13年5月24日(1636年6月27日)江戸上屋敷にて死去。享年70歳。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く 」
墓所:瑞鳳殿(仙台市青葉区)この場所は政宗公が自ら自分の墓所の場所はここにと指定した場所であるが、墓所建築の際、地下から廟所が発見されて確認した所、政宗公が生まれ変わりだといわれていた満海上人(この人物も片目の人だったらしい)の廟所と判明し、政宗公の墓所を少しずらして建造したとの事。なお瑞鳳殿敷地内には満海上人供養塔があります。殿内には発掘のさいに調査された遺骨を基にして作った伊達政宗の木像が安置されている。
幼いころより禅僧・虎哉宗乙(虎載宗乙)に師事し、文武両道に優れた人物であった。若いころから、奥州の領土奪回・拡大を目指し成功しているため、戦略的な能力は高かったと見られる事が多い。武略だけではなく知略にも長けており、陰謀や画策はもはや趣味に近い。これは師である虎哉禅師から「目に見える事(現実)だけが本当の姿(事実)ではない、目に見えぬ事(謀略や打ち合わせ)によって本当の姿が変わる事もある」=「騙されたくなかったらすべてを疑ってかかれ」という教えを叩きこまれていた事も大いに影響するであろう。実際に、秀吉や家康といった権力者とに対する立ち回りや危機の切り抜け方などから、猛将型よりむしろ謀略等に長けた大名であったと評価する人も少なくない。
※なお、伊達政宗の性格形成に最も大きな影響を与えたのが虎哉宗乙であり、いわば「DQNの元凶」破天荒な性格を作り上げたのはは虎哉禅師であると言っても過言ではない。
いずれにせよ秀吉・家康はもちろんの事、秀忠・家光などからも危険視され一目置かれる存在となり、幕末まで続く仙台藩の基礎を確立した手腕は、政宗という戦国人間としての能力の高さ(と、相手を驚かせるようなパフォーマンスで難を乗り切るという世渡り上手な部分)を裏付けるものだろう。
反面、文化・教養人としても知られ、後水尾天皇より和歌を激賞されたこともある。後世、明治天皇はその文武両道性を高く評価し、大正天皇は従二位を追贈した。
手先も器用であったようで上述の通り料理を趣味とし、竹細工も得意とした。晩年は能に傾倒し、鼓や太鼓の名人であった(政宗が従四位下右近衛権少将の官位を賜った際に秀吉の前で披露したという)。
しかし、政宗の後世の人を引き付ける魅力は、戦国時代が収束していく中でも、奥州の暴れん坊と呼ばれ、晩年まで衰えなかった野望と、それらを示唆するDQN的行動エピソードの数々である事は間違いないだろう。
また隻眼の武将として、三国志の夏侯惇と同じように、生涯、独眼という事に劣等感を感じていたとされ、遺言では「肖像画は両目で描いてほしい」と頼んだとされる。
自尊心が高く、勧進能のエピソードでは政宗が役者にもう一度見たいと言ったがその場にいた役者、金剛大夫は
「アンコールは嬉しいのですがもう他の役者などが帰っておりますので・・・」というような事を告げると政宗は憤激。「この自分ほどの者の頼みが断られるとは黙っていられない。大夫以下役者を斬り捨て皆殺しにした後、この事を幕府に言上する。」などと言ったらしい。「この自分」という言い方から政宗の自尊心の高さが窺える。
東北最大の都市である仙台市の発展の基礎を築いた。当時仙台は「千代(せんだい)」と呼ばれていたが、これを「仙台(仙臺・仙人の住む尊い場所の意)」に改めたのは政宗である。城名も「千代城(青葉山城)」より「仙台城」へと改名させた(仙台城が別名「青葉城」と呼ばれるのは元の名前に由来する)。
廟所(墓所)である瑞鳳殿(ずいほうでん)は戦災で焼け落ちており、1974年に再建されたものである。その再建にあたって発掘調査が行われ、遺骨の検査も行われた。身長が159.4cmだったことや、遺髪から血液型がB型であることが判明した。また遺品からは金製のロザリオ(出頭した時に背負ったアレに非ず)が見つかり、彼がキリシタンであったという説もある(確証は無い)。
そのB型たるゆえんが下記の「暴走」を表しているのではなかろうか・・・。
ちなみに『スターウォーズ』のダース・ベイダーのヘルメットは、政宗所用の兜の一つがモチーフになっているという。うん、だいたいあってる。
若いころから暴走していた政宗だが、江戸幕府が開かれた後も相変わらず暴走。
故に一部の歴史ファンには「DQN四天王北の政宗」「鮭様の甥のまーくん」「文化財クラッシャー」等の愛称で親しまれている。
ちなみにこれはほとんど晩年のことである。
エピソード自体かなり過激な上、当時は戦国の家風が色濃く残る時代。些細な不祥事・落ち度に目を付けられ、謹慎・隠居・切腹・改易が頻繁に行われていた頃である。
自分を必要以上にDQNと思わせ、将軍家やその周囲からの警戒を紛らわそうとしたとも言われているが、前記のような時代背景を考えると、政宗の行動は見ている側にとってハラハラするどころの騒ぎではない。
あまりにも嘘臭い(後世の創作ではないか)と思われる話もあるが、これらの話のソースの多くは、友人であった細川ヤンデレ忠興の手紙である。なので本当にやったっぽい。流石、独眼竜は伊達じゃない。
上記してきたように、伊達政宗は己が持つ能力をフルに活用して戦国乱世の中を生き抜いた。その類まれな体力と根気、そして豪快さとアイディアはまさに戦国時代でも屈指のカリスマであったと言えよう。天下泰平の世となっても虎視眈々と策を練って戦国の気風を生涯貫き、自分の思ったことは何が何でも実行するという気骨は多くの人から尊敬された(もちろん、危険視もされた)。歴史学者や歴史小説家も「生まれるのが10年早ければ、伊達政宗は天下を取っていたかもしれない」と言われている事も、様々なエピソードや実際に残されている華々しい経歴・戦歴をみれば納得できる。
特に一大センセーションを巻き起こしたのは1986年の大河ドラマ「独眼竜政宗」(原作:山岡荘八)で、当時新進の俳優であった渡辺謙を政宗役に抜擢し、同作品は彼の出世作となった。配役も政宗の父・伊達輝宗に北大路欣也、豊臣秀吉に勝新太郎、徳川家康に津川雅彦、最上義明に原田芳雄といった堂々たるもので、現在でも「平均視聴率 36.9%」(注意:瞬間ではなく、平均!)という記録は打ち破られてはいない。歴代大河ドラマで最も人気のある作品である事は言うまでもなく、2012年大河ドラマ50作を記念して行われたアンケートでも堂々の第1位を獲得している。大河ドラマ「独眼竜政宗」の影響は非常に大きく、伊達政宗という人物を一気に日本史上屈指の人気者にした。同時に「最も好きな戦国武将」の上位に必ず彼がランクインするようになった。
もう一つ、政宗が現代人を魅了するものとして挙げなければならないのがファッションセンスである。伊達家の家紋である”竹に雀(仙台笹)”の下にカラフルな水玉模様を配した「紫地羅背板五色乱星陣羽織」に代表されるように、自らがデザインしたもの、あるいは当時の常識を凌駕するファッションセンスは現代に通じるものがある。基本的に戦国時代は「いかに目立つか」が重要であった(※とくに合戦の際には存在をアピールする必要があった)のだが、政宗は特に奇抜でインパクトのあるものであった。しかし、単に派手で目立つものという訳ではなく、実用性がありなおかつセンスのあるデザイン・色使いのものが多く、彼の陣羽織や着用の具足をもとに作ったグッズは人気が高い。「伊達男」という言葉の語源が政宗であるという説は有名だが、単に「派手」という意味だけを持つのではないという事を知っておこう!
伊達政宗の壮絶かつ豪快な人生は現代の厳しい世の中において特に光を放っている。2011年、未曽有の災害をもたらした東日本大震災では政宗の作った仙台も大きな打撃を受けた。しかし、東北の人々は諦めることなく現在もなお復興に向けた取り組みを進めている。その中で、乱世時代に天下という果てしない夢を追って何度でもチャレンジし続けた政宗の粘り強さ、彼の持つ強烈なリーダーシップとカリスマ性は東北、特に仙台の人々にとって少なからず”心の支え”になったのは言うまでもない事であろう。仙台という名は政宗がその地を整備する際に「”千年(千代)”ではなく”仙人の住む地(仙台)”の如く永遠に栄え続ける地にする」事を願って改名した。その政宗の願いを無駄にしてはならない。
東北だけではなく、政宗の存在は全国・全世界にも形を変えて影響を与えている。戦国時代をモチーフにしたゲームやケータイ小説などでもしきりに彼を登場人物としたものが流行っており、老若男女・ジャンルを超えて伊達政宗は現代でもなお輝き続けているのである。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 84 | 政治 | 86 | 魅力 | 85 | 野望 | 93 | 教養 | 80 | ||||
覇王伝 | 采配 | 95 | 戦闘 | 86 | 智謀 | 87 | 政治 | 94 | 野望 | 96 | ||||
天翔記 | 戦才 | 178(A) | 智才 | 186(A) | 政才 | 190(A) | 魅力 | 96 | 野望 | 94 | ||||
将星録 | 戦闘 | 88 | 智謀 | 93 | 政治 | 96 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 94 | 戦闘 | 76 | 智謀 | 92 | 政治 | 95 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 86 | 智謀 | 84 | 政治 | 85 | 野望 | 99 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 86 | 知略 | 84 | 政治 | 85 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 85 | 知略 | 82 | 政治 | 83 | 教養 | 72 | ||||||
革新 | 統率 | 95 | 武勇 | 86 | 知略 | 92 | 政治 | 93 | ||||||
天道 | 統率 | 96 | 武勇 | 86 | 知略 | 92 | 政治 | 93 |
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最終更新:2024/04/24(水) 05:00
最終更新:2024/04/24(水) 05:00
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