伊達政宗 単語

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伊達政宗(だて・まさむね)とは、

  1. 南北朝室町時代の武将。伊達9代当。2との区別のため大夫(だいぜんだいぶ)政宗とも称される。
  2. 戦国時代の武将、大名。伊達17代当仙台初代当。1との区別のため次郎政宗とも称される。
    いわゆる独眼竜政宗(後述)。
    1. 仙台の観測所で発見された小惑星名前。2にちなむ。
    2. ゲーム戦国BASARA』の登場人物。2から生。 → 伊達政宗(戦国BASARA)

9代政宗

(文和2年/正8年(1353年)- 応永12年9月14日1405年10月7日南北朝時代から室町時代の大名。兵部少、大大夫、五位下。入円孝。父親は8代当伊達宗遠。・宗遠と共に置賜に侵攻して長井氏を滅ぼして置賜を伊達氏の拠点とし、17代政宗の時代に豊臣秀吉州仕置により本拠を岩出山に移すまでの200年余りにわたって置賜は伊達氏の支配下に置かれた。
正室は室町幕府3代将軍・足利義満の生足利将軍と強い結びつきがあり、鎌倉方が領土要してきた時はそれを拒み、1399年大崎氏・名氏などと同盟して戦うがこの時は破れ出羽に逃れるが1402年ふたたび反旗を翻し、鎌倉方の上杉秀と戦い上杉方へ大打撃を与える。「伊達政宗の乱」と呼ばれるこの2つの戦いは足利将軍鎌倉府の代理戦争でもあり、この戦いによって伊達の名を近隣諸かせる事となり9代政宗は「伊達の祖」と称えられ、その名をあやかって17代政宗が命名される事となる。

の宗行は伊達(大条)を与えられ大(大条、おおえだ)氏と名乗る事となるが、サンドウィッチマン伊達みきお(本名・伊達幹生)はこの大氏の流れをむ。
最上氏2代当ぐ。

17代政宗

伊達次郎政宗(永10年8月3日1567年9月5日) - 寛永13年5月24日(1636年6月27日))は、
伊達16代当伊達輝宗の嫡男として米沢城で生まれた(・・・というのが一般的だが、米沢市中心部の現在上杉神社がある場所にあった米沢城ではなく、米沢市西部にあったというで生まれたという説が有になり始めている)。幼名は梵天丸。
母親は出羽最上義守の息女で、最上義光にもつ義姫。妻は愛姫
 
政宗という名は伊達の祖である9代大大夫政宗にあやかって名付けられた。
伊達氏は11代当持宗から16代当宗まで足利将軍の一人から一文字頂いていたが(補足として持宗は足利義持から、宗は足利義輝から)、17代に対しては上記のとおり先祖の名を襲っている。

これには理由があり織田信長足利義昭から追放し戦国の世も大詰めとなったところ、羽では群雄の勢いが
ますます強くなっていった。そんな羽で祖を築いてきたものをどう保ち、またそれを発展するか、そして中央の大勢にはどう立ち向かうべきか、これを考えた時に中の祖といわれる大善大夫政宗のような武将になるのが望ましい、従ってこの名を襲名させようとして元の際に名乗らせた。後に初陣宗と共に相馬盛胤に奪われた領地の回復に成功しているため宗の願いはくもここから始まったといえよう。

幼い頃に天然痘(疱瘡)にかかり右を失明。一説によれば右を失明した事を生が忌み嫌い、それが後にお家騒動(生である伊達小次郎を次期当に据えようと画策し、政宗を殺しようとした事件)につながったともされる。しかしもう一方の説は全く反対で、失明した事は伝説の高僧・万巻上人の生まれ変わりである拠と感銘して上人の遺徳を大いに讃えたとも言われており、実際の所は不明である。

なお、政宗の代名詞である「独眼竜」という中二病臭い二つ名は後世に名付けられたものであり、小説大河ドラマで使われた事で有名になったが、初出は明治34年(1901年)に発行された『独眼竜伊達政宗』(高橋・著、久保随・校、大阪:鍾美堂)で、元々は唐末期の突厥系軍閥で後唐の太祖となった李克用(856 - 908)の別名の一つである。

政宗は17歳督を相続すると、かつての伊達の繁栄を取り戻すべく周辺の勢最上氏・名氏など)を討伐していった。
しかし、中央では織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉による天下統一事業が着々と進み、政宗のところにも何度も停戦命が届く。それを黙殺し続けていた政宗であったが、当時伊達と同盟を結んでいた北条氏小田原城攻めが開始された段階でとうとう秀吉の下に屈した。

この時の参の遅れについては、秀吉との駆け引きの他、参直前に母親殺されかけるものの、解剤の撥丸(ばつどくがん)をすぐに使用したため一命を取り留めたものの、その後の療養のため、などの説がある。背後には最上義光がいて、義姫小次郎(幼名:丸)を寵愛しているため小次郎伊達を継がせて握しようという陰謀があったともされるが、いずれも不明な点が多い。

秀吉政権下では明らかアヤシイ行動を咎められ、何度か謀反を疑われるが機転の利いた対処で切り抜け、東北地方の有として存在し続けた。

ちなみに、秀吉晩年期における政宗の石高は58万石であった(参考:前田利家→81万石、宇喜多秀家→57万石、上杉景勝120万石、毛利輝元→121万石、徳川家康256万石)。石高の順位(石高ランク第五位の”大大名”)から言えば、秀吉政権の中枢に政宗が入っていてもおかしくはない(※暴れん坊だから入らない方が良いという見方もある一方、虎視々と活動をおこなう政宗を抑え込むには逆に体制に組み込んで常に監視しておいたほうが良いのではないかという説もある)のであるが、なぜか入っていない。これは秀吉戚である宇喜多秀家の存在もあるだろうが(秀自体は秀吉の一族ではないが一旦秀吉の養子に入っている事から扱いは一門になっている)、やはり「政宗ねぇ・・・」という危惧の大いにしているのではないだろうか。

関が原の戦いでは徳川家康の東軍側に付き、伯父最上義光東北諸大名と共に会津上杉景勝を牽制する役を担う。この時、家康から秀吉小田原征伐遅参の罰として収された伊達旧領649万石を与えるという100万石の御付」を得ていたが、小田原征伐に参加せず所領収・易された和賀の旧和賀忠親(所領収後に政宗に保護されて胆沢に所領を与えられていた)による旧領回復の為の南部氏への反乱(和賀一)を煽動した黒幕である事がが露見した為に家康に「100万石の御付」を反故にされ、論功行賞は自で奪い取った刈田2万石の加増のみとされ(その後に近江常陸に小領土の飛び地2万石が加増され)、仙台伊達62万石が誕生し政宗は仙台の初代当となった。

仙台初代となってから、政宗は積極的に徳への接近を試みた。初代将軍・家康はこれを警しながら対応していたが、二代将軍・秀忠以降は御意見番として将軍の相談に応じており「仙台」あるいは「仙台殿」「仙台」(「従」「門(権中納言の唐官名)」は政宗の官職に由来する)とも呼ばれ、三代将軍・からは「伊達親父殿」とよばれてしんだ。その信頼の深さはさながら「副将軍」にも等しかったとされる。

晩年は美食研究などで知られ、日に1~2時間は二敷きの専用トイレ兼執務室に篭って夕の献立を考えるほどの熱の入れ様で、例えば「白鳥漬け」は幕府に献上するほどの自慢の逸品だったとか。そうした政宗の美食研究の結果生まれたのが「ずんだ餅」「凍み豆腐」であると言われている。


尚、この美食が祟ったのか、晩年は肥満に悩まされたとも言い伝えられている。一方で健康には人一倍気を遣っていたようで、煙草を一日三回きちんと吸っていた・・・って、当時の煙草扱いなんだから仕方ない。(仙台にある伊達政宗霊=墓所である「瑞鳳殿」の調が行われた際に政宗の遺らびに副葬品等々の調が行われた。その中に喫煙具一式もあった。)

深刻な歯周病持ちで、晩年は上の両しかが残らなかったという。加えてかなりの下戸で、飲にまつわる失敗談も幾つか伝えられている(これも政宗墓所の調で判明した)。

戦国の気を晩年まで保っていたことで三代将に慕われており、もっとくこの世に生まれていれば・・・そう思わせる人物である。
寛永13年5月24日(1636年6月27日江戸上屋敷にて死去。享年70歳。

辞世の句は、「曇りなき 心のを 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く

戒名:瑞殿貞山利大居士

墓所:瑞鳳殿仙台市青葉区)この場所は政宗が自ら自分の墓所の場所はここにと定した場所であるが、墓所建築の際、地下から所が発見されて確認した所、政宗が生まれ変わりだといわれていた満上人(この人物も片の人だったらしい)の所と判明し、政宗の墓所を少しずらして建造したとの事。なお瑞鳳殿敷地内には満上人供養があります。殿内には発掘のさいに調された遺を基にして作った伊達政宗の木像が安置されている。

大河ドラマ独眼竜政宗最終回に政宗墓所である瑞鳳殿の調の際に開された政宗本人の遺紹介された(大河ドラマ史上類例のない”本人出演”)。その際に格調血液型が行われた結果、「身長159.4センチ血液型B型」であると発表された。

人物

幼いころより僧・虎哉宗乙(虎載宗)に師事し、文武両に優れた人物であった。若いころから、州の領土奪回・拡大をし成功しているため、戦略的なは高かったと見られる事が多い。

近年のゲーム小説漫画イメージから、戦場での々しい武功を想像しがちだが、実際は敗戦の記録も多く、特に人取の戦いは伊達滅亡の危機でさえあった(佐竹氏が臣の暗殺や北条氏で急遽撤退していなければ、この時点で政宗が死亡していてもおかしくなった)。

しかし、結果として約5年という短期間のうちに、周囲の大名・族を討伐、または下に加え、佐竹氏・上杉氏と同等、もしくはそれ以上の広大な領域(近年では小田原直前に90万石以上であったと言われている)を有する事に成功したのは、苛な侵攻策による畏怖を与えつつ、調略による懐柔を繰り返し、武略だけではなく知略にも長けけた器の持ちであったことを明している。実際に、秀吉家康といった権者とに対する立ち回りや危機の切り抜け方などから、猛将よりむしろ謀略等に長けた大名であったと評価する人も少なくない。

そんなこんなで、若年の頃より(かつが存命中であるのに)督を継ぎ、伊達の旗頭に立たせられる中、積極的な対外進出の上で磨き上げられた陰謀や画策の手練は必要であったどころか、もはや趣味の延長上に近い。これは師である虎哉師からに見える事(現実)だけが本当の姿(事実)ではない、に見えぬ事(謀略や打ち合わせ)によって本当の姿が変わる事もある」「騙されたくなかったらすべてを疑ってかかれ」という教えを叩きこまれていた事も大いにするであろう。

※なお、伊達政宗の破天荒な性格の根本を作り上げた人物こそ虎哉師こと虎哉宗乙である。この虎哉師は「心頭滅却すれば火もまた自ずから涼し辞世で有名な甲斐・恵寺の快紹喜和尚子。武田信玄・勝頼に教えを諭していた師に同じく、問答から権謀術数を知り、それを政宗に叩き込んだのである。

いずれにせよ秀吉家康はもちろんの事、秀忠などからも危険視され置かれる存在となり、幕末まで続く仙台の基礎を確立した手腕は、政宗という戦国人間としてのの高さ(と、相手を驚かせるようなパフォーマンスで難を乗り切るという世渡り上手な部分)を裏付けるものだろう。

反面、文化・教養人としても知られ、後水尾天皇より和歌を賞されたこともある。後世、明治天皇はその文武両性を高く評価し、大正天皇は従二位を追贈した。
手先も器用であったようで上述の通り料理趣味とし、細工も得意とした。晩年はに傾倒し、鼓や太鼓の名人であった(政宗が従四位下右近衛少将の官位を賜った際に秀吉の前で披露したという)。

しかし、政宗の後世の人を引き付ける魅は、戦国時代が収束していく中でも、州の暴れん坊と呼ばれ、晩年まで衰えなかった野望と、それらを示唆するDQN行動エピソードの数々である事は間違いないだろう。

  • 小田原の際は妻の実家田村「参しないように」と示を出しておきながら、自らは参。結果として田村易され、田村領は伊達に与えられた為、実質的に田村を乗っ取った形になった(後に田村は妻・愛姫の遺言により再された)。 
  • 大崎葛西領で大規模な一が起きた際、裏で一を煽動する書状を記したことを秀吉に咎められたが、政宗はの死に装束りの十字架を背負ったデスパンクな出で立ちで出頭「書状の鶺鴒(せきれい)の押に針のいので、これは自分が書いたものではない」と言い抜けて処罰を免れた。それまでの他の書状は全て開きだった(ただし、現存する書状には開きのものは一つも・・・)。
  • 秀吉の重臣であり、政宗との仲も良好であった浅野長政に対して突然絶縁状」を突きつける。その理由は以下の十か条にまとめられた。(1)知行を返上する旨の書状をだまして書かせた上に、その撤回をしていない(2)朝鮮出兵においては勝手な揮をし、自分の面を潰した(3)朝鮮での勝手な揮について、伊達ではなく浅野に非があったという事を秀吉に報告していない(4)同じく朝鮮の役において、秀吉から支給された扶持が自軍に供給されなかった(5)秀次事件の時に遅刻したが、その理由を自分のせいにした(6)同じく秀次事件の際に秀吉から疑われたが、その時に何の擁護もしなかった事(7)正当な手続きを取って帰をしようとしたにも拘らず、不当な言いがかりをつけた(8)自分と仲の悪い木村吉清と懇意である事(9)自分と仲の悪い蒲生氏郷と懇意である事(10)自分の臣が秀吉戚である木下勝俊配下の者に殺された事件の際、秀吉との仲介を依頼したがこれに応えなかった。・・・ちなみに、この絶縁は一説によると政宗と長政が囲碁の最中に打ち手をめぐって口喧嘩となり、その”いせ”に起こしたという話も。なお、1994年伊達浅野会を開き、これを以て400年以上にわたる絶縁は解消された。
  • 関ヶ原(慶長出羽合戦)の際に南部領でを煽動し、領土拡大を図ろうとした。これを重く見た家康によって「百万石の御付」を反故にされている(関が戦後に政宗は居を岩出山から仙台に移すのだが、仙台に移した理由は万石の御付で領地獲得した場合、岩出山では北寄りになる、ほぼ中間に位置する仙台に移す事を考えたらしい)。
  • 海外を向け支倉常長スペインローマに遣わすという先見性も持っていた。これには貿易による仙台の繁栄は論のこと、何よりこれらとの軍事同盟による家康への謀反を企てていたのである。しかし幕内のコネや新将軍補が政争絡みの大疑大久保長安事件)により処分された上、スペインとの交渉も不調に終わったことで頓挫。以後は佐幕に方針を転換し、二代将秀忠や三代将からは「伊達親父殿」と慕われるほどになった(面下での暗闘や牽制はともかく)。
  • 極めつけは、晩年に遺した「酔余口号(に酔ってが乗ったので詠んでみた、の意)」という
    上 少 年 過
     世
     残 所 赦
     不 楽 是 如 何」
    このは、「若い頃はに乗って戦場を駆け抜けたが、世は太になり自分にも白髪が増えた。に与えられた余生が残ってはいるが……(1行~3行)」と、ここまでは素直に読める。
    しかし、4行については、「この余生を楽しまずしてどうしようか、いや楽しむべきである。(楽しまずんば是いかん)」、「楽しいと思えないとはいったいどういう事だろうか?(楽しまず是いかに)」と二通りの読み方ができてしまう。
    すなわち、幕府成立後に太の世となった事をでて、趣味・趣向の生きる事を悟った心を表したのか、の世となり自らの野心を捨てざるを得なくなった念の心を表したのか、全く違う解釈が出来てしまうのである。
    このの解釈については、政宗死後からっ二つに分かれており、今もってその論戦には決着がついていない。あるいは、そういう論戦が巻き起こる事を承知して、敢えて遺した政宗の意地悪心とも言われており、案外政宗自身は、あの世から後世まで続くこの論戦の様相を、ニヤニヤしながら眺めているのかもしれない・・・・・・。

また隻眼の武将として、三国志夏侯惇と同じように、生涯、独眼という事に劣等感を感じていたとされ、遺言では「肖像画は両で描いてほしい」と頼んだとされる。

自尊心が高く、勧進エピソードでは政宗が役者にもう一度見たいと言ったがその場にいた役者金剛大夫は
アンコールは嬉しいのですがもう他の役者などが帰っておりますので・・・」というような事を告げると政宗は憤この自分ほどの者の頼みが断られるとは黙っていられない。大夫以下役者り捨て皆殺しにした後、この事を幕府に言上する。などと言ったらしい。「この自分」という言い方から政宗の自尊心の高さがえる。 

東北最大の都市である仙台市の発展の基礎を築いた。当時仙台は「千代(せんだい)」と呼ばれていたが、これを「仙台(仙・仙人の住む尊い場所の意)」にめたのは政宗である。名も「千代青葉)」より「仙台城」へと名させた(仙台城が別名「青葉城」と呼ばれるのは元の名前に由来する)。

所(墓所)である瑞鳳殿(ずいほうでん)は戦災で焼け落ちており、1974年に再建されたものである。その再建にあたって発掘調が行われ、遺の検も行われた。身長が159.4cmだったことや、遺から血液型B型であることが判明した。また遺品からは製のロザリオ出頭した時に背負ったアレに非ず)が見つかり、彼がキリシタンであったという説もある(確い)。

ちなみに『スターウォーズ』のダース・ベイダーヘルメットは、政宗所用のの一つがモチーフになっているという。うん、だいたいあってる

暴走

若いころから暴走していた政宗だが、江戸幕府が開かれた後も相変わらず暴走
故に一部の歴史ファンには「DQN四天王北の政宗」「様の甥のまーくん」「文化クラッシャー」等の称でしまれている。

  • 文化クラッシュ(王義之の書写、碗、銘正宗(未遂)、利休の杓・入)
  • 大阪で味方である神保相茂隊に隊の一斉射撃を撃ち込み全滅させる。戦後家康ほか幕閣からも避難されたが60万石近い大大名を刺するのは好ましくないと判断した幕府は不問とした。)
  • ボヤ騒ぎで物置の一部が焼失→屋敷を全面(まあこれは処世術でもあるが)
  • 代将秀忠との約束二日酔いドタキャンし仮病を使う家康への叛意をじゃ殺さない」と暴露(逆に秀忠は死の床での死の間際に方の謀反の噂があり、病をおして討伐する所だった」と述懐)
  • 代将の御前で酩酊→爆睡したり、狩の外泊を諌める際に自身の家康暗殺未遂を暴露したり
  • 老中に膝枕をしてもらったり、仕事中に唐突に相撲の勝負をふっかけて職務妨したり
  • 加藤清正上杉景勝らに熱々お吸い物心からのおもてなし唇が腫れた
  • を見に行く→もう終わってた→「やれよ!」→「理です」→持ってこい(一座が戻りギリギリセーフ
  • 政宗やるんで役者借せよ!」→「先約が・・・」→・・・いっぺん死んでみる?→「わかりました・・・」
  • ヤンデレ大名・細川忠興から憑いてんじゃね?と言われた。その意趣返しかどうか、忠から家紋(九曜紋)を強奪(ちなみに仙台駅前周辺のには地に色の九曜紋の小旗がついてます)
  • 老中である酒井忠勝突然ひっぱたき江戸城中で取っ組み合いの大騒動をおこす(廊下を歩いている酒井突然相撲を一番」とをかけた途端にビンタをかましたとも)。
  • 正月に二代将秀忠を自邸に招いた際に政宗はこだわりの食事を出そうとした所、将軍の側近が見をしなければ出せない」と言った事に激怒。「もし秀忠を殺すのならばなどという卑怯な手は使わず矢(=武)をもって討ち取っておる!」と、秀忠に聞こえるように怒鳴った。これにはさすがの幕臣も閉口し、秀忠みずから政宗をたしなめた。
  • ひとたび客として訪れた二条他の大名が帰った後も居座って京都観光三昧(だから田舎者だと・・・)

ちなみにこれはほとんど晩年のことである。
エピソード自体かなり過な上、当時は戦国が色濃く残る時代。細な不祥事・落ち度にを付けられ、謹慎・隠居・切腹易が頻繁に行われていた頃である。
自分を必要以上にDQNと思わせ、将軍やその周囲からの警を紛らわそうとしたとも言われているが、前記のような時代背景を考えると、政宗の行動は見ている側にとってハラハラするどころの騒ぎではない。
あまりにも臭い(後世の創作ではないか)と思われる話もあるが、これらの話のソースの多くは、友人であった細川ヤンデレ手紙である。なので本当にやったっぽい。流石独眼竜伊達じゃない。

現代にも影響を与える伊達男

 上記してきたように、伊達政宗は己が持つフル活用して戦国乱世の中を生き抜いた。その類まれな体力と根気、そして快さとアイディアはまさに戦国時代でも屈カリスマであったと言えよう。下泰の世となっても虎視々と策を練って戦国の気を生涯貫き、自分の思ったことは何が何でも実行するという気は多くの人から尊敬された(もちろん、危険視もされた)歴史学者や歴史小説家「生まれるのが10年ければ、伊達政宗は下を取っていたかもしれない」と言われている事も、様々なエピソードや実際に残されている々しい経歴・戦歴をみれば納得できる。

 特に一大センセーションを巻き起こしたのは1986年大河ドラマ独眼竜政宗」(原作山岡荘八)で、当時新進の俳優であった渡辺謙を政宗役に抜し、同作品は彼の出世作となった。配役も政宗の伊達輝宗北大路欣也豊臣秀吉に勝新太郎徳川家康津川雅彦最上義光原田芳雄といった堂々たるもので、現在でも均視聴率 36.9(注意:間ではなく、均!)という記録は打ち破られてはいない。歴代大河ドラマで最も人気のある作品である事は言うまでもなく、2012年大河ドラマ50作を記念して行われたアンケートでも堂々の第1位を獲得している。大河ドラマ独眼竜政宗」のは非常に大きく、伊達政宗という人物を一気に日本史上屈人気者にした。同時に「最も好きな戦国武将」の上位に必ず彼がランクインするようになった。

もう一つ、政宗が現代人を魅了するものとして挙げなければならないのがファッションセンスである。伊達家紋である”仙台)”の下にカラフル玉模様を配した地羅背五色乱羽織」に代表されるように、自らがデザインしたもの、あるいは当時の常識駕するファッションセンスは現代に通じるものがある。基本的に戦国時代は「いかに立つか」が重要であった(※とくに合戦の際には存在をアピールする必要があった)のだが、政宗は特に奇抜でインパクトのあるものであった。しかし、単に手で立つものという訳ではなく、実用性がありなおかつセンスのあるデザイン・色使いのものが多く、彼の羽織や着用の具足をもとに作ったグッズ人気が高い。伊達男」という言葉のが政宗であるという説は有名だが、単に「手」という意味だけを持つのではないという事を知っておこう

伊達政宗の壮絶かつ快な人生は現代の厳しい世の中において特にを放っている。2011年、未曽有の災害をもたらした東日本大震災では政宗の作った仙台も大きな打撃を受けた。しかし、東北の人々は諦めることなく現在もなお復に向けた取り組みを進めている。その中で、乱世時代に下という果てしないを追って何度でもチャレンジし続けた政宗のり強さ、彼の持つ強リーダーシップカリスマ東北、特に仙台の人々にとって少なからず”心の支え”になったのは言うまでもない事であろう。仙台という名は政宗がその地を整備する際に「”千年(千代)”ではなく”仙人の住む地(仙台)”の如く永遠に栄え続ける地にする」事を願って名した。その政宗の願いを駄にしてはならない。

東北だけではなく、政宗の存在は全・全世界にも形を変えてを与えている。戦国時代モチーフにしたゲームケータイ小説などでもしきりに彼を登場人物としたものが流行っており、老若男女ジャンルえて伊達政宗は現代でもなおき続けているのである。

戦国大戦

州の独眼竜!今下に飛翔せん!」

Ver2.0で伊達が新設された事により、彼も伊達として参戦した。ちなみに舞台設定が1582年なので大分若々しい姿で描かれている。CV:中村悠一

スペックは当らしく2.5コスト8/7気合・魅隊と、采配持ちだとしても破格の
計略の「独眼竜の覇」は伊達の味方の武が上がるシンプルな大名采配だが、伊達の使いやすい采配は政宗しか持っていないため出番は多い。ちなみに計略発動時は彼専用で「」の文字が出る。計略範囲も隻眼という事で若干円形がずれており、回転も可と小回りは割と効く。
しかし、流石伊達4(政宗、伊達成実鬼庭綱元葛西俊信のデッキ)として使用率・勝率共に高かったため彼も修正を受け、範囲縮小・効果時間短縮の憂きに遭っている。特に効果時間は深刻で他の大名は最低でも6cはあるところを彼は5c強しかなくなっている。

 

下よひれせ!この独眼竜にな!」

その後電武将として登場している。CV:浜田賢二
伊達要計略があらかた下方修正された後に現れた。スペックSRと同じ。

計略名は覇」と書いてライトニングドラゴンと読む。BASARAでやれ。

計略内容は伊達の味方の武が長時間上がり隊であれば弾数がい時タッチ突撃が可になる。武上昇値は覇よりは少ないのだが問題はその効果時間。17cである。

その武上昇値は下方される前の島津貴久の「英の采配」に更に追加効果がついていて効果時間もそこまで変わらない、と本当に英涙目になる性でVer2.01C現在やっぱり流行している。幸いなのは「電武将(データ専用)」なのでカードショップ等で買えないことか。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける伊達政宗一覧

軍事 内政
群雄伝(S1) 戦闘 - 政治 - - 野望 -
武将録(S1) 戦闘 84 政治 86 85 野望 93 教養 80
覇王 采配 95 戦闘 86 智謀 87 政治 94 野望 96
戦才 178(A) 智才 186(A) 政才 190(A) 96 野望 94
戦闘 88 智謀 93 政治 96
烈風 采配 94 戦闘 76 智謀 92 政治 95
世記 采配 86 智謀 84 政治 85 野望 99
統率 86 知略 84 政治 85
下創世 統率 85 知略 82 政治 83 教養 72
統率 95 武勇 86 知略 92 政治 93
統率 96 武勇 86 知略 92 政治 93

戦国無双

シリーズ一作から登場。同年齢で活躍した時代も重なる真田幸村18歳設定の主人公として登場しているのに対し、政宗は14歳設定の140cm少年武将として登場し、破天荒IFストーリーを担当することとなる。2以降は青年程度に成長し、ストーリーも他のキャラクター同様に史実をベースアレンジしたものとなっている。1の政宗のようなIF担当というのは2の風魔小太郎や3の毛利元就などに受け継がれている。

デザインシリーズ通して一で伊達政宗とかわる甲冑姿。伊達軍のイメージカラーに設定されており、マント羽織は緑色である。1の隠しコスチュームは虎の毛皮で作った衣装なのだが田舎子供みたいな出で立ちだったが、露出度が高いのでショタ好きには人気。そのせいか雑誌のキャラクター人気投票1位をとったこともある。

一人称は「わし」。口は「馬鹿め」。野心溢れる自信で傲不遜。時流を読む賢さを持つが、それ故に生まれの遅さからのゆさ味わうこともある。外見年齢こそ変化しているものの、お市とは違って衣装傾向も性格も大きくは変わっていない。

1の時の武器木刀二刀流で、すばしっこいスピードタイプなのだがモーションに隙が多く、小柄なので攻撃範囲が狭くお市と並んで最弱クラスの性だった。必殺の独眼竜ビームも軌ランダムだったり威が低かったりと使い物にならない。しかし猛将伝のバランス調整を最大限に活かせば隙も消えて攻撃不足も解消されてそこそことなった。NPC時は小柄さ故に敵の群れに埋もれやすい。

2以降は西洋サーベル拳銃を兼用するスタイリッシュスタイルのモーションに変更。中距離からガードを崩せるチャージ1や一度に複数命中させると高威のチャージ5などが特徴。けして弱くはないのだが、+の似たような武器chronicle男性主人公がとても使いやすいキャラクターな為較されてしまいがちである。

1のシナリオでは信長下に迫る中、狭間や中島といった戦場乱入。2つの軍相手取る三つの戦いを繰り広げた。その破天荒な振る舞いはモブ片倉小十郎を幾度となくビビらせることとなる。史実ベースの出番は他のキャラクター大坂夏の陣程度しかない。また前田慶次シナリオでは彼を気に入って味方になってくれる。猛将伝では今川義元シナリオに登場。上杉と盟を結んでいる政宗が義元に翻弄されることとなる。

2では小田原城攻略戦から始まり、豊臣秀吉徳川家康に取り入りながらも下を狙う。の仲とされる直江兼続ライバルとして登場。大坂夏の陣で遭遇した雑賀孫市を引き込み、沈んでいた孫を再び奮い立たせた。

3では上田城の戦いに匿名で参する所から始まる。孫は開始時点で政宗と行動を共にし、幸村や慶次、兼続らとは友誼で結ばれることとなる。特に兼続のことは表面上は嫌っているがや内面を認めている。また敵として出会った甲斐姫を受けており、自信の野望は下だけではなく、下の中身を作ることであると考え始める。その甲斐姫とは「3empires」でラブコメ調の関係となり、賛否が分かれた。

chronicle2nd」では流勢に参加しない場合、孫伊達紹介してくれる展開になる。また地元の合戦である人取の戦いがついに登場し、伊達の章IFルートに進めば専用エンディングが見れる。また上杉軍の史実ルートでも化する兼続を心配する政宗が登場する。

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最終更新:2024/04/24(水) 17:00

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